トレセン学園は今日も重バ場です   作:しゃちくらげ

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華胥之夢

 

 

 

 

 

三十六計逃げるにしかず、と。

兵法にはたくさん種類はあるが、迷った時などは一目散に逃げ出した方が良いと言うことである。

 

そんなわけで、王敬則の言葉に倣い、私はまんまと逃亡を果たしたのだった。

 

とはいえ、厄介ごとから逃げ切れると言うケースはほとんどない。

大抵は、逃げた先でまた新たなトラブルと出くわすものだが、今回も例に漏れないようだった。

 

腕の中で眠る栗毛のウマ娘。

この時間帯にトレーナーの執務室付近に居た、と言うことは、アグネスタキオンやゴールドシップ、メジロマックイーンのように不真面目な生徒でもない限りは何か訳ありであることが大半である。

 

たまに聞くのは、チームの仲間のいるところではバツが悪いので、授業中に仮病なりなんなりを装ってトレーナーの元へ出向き、退部の届出を行う、と言うもの。

 

そして、その前例と違わず、私の抱えているウマ娘の手には退部届と記された封筒が握られていた。

 

関わりを持ったことのないウマ娘ではある。

とはいえ、どこのチームのウマ娘かぐらいは、さすがにルドルフ以外にほぼ関心を持たなかった私とはいえ、把握している。

 

おハナさんこと、東条トレーナーのところのウマ娘だ。

チーム「リギル」。

このトレセン学園内において、最強の名を恣にする名門チーム。

 

中央の最強チーム、といえばそれはほぼ「国内最強」とイコールと言っていい。

高倍率の入部試験が存在するほどに人気な名門チームであり、率いる東条トレーナーはベテランもベテラン、常にG1ウマ娘を輩出し続けることで有名な超一流だ。

ルドルフの直前に三冠ウマ娘の称号を得たミスターシービーもリギルに所属しており、そのチームの名声はトレーナー界隈だけでなく、一般ファンですらその名を知るほど。

 

そんなところのウマ娘が、こんな時期に退部届けとは只事ではない。

 

そもそも、トレーナーが付かずに、レースに出られないままトレセン学園の在籍期間を終了してしまうウマ娘も多く存在している中で、自ら退部届を出すと言うケースはごく稀。

一部、現在所属しているチームやトレーナーと方針が噛み合わず、他のトレーナーの元に移籍するケースもあるが、そう言った場合は大抵トレーナー間での話し合いで移籍が行われるため、自発的に退部届を提出するなどということにはならない。

 

であれば、学費の問題が発生したなどの家庭の事情などによる引退か。

考えられるが、そもそもリギルに所属するようなウマ娘がそういった事情で引退することは滅多にない。

レースに出て賞金を獲得した方が、学費を払ってなおリターンが見込めるからだ。

三冠のように圧倒的な実績でなくとも、重賞をいくつか勝っているだけでも学園側から学費の補助が受けられるし、レース出走による賞金だけでも大幅な黒字となる。

あのオグリキャップでさえ、カフェテリア以外にもあれだけ食費が掛かっているにも関わらず、特段不自由している素振りはない。

やりくりが上手い、あるいはトレーナーが食事に関する支援をしているにしても、あれだけの量を日々消費していれば相当な支出となる。

ルドルフもあの細い体で結構な量を食べるが、ウマ娘のカロリー消費量から考えれば比較的食事量は大人しい方である。

あれだけの速度を出して相当な距離を走るため、ウマ娘というのは人と比べれば結構な量を食べる。

タマモクロスなど、小食なウマ娘もいるが、あれは育った環境により無意識に食事量を制限している上、体格も小さい。

 

まあ、自分の担当ではないのであまり詮索するのもよろしくないと思い、思考を切り上げる。

こういう時につい深入りしてしまう悪癖によってトウカイテイオーに懐かれたという自覚はあるので、余程の事態でもなければあまり関与しないようにしなければ。

 

 

 

 

気絶しているところをあまり揺らすのもどうかと思い、背後から響いてくる破滅的な音が大分遠くなってから、足を緩める。

 

授業中で人気のない、静かな廊下を、私の靴が立てるこつこつという音が反響して消えていく。

 

時折、何かあまり聞きたくないような音や、悲惨としか形容できないような悲鳴が聞こえてくるが、務めて聞き流す。

相当距離を取ったにもかかわらず、まだ微かに音が聞こえてくるあたり、相当に激しい争いになっているものと思われる。

 

ふと、腕の中でウマ娘が身じろぎした。

 

「ん…」

 

ぴくり、と長い睫毛が揺れる。

 

「おや、意識が戻ったかな」

 

「…え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何が起きたのか、いまいち良くわからなかった。

 

 

ばつが悪くて、授業を欠席して廊下を歩いていた時、突然大きな音がして、ドアが飛んできた。

びっくりした身体は動いてくれず、飛んできたドアが迫ってくる。

 

こういうとき、身が竦んで動けなくなる。

レースも同じ。

怖くて、頭が真っ白になって、脚が竦む。

なんとか奮い立たせてターフに立っても、ふと気が付けばいつの間にか負けている。

 

勝ち切れない。

 

選抜レースで遮二無二走って、なんとかチームに所属を許してもらえたというのに。

素質はある、と言われながらも、この気性に引きずられているのか、それとも実力が足りないのか。

 

周りを見れば、そもそもレースに出る事さえ叶わないなんて子が沢山いる。

レースに出場できるのは、この中央でも一握り。

だから、私は随分と恵まれた立場にあるということは十分に理解している。

 

いつからだろうか。

 

「ただ運よくチームに入れて貰えただけ」

「偶然名門に紛れ込んだだけのウマ娘」

 

そんな声が、耳に入ってくるようになったのは。

 

いちいち言われるまでもない。

他の誰よりも分かっているんだ、そんなことは。

 

名門チームへの加入が許され、そこで走っているとしても、勝てない私はその看板に泥を塗ってしまっている。

期待されたことも知っている。

いつかやってくれると信じてくれる人がいることも知っている。

 

それでも、偉大な先輩たちが築き上げてきたその戦歴、栄光。

そこに泥を塗って尚、居座り続けるなんて度胸、私にはない。

 

デビューしてそろそろ1年が経とうとしている。

 

期待を受けて出走したメイクデビューは2着。

しかも骨折してそのまま療養だった。

 

休養明けに出走した未勝利戦では4着に沈んだ。

休養明けだから仕方ない、と、トレーナーは慰めてくれたが、期待を寄せてくれていた周囲の目が、落胆の色に変わっていったことは分かっていた。

 

三走目にしてようやく1勝。

その後、目立った戦績ではないものの、なんとか皐月賞という、目標としてきたクラシック路線の大舞台に漕ぎつけることまではできた。

 

出走できるだけで、世代でも優秀なウマ娘だ。

それは理解している。

そもそも、出走どころかデビューすら出来ない生徒の方が多い中で、皐月賞まで辿り着いたということは、私がそれなり以上に努力してきた成果として、胸を張っていいはずだ。

 

だけど。

このまま、こんな重圧に押しつぶされるように3年間を過ごさなければならないなんて。

 

自分の前には、クラシックやシニアで活躍する先達たち。

後ろを見れば、スターウマ娘の候補が山ほど犇めき合っている。

名門の出身、恵まれた環境、家族にスターウマ娘が居る、既に草レースなどで実績を持っている子…誰も彼も、デビュー前からいわゆる称号や二つ名で呼ばれるような子たちばかり。

 

私は?

 

勝負度胸もなく、小心者。

人見知りまでして、いつだって身を縮めて息を殺して。

出身も、ごく普通の家庭だ。

走ることは嫌いじゃない。

ただ、ちょっと他人よりも足が速かっただけ。

偶然に偶然が重なって、今の位置に居るなんてことはよくわかっている。

 

そんな私でも、真面目に努力してきたつもりだ。

いつかあの大舞台に立つことを夢見て、懸命に。

 

だけど、その重圧に、私は潰れてしまいそうだった。

 

次のレース、皐月賞。

ここで負けたら、きっともう立ち上がれない。

 

走るべきだ、ということは分かっている。

沢山の出走を夢見たウマ娘たちの覚悟や努力を踏みにじってしまう、ということも分かっている。

 

散々悩んで、震える手で書き上げた退部届。

夢の輝きに魅せられて、そしてその重さに耐えきれなかった私は―――

 

 

 

「やあ、おはよう。痛いところはないかい」

 

ぼんやりと覚醒していく頭に、そんな言葉が響いた。

ゆらゆらと体が揺れるようだ。

 

「…誰、ですか?」

 

確か、退部届を提出するために、東条トレーナーの執務室に向かっていたところだったように思う。

そうしたら、いきなりドアが飛んできて。

 

そして、気がつけばなぜかほとんど接点のないトレーナーの顔が目の前にあった。

 

「一般通過トレーナー。君が廊下で気絶してたから、保健室に放り込みにいくところだったんだけど」

 

ま、それもしなくて済みそうだけど、などと言いながら、少し遠い目をしている。

廊下で気絶、ということは、やはり飛んできたドアにぶつかったんだろう。

せっかく決意を固めて退部届を提出しに行ったのに、なんとも私は運がない。

 

 

「運がいいね、君」

 

運がいい?

どの辺りがそう見えたのかは分からないが、トレーナーを名乗ったその人は、その硬質な雰囲気とは裏腹に、優しい手つきで私を階段に座らせてくれた。

わざわざすぐに廊下に下さずに、階段まで運んでくれたあたり、優しいトレーナーなのだろう。

 

「運がいい、ですか」

 

言われた意味がわからず、ぼんやりした頭で思わず鸚鵡返しに聞いてしまう。

 

「あんなのに巻き込まれて特に外傷もなさそうだから」

 

私はこの有様だよ、と、トレーナーがジャージの前を少し広げて見せる。

なぜトレーナーを名乗る人が、学園指定のジャージを羽織っているのかと思えば、その下に着ているシャツが悲惨なことになっていた。

 

「うわ」

 

「名誉のために言うけど、私も巻き込まれた結果がこれだからね」

 

思わずこぼしてしまった感想に、トレーナーはそそくさとジャージの前を閉めた。

少し恥ずかしそうにしてジッパーを上げようとして、結局うまく閉まらずに諦めるその様は少しおかしくて、思わず笑ってしまう。

おそらく、体格の違うウマ娘のジャージを借りたのだろう。

 

「やっと笑ったか」

 

私はそんなに酷い顔をしていただろうか。

 

「してなかったらこのまま放っておきたいところなんだけどね」

 

心を読まれた、と思った。

そんなに顔に出やすい性質だっただろうか。

 

「リギル、やめるのかい」

 

直球の問いかけに、心臓が跳ねた。

 

「…」

 

手にした退部届を見られてしまったのだろう。

辞めたい、と思っていることは嘘ではない。

だけど、なんとなく。

頷くことに抵抗があった。

 

「そっか」

 

こくり、とひとつ頷くと、トレーナーは階段側に設置されている自販機に硬貨を放り込むと、無言で缶を投げて寄越した。

私の手のひらに収まった缶は、冷たい感触を伝えてくる。

 

「…ありがとう、ございます」

 

頼んだわけでもないが、反射的にお礼を述べる。

開栓する気にもなれず、ぼんやりしていると、自分の分を買ったらしいトレーナーが少し離れた場所に腰掛けた。

 

「皐月賞か」

 

ぼそり、と。

小さいながらもよく通る声が耳朶を打つ。

今最も聞きたくないレース名だった。

 

「…私なんかが、リギルにいていいんでしょうか」

 

思わず口から言葉が滑り落ちる。

 

きっと、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。

栄誉な事だとわかっている。

同じウマ娘にとってみれば、何を贅沢なことをと憤慨されてもおかしくない。

誰かに相談もできず、悶々を抱えていたそれが、堰を切ったように溢れ出す。

 

ただただ、私が独り言のように思いの丈をぶちまけるだけの独奏会。

都合10分ほど、ただただそうしていたように思う。

 

だから、一頻り黙っていたトレーナーから放たれた一言が、私には意外な響きだった。

 

「別にいいんじゃない、辞めたって」

 

「え?」

 

「君、聞いた限りだけど「真面目な良い子ちゃん」でしょ。周りに懸けられた期待にばかり応えようとしている。自分の夢が見えてこない」

 

「それは…」

 

「違うならそう言ってくれて構わない。だがまあ、君の口から出る言葉は全部「しなきゃダメだ」なんて強迫観念ばかりだよ。自分でも気づいてなかったんじゃないかな」

 

トレーナーは、コーヒーの缶を手の中で転がしながら言葉を続ける。

 

「君の夢はなんだ?」

 

「私の、夢…」

 

そういえば、私の夢とは一体どんなものだっただろう。

このトレーナーに言われて、初めて私は、かけてもらった期待に対する義務感だけで動いていたことに気が付いた。

 

「ないんならさ、探しに行ってみな」

 

「自分探しの旅、とかそう言うやつですか?」

 

「レースで走ってみるといい。旅がしたいなら、その後でも遅くない」

 

「レースに?」

 

「レースに出られないのは不幸なことだが、レースを楽しめないことは最高の不幸だ。自分探しでもいい。何か憧れを持つでもいい。何か好きなキャラクターに近づきたい、でも構わないだろう。なりきって演じて、楽しんでしまえ」

 

トレーナーは続ける。

 

「ルドルフだってそうしている。あれはあれで、生徒会長や三冠バだなんだと色々と外面を取り繕うために、やはりどこかで「強い自分」を演じているところがあるぐらいだ」

 

だから、と。

赤いジャージを着たトレーナーは言葉を区切り、続けた。

 

 

ーーー今だけは『なりたかった最高の自分』を目指してみろ。

 

誰のためでもない、自分のためだけでいい。

きっと、違う景色が見られるから。

 

勝っても負けても、それから退部なり続けるなり決めればいい。

 

 

その言葉が、すとんと胸の奥に収まった気がした。

 

「さ、話はここまで。それじゃあ、私はこれ、どうにかしなきゃならないから帰るよ」

 

「…あの、ありがとうございました」

 

「でも、まだ、心の整理はつきません。だから、整理のためにも、私、皐月賞出てみます」

 

本当は。

本当は心のどこかで、走りたがっている自分がいることはわかっていた。

でも、周りの期待、重圧、そういった何もかもが重すぎて、足が重くなっていた。

 

一度、そう言うものを全て肩から下ろして。

私は、私なりに走ってみたい。

 

そう思えたから。

 

「楽しみにしてる。それとこれ、おハナさんには黙っておいてあげるよ」

 

ぴら、と指に挟まれていたのは、私の書いた退部届けだった。

 

「レースの後、見つけた答えを聞かせてくれたら返してあげる。だから、また今度ね」

 

それじゃあね、と言って、そのトレーナーは立ち去っていった。

 

 

 

 

なりたい自分。

今まで考えたこともなかった。

 

ただ、そう。

あのトレーナーに、胸を張って結果を報告できるような、そんな自分になりたいとは思えていた。

 

ふと、もらった缶ジュースがあったことを思い出し、栓を開ける。

ぶしゃあ、とひどい音を立てて、ソーダ水が吹き上がって私をずぶ濡れにした。

そういえばあの人、缶を投げてきたな。

 

今度報告しに行くときには、そのことの文句も言ってやらないとな、と私は久しぶりにちゃんと笑えた気がした。

 


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