暇だ。
暇、と言うとどうにも座りが悪いというか、仕事をサボっているように感じるかもしれないが、暇なものは暇なのだ。
トレセン学園のトレーナーというのは大抵が午前中を事務仕事に充てるものだが、それでもやはり多少なりとも外に出ることが多い。
メディア対応などについてはアポイントがない限り学園内に入れることはないので、基本的には事前にスケジュールがはっきりしているから良い。
それらが無かったとしても、仕事は山のようにある。
当然の仕事ではあるが、例えばトレーニング計画の見直し、担当ウマ娘のラップタイムなどの身体能力をベースとした能力の確認、対抗バとなるウマ娘のレース研究などが、担当ウマ娘を持っているトレーナーの主な業務となる。
そのほかにも、寄稿依頼、トレーナーによっては午前中に別途、教員として教官のポジションを兼務して授業を受け持っているケースや、座学を教える事もあれば、トレーナー養成学校へのリモートでの講義や地方トレセン学園からの講演依頼対応など、中央のトレーナーというのは微妙に忙しい。
一方、私は基本的には暇な部類だった。
担当ウマ娘は赴任してからつい最近まで一人しかおらず、かといってその一人は放置しても自分の状況を確認しながらある程度適切なトレーニングを自ら実践してしまうような秀才。
サボろうと思えばいくらでもサボれてしまう環境である。
そのため、基本的には執務室に引きこもることはあまりなく、トレーニング用品…特に直接影響しやすいシューズや蹄鉄といった消耗品など、暇な時間に実際に現物を確認しに外出することが多い。
トレセン学園には各メーカーがこぞって製品のプレゼンに訪れており、ウマ娘向けの用品を中心に取り扱っているメーカーに至っては、トレーナー室の近くにある控室に常駐している者までいるのだが、メーカーの最新製品にのみ目が行ってしまうのもどうかと考え、頻繁にショッピングモールなどに足繁く通っている、という次第だ。
その流れでそのままカラオケボックスなどで仕事をすることもあるので、あまり一つ所に腰を据えて仕事をするということがない。
なので、とても暇である。
なにせ、ルドルフに「迎えに行くまで外出するな」と釘を刺されてしまったので、外出ができない。
こっそり出たところで、つい先程の雑な救援要請に何事もなく所在地を把握して駆けつけてきたあたり、おそらく何らかの手段で位置情報を把握しているので、外出がバレた時が恐ろしい。
かといって、年頃の若者のように暇だからとメッセージを飛ばす相手もいない。
昔の同級生は大体が一般企業に就職しているおかげで昼間は連絡を取りづらいし、時間潰しのために実家に連絡するというのもおかしな話になる。
寮内で同僚と情報交換でもしたいところではあるが、おそらくルドルフの判定ではアウト。
トレーナー寮内はウマ娘の出入り自体は自由であるため、部屋から出た時点でトラブルに巻き込まれる可能性ありとシビアな判断を下してくるものと考えられる。
ウマ娘に執着された果てに監禁されるトレーナーの体験談などはよく耳にするが、私自身がウマ娘に監禁されたことは今までなかった。
ゴールドシップに麻袋で拉致されたと思ったら、その時は何故か無人島でサバイバルする羽目になったし、ルドルフはそんなことをやりそうもない。
現状を鑑みるに、その気になればいつでも脱走自体は可能であるため、とても遠回しな軟禁とでも呼べば良いのだろうか。
やることがない。
端末を適当にいじり、情報収集はしているものの、いまいち落ち着かないといえば良いのか。
部屋の掃除は、ウマ娘が出入りすることがあるために普段からしているし、洗濯は現在ジャージ一枚に洗濯機が占拠されている。
掃除機がけなどは面倒になって自走式のロボットに任せている。
自室のリビングをうろうろと落ち着きなく歩き回る。
ここまで部屋の中で落ち着きなくうろうろするのは、ライセンス取得試験の合格発表日以来だろうか。
ふと、懐かしい気持ちになった。
あの頃はまだ、ウマ娘界の深淵を覗き込むこともなく、無邪気にレースを見て喜び、やがてはその舞台へ担当ウマ娘を送り出すのだと息巻いていたな、と。
リビングには小さめの本棚が一つだけ置かれている。
小難しい学術書などは殆どがトレーナー室の本棚に詰め込まれているので、ここにあるのは何度も読み返して擦り減り、新しい物を買った参考図書や、少し古くなった月刊トゥインクルなどの寄贈本、何故かゴールドシップに押し付けられた名作漫画。
それと、アルバムが数冊。
背表紙に記された年代は、中央のトレーナーライセンスの取得日から始まっている。
トレーナーは仕事柄、ちょくちょく記録のために写真や映像を残す、という事を教わってから、ライセンス取得日に用意したアルバムだった。
1冊目は、ライセンス取得からサブトレーナーとしての研修の日々で残した記録。
2冊目は、中央トレセン学園へ配属された日から始まっている。
なんとなく、2冊目を手に取る。
まだ元気いっぱい、という目をした私が、トレセン学園の前で笑っている姿が目に入った。
そういえば、この頃はこんな髪型をしていたっけ、と懐かしさが胸に去来する。
今は割と適当というか、ある時を境に適当に伸ばした髪を後ろでまとめているだけになっているが、写真の中で笑う私は、それはそれは気合を入れてキメキメな姿だった。
懐かしさとともに、若干の気恥ずかしさがある。
1ページ、2ページと手繰っていくと、ようやく目当ての写真が出てきた。
私の腰に抱きついて、涙目で上目遣いに見上げてくる、あどけない少女。
彼女を撮った初めての写真。
この頃はまだ、凛々しさよりも可愛らしさの方が際立っていた。
確かこの時は―――。
「担当契約、お昼になったら一緒に出しに行きましょう!」
契約が決まった翌朝、寮の玄関まで迎えに来たシンボリルドルフが満面の笑顔で言った。
以前、養成学校で聞いたところによると、中央のトレーナーは担当ウマ娘が毎朝のように迎えに来て、相談や雑談などコミュニケーションを取りながら登校するものらしいという話を聞いていた。
実際にトレーナーとなってみれば、毎日、迎えに来るウマ娘たちと一緒に登校していく他のトレーナーたち。
同期のトレーナーたちが早々に担当ウマ娘と契約を結び、楽しそうに登校していく姿を眺めながら、私は一人で出勤していたので、随分と寂しいものがあった。
それが今朝はどうだ。
昨夜、降って湧いたような出会いを経て、シンボリルドルフというパートナーを得ることができた。
それだけでもベッドの中で眠れなくなるほどの高揚感を感じていたが、今朝は格別だ。
ようやく自分にも担当が付いたことを実感できて、なんだか居ても立ってもいられなくなってしまうような、久しぶりに感じる強い歓喜の感情に、思わず実家にでも報告したくなってしまう程だった。
一方、迎えに来てくれたシンボリルドルフだが、昨晩、あれだけ長時間雨に打たれていたというのに意気軒昂といった様子。
だが、少々頬が火照った色をしていた。
「失礼」
思わず、そっと彼女の頬に手を当てるが、熱はなさそうだった。
風邪は引いていないようではあるが、頬の赤さが気になる。
ただ担当が付いたことに興奮しているだけなら良いのだけど、と思った所、
「ト、トレーナーさん…?」
シンボリルドルフが、何故かぎゅっと目を瞑って、ぷるぷると震え出した。
もしかして、寒気があるのだろうか?
「熱はなさそうだけど、もしかして寒いかい?寒気があるなら保健室へ連れて行…」
「ちーがーいーまーすー!!!!」
ぶんぶん、と首を振って、頬に当てていた手を払いのけられてしまった。
三日月の形をした特徴的な流星が、振り回されて荒ぶる。
「わ、ごめん」
何か気に障ってしまったかと思い、慌てて謝る。
シンボリルドルフは「もう!」等と言いながら、頬を膨らませてぷんすこと怒っている。
契約が決まった途端に破棄されてはかなわない。
「ごめんね。お詫びといっては何だけど、飴たべる?」
ウマ娘というのは甘いものが大好き、というのは養成学校で叩き込まれる。
ニンジンが好物だというのは一般にも良く知られている事だが、実のところ甘い物であれば普通にキャンディでも、場合によっては角砂糖などでも喜んで食べるとのこと。
ニンジンをやたらと食べているイメージが付いたのは、甘味の強さと栄養価の高さのためだ。
角砂糖などは確かに甘味の塊だが、そんなものをぼりぼりと食べていれば、いくらカロリー消費が激しい競走ウマ娘と言えどもとウェイトコントロールがまともにできなくなる。
しかも糖分しか得られない。
このため、甘みがあり、野菜類としては糖質が高いものの、スイーツ等に手を出すよりは遥かにヘルシーで栄養価も十分なニンジンに行きつきやすい、という理由がある。
のだが、サブトレーナー時代はちょこちょこ正トレーナーからの指示でニンジンを調達して配ったりとしたことはあったが、実際にトレセン学園へ就職してみると、ウマ娘を担当出来るまでは無縁の存在になってしまった。
このため、一応何かがあった時のために、キャンディを鞄に常備しているのだった。
「…いただきます」
キャンディを差し出すと、「飴で機嫌を直すと思われているのでしょうか」とばかりに微妙な顔をしながら受け取ったシンボリルドルフだったが、口に放り込むと表情を少し和らげた。
先ほどまで怒って脹れていた頬が、今度はキャンディで膨れている。
「…大丈夫かい?」
「…はい。なんかちょっと先輩から聞いてた話と違っただけです。なんでもないです。まだ正式な契約は出来ていないので、授業が終わったらお迎えに行きますから!」
ぷりぷり、とご立腹のポーズを取ったまま、それでも約束を取り付けて踵を返すルドルフ。
ととと、と軽い足音を立てて駆け出していく。
それを見送っていると、ぱたと脚が止まり、ゆっくりと首だけで振り返った。
「…ええと、どこに行けば会えるんでしょうか…?」
先ほどより、彼女の頬の赤みが増していた気がした。
懐かしい思い出に耽りながら、ページを手繰っていく。
最初は本当に、何気ない日々の1コマが切り取られて収められている。
梅雨の紫陽花に囲まれて楽しそうに笑っているとき、そのあと水たまりに嵌って泥だらけになったとき、模擬レースで1位になったとき、夏合宿でスイカ割りをしたとき…。
そういえば、こういう写真が多かったんだったな。
ページが進んでいくにつれ、だんだんレース出走時の写真や、ウィニングライブでの姿、雑誌のスクラップ記事などが、アルバムを埋め尽くすようになっていく。
最近はどうだろうか、と思えば、記録自体は小まめに撮ってはいるものの、そもそもがこうしてきちんとアルバムに収めるようなことが無くなってきていた。
写真のプリント用に購入した、ちょっとばかりお高いプリンターは部屋の片隅で置物と化している。
写真素材自体はそれこそ山のようにあるのだから、余暇をこういう事にきちんと使えばよかったのだ。
作業を始めてみれば、意外とあっという間に時間が経過していた。
アルバムに収める写真を試しに印刷してみようとしたところ、プリンター内部のインクはすっかり枯れていた。
中を開けてみれば、インクが固まっていたり、内部に埃が詰まっていたりと酷い有り様だったので、ウェットティッシュやら綿棒やらを駆使し、蘇らせようと奮闘していたら、あっという間だった。
壁にかけた時計を見上げれば、時刻はすでに12時を少し回ったあたり。
授業も終わり、そろそろウマ娘達が学内に放牧され始める頃合いだ。
立ち上がって背中を伸ばせば、ぱきぱきと身体が音を立てる。
すっかり集中して作業してしまった。
端末をポケットから取り出すと、買物リストにインクと写真用紙を追加する。
買いに行ってから「どれを買えば良かったんだったか」と分からなくなることが多いため、型番を取っておく。
さて、そろそろ昼食を、と思った矢先、きんこん、と軽い音が部屋内に鳴り響いた。
壁に備え付けられたインターフォンが来客を告げるランプを点滅させていた。
おそらくも何も、ルドルフのお迎えだとは思うのだが、ノータイムで迎え出てしまうとそれはそれで彼女に「防犯意識が低い」と苦言を呈されてしまうため、一応、念のためにカメラを覗き込む。
カメラに映っていたのは、何故かカメラに寄りすぎているのかぼんやりとした三日月。
…どう見てもルドルフだろうとは思うのだが、普段インターフォンを鳴らしてから数歩下がって待っている彼女にしてはずいぶん珍しい。
というか、なんだか昔に見たことがある気がする。
元気が有り余って、やたらカメラに近づいていたお陰で、ドアを開く際にごつんと良い音を立ててぶつかり、涙目で抗議された記憶がある。
…ああ、「一枚目の写真」は、あの時だったか。
涙目でちょっと睨むように見上げるルナの写真。
記念すべき一枚目は、随分とまあ、あの皇帝には似つかわしくないもので、なんだかおかしくなる。
ということは、やたらご機嫌なのか、あるいは何か慌てているのか。
どちらにせよここ数日のルドルフの様子を見ている限りは若干身の危険を感じなくもないが、かといって居留守を決め込んだところで鍵は確保されているので問題なく乗り込んでくる。
仕方なしに玄関へ向かうと、ドアを開いた。
流石に二度目は避けるだろうと思い、遠慮なく普通に。
そして『ごん』と鈍い音が響いた。
「ぎゃーーーーーーーー!!」
しまった、三日月違いだ。
ドアの前から人が離れたことを確認して、そっと押し開く。
そこには、頭を抱えて屈み込むウマ娘が一人。
良く見慣れた三日月によく似て居ながら、何もかもが違うもう一人の担当ウマ娘。
「…テイオー?」
よく見慣れた三日月だと判断してドアを開いたはずだが、そこにいたのはシンボリルドルフではなく、トウカイテイオーだった。
「おぉぉぉぉ…」等と唸りながら屈み込んでいる。
凄まじく申し訳ない気持ちになってくる。
トレーナー寮のドアは、基本的に重い。
スタジオなどの密閉環境で時折見かけるような、防音ドアになっているからだ。
昔はもっと普通のアパートじみたドアだったらしいが、やろうと思えば簡単に蹴り開けてしまえることや、トレーナーの生活音を聞き取ろうとしてドアの前にずらりとウマ娘が耳を立てて張り付いている姿が散見されたため、今ではやたらと頑丈なドアが立ち並ぶ、若干重苦しい見た目になっている。
まぁ、いくら防音ドアとはいえ、彼女たちがその気になればドアノブごと壊して押し入るぐらいは出来てしまうので、あくまで音を通さない事と、ちょっと頑丈になりましたというトレセン学園側の防犯意識アピールである。
そんな重たいドアが不意打ち気味にぶつかったのだから、ウマ娘であっても結構痛いそうである。
「トレーナ゛ー…痛いよぉ…」
涙目になったテイオーは、よろよろと立ち上がると私の腰にぽすりと抱き着いて顔を埋めた。
「すまない、だけど危ないからドアの前には立たない方が良いよ。大丈夫?」
「う゛ー、だいじょうぶ…」
じっとこちらを見上げてくる。
デジャヴ、というか。
つい先ほどまで見ていた写真と、よく似た姿。
思わず、手にしていた端末でシャッターを切った。
「わ、どうしたの、トレーナー?」
涙目をびっくりしたように丸くするテイオー。
いきなり写真を撮られればそうもなる、のだが。
「…つい」
「…?」
口を開こうとした矢先、腰元に引っ付くテイオーを引き剥がし、もう一つの三日月が割って入った。
「危ないからインターフォンを押したら下がれと言ったのだが…」
シンボリルドルフが、呆れたというような顔でテイオーの首根っこを摘まんでいた。
「待たせたね、トレーナー君。無断で徘徊していないかと気を揉んでいたが、その様子だとちゃんと待っていてくれたようで何よりだ。一緒に昼食でもどうかな」
同じように痛い目にあった