不意に、鼻先をかすめるようにして何かがふわりと落ちた。
何が落ちてきたのかと見上げてみれば、そうか、桜の季節か。
いよいよ桜も満開。
つい先日までは蕾を付けているだけだったような気がしていたが、本当にいつの間にか桜が咲き誇っていた。
トレセン学園内は植栽が充実している。
敷地自体は無暗に広いが、鬱蒼とさせないように、逞しい職員たちが日々管理に勤しんでいるおかげで、調和の取れた自然が広がっている。
すっかり日も沈み、随分と薄暗くはなっているが、月明りとそこかしこに配置された電灯によって、支障のない程度には明るさが確保されている。
即ち、過剰ではない程度にライトアップされたような状況。
夜桜、というのは随分と風情があるな、なんて。
見上げながらぼんやりと想う。
最近は毎日ばたばたと、ただ前だけを見て駆けずり回るばかりで、どうにも目線が下がりがちだった。
一年のうち、桜が咲く期間なんてひと月にも満たない。
その中で、たった一瞬にも等しい時間だけ、咲き誇るその姿はどうしようもなく、美しい。
花開き、そして散っていく。
はらりはらりと、穏やかな風に揺られては花弁を落としていく。
これほどに美しく咲き誇る花を前にして、足を止めずに通り過ぎていくというのは、無粋だろう。
ふわり、と舞い落ちる桜が一枚、私の肩に降りてきた。
咲いては散っていく姿を何に重ねたのか、とは言わない。
ただ、何も感じないままに通り過ぎていくというのは、どうにも出来ないようだった。
肩にかけていたバッグを降ろし、道沿いに備え付けられたベンチに放り出すと腰を下ろす。
今日ぐらいは、すこしばかり足を止めて休憩していくのも、悪くはないだろう。
―――ぽつり、ぽつり。
ぱたぱたと足音を鳴らすように、滴り落ちるのは誰の涙か。
何を想って涙を流すのだろうか。
見上げた空は随分と臍を曲げたように機嫌が悪く、ベンチに腰掛けてぼんやりと見上げる私に当て擦るかのように雨粒を落としてくる。
時刻は午前1時。
気が付けばもう深夜だ。
最近は毎日があっという間に過ぎ去っていってしまう。
初めて立ち会う選抜レースも通り過ぎ、温暖な気候を通り越してもはや夏に差し掛かろうという頃合い。
「折角声を掛けてくれたのに、ごめんなさい」
可愛らしい声で告げられたそれが、幾度となく頭の中を反響する。
また振られてしまった。
選抜レース前から目を付けたウマ娘にアプローチを掛けたり、選抜レースで「これは」と思った子に声を掛けて歩いたのだが、収穫はゼロ。
同期のトレーナーたちが、楽しそうに担当となったウマ娘と何事か話しながら歩いていく様をまざまざと目の前で見せつけられる生活というのは、中々に心に来るものがあった。
どうにも私はパッとしないというか、生来の人付き合いの下手さ、口下手さが見事に前面に出たのか、就職してここまで、碌に職責を果たすこともなく禄を食んでいる状態だった。
こんな状況でも、何だかんだで面倒を見てくれている学園側には感謝の念しか湧かないが、同時に自分の無能さ加減にもいよいよ嫌気が差してきた。
トレーナーとして生きていくからには、ウマ娘を勝たせることが出来ないかもしれないという意味合いでの失敗と、それに伴う落伍については、覚悟を決めていた。
どれほど才能があるウマ娘だろうと、正しい努力を積むことが出来なければ、勝つことなどできない。
ごく稀に、自身の努力や才能だけで突破してしまう恐ろしい子もいるにはいるが、それは正しい努力を積むことが出来ていたならば、より成果を挙げられたことの裏返しでもある。
故に、トレーナーの職責とは、使命とは彼女たちを勝利へ導くことだ。
私の目的は「勝たせる事」そのものではないので、あくまでそれは一手段でしかないが、当然の事ながらトレーナーとしての価値はそれで判断される。
自分の価値を示し続けなければならないのだが、まさかその舞台に上がる以前の問題で落伍しかかっているなどと、養成所で必死に勉強していた過去の自分には聞かせられないような話だった。
情けない話だ。
トレーナーにせよ、ウマ娘にせよ、担当契約を結び、デビューしなければそもそも戦いの舞台に上がる事さえできない。
無意識の甘えと言えば良いのだろうか。
或いは、正常性バイアスか。
『自分だけは大丈夫』という根拠のない万能感によって頭から排除されていた万が一が、こうして現実のものとして突き付けられたとき、呆然として事態を眺めていることしかできなくなるのだということを、私は身をもって思い知らされていた。
雨脚が本格的に強くなってくる。
鳴いていた気がした鈴虫の声も、雨音が全て覆い隠してしまう程に。
ポケットから取り出した手帳に、斜線を引く。
雨でインクが滲むが、半ば投げやりな気分だった。
これでもう79人目。
そろそろ100人に振られるというのも夢ではないだろう。
濡れてぐずぐずになっていく紙に構わず、手帳を1ページ1ページ、剥がしては捲っていく。
月明りも雨雲に隠され、街灯によって辛うじて読める程度の手帳には、様々な名前と、名前ごとに観察した結果や、どうスカウトすればよいのか、といった試行錯誤の結果が残されている。
もっとも、殆どすべてが自身の不甲斐なさに対するいら立ち紛れに、斜線が引かれた惨めな姿になっているが。
一枚一枚、剥がしては捲っていく。
時折、ページが千切れかかるが、外仕事だからと張り切って買った耐水性の手帳は、それなりに性能が良いという事をこんなにも惨めな気持ちで実感したのは私くらいではないだろうか。
51人目。あの子は仕掛けのセンスが抜群だった。
経歴を見ても、入学前のレース出走経験はほとんどない。であれば、天性のセンスだ。
14人目。この子はゲートでの飛び出しが素晴らしかった。
誰よりも真っ先に飛び出し、ハナに付けて先頭を突っ走る姿は、そのまま押し切ってしまえるのではないかと胸が高鳴った。
そんな、しょうもない感想と共に。
79名。
79名も観察して、何度も走りを確認して、声を掛けてみて、どうスカウトすれば歓心を持ってもらえるのか考えて。
そして、そのすべてが失敗に終わる。
最後の一枚。
そして最初の1ページ。
緊張のために、やけに角ばった文字が、期待と興奮を書き記していた。
「…はは」
思わず口から出たのは、どうにも自嘲めいた笑いだった。
ああ、さっさと寮へ帰ればいいのに。
そう思う気持ちが無いわけではないが、トレーナーライセンスだけ持っていて、トレーナーではない私には、今や寮の中に居る事さえ辛く感じていた。
同期の中で、契約すら出来ていない落伍者なんてのは、本日を以て私だけになったのだから。
話を伺った先輩トレーナーからは、新人トレーナーが「有望なウマ娘」を射止めるのは難しい、と語って聞かされた。
確かに、それはそうだろう。
ウマ娘だって、実績もなにもない新人に自身のキャリアを託すのは勇気がいる。
普通は、もっと経験豊富だったり、実績のあるトレーナーを望む。
だから、新人が狙うのは大体が3番手、4番手あたり。
ウマ娘たちも、デビューできなければ才能を発揮する以前の問題であることも自覚しているし、人数に対してトレーナー全体で受け入れられるキャパシティが足りていないという事も、入学当初から徹底的に叩き込まれる。
だから、新人トレーナーと契約を結ぶのは「妥協した」或いは「本当に相性が良かった」のどちらかだ。
そして私は、「私を求めているウマ娘」を求めるあまり妥協ができず、当然の事ながら、相性の良いウマ娘との出会いにも恵まれなかった。
それだけだ。
ただ、それだけのこと。
いい加減、ここで拗ねていたところでどうにもならない。
少し出遅れただけでいじけて居られるほど、暇ではないはずなのだから。
ベンチから立ち上がる。
ぐしょ、とずぶ濡れになった服が音を立てる。
馬鹿だな、全く。
挫折なんて幾度となく経験してきただろうに。
軽く頭を振ると、ぱしゃりと音を立てて水が飛び散る。
まるで濡れた犬のようだ、と我が事ながら馬鹿馬鹿しくなって来る。
私が目指す夢はなんだ。
私が実現する世界はなんだ。
思い出せ。
この程度で私が折れていい道理はない。
ただ出遅れただけで、何を世界の終わりのような顔をしているのだ。
そういうセンチメンタリズムに浸るのは、走れなくなってからで十分だ。
――――――思い出せ。お前の目指す
目を醒ますような、そんな言葉が叩きつけられた。
わたしは消沈していた。
『全てのウマ娘の幸福を』。
それが、わたしが掲げた夢の名だった。
誰もを導く頂点となり、皆を導くウマ娘でありたいと願ったわたしは、幸いにして物心付いた頃から、かくあれかしと徹底して育てられることとなった。
私にとっては都合の良い事に、英才教育を受けることが許される環境にあったし、そして身体の脆さなどもなく、順当に夢へ向かって突き進むこととなる。
そして、幾年もの研鑽を経て、ようやく夢の一歩目を踏み出した。
日本ウマ娘トレーニングセンター学園。
スクール・モットーは、
文武両道は当然ながら、華やかなエンターテイメント・スポーツとしての表層とは裏腹に、生徒も、教職員も、異次元レベル扱いされるようなエリートが鎬を削る国内最高峰の戦場であり、ウマ娘をレースへと送り出す教育機関。
入学試験は問題なくパスできた。
わたしにとって、それは過程であって目的ではない。
しかるべき研鑽を積んでいたわたしにとっては、さしたる障害とはなり得なかった。
しかし、いざ学園に足を踏み入れてみれば、思う事もあった。
―――ここで、頂点を獲らなければならない。
誰しもが認める頂点の存在となり、あらゆるウマ娘を導く。
それは、わたしがわたしに課した使命。
そして、ようやくその第一歩を踏み出したそこで、早くも躓きかけることとなる。
入学してしばらく経った。
わたしと契約してくれるトレーナーを探すにあたって、これまでの研鑽のお陰か、幸いな事に多数のトレーナーに声をかけて貰うことが出来た。
素晴らしい実績や経験を持つ、沢山のトレーナーが声を掛けてくれた。
だから、選抜レースで改めて実力を見てもらい、その上で、共に頂点を目指してくれるトレーナーを選抜しようとした。
試すような真似をして申し訳ないと、尊大な態度の下で頭を下げながら。
勿論、本来立場が逆であることは重々理解している。
だがこちらも必死だった。
わたしは。
わたしの夢のためには、頂点を獲らなければならないのだから。
その結果は惨憺足るものだった。
ベテラントレーナーからすれば、私は「教え甲斐の無いウマ娘」だろう。
何せ、ビジョンも走り方も、何もかもをここまでの中で培ってきてしまっている。
中堅トレーナーからすれば、「最初から強いと、もし負けたときにトレーナーの責任が重すぎる」と敬遠する対象になる。
そんなことは分かっている。
だけど、それでも。
共に未来を見て、歩んでくれる人が居るはずだと、必死に自分を叱咤して立ち向かった。
そして残ったのは、たった二人だった。
そして、三日後。
わたしは、失意の中に居た。
結局、残ってくれた二人には申し訳ないが、契約に至ることはなかった。
一人は、私を必ず強くする決意を語った。
一人は、私と必ず歩むという覚悟を語った。
だが、わたしの目指すそれは、理解し得ないものだったらしい。
呆然、とはこの事だろうか。
決して、トレーナー陣のレベルが求めていたものよりも低い、だとか。
そういった理由ではない。
ただ、わたしと上手くいかなかっただけ。
それだけだ。
だけど、わたしにとってそれは、初めての挫折でもあった。
ただ、どの子らにも、笑顔で居てほしいと。
そう在る世界を創らねばと、思わずにはいられなかっただけ。
世間を知らない小娘の、愚かで甘い夢と思うだろうか?
…ああ、そうかもしれない。
そんな夢を見ているから、躓いてしまったのだろうか。
…いいや、そんなことは無い。
絶対に。
自分に言い聞かせるようにして繰り返すそれは、段々とわたしから熱と、自信を奪っていこうとしていた。
頭を冷やそうと、外を歩く。
門限はとうに過ぎ、降りしきる雨は頭を冷やすには程よい程度に冷たい。
連絡もなしに寮へ帰っていないことから、もしかすると寮長が探し回っているかもしれない。
実家にも連絡が入っているかもしれない。
携帯端末は、煩わしくなって電源を切ってしまった。
わたしは、何をやっているのだろう。
自分に問いかけても、答えなど出てこない。
情けなさか、それとも口惜しさか。
誰もいないことに安心してしまったのだろうか。
涙で視界が滲んでいく。
いくら肩肘を張ったとしても、入学したての小娘であるなんて事は分かっている。
無力感。
デビュー自体は出来るはずだ。
妥協して、適当なトレーナーと契約を済ませればよい。
だけど、わたしは…
「思い出せ、お前の夢は何だ」
どきり、と心臓が跳ねた。
こんな時間に人の声が急に聞こえたりすれば、流石にわたしでもびっくりする。
いや、そうではない。
―――今一番、聞きたくて、聞きたくなかった言葉が、突然叩きつけられたからだ。
わたしの、夢。
そして、立て続けに、酷く焦がれていた声が、耳に飛び込んできた。
「私の夢は、『ウマ娘の夢を叶える』、ただそれだけだろうが」
吐き捨てるようにして放たれた言葉。
私は、迷うことなく、声の聞こえたほうへ飛び出した。
―――そして。
降りしきる雨の中。
私は、その日。
実績もなく、現在時点でもウマ娘と契約を結ぶに至っていない、若く未熟なトレーナーと出逢った。
あまりに青く、遠い夢だと。
心のどこかで、そう思う自分もいたのだろう。
諦めたくはなかった。
しかし、ここで駄目なら、私はこれからどうすればいいのか、道を見失っていたのも、確かだった。
だが、幸いな事に。
私たちの努力は、信念は、無駄ではなかった。
引かれ合った私たちは出逢い、共に歩み、共に立ち向かう。
「「―――それでは、シンボリルドルフの栄光を始めるとしよう」」
なんて、雨の中、二人で笑い合いながら。
そして、立ち上がって自分を叱咤していたところ、突然植栽をなぎ倒して飛び出してきたルナの頭突きをお腹の柔らかい所に喰らって悶絶し、なんとか起き上がっては土砂降りの雨の中、ふたりして水たまりに沈みながら言葉を交わし、気が付けば担当契約を結ぶに至っていた、のである。
後々になってから、当時の状況や心境をルナから聞いてはいるが、当時の私からすれば全くもって訳の分からない出会いだった。
しかも、植栽から飛び出してきたルナは「私の夢は、全てのウマ娘の幸福を実現することです!!!」と、初対面の挨拶としては不適切な事を叫んで突っ込んできたし、後日妙にお腹が痛いと思い保健室へ行けば、肋骨が何本か折れていた。
そして、その全てが、深夜1時を回ったころに行われていたというのだからもはや笑うしかない。
あ! やせいのウマむすめが とびだしてきた!
ぐらいの衝撃が物理、精神の両面から飛び込んできたのだから、当然の事だと思いたい。
笑うしかなく、そして、幸福な出会いだった。
断じて被虐趣味があるわけではない。
―――随分と懐かしい思い出に、すっかり浸ってしまった。
アルバムなぞ整理するものだから、懐古趣味にでも目覚めてしまったのだろうか。
それとも、あの時と同じ場所だからだろうか。
或いは、担当として新たにトウカイテイオーを得て、今一度思い返したくなったのか。
思えば、トウカイテイオーと初めて言葉を交わしたときも、酷い目に遭わされたような覚えがある。
私は担当ウマ娘と決定的な出会いをした際に重傷を負う呪いにでも掛かっているのだろうか。
ふと腕時計を見れば、時間は22時を少し回ったあたり。
座る際に軽く払ってから腰掛けたベンチには、いつの間にやら舞い降りた花弁が随分と散らされていた。
そろそろ帰るか、と立ち上がろうとして、不意に電灯の明かりが遮られた。
「あ、こんなところに居た。探しましたよ、トレーナーさん」
深緑色の瞳が、ひょいとのぞき込んできた。