「あの…下ろしてもらえませんか…」
タマモクロスの怒号に何事かと思い、廊下に顔を出すと、数日前に出会った桐生院トレーナーが白毛のウマ娘に抱き上げられて困惑していた。
まるで絵画のような一枚。
白ウマ娘の王子様…もとい、白バの側が何故か桐生院トレーナーを抱き上げていた。
廊下の窓から差し込む日光が丁度当たっており、きらきらとその白糸が輝いて見える。
一方、その表情は無表情。
興奮しているようであればまだしも、これは完全に予想の外にあった事態だった。
そして、よく見ると横抱きというか…抱き方がほぼ水平に抱えている。
碌に支えていないため、抱き上げられている方は相当辛いだろう。
「…?」
予想外の事態に目をこするが、何も変わらなかった。
むしろ現在私が一番困惑しているのではないか。
ひとまず、その蛮行を止めようと飛び出しかけたタマモクロスをひょいと片腕で抱き上げると、片手でそっとドアを閉じた。
「ちょっ…自分何するねん!おーろーせーやー!死ぬ気か!自分とこのカイチョーおるねんでそこに!!」
ぎゃーぎゃーと腕の中で騒ぐタマモクロス。
暴れようにも、抱きかかえてしまっているので下手に暴れると私が死ぬ。
それが分かっているから、じたじたと力なく抵抗する程度。
対する私は、この状況を前に、掛ける言葉の持ち合わせがない。
そっとタマモクロスを揺すりながら、左右に揺らし始める。
「自分またあんな目には遭いたない…わ…あかんわ…ウチは…赤ちゃ………すぅ…」
あんな幻覚を見るなんて、私とタマモクロスはきっと疲れているのだ。
現に、軽く揺すってやればタマモクロスは安らいだ表情となり、そっと私の服を握りしめているではないか。
いつも彼女の言う「チビたち」のために仕送りまでしている彼女は普段から気を張っているのだろう。
いいんだ、このまま休んでくれ、タマモクロス。
そっとソファーに横たえる。
私は大人として
見なかったことにしていいんだ。今は休め。
「トレーナー君?」
地の底から響くような、昏い声が耳元で囁かれた。
「タマモクロスは疲れていたんだよ。あんな幻覚を見るなんて」
「どういう…」
怪訝な顔をして、ルドルフがドアを開き、そっと外を伺い見る。
「…成程」
そしてドアをそっと閉めると、眉間に指で揉み解し、ふるふると左右に首を振った。
「え、カイチョーも何を見たの……って拉致じゃんあれ!!!!」
つられるようにして覗きに行ったテイオーが、ばあん、と力強くドアを開き、わたわたと戻ってくる。
音で目が覚めたのか、ソファーで眠りに落ちた筈のタマモクロスが激しく跳ねた。
「え、いいのあれ!?」
「良くはない。良くはないんだけど…やっぱり止めないとダメかな」
「ダメでしょ!?」
「だよねえ…」
「あー、そこの君。何故桐生院トレーナーを抱き上げているのかな」
まずいなあとは思うものの、こういう場面ではウマ娘というのは暴走しがちである。
その結果として、ルドルフとテイオーが私の前に立ち、私は後ろからトレーニングに使う事のあるメガホンで呼びかける運びとなった。
これ見たことある。
刑事ドラマで。
「……」
無表情、という言葉が実によく似合うウマ娘だ。
この状況下で顔色一つ変えず、何ならますます桐生院トレーナーをじっと見つめている。
その圧がだんだん強くなっているような気がしてならない。
確かに、桐生院家と言えばトレーナー業にとっては名門中の名門。
凄腕のトレーナーを数多輩出している家の人間ともなれば、ウマ娘が目を付けるのも当然だろう。
現在時点では新人でしかないが、一般的なトレーナーたちとは異なり、幼少期からトレーナーとしての教育を受けて育つ彼らは、頭角を現すのも早いという。
以前、桐生院家の先代と話をする機会があったが、あれは確かに化け物だった。
名門のトレーナー一族ともなれば、その経済力はバ鹿にならない。
G1バを輩出するだけでも多額の報奨金が手に入るのがここトレセン学園だが、名門扱いを受けるという事は、コンスタントにそれを続けている一族、という事だ。
そう、単純に見ればそういうことになる。
だが、良く考えてほしい。
先代の桐生院トレーナーが現在このトレセン学園にいない、ということはつまりどういうことなのか、と。
答えは単純だ。
そう、ウマ娘に捕まったのだ。
それでも尚、何とかして次の世代が中央のトレーナーとして出てくるものだから名門扱いをされている、という具合である。
そのトレーナー育成能力には目を見張るものがあるが、有能であるがためにウマ娘に執着されて大体どこかで脱落しているらしい。
そして、今代の桐生院はどうか。
駿川さんからは、桐生院家の中でも成績は最高クラスであり、今年の首席通過者だと聞かされている。だから、安心して良いとも。
なるほど。
配属一週間も経たずにこの有様ですよ。
何を安心すれば良いのでしょうか、駿川さん。
「君、名前は」
ずい、とルドルフが一歩前に出て問いかける。
「……ハッピーミーク、です」
「ハッピーミーク。気持ちは分かるが、それはこのトレセン学園でも不味い。いま桐生院トレーナーを解放するなら生徒会役員として目を瞑る事もできる」
交渉担当はルドルフ。
一介のトレーナーでしかない私よりも、遥かに強力な権限を有している彼女であれば、より話がスムーズになるからだ。
私は大人で、トレーナーという名のトレセン学園の職員ではあるのだが、その権限範囲は基本的にはウマ娘の育成に全振りされている。
文武両道が基本スタンスのトレセン学園とはいえ、本質的に競争バたちの本分は「走ること」だ。
そこに関しての権限自体は他のスタッフの追随を許さないほどの物を与えられているが、一方でウマ娘の私生活や学業に関する面においてはほぼ外野である。
とはいえ大人という存在は、とりあえず置いておくに限る。
故に私は、担当ウマ娘二人に守られるようにして突っ立っているだけだった。
絵面がもうやばい。
悩んでいるのだろうか。
ほとんど表情が動かないので判断しづらいが、とりあえずダメ押しの一言を添えておこう。
「それと、その体勢は正直辛いと思うよ」
なにせほぼ水平だ。
お姫様を抱きかかえるというよりは、戦死した戦友を運ぶ時の抱え方に近い。
或いは、釣り上げた大物の魚を抱きかかえる姿、とでも形容すればよいだろうか。
無理な態勢のまま、変に力を抜く事も出来なくなったらしい桐生院トレーナーが、小刻みに震えている。
あれは腹筋に相当来ているな。
「……わかり、ました」
タフな交渉になるかと覚悟を決めていたが、思っていたよりも遥かにハッピーミークは素直だった。
表情を変えないまま、彼女はすとんと桐生院トレーナーを床に下ろしてやる。
桐生院トレーナーは、突然受ける羽目になったトレセン学園の洗礼に目を白黒させているが、手招きすると小走りにこちらへ駆け寄ってきた。
「私の後ろへ」
「は、はいっ」
ひとまず、被害者?を後ろに下げてやる。
動揺しているのか、何を言えば良いのかわからないようでおろおろしているので、ルドルフに視線を送れば、一つ頷いて桐生院トレーナーに付き添うような位置に移動した。
これで私の壁は一枚減った。
とはいえこれまでのように、ルドルフという防御壁を切ってしまうと手持ちのカードが0枚になってしまうという、身体を張った芸はしなくて済むことには安堵できるかもしれない。
担当ウマ娘である以上、テイオーも信頼しているが、トラブルへの対応力については不明な所が不安箇所だろうか。
まぁ、そもそもウマ娘に求めているのはトラブル対処能力ではないので、そこに居てくれるだけで充分心強いのだが。
目の前に陣取って、腰に手を当てて仁王立ちするテイオーは、小柄で可愛らしい。
だが、その背中はなんだか少し、頼もしく見えた。
頼んだよ、と頭にぽんと手を置くと、その尻尾がばさりと高く揺れた。
私は口を開く。
「ハッピーミーク。ひとまず理解してくれてありがとう。オリエンテーションで聞いていると思うけれど、新入生が正式なトレーナーとの契約を結ぶことができるのは、もう少し先の話になる」
「…選抜レース?」
微かに首を横に倒すハッピーミーク。
基本的には冷静な子なのだろうか。
或いは、ただぼんやりしているだけなのか。
ここまで意思表示が薄い子というのは珍しい。
あのマンハッタンカフェですら、もうちょっとはっきり顔に出るぞ。
コーヒーかアグネスタキオンが絡めば、だが。
「基本的にはそうなる。トレーナーの側と合意がなければ契約は出来ない」
つい最近出したばかりだが、トレーナーとの専属契約というのは、力関係で言えばトレーナーの方が上となる。
まあ、物理的な力関係の差が大きすぎるため、そういう面でバランスを取っていかなければならないという切実な事情もあるが。
「君は彼女を気に入ったかもしれないが、彼女は君の事を何も知らない。知らない奴にいきなり抱き上げられたら怖がらせてしまうだろう」
暫く考えたのか、少し間があってハッピーミークが頷いた。
そこは本当にすぐ頷いてほしかった。
「まずは君の走りをそこの彼女に見せつけてやれ。お互いに何も知らないままに契約は不幸にしかできない」
「……はい」
「君の走りが彼女を魅了すれば、晴れて君は
「……分かり、ました」
ようやく、ぼんやりしていた瞳に力が宿ったように見えた。
…緊急避難のためとはいえ、ウマ娘を焚き付けてしまったという事実を前に、胃が痛みを訴えてくる。
桐生院トレーナーには大変申し訳ない事をしたとは思うが、これは必要な処置。
放置していたらあのままどこかへ持って行かれていた事だろう。
「では、彼女はこれから仕事がある。君は用事を済ませて戻ると良い」
「はい、では…
何度かこくこくと頷いた後、ハッピーミークはてくてくと歩いて去っていった。
こうしたウマ娘特有の「ちょっと掛かっちゃった」事案は、新人トレーナーにとってはある種の登竜門だ。
競争バにしては珍しい、どこか牧歌的な印象のあるハッピーミークだったが、最後に見せた目はウマ娘のそれ。
配属数日でもう巻き込まれるとは、桐生院トレーナーの優秀だという評判はあながち間違っていないのだろう。
良いトレーナーはウマ娘に執着されるものだ。
最も良いトレーナーはウマ娘に執着されないのだが。
まあ、私は配属された当初は執着どころか見向きもされなかったのだが。
ハッピーミークの姿が見えなくなって、ようやく胸を撫で下ろした。
ルドルフも、生徒が暴走を思いとどまってくれたために少々安堵したような顔をしている。
「ルドルフも、テイオーも。助かったよ」
「当然の務めを果たしたまでだよ」
「ボクもー」
壁になってくれたお礼を口にすれば、二人はそれぞれ少し嬉しそうにしていた。
ルドルフはいつものように腕を組んで。
テイオーは鼻の下を擦って。
どちらもふんすと鼻息が荒いのはどうかと思うが。
「あ、あの…」
おろおろしていた桐生院トレーナーが、ようやく落ち着いたのか、意を決したように口を開いた。
「
そして、少し嬉しそうに微笑んだ。
ちょっとほんと不用意な発言は控えて頂きたい。
ほら、もうルドルフが「今何と言った貴様」みたいな目で睨んでるから。