嵐は去った。
ひとまずのところは。
ハッピーミークなる白毛のウマ娘を鎮めることに成功した私たちは、救出した桐生院トレーナーを伴ってトレーナー室に退避することに成功した。
我々の勝利である(大本営発表)。
顔合わせというには見過ごすには大きなトラブルが発生したわけだが、ここトレセン学園では手遅れにさえならなければセーフ扱いだ。
一々気にしていれば、たちまち職員たちはストレスによって胃を摘出せねばならなくなるだろうし。
慣れのため、比較的あっけらかんとした態度が取れる私に対し、今回ウマ娘被害に初めて遭った桐生院トレーナーは青い顔をしているのが印象的だ。
もしかしたら、コーヒーカップを手に座っている桐生院トレーナーの斜め後ろに腕を組んで立っている私の愛バたちが何か悪さしているのかもしれないが。
側から見ている分には、ハッピーミークによる再襲撃に備えて警護しているようにも見えるが、若干空気が澱んでいる。
もしかするとこれはアレかもしれない。
トレーナーが、他のウマ娘のトレーナーと話をしていると機嫌が悪くなると言う現象かもしれない。
最近はあまりなかったように思うが、元々シンボリルドルフは気性難といえば気性難だ。
我儘でこそないが、非常に賢く、気位が高い。
そして何より案外甘えたがりだ。
ゆえに、同僚との立ち話でも若干の嫉妬を見せる事がある。
今も腕を組んだまま、無表情に桐生院トレーナーを見下ろしており、ご機嫌は麗しくなさそうである。
一方、もう一人の担当ウマ娘であるところのトウカイテイオーはどうか。
こちらは持ち前の愛嬌か、よく分かっていなさそうな顔でニコニコとルドルフを真似て立っている。
ドヤ顔が実に愛らしいが、何もその圧力まで真似なくても良いと思う。
そんな二人に背後に立たれた桐生院トレーナーは萎縮しているのか、それとも誘拐未遂を受けてまだ動揺しているのか、小さく縮こまっている。
桐生院家の人間ということは、ウマ娘の気質などについても散々叩き込まれた上でこのトレセン学園に来たものだとは思う。
とは言え、知識として知らされていることでも、いざ自分が直面すると全く印象が違う。
いくら授業中に空想の中でテロリストが教室になだれ込んできた際の対処をシミュレーションしていたとしても、現実になったら何もできないのと同じである。
この治安の良い国で、そんなことが起こり得るとも思えないが。
喩えが酷いが、そんな目にあった直後にウマ娘に囲まれて平静でいられる訳もない。
仕方ない。
「ルドルフ。テイオー」
二人に声をかける。
「…む」
「…!」
それだけで言いたいことを理解してくれたのだろう。
二人は警戒を解き、その場を離れ、
何故か私の両隣に腰掛けた。
いや、そこから離れてくれと思って声をかけたが、まさかこっちに来るとは思わないじゃない。
トレーナー間の話し合いだよ?
とはいえ、こうもスムーズに座られてしまうと、まるで私が指示したようではないか。
現に、桐生院トレーナーは驚いたように目を丸くし、凄い…などと呟いている。
いや違うって、君たちはあっち。
などと言い出せるような雰囲気でもない。
腹を括って、話を進めよう。
コーヒーで唇を湿らせてから、口を開く。
「災難だったね」
「い、いえ。トレーナーになる以上、覚悟はしてましたので…」
健気にもそうは言うものの、顔色も悪ければ若干指先が震えている。
「強がるにはまず、手の震えを落ち着けてからかな。はい大きく吸って。…吐いて」
今は考えさせることではなく、落ち着かせることが最優先だ。
どの道一度、挨拶は済ませているのだから。
何度か深呼吸をさせると、桐生院トレーナーの顔色が少し戻ってきた。
「顔色が少し良くなったね」
「…ありがとうございます。改めまして、桐生院葵です。数日の間ではありますが、研修生としてお世話になります。どうぞご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
「よろしく。…ルドルフ」
「シンボリルドルフです。研修期間は短いですが、私のトレーナーは超一流ですので、ご安心を。存分に経験を、知恵を吸収して行ってください」
こういう時のルドルフの対応は卒がない。
メディアの前に出しても、フォローなく対応できる如才のなさが、遺憾無く発揮されていた。
とは言え、私のことを持ち上げる必要は全くないのだが。
「よろしくお願いします。シンボリルドルフさんの戦績も、レースも。そしてトレーナーさんの辣腕ぶりも、養成学校まで届いておりました。期間内、精一杯勉強させていただきます」
泰然自若。人前でのスピーチに慣れたルドルフは全く揺るがないのに対し、桐生院トレーナーは気圧されたのか、随分と畏まった対応を取っている。
年齢的にも、立場的にももう少し砕けた調子でも誰も気にしないはずだが、そうさせないのはルドルフの纏う威厳故か。
「…テイオー」
「はーい!ボクはトウカイテイオーだよ!最近専属契約を結んだばかりだけど、よろしくね!」
テイオーは至って自然体。
人見知りをしない性格は時に大胆さとも繋がる。
元気いっぱいな挨拶に、しかし桐生院トレーナーの笑顔は若干引き攣っている。
「トウカイテイオーさんですね。養成学校ではトウカイテイオーさんのように才能のあるウマ娘を担当したい、など話題がよく出ていました。まさかこのような形で関わることができるとは思っても見ませんでした。よろしくお願いします」
なんだろうか、この寒々しい会話は。
どことなく、サラリーマンの名刺交換のような趣がある。
社交辞令と建前の会話。
緊張していることを差し引いても、テイオーを除きお互いに酷く余所余所しい対応であった。
とはいえ、あまり余計なことに気を揉んでも仕方がない。
いきなりフランクすぎる言動を取られてルドルフの癇に触れてしまうような事態は二度と御免なので、これはこれで助かる面は確かにあるのだが。
普段は優等生の皮をかぶっているくせに、忘れた頃に地雷が起爆するから恐ろしいのだ。
「…まぁ、うん。お互い仲良くね」
私にできる精一杯は、本当にこの程度だった。
「ねートレーナー、研修ってどんなことするの?」
テイオーが、好奇心に瞳を輝かせて見上げてくる。
ルドルフに対してこう言う目を向けている姿はよく見ていたが、自分に向けられると少々困ってしまう。
そんな目で見ないで欲しい。
東条トレーナーのところのように教育を体系化しなければならないほど人が来ない私の研修は、よく言えばOJT。悪く言えばほったらかしである。
私自身は養成学校での実習の際、東条トレーナーのところで短期間ではあるがサブトレーナーとして経験を積ませていただいた都合により、研修でもお世話になったので、短期間に必要なことが詰め込まれた研修カリキュラムを体験している。
にも関わらず全くのノープランなのは、そもそも画一的な教育がほとんど養成所で済まされていることを考えると、とりあえず私のフォローが効く間に現場に叩き込み、とにかく度胸と経験を積ませることに特化した方が良いのではないかと考えたからである。
つまりは出たとこ勝負だった。
その上、私の研修が恐ろしく不人気なのは、研修で向き合わなければならない相手がシンボリルドルフ1人だけであり、ベテランが実施する研修のようにバリエーション豊かなウマ娘と接することができないと言う理由が大きい。
…と、ルドルフが言っていた。
あとは愛想の無さだろうか。
「君は遠目に見ているとひどく無愛想に見えるからな」と苦笑混じりに告げられたことを思い出す。
自分が研修生だった時もそうだったが、新人トレーナーというのは、初めての契約時から『最も長い3年間』は、ほぼウマ娘の側から契約破棄を突きつけられない限り担当変えはできない。
その時点では技量の問題で一人しか担当できないことや、新人トレーナーからの途中破棄というものは、余程の理由がない限りはトレーナーとしての信用を著しく損ねてしまうからだ。
そのため、新人トレーナー達は契約後のミスマッチというものをひどく恐れる。
そう言った理由によって、自分はどんなウマ娘と相性が良いのか、自分にとって扱いにくいのはどう言うタイプなのか、など、対ウマ娘の経験値を上げることに重きを置くものが多いのだった。
そうした観点から見てみれば、確かに私は研修先としては不適格極まりない。
なにせ、つい先日までルドルフしか担当を受け持っていなかった上に愛想が悪い。
タチの悪い先輩社員のようなものだ。
こんなのに研修を志願すると言うのは余程の変わり者だ。
そうは思うものの、せっかく私を研修先に選んでもらったのだから、それはそれできちんと経験を積んで貰うつもりである。
思わず黙り込んだ私に、テイオーの無邪気な期待の目が突き刺さる。
そして、桐生院トレーナーもやはり何をするのか気になっているのか、ちらちらとこちらを見ている。
ルドルフは済ました顔をしてコーヒーカップを口に運んでいるあたり、慣れ切っている。
ひとまず、やること自体は研修生がいようがいまいが、実はあまり変わりない。
何せ、都合の良い意味で使われるOJTそのままなのだから。
「…ま、ターフに出ようか」
そう言って立ち上がろうとした時、不意に叫び声が耳を打った。
「ってなんでウチは安らかに寝かしつけられとんのや!!うちのチビどもとちゃうねんぞ!!」
飛び起きたタマモクロス、渾身のツッコミであった。
「なるほど、時間差突っ込み…」
何に感心したのかは不明だが、うちのルナちゃんはしきりに頷いていた。