ーーーそれで、また助けてもらった、というのはどう言う事かな。
先輩が、先導して部屋を出て行く。
その後ろを追いかけるように歩いていると、ふと背後からかけられた声がそれでした。
よく通る声。
しかし声量を絞った声は、私の耳にかすかに届く程度の按配。
声の持ち主は、シンボリルドルフさん。
その名前を知らないトレーナーは居ません。
無敗で三冠を。そして七冠まで達成した希代の最強バ。
強さだけでなく、皇帝の二つ名に恥じぬ人格者、そして切れ物としても名が通っており、彼女ならばトレーナーなど付かなくとも三冠は取れていた、とメディアや世間に言わしめた才媛。
学生時代は、その活躍ぶりに拳を握りしめて同輩達と熱心に応援し、騒いだものでした。
そんな彼女のところで研修を積むことができると思うと、心が躍ります。
そして同時に、私は警戒し、慎重に言葉を選ばなくてはなりません。
「つい先日、外出から戻った際に門が閉まっていて、その時に夜間通用口まで案内していただいたんです」
「…ふむ。いくら大人とはいえ、夜間に若い女性が出歩くというのは感心できないな」
彼女からの言葉は、どこか刺々しいもの。
これは、当たり前の反応でしょう。
ウマ娘は嫉妬心が極めて強いと言われています。
代々の桐生院が『勤め上げられなかった』理由は何も挫折や病気が全てではありません。
先代がそうであったように。
桐生院に生まれた私に当然のように叩き込まれた知識が、そして先達達が積み上げてきた経験値が、まだ駆け出しですらない私にも受け継がれています。
わざわざ門外不出の秘伝書として、これまでの経験やトレーニング論などが記された書物が受け継がれていますし、それがなかったとしても、身内に中央のトレーナーを何人も擁する桐生院家はトレーナーを輩出しやすい環境です。
次代を育成することに長けているが故に、コンスタントに中央のトレーナーを輩出し続けられる。
それが、桐生院が名門と呼ばれる所以。
だからこそ。
どこで躓いてきたのかは、徹底的に叩き込まれてきたのですから。
ここで誤ることは許されません。
「こう見えても成人してますし、鍛えてますから」
腕を軽く上げ、意識して笑顔を作る。
うまくできているでしょうか。
敵対心はない、ということが伝われば良いのだけれど。
「ふむ…事情は理解した。であれば、一つ忠告を」
「なんでしょうか?」
「
「ご忠告、痛み入ります」
なるほど、もう釘を刺しにきましたか。
他のトレーナーの皆さんとの会話一つとっても、神経を張り巡らせなければならない、というのはよく聞かされていましたが、どこか気の緩みがあったということでしょうか。
ぺこり、と軽く頭を下げて、お礼を述べる。
まさか着任早々にウマ娘の方から未熟を指摘されるとは、私もずいぶん増長していたようで恥ずかしい限りです。
反省し、次に生かすべく心に留めておきます。
シンボリルドルフさんは、私の対応に満足こそしていないようではありましたが、この場はこれで矛を収めて頂けたようで、さらりと私の隣を抜け、先輩の隣に付け、何事か言葉を交わし始めます。
それとほぼ同時に、それまで先輩の周りをうろうろとしていたトウカイテイオーさんが、私に視線を投げかけてきました。
挨拶の時から、私に向ける笑顔の奥に何か異物があるのは感じていましたが、理解できました。
シンボリルドルフさんは感情を押し込めた無表情。
トウカイテイオーさんは、ゾッとするような冷ややかな色を笑顔の奥に押し込めているようです。
わかっていたことではありましたが、すでにトレーナー契約をお持ちのウマ娘の方には歓迎はされないようです。
鋼の意思こそがトレーナーの必須スキルだ、と散々言われて来ましたが、その意味がようやく理解できた気がしました。
「桐生院トレーナー」
しばらく、一番後ろを歩いてついていけば、いつの間にかターフに到着していました。
学園に採用されてから、何度も足を運んでいるターフは、今日も美しく、ここで仕事が出来るのだ、という感動を与えてくれる素晴らしい場所でした。
研修とはいえ、期間を終えれば私は研修生という身分から、新米トレーナーという肩書きを得ることになります。
養成学校からの総仕上げ、そして私のトレーナーとしてのキャリアが、今ここから始まるのです。
そう考えれば、ウマ娘の方に歓迎されないことくらい、さしたる問題にはなり得ません。
「もう知っているとは思うけれど、私たちトレーナーが使うのは基本的にはこちらの練習場だ。空いていればいつ使っても良いが、予約優先だから、トレーニングをその日ごとに左右したくなければ早めに予約を入れておくと良い」
「はい、分かりました。イントラネットの使い方も承知しています」
「それは重畳。思ったよりも地に足がついている。私の時とは違うな。良いことだよ」
ご謙遜を。
心の底からそう思いました。
確かに、その腕は如何程なのか、と。
研修先を選択する際、試すような気持ちがどこかにあったのは否めませんでした。
しかし、先程のことを思い出すだけで、軽い震えがやってくる程です。
目線の動きと、たった一声。
それだけで、掛かり気味だったウマ娘二人をおとなしくさせてしまったその手腕。
そのやりとりを見た瞬間に確信しました。
「皇帝の付属品」という批評は、全くもって的外れであると。
「今日は大混雑だね」
例年この時期は本当にトレーニング場が混む。
ターフにウマ娘が集まってしまうことはよくあるが、ターフの外に人がたくさん集まるのは、外部に公開している模擬レースなどを除けばこの時期ぐらいしかない。
なにせ、各トレーナーが新米を連れ、まず初めにこのターフにやってくるからだ。
「今年も盛況なようだな。生徒会長としては諸手をあげて喜びたいところだよ」
「ひぃふぅみぃ…えーと、いっぱい?トレーナーって学園にこんなにいたの?」
嬉しそうに目を細めて眺めるルドルフに対し、テイオーは指折り人数を数え出していた。
確かに、一つの練習場にここまでトレーナーが集まる機会というのはあまりない。
普段は学園内の練習施設に散らばっていたり、遠征していたり、外に出ているため、ウマ娘からすれば珍しい絵面なのかもしれない。
普段、寮の食堂でよく見る光景なので私自身は何とも思わなかったが。
「ああ。今年は例年より採用者が多くてな」
「へー!」
先住ウマ娘と新参ウマ娘による落ち着いたやりとり。
久しぶりに少し落ち着いた気持ちで眺めていられることにほっと胸を撫で下ろす。
「なあなあ、トレーナー。こんなにおるんなら一人ぐらいパチってもバレへんのやないか…?」
横合いから、くいくいとシャツの裾を引っ張りつつタマモクロスが目を輝かせている。
「流石にそれは止めなければならなくなるんだけど」
「魔がささんように祈っといてや」
「というか、ついて来たの?」
「なんやウチに冷たないか?」
「そう?」
「冷えたタコ焼き見るよーな目で見んといてや」
「どんな目だよ」
そーそー、そういう目や!と。
タマモクロスは楽しそうに笑った。
さて。
観客席からターフに視線を戻せば、ウマ娘たちがわらわらと大きな物をターフに運び込んでいた。
練習用の簡易ゲートである。
基本的に、トレーナーたちが集まっていることからも分かる通り、今このターフに集まっているウマ娘たちは皆、トレーナーとの契約を結んでいる「選りすぐり」たちだ。
そして、研修初日の午後は、暗黙の了解としてーーーー
「今年も始まるな、研修生対抗模擬レース」
「ボク初めて聞いたよ。そんなのあったんだね…」
「ああ、テイオーは知らなかったか。研修でついたトレーナーに、簡易ではあるがウマ娘の資料を見せ、実際のレースと同じように作戦を立てさせるという趣旨のものでな」
「へー、面白そう!でも研修生のヒトが指示するんだね」
「ああ。今回は…」
「ルドルフが出てくれ」
どちらだ?という無言の問いには、特段考えるまでもなくルドルフを選んだ。
「承知した。流石にテイオーに変な癖をつけさせるわけにもいかないか」
仕方ない、などと言いながらも、尻尾と耳の動きは随分と気合が入っていることを窺わせる。
「変な癖、ですか?」
「テイオーはまだ本格的に教え始める前だからね。いくら優秀とはいえ、指導方針が根本的に違うと余計な混乱をさせてしまうから」
「なるほど、その点シンボリルドルフさんは…」
「今更一度のレースで崩れるほど未熟ではないつもりだ」
得意げに言い放つルドルフ。
頼もしい、と思う反面、隣でテイオーが「ぐぬぬ…」と呻いているのが不穏で仕方がない。
来年はテイオーを出してやれなければ納得しなさそうである。
「ルールは簡単だ。参加できるのは、ある程度慣れているウマ娘と、研修生のペアのみ」
先ほどルドルフがテイオーに説明した通り、研修生が作戦を立て、実行させる。
研修を受け持ったトレーナーは付き添いだが、研修生が求める情報については差し支えのない範囲で開示することがルール付けられている。
一方で、トレーナーの側から研修生に指示を出すことはNG。
あくまで、研修生の能力や傾向を調べるのにちょうどいい、ということで発案された草レースだからだ。
なお、勝ったところで何の特典もないのだが、強いて言うならばウマ娘を思い通りに走らせることの難しさを体感できる。
出走するウマ娘はウマ娘で、研修生に気を使わないというのがルールなので、草レースの割に相当に難しいものとなる。
さて、毎年受付はベテランの持ち回りだが、今年は…。
トレーナーが列をなしているところを目で辿っていけば、その先には南坂トレーナーとその担当ウマ娘たちが長机を出して、簡易の受付としていた。
やたら達筆な字で「愛付」と書かれた垂れ幕が机にぶら下がっている。
誰だあれを書いたのは。
「それじゃあ、桐生院トレーナー。悪いけど出走登録を。書類はほぼ本当のレースで出す書類と変わらないから、練習しておいで」
「はい、行って来ます!」
駆けて行く桐生院トレーナーの後ろ姿を見送る。
小さく跳ねるポニーテイルが、どこかウマ娘のように見えて微笑ましい。
なお、ルドルフは作戦には従うものの、無理をしてまで勝ちにいかないというか、きちんとセーブするため、このレースに関しては普通に負けることがある。
「…そういえばこのレースじゃ負けても悔しがらないよね、負けず嫌いなのに」
そう言えば訊いたことがなかったな、と思い、何気なしにルドルフに尋ねてみれば。
「ん?当然だろう。無理をして勝利したところで、君の功績には何の貢献もできないのだから」
そんなストレートな言葉を真顔で返され、私は答えに窮したのだった。
「ねー…ボクたちもいるんだけど」
「おっ、タコ焼き売っとるやん。トレーナーに買うてったろ」