強い輝きの傍にあり続けるが故、見えなくなるものがある。
「やあ、トレーナー君。昨夜はよく眠れたかな」
自室に帰ろうとすれば、ドアの前にはシンボリルドルフ。
今日は身体を休めている事だろうと高を括っていたが、こうして私の帰りを待ち伏せているところを見るに、意気軒昂であるらしい。
ふわりと柔らかく微笑んではいるが、目が全く笑っていない。
耳は私の方へ一旦向けられたが、すぐに後ろを向いてしまう。
瞳孔の開いた目は、明らかに内心の荒ぶりを示しているのだろう。
よく好意を持っている異性を前にすると瞳孔が開く、といった事例が挙げられるが、言ってしまえばただの緊張か興奮からなる瞳孔状態にすぎない。そこに好意なのか敵意なのかはあまり関係がない。
ゆらり、と左右にゆったりと振られた尾は、良くしている動きの割にどこか重苦しい。
皇帝の神威を見よ、とは言うが、何もそれをトレーナーの私に直接向けてほしいわけではない。空気がチリチリとヒリついている。
何が原因だかいつも通りさっぱり解せないが、これは随分とご立腹だ。
ぴしゃり、と雷が鳴り、廊下全体が雷光で照らし出される。
…出会った時を思い出すような状況だ。
あの時の彼女は随分と打ちひしがれていたが、今度は少々趣が違う。
彼女のトレーナーとして。そして生き残るために。
私はここで逃げることは許されない。
気圧されるな。一歩で良い、踏み出せ。
笑って口火を切れ。
「やあ。昨晩はお疲れ様。生徒会の皆のお陰でよく眠れたよ」
あれだけ飲んだにも拘わらず、冷たい雨の中を歩いてきたことと、この重圧を受けてアルコールの影響からは既に脱している。
疲労感と重苦しい目下の悩み事に思考のリソースが割かれているため、判断力が低下している自覚はある。
だが、ここで「ルナのお陰で」と口にしないだけの分別は残っていた。
なぜ口にしないのか、と問われれば事は単純。
切り札、奥の手を初手から切る奴は滅多にいない。
まだ待たなければならない。
使い古されてなお、効果の高い切り札を使うべき時を。
ぴくり、とひし形の耳が動く様子が視界の隅で確認できた。
艶やかな尻尾が左右に再度ばさりと揺れる。
当初思っていたよりも遥かに長い付き合いになった彼女との契約だが、これだけ日々一緒にいるにもかかわらず、未だにどこに地雷が埋まっているのかさっぱりわからない。
外面は「余裕のある優等生」そのものを体現する存在であるがために、余計にややこしくなっている感がある。
…私生活というか、プライベートではほとんどライオンみたいな性格をしている癖に、である。
「まだ昨晩の疲れも残っているだろう?こんなところで立ち話もなんだ。入ってくれ」
トレーナー寮の廊下は無駄に広い。
広いのだが、赤ら顔をしたトレーナーがそれぞれ自室へ帰っていく時に、廊下に危険物が落ちていれば皆スルーして通るというわけにもいかない。
ライオンが大人しくしているからと言えど、獅子は獅子なのだ。間違っても猫ではない。
ついでに言えば、まだ若手も若手である私のようなトレーナーの私室というのは、割と手前というか、学園側の入り口にほど近い場所にある。
虚しい理由だが、新人トレーナーほどウマ娘との関係構築を「しくじって」執着されて追い回されやすいためだ。
であれば奥へ配置すべきかとも思うが、最奥部のトレーナーを付け狙うためにウマ娘達が寮の中を闊歩してしまうと、他のトレーナーの心身に酷くプレッシャーをかけてしまう。
上手く立ち回ることができるベテランほど奥、というのはトレーナー寮での暗黙の了解である。
なお、先ほどアドバイスをくれた黒沼トレーナーなどは寮の3階の奥の方。流石である。
一方、私は寮の1階、しかも手前から2番目という非常にヤバい位置である。
だから昨晩のように平気で浴室直行で訪ねて来れてしまうのだ。
閑話休題。現実逃避終わり。
自室の鍵を開け、シンボリルドルフを招き入れる。
側から見れば、凛々しい美人とは言え制服を着たうら若き美少女を自室へ招き入れる悪しきトレーナーの鑑である。
現実は、他のトレーナーに迷惑をかけまいと身を張って起爆寸前の爆弾を手に人のいない方へ駆け出した勇者である。
部屋に入る瞬間、横目で見えたのは隣室に住んでいる同期のトレーナーが敬礼で見送っている姿だった。
あの野郎。今度担当ウマ娘を焚き付けてやる。
そんなことを考えながらも、にこやかにルドルフを招き入れる。
彼女は黙ってついてくると、後ろ手にそっと鍵を閉めた。
がちゃん、と錠の落ちる硬質な音が、静かな部屋に残響を残した。
獅子の牙は、まだ伸びてこない。
ぱっぱ、と蛍光灯が点灯していく。
見慣れた自室だし、たまに知らないうちに紛れ込むウマ娘の影も今のところ見当たらない。
これで担当でもないウマ娘が紛れ込んでいたら血を見る羽目になるので、少しほっとした。
「ルドルフもそんなところに突っ立ってないで座ってくれ。紅茶でいいかい?」
肩に掛けていた鞄を床に置く。
さてお湯を沸かさないと、と思った時、とんとんと物音がして振り返る。
ルドルフはリビングルームの入口付近で腕を組んだまま動ない。ゲート難か。
そのルドルフが、片足で床を搔くような仕草をしていた。
―――前掻きだ。
視線を上へ移していけば、案の定耳が後ろに伏せられている。
これは死んだかもしれない。
ウマ娘の耳や尻尾は、犬のようにと言うと怒られるが、生き物の常としてその時の感情と概ね連動している。
後ろに伏せられた耳は「私怒ってます」あるいは興奮している場合が大半である。
足で地面を掻くような仕草は「前掻き」という。
これはウマ娘共通の特徴で、何かを訴えたいときによくやる仕草であるとされる。
具体的にはお腹を空かせたときや、或いは不満があるときだ。
ついでに、せわしなく左右に尻尾が揺れているが、これはいまいち不明である。
公衆衛生が発達していない時代にはこれで虫を追い払っていたと聞くが。
まぁ、なんだ。
要するに今の皇帝陛下はご機嫌が大変に麗しくない、ということだ。
耳や尻尾が派手にアピールしているのに、いつものような穏やかな表情がぺたりと顔に張り付けられているのも恐怖感を煽るのに一役買っている。
瞳孔も開かれたままだ。
これが夜道に立っていたら命乞いをする自信がある。
…。
とはいえ、不機嫌から急に蹴りに来るような気質でないことだけはよくわかっている。
但し、自制心の高さと闘争心がぎりぎりのバランスで同居しているがために、均衡が崩れた際の衝撃はすさまじいものがある。扱いは慎重を期さねばならない。
ベストを脱ぎ、ソファの背に放り投げると、ゆっくりと腰かける。
ローテーブルを挟んだ反対側を薦めようとした瞬間、ルドルフが動いた。
予想とは、違う方向で。
「…はあ」
ずっと黙っていたルドルフだが、その整った眉根を寄せると、つかつかとこちらへ寄ってくる。
「もう、君は何度言えばわかるんだ。せめてハンガーにかけるくらいはしたまえ」
そして、見過ごせなかったのかベストを拾い上げると、ぱたぱたと叩いて皺を伸ばし始める。当然のようにハンガーを出してきてクローゼットに仕舞い込んだ。
実に慣れた動きである。
思い返せば、生徒会長になるまではここに入り浸っていたな、と遠い目をしてしまう。
一時期は掃除から洗濯、料理まで勝手にやっていた。
たまにシャツが減っていたりするのが難点だったが。
トレーナー寮は周囲を人工林で囲われ、かつ外部とも面しているため、風で飛ばされるとまず見つからない。そういうことにしておこう。
「そういう注意も最近聞いていなかったな。通い妻のように甲斐甲斐しく面倒を見てくれていた頃が懐かしい」
思わずこぼした一言。随分と迂闊な一言だったと反省せざるを得ない。
これではウマ娘的には「お前がいないと生活するのも大変だから帰ってきてくれよ」とアプローチをかけたように聞こえてしまったことだろう。
「っ!?…んんっ。全く、君はいつまで経ってもだらしがないな。ウマ娘を導くトレーナーたるもの、生活の面でも模範となるべきだろう?」
実際、目の前の美少女は目じりを僅かに下げ、珍しく尻尾を高くあげて、耳を横に倒している。
私に警戒されるため、努めて抑えているのだろうが。
尻尾と耳はどうしても感情が出てしまうというのがウマ娘の可愛らしい点である。
逆に顔にモロに出るが、尻尾と耳の感情表現をコントロールできる者もいるとか。
そのあたりは未だに良くわからない。
クローゼットに上半身を突っ込み、いそいそと何かし出したルドルフの後ろ姿をぼんやりと眺めていることしばし。
ぶつぶつと「ああもう、こんなに皺だらけにして…」だのと、くぐもったお小言が聞こえてくるが、なんというかこう、学生服のうら若き女性が自宅のクローゼットを物色しているというのは聊か犯罪的な絵面だなあと思ってしまう。
もちろん、私が捕まる側だが。
区切りが付いたのか、ルドルフが戻ってくる。
クールダウンできたのか、少し表情が和らいだのは救いとしか言いようがない。
そして、おもむろに口を開いた。
「新しく担当を持つそうだな」
びしり、と。
不意打ち気味のそれに、空間に亀裂でも入ったのではないかと思わず見紛うような音が聞こえた気がした。
何故もう知っている?トレーナーからのリークか?
内示は出ていないはずだし、そもそも事前に担当ウマ娘に打診などすれば、拒否されるのが当然の流れなのでそんな手間を踏むはずもない。
辞令交付式には出席していなかったし、一体どうやって?
背中を冷や汗が伝う。
本能が「やべえよ逃げて逃げてはやく逃げて」と警鐘を鳴らしている。
迂闊だった。
酔いを理由に逃避にかかったがために後手に回ってしまった。
明日にでもきちんと伝えるつもりでいたが、こうも見事に出し抜かれると言葉が出てこない。
酸素を求める魚のように、ぱくぱくと口を開いては閉じる、という醜態を繰り返してしまう。
ぎりっ、と。
強く、硬く拳を握りしめる音がした。
あ、まずい。
頭が真っ白になる。
空転する思考とは裏腹に、脳裏をよぎるのは楽しく温かい思い出ばかり。
しかし、ルドルフが微笑んだ。
目が笑っていない訳でもなければ、張り付いたような笑みでもなく。
「仕方ないな、君は」と、若干呆れが混ざったように。
「遂に君も一人前のトレーナーとして認められた、ということだな。理事長は以前から君の事を高く買っていたようだが、他の理事たちもようやく、ということか」
…何か流れがおかしい。
「本当におめでとう。私もハナが高いよ」
これは…祝ってくれている?
若手トレーナー的には二階級特進に近い人事だとはいえ…。
ようやく、空転していた思考が噛み合い始める。
…そうか。
私も一人前と見込まれたのか。
思わず、肚の底に熱いものが生まれたような気がした。
新人トレーナーとしてトレセン学園にやってきて。
選抜レースではウマ娘たちをスカウトするにもやはりベテラン優先で、随分と苦戦したのは記憶に新しい。
ウマ娘たちも、当然「勝ちたい」という欲求が非常に強い子たちだ。当たり前の話だが、G1レースで勝たせた実績などが一つもない、そもそもウマ娘を担当することが初めての新人トレーナー等というものを入学早々に自ら選ぶ物好きというのは、そうはいない。
そこでトレーナーとして育成の実績を積んで行くことで、才能あるウマ娘をスカウトできるようになる…というのが建前の世界。
色々例外は多いのであんまりアテにならないな、というのはこの数年でしみじみと痛感しているが、新人トレーナーにとってはその建前の世界がすべてだ。
実際のところは、かの皇帝シンボリルドルフや女帝エアグルーヴといった現在のウマ娘界を代表する傑物ですら、担当トレーナーがなかなか見つからずに燻っていたほどである。選抜レースを経て、担当が付かない、チームに加入が出来ないまま時間が経過していくと、ハングリーにトレーナーを逆スカウトする子らが出てくるのが現実だが、何年か経験したトレーナーでなければ知らない事だ。
…トレセン学園というのはある種の魔窟だ。最高のトレーニング設備、豊富な資金力、人的資源も豊富と、日本国内のみを見れば最高の環境を整えている。
だが、世界のどこを見渡してもそうなのだが、「トレーナー」の数自体はそこまで多く存在していない。
学校と同じだ。教師の数は学生数ほど多くない。
ゆえに、担当トレーナーがつかずに燻っているウマ娘は在校人数に比して随分と多い。
育成に熟達したトレーナーたちは「チーム」を結成し、複数のウマ娘を並行して率いているが、それはチームの全員に適切な指導を均等に行うだけの力量を備えているからだ。
知識自体は叩き込まれてきた「選りすぐり」の新人トレーナーとはいえど、経験が物を言うチーム統率は荷が重い。
いくら実習の中でサブトレーナーとしての経験を積んだからといって、一度しかないトゥインクルシリーズに挑む彼女たちは本気も本気、そこにバ生を賭けてきているのに、新人トレーナーの踏み台にするわけにもいかない。
そうした理由で、新人は1対1、ベテランは複数を担当するのが習わし。
要するに、在籍するウマ娘の数に対し、トレーナーの絶対数も受け持てる枠も圧倒的に足りていないと言うのが現実だ。
さらに言えば、充実した福利厚生に高い給与、さらにインセンティブも大きいとはいえ、ある種命懸けの仕事。
トレーナー自体は売り手市場だが、トレーナーの側もやはり「勝てる見込みのあるウマ娘」を担当したい。インセンティブもあるので生活のためにも自然とそうなる。
そうなると、やはり優先権があり、また信頼のあるベテラントレーナーほどスカウトしやすく、選ばれやすい。
当時、まだ勝手もわからず、かといって適当なウマ娘と契約するのも躊躇われ、途方に暮れていた私が巡り合うことになったのは、当時まだ幼いシンボリルドルフだった。
始めて担当したウマ娘と二人三脚でレースを戦い、なんというか日常も大体が戦いではあったが、ともあれ二人で頑張ってやってきた。
その結果が「無敗の三冠」「皇帝」シンボリルドルフとそのトレーナーという名声だ。
――――報われた、と思った。
私の夢は、ウマ娘の夢を叶える事。彼女たちの活躍をサポートし、その才能を、熱意を、上のステージへと押し上げる手伝いをすることだ。
夢が叶った、とは言わない。
彼女の夢は「総てのウマ娘の幸福を」という、途方もないスケールの物だ。
私の夢は、彼女の夢を叶える手伝いをやり遂げることでやっと結実する類のもの。
まだまだ、道半ばだ。
しかし、栄華を極めたと評するに異論のないルドルフとは異なり、私の方は「彼女の圧倒的な才能で引っ張り上げられただけ」「皇帝の雑用係」「トレーナーなんていなくても三冠が獲れた逸材」とメディアでもネットでも、散々に言われた。
それも当然だろう。
肚の底に生まれた熱が、急激に冷えていく。
思い上がるな。彼らの言う通りなのだから。
評価されたのも、無敗の三冠を達成したのも、全て彼女の力だ。
ともすれば、トレーナーなどいなくても、彼女はそこへ辿り着いていたとさえ言われているのだ。だからこその、「雑用係」。それを否定することができなかった私だ。
私は、そこに辿り着く手間を少しばかり省いただけ。
「夢を叶えてあげる」等と、傲慢な科白なんて吐き出せようも筈がない。
まさに、勝ちウマに乗っただけの有象無象だ。
彼女の才能とその手腕があれば、1人でものし上がっていったに違いない。
私は、ただルドルフに付き従うようにして、押し上げられた。
それは、どうあっても間違いない事実だと思っている。
だから。
脳裏に蘇るのは、『自分の手には余る』という事。
精一杯だ。今が既に自分の限界だった。
更なる高みへと突き進むシンボリルドルフの背から振り落とされないように。
ただしがみついているだけだ。
指導?何を思いあがったことを。
やはり私には、できな―――。
―――君は本当に、仕方ないな。
ふわり、と。
温かい感触が体に伝わった。
私がいないと駄目なのだから、という言葉がその後に続いたような気がした。