ぎりりと強く掴まれた腕に痛みが走った。
「その辺にしておきなさい」
「……あ」
正気に返れば、生気の抜けきった顔をした男性の顔が目の前にあった。
横から伸びてきた細い手が、男性トレーナーの胸ぐらを掴み上げていた私の腕を強く握っている。
「それ以上はやりすぎよ」
女性の声。
酷く聞き慣れたそれ。
目の前でちかちかと火花が散ったように、どうにも視力がうまく働かない。
よほど頭に血が昇ってしまったらしい。
「はい」
握りしめていたその手を、ゆっくりと開く。
まるで氷を素手で触れてしまったかのように、張り付いたように固く握りしめていたそれを、ゆっくり引き剥がすように。
ずっと正座でもしていたかのように、痺れたような痛みが走る。
どれほど私は強く握りしめていたのだろうか。
指の一本一本がゆっくりと緩められ、最後にどさりと重いものが落ちる音がした。
尻餅をつくその男にはもう目を向ける必要も感じない。
今は、やることがあるのだから。
声の主が誰かなんて、わざわざ確認するまでもない。
私にトレーナーとしてのノウハウを叩き込んだ、いわゆる師匠筋の声を聞き間違えるほど、私は呆けてはいないのだから。
血流が止まっていたのか、真っ白になって痺れた手を軽く振り、向き直る。
そこには、仕立ての良いレディスーツに身を包んだ女性トレーナーが立っていた。
「…東条トレーナー。止めてくださってありがとうございました」
私の狂乱を止めてくれた東条トレーナーに、頭を下げる。
「いつも極端すぎるのよ。…頭を上げなさい」
「…はい」
顔を上げれば、いつも通りの仏頂面が変わらずそこにあった。
「これは私が引き受けるわ。あなたはやることがあるでしょう」
そう言ってすれ違う東条トレーナーが、すれ違いざまに小さな声で呟いた。
「安心したわ。あなたは変わらないわね。…よくやったわ」
ま、後で理事長からお叱りはあるでしょうけどね、と。
振り返ることはしない。
東条トレーナーの背中は大きいが、その背に背負うのはウマ娘だけで満員だ。
私は私で、やることがある。
向かう先は当然、担当ウマ娘たちの居る所。
少し視線を巡らせれば、呆れたような顔で腕を組むルドルフと、その後ろから伺うように顔を出すテイオーとタマモクロス。
…タマモクロスも、しれっと仲良くなっているようで何よりである。
桐生院トレーナーには申し訳ないが、トレーナーとしての責務から考えれば、選ぶまでもなくまずはこちらだ。
「ルドルフ」
「ああ」
一歩一歩、踏みしめるようにしてルドルフの前まで歩いていく。
「すまない。君の名誉に、私が瑕を付けた」
深く、深く頭を下げる。
いくら私といえども、プライドというものがある。
しかし、それは衆人環視の中で年下のウマ娘に頭を下げるのを躊躇うためのものではない。
そんなプライドは犬にでも食わせておけばいい。
「…頭を上げてくれ」
ルドルフは許してくれるだろう。
私に異常に甘い彼女のことだ。許しを乞わずとも良かったのかもしれない。
「…」
だが、それに甘えていてはならない。
誰がどれだけ私のことを貶したところでわざわざ気にすることはない。
私が気にすることは、ウマ娘の夢のことだけだ。
それでいい、と割り切っている。
ちっぽけなプライドがその道のりを邪魔するのであれば、そんなものは不要だ。
だからどれだけメディアに悪様に取り上げられようが、陰口を叩かれようが、そんなものは瑣末な問題だった。
「もう、いいから頭を上げてくれ。君が悪いわけじゃないのだから」
だから、これだけは許せなかった。
他の誰でもない、自分自身が。
だからあれは、ただの八つ当たりだ。
自分の不甲斐なさで、ルドルフの名誉に疵をつけてしまった苛立ちをただぶつけただけ。
もしこれが、この場だけで済むような話でなかったら。
もしこれで、彼女の夢を遠ざけてしまうようなことがあったら。
「…すまない」
そう思うだけで、怖くてたまらなかった。
私が不甲斐ないばかりに、彼女の努力に、これまで重ねてきた大事なものに、疵をつけかねない出来事だったと思う。
そのあまりの無様さに、不甲斐なさに、視界が滲む。
「…君は真面目すぎる。担当を貶されて頭にきた、それでいいじゃないか」
「そういうわけには…」
「これはそう言う話だよ。それでいいんだ。君が私のためにあれほど怒りを示したこと、私は誇らしく思う」
「だけど、私は」
「そうだな、もしそれでも気に病むようならーーー」
私の言葉を遮るようにして放たれた言葉。
そこで一呼吸置いて、にやりと笑ってルドルフは言葉を続けた。
「ーーー明日は私とデートでもしてもらおうか。荷物持ちとして」
「…喜んで」
…本当に、器の大きい担当ウマ娘だ。
「だからカイチョーそれはずるいって!!」
横から飛び出してきたテイオーが、ポニーテイルと尻尾をぶんぶんを振り回しながら食ってかかる。
「ずるくない。これはあれだ。正当な権利だよ」
「正当じゃないもん。トレーナー何も悪くないし!悪いのあのストーカーでしょ!?」
びしっ、と音がしそうな勢いで、明後日の方向に指を差すテイオー。
指の先を追っていけば、遠くに東条トレーナーとその担当ウマ娘達が男性を担いで消えていく姿が確認できた。
…彼にも申し訳ないことをした。
東条トレーナーはまだ優しい方だから、きっと生存は保証されているのが救いだろうか。
「だがトレーナー君が気が済まないようだからな。これは致し方ない処置というものでな」
「もー!ボクもついてくからね絶対!!」
「そこは「わかってるよ」という顔をして引くのがいい女の条件だと思うぞ」
「…いい女の条件……ってそんなのに騙されないからね!?」
「ちっ」
「舌打ち!?今舌打ちしたよねカイチョー!ボクに対して最近当たりが強くない!?」
「あー…テイオーは今度蹄鉄を見に別途連れていくから…」
「言ったねトレーナー!みんなー!今トレーナーがボクをデートに連れていくって聞いたよねー!?」
「あの、テイオーさん…?」
「なりふり構ってたらカイチョーに勝てないからしょうがないんだよ!これはあれだよ、コラテラルダメージってやつだから!マヤノが言ってた!!」
「なっ、それはずるいぞテイオー!」
「どっちがズルいんだよー!」
ぎゃいぎゃい、と賑やかに騒ぎ出した二人に、周囲からも笑い声が上がり始めた。
しかしテイオー。闘争心を抱くのはいいけれど、努力の方向が明後日の方を向いてやしないだろうか。
…全く。
ぴょんぴょん、と私にまとわりついてくるテイオーを宥めながら、困ったような顔をするトレーナー君を横目に盗み見る。
真面目すぎるのも困りものだ、と思うのは贅沢な悩みだろうか。
あれは誰の落ち度でもない。
ただ頭に血が上った男が、ちょうど噛み付ける位置にいた私に悪態をついた、ただそれだけの話にしてしまえばよかったものを。
まさか、その責任を自分に求めるとは。
自分のことは何を言われようが涼しい顔をしているくせに、全く…。
教育者として、そして担当トレーナーとして。
ウマ娘を貶されては黙っていられなかったのだろう。
本当に真面目すぎて、どうしようもない人だ。
他人の夢を全力で支えようとするあまり、度し難いほどの責任感でそれに殉じてしまう。
それこそが私のトレーナー君であり、どうしようもなく魅力的で、そして仕方のないところだった。
トレーナー君の『夢』が故に。
『それは夢を諦めずに追い続けているウマ娘に向けて良い台詞では、断じてない』
先程の発言が脳裏を過ぎる。
ずきり、と胸が痛んだ。
もし、もしもそこに、私への愛情が少しでもあれば、これほど嬉しいことはない。
…ああ、本当に。
仕方のない人だ。
衆人環視の中とはいえ、私が少し貶されたところで大した影響はない。
その程度のことで小揺るぎもしないだけの実績は積んできた筈なのだから。
それなのに、あそこまで怒り狂うと言うのは過保護すぎる。
だけれど、それをどうしようもなく「嬉しい」と思う自分こそがーーー。
なあ、トレーナー君。
ウマ娘の夢に殉じる君が、私の夢を叶えてしまったら。
私の夢が、叶ってしまったら。
その時君は、何も無くなった私のそばにいてくれるだろうか。
名声も、地位も。
今の私に手に入れられる様々なものは、もう手にしていると思っていた。
欲しかったものは、もう大体手に入れてしまった。
あとは、夢を叶えるために着実にやっていけばいい。
道半ばではある。
そして、夢の遠さもわかっている。
だから、まだ大丈夫だ。
時間はまだまだ、あるのだから。
…そう、思うのに。
本当に欲しいものは、私の手の中から隙あらば飛び出して行こうとしているんだ。
なあ、トレーナー君。
私の夢が叶わなければ、君はずっと側に居てくれるんだろうか。
叶えたくないと思いながらも手を伸ばし続ける私を、君は見捨てないでいてくれるだろうか。
ーーーいいや、違う。
私が、君を。
私から離れられなくなるようにしてみせる。
不可能だ、と言われていた様々なそれを、私はこの手で掴み取ってきた。
私は欲張りだ。
どうしようもなく、強欲なんだ。
私だけが恋をしているだなんて、そんなの不公平ではないか。
私だけが恋をしているだなんて、そんなの勿体ないじゃないか。
だから、今度は私の力で、君に恋させてみせよう。
私が欲しいのは、君だけだ。
どうか、私の鳥籠から飛び立たないでくれ。
いつまでも。
「そうだ、トレーナー君」
「なに?」
「明日のデート、お詫びということであれば…もちろん素晴らしいエスコートを期待していいのだろう?」
「え゛」
わかっているさ。
君がほとんど、責任感と贖罪で受け入れてくれたことなんて。
それでも私は、明日のデートをとても楽しみにしているんだ。
今はまだ、それでいい。