ルドルフの模擬レースも終わり、放心していた桐生院トレーナーを回収するとトレーナー室に撤退することとなった。
流石にあれだけ騒ぎを起こして、そのままあの場に留まるというのも憚られたこともあるが、レースからあまり時間が経過しないうちに桐生院トレーナーとレースの振り返り等を行うことで、レースで得た経験をより確かなものとするためである。
なお、タマモクロスは何やら用事があるらしく、帰っていった。
よく考えると別に担当ウマ娘というわけでもないのに今日はずっと付き合っていたあたり、暇だったのだろうか。
いや、付き合いが良い彼女のことだ。
撤収のタイミングを見失っていただけなような気もする。
そういった経緯で、今現在トレーナー室にはルドルフ、テイオー、桐生院トレーナーの3名が机を囲んで唸っているという状況であった。
時折上がる質問に答えつつ、可能な限りの範囲ではあるが情報を提供し、気になった点は指摘していく。
事前に桐生院トレーナーの立案した作戦と、私がレース前に同じく立てていた作戦書を突き合わせて差異を調べようとするなど、桐生院トレーナーは非常に熱心に取り組んでいる。
「すごい真剣だね。トレーナーってみんなこんな感じなの?」
一緒に話を聞いていたテイオーが、流石に飽きてきたのかこちらに寄ってくる。
「大体は。…ま、とは言っても桐生院トレーナーは真面目な方だと思うよ」
私のやらかしに巻き込まれて萎縮させてしまったかと思ったが、その情熱というか、真剣さには翳りがない。
レース直前にはおろおろと右往左往したりとしていたが、その割には、随分と肝が据わっているのだろうか。意外と気丈である。
「ふーん?…お邪魔しまーす」
近づいてきた、と思えば。
まるで猫のようにしなやかな動きで、するりと膝の上に乗ってきた。
こちらを見上げてにしし、と笑う様は、チェシャ猫のよう。
「あ、こら」
「なんか手持ち無沙汰でさー」
機嫌良さそうにぱたぱたと足を振るテイオー。
もぞもぞと動く尻尾が触れて少し擽ったい。
「…レースの振り返りには参加していたし、まあ良いか…」
参加していて欲しいという気持ちもあるにはあるのだが、まだ模擬レースにすら出しておらず、当事者でさえない状況で参加しろというのも酷だろうか。
「ボクにはなんかないのー?」
「そうだなあ…」
とはいえ、今日のところは午前中の座学もあり、午後はおそらくレースで一杯一杯になることが予想されていたため、あまり考えていなかった。
「そういえば、午前中はこちらから一方的に捲し立ててしまったから、テイオーの話も聞きたいな」
「…!い、良いよー。ボクのことを知りたいんだね!どんな話が聞きたいのー?」
「なんでもいいよ。最近楽しかったことでもいいし、悩んだこととかでもいい。なんでトレセン学園を目指したか…は知ってるけど、それまでどんな事をしてたのか、まあ、色々とテイオーの事を知らないなあと思ってね」
シンボリルドルフ、であればそれこそ長年連れ添ったおかげで、よくよくパーソナリティを把握しているが、トウカイテイオーはそうではない。
全く知らない仲、と言うわけではないが、トレーナーとして彼女に寄り添っていく必要がある以上、実は素性も何も知りませんと言うのでは今後に差し障る。
何に楽しいと思うのか、どんな人間なのか。
そういった「レースに関係のない部分」も知ることで、見えてくるものも沢山あるのだ。
「トレーナーはしょうがないなあ!じゃーボクのこと、教えてしんぜよう!そうだなー、最近は…」
そうして、テイオーは楽しそうに語り始めた。
これまでの色々と、これからの夢を。
テイオーの話は止まらない。
これまでの溝を埋めるように、楽しそうに。
「…でねー、マヤノが雑誌を…」
「トレーナー君」
楽しそうに語り続けるテイオーに相槌を返しつつ、情報収集に努めていると、ルドルフが声を掛けてきた。
どうやらルドルフと桐生院トレーナーのデブリーフィングも終わったらしい。
本来であれば桐生院トレーナーとルドルフのやりとりを逐一確認してなければならないところなのだが、幸いにして時折耳を傾けてやるだけでも問題がなさそうだということはわかっている。
なんなら私よりも指導に関しては彼女の方が適任なのではないかと疑うほど、ルドルフへの信頼は厚い。
「こちらは一通り終わったよ」
膝の上のテイオーを見てか、少々苦笑い気味ではあるが、ルドルフが言う。
「ん、お疲れ様。さて、そろそろ撤収かな」
その言葉に頷いて返すと、桐生院トレーナーへ目を向ける。
相当に濃密な時間だったらしく、若干疲れが出ているような気もするが、それでもその顔は気力が充実しているように見受けられる。
明日からが本番だと言うのに、毎年引き受けるトレーナーの雛たちは大抵シンボリルドルフの持つ圧力に屈してしまうのか、初日が終わる頃には魂が半分抜けかかっている事を考えると、大分に優秀であることは疑いようもない。
トレーナー養成課程という、知識をひたすら詰め込み続ける場に長くいると、だんだんと現実のウマ娘というものと知識が乖離していってしまう。
経済学を頭に詰め込んだところで、学問としての経済と生きた実体経済に触れるのとでは、根本的な部分はともかく感触としては相当に違うと言われるが、それと似たようなものだ。
忘れがちだが、ウマ娘だって生きた人間だ。
それぞれに意思があり、自我があり、夢がある。
そのことを認識するのには、なるべく早いうちの方がいい。
「えーっ。もっとお話ししたかったなあ」
テイオーを膝から下ろそうとしたところ、やだー、とむずがって抵抗する。
「時間も時間だから、今日はここまで。ありがとう、テイオー」
「んー…。わかったよ。また今度お話ししよーね、トレーナー」
くしゃくしゃ、と軽く頭を撫でてやると、口を尖らせ、渋々ながらも膝から降りた。
「うん。…さて、ルドルフとテイオーは今日はここまで。少し早いけれど、明日はオフだから、ゆっくり身体を休めてリフレッシュするように。テイオーは今日は、今朝のミーティングについて理解を深めておいてほしい。明日は完全オフとするから、トレーニングのことは考えずに休んで」
「え゛ー…わかったよー…」
「ふむ。少し物足りない気もするが…」
「レースで走っているから、今日はね」
「承知した」
「桐生院トレーナーはこの後の仕事が少しあるから、残ってくれるかな」
「はい、承知しました」
とは言っても、単純な事務仕事と荷運びだ。
特段一人でも問題ない程度の仕事ではあるが、研修生たちにとってはトレーナーの1日の仕事がどのようなものになるのかを把握しておいて損はない。
…それと、この後は来客があるだろうから。
「おーい」
荷物や本日使用した資料を片付け、「トレーナーとして」の1日の振り返りを桐生院トレーナーと行いながら寮への道を歩いていると、不意に背後から声をかけられた。
振り返れば、明るめの茶髪に染めた髪を後ろで結んだ男性。
黄色いシャツにベストを羽織り、口にはキャンディを咥えている。
見覚えがある、というか。
ここでトレーナーをしている限り、もっとも高い壁の一つとして聳えるベテラン、その一角の顔を忘れられるはずもない。
「…沖野トレーナー」
「よう、久しぶり」
にかっ、と気持ちのいい笑顔を浮かべた、スピカのトレーナーがそこにいた。
ともすれば胡散臭さを感じる笑顔だが、ウマ娘にかける情熱は本物。
トレーナーとしての稼ぎの大半を平気な顔でウマ娘のトレーニング用品などに溶かしていくため、高級取りにも関わらず、よく貧困に喘いでいる。
私も何度か食事をたかられる代わりに、アドバイスをもらったことがあるのでよく覚えている。
「さっきの見てたぞ。すげー顔してたな」
「いや、その…お恥ずかしい」
「ま、当然だとは思うけどよ。…んで、そっちのが今年の研修生か?」
「桐生院です。よろしくお願いいたします」
チラと視線を桐生院トレーナーに向ければ、彼女も手慣れたものでペコリと頭を下げて自己紹介を行う。
「ほおー、また美人が来たもんだな」
「…セクハラになりますよ」
「っと、悪ぃ悪ぃ」
「まあ、ウマ娘の足を撫で回している時点で今更感はありますが」
「お前本当に言うようになったな」
スピカのトレーナーといえば、ウマ娘のことに関してはほとんど変態としか言いようがないほどのスペックを誇る天才の一角だ。
トモを見て、軽く触れればある程度の才能も能力も見抜くというその現実離れしか眼力は伊達ではないのだが、しかし良さそうなウマ娘がいるとついつい触りにいってしまうという悪癖を持っている。
「え…?」
当然、ウマ娘はびっくりして蹴りを喰らわせるし、その能力を知らない人間からすれば変態そのものなので、こうしてトレセン学園に慣れていないトレーナーには引かれることも多い。
「お前わかっててやったろ…」
「所構わずやるからですよ。スペシャルウィークにも蹴られたって聞きましたよ?…桐生院トレーナー。この方はウマ娘のトモを軽く触って確かめるだけで才能も今現在の仕上がりも大体見抜く化け物だから、覚えておくように」
「あっ、チームスピカの…」
納得したように、桐生院トレーナーがこくこくと頷く。
傾きかけていたチームスピカを立て直し、トップチームの一角にまで押し上げたその腕は養成過程でも耳にすることがあるとのこと。
そして、オカルトじみた噂として付随して耳にするのが、その特異な能力だった。
「それで、今日はどうされたんですか?」
「いやな、恒例のアレ、今年はお前のところにしたから」
「やっぱりそうですか。ルドルフには?」
「おハナさんが許可を取ってる」
「だから沖野トレーナーが来たんですね」
「ええと…?」
話についていけない桐生院トレーナーが首を傾げる。
「ああ、歓迎会だよ歓迎会」
ーーー歓迎会。
言葉の通りに受け取れば、新人トレーナーたちの歓迎会になるが、実際は少々事情が異なる。
基本的にトレセン学園における研修は志願制だ。
とは言っても、大抵が実績などから圧倒的なまでにチームを率いるベテラントレーナーが人気となってしまうが、流石の彼らも受け持つにも限度がある。
このため、結構な人数が抽選で落とされ、第2希望、第3希望で提出した他のトレーナーのところへ回される。
そこで、ベテラントレーナーの考え方などに触れるために、酒の席ではあるが話をする機会を設けるべく、歓迎会という名目で交流の場が自主的に設けられているのである。
ここでポイントなのが「自主的に」という単語。
学園側から一応のところ経費で飲み代は出るのだが、プライベートの時間を削って行うため、全員との交流の機会を設けるのは非常に難しい。
そのため、ベテランが目をつけた新人と、その指導を受け持っているトレーナーをベテランが直々に誘った上で開催されるのが、この歓迎会なのである。
そして、これがあるから研修初日だけは、研修を受け持つどのトレーナーも早めに切り上げるのだ。
私もそれは例外ではない。
東条トレーナーがルドルフに根回しを済ませているのならば、彼女も断れない。
…過去のやらかしによって、ルドルフは東条トレーナーには頭が上がらないのである。
他にも、過去に迷惑をかけてしまった相手には今だに頭が上がらないあたり、割と律儀な性格をしているのだった。
もちろん、私も東条トレーナーには頭が上がらないのだが。
「期待してくれていいぞ。今日はおハナさんもいるし、今回誘うのはお前たちだけだからな」
「…え?おハナさん、ですか?」
「そういえば聞き馴れねえか。あー、東条トレーナーのあだ名みたいなもんだ」
「東条トレーナーというと、リギルのですか!?」
「そのリギルのトレーナーだね。…しかしいいんですか?」
基本的にベテラン一人に対して、何人かの新人トレーナーを誘うのが慣例の中、異例の待遇だろう。
桐生院トレーナーがそれだけ注目されている、ということの証左に他ならない。
「んで、どうだ?用事があるんなら強制は」
「ぜ、ぜひお願いします!」
割と食い気味の返答が、桐生院トレーナーから返された。
「お前も来るんだろ?」
「ルドルフに根回しまでされて行かないわけには行かないでしょう」
「おっしゃ。じゃあ7時にいつもんところで待ってるぜ。桐生院トレーナーも連れて来てくれ」
「了解しました」