ぱた、とドアの閉まる音が背中越しに聞こえる。
防音ドア一枚に隔てられた向こうでは、トレーナーと新人トレーナーが何かぼそぼそと話をしている声。
あの新人トレーナー…ええと、桐生院トレーナーだったか。
あのヒトがきびきびした声で返事をしているけれど、トレーナーの声は相変わらずの淡々とした低い温度。
ふーん。意外だなあ。
トレーナーはウマ娘に対しては明確に一線を引く傾向があったはずだけど、同じトレーナーにはわりと普通に接しているって、前にカイチョーから聞いた事があったんだけど。
さっきまではボクたちが居たから、壁のある硬い声で話していたんだと思っていたけど、ドア越しに聞く限り、それは二人だけになった今もほとんど変わらない。
…そうなると、案外あれがトレーナーの『普通』なのかな?
だとしたら、ボクに声を掛けてくれる時の温かい音色は、きっとそういうことだ。
「テイオー」
隣から聞こえたのは、珍しく、素っ気ない声。
硬い音色。
「なに、カイチョー」
いつも穏やかな態度を崩さないカイチョーにしては、珍しく硬い声。
視線を向けるまでもない。
機嫌が悪いのを押し殺したような、感情の見えない目をしたカイチョーがそこにいる。
「少し良いか」
「んー、いいよー。今日はもうヒマだしね」
うーん。ちょっと早まったかな。
あっさりと背を向けて、すたすたと歩いていくカイチョーの後ろをついていきながら、先ほどまでの事について考える。
暇を持て余して、と言うと少し語弊があるけれど、カイチョーとあっちの新人トレーナーの話し合いは、聞いている限りでは途中からボクが聞いていても意味のあるようには思えなかったから抜け出した。
トレーナーを伺ってみれば、カイチョーを信頼しきっているためか少しばかり暇そうに、今日のレース結果をノートに書き込んでいるところ。
だから、ちょっと仕掛けてみたんだ。
「テイオー。流石に膝に乗るというのは少々はしたないのではないか?」
「えー?」
やっぱり刺しに来た。
今のカイチョーではなかなか出来ないスキンシップに、嫉妬を煽られたんだと思う。
ついこの間、カイチョーにやられて少し学習した。
外堀、もしくは世間の目とでも言えばいいのかな。
他人からの目、というのは、ボクが思っていたよりもはるかに強烈に作用する。
手を繋いで歩いていたらボクが二人の子供みたいに見えてしまった、ということもその一つだ。
ボクがいくら背伸びしたって、オトナのトレーナーと今のボクでは見た目も何もかも違い過ぎる。
身長だって全然足りない。
だから、ボクとトレーナーが並んでいるところ、そしてカイチョーとトレーナーが並んでいるところを見てしまうと、どうやったってカイチョーの方が「お似合い」に見えてしまう。
「カイチョーと違ってボクはあんまりトレーナーのこと知らないから、早く仲良くなりたいんだよー。トレーナーとウマ娘って信頼関係が大事なんでしょ?」
「…ふむ。それはその通りだ。だが、限度というものがあるだろう」
自分を棚に上げて良く言うなあ…。
トレーナーの部屋のアルバム、もう見たんだからね?
膝に座ってたりする写真も、その中にはあったんだから。
「そうかなぁ?周りに言われたけど、三人で歩いてるとボクが娘みたいだって言うし、それならいっそ娘とか妹みたいに仲良くしてくれたら、トレーニングもやりやすくなるのかなーって思ったんだけど」
どこか憮然とした様子のカイチョーを横目で伺い見る。
ボクのライバルは大人びた見た目をしている。
高い身長、大人びた表情、落ち着いた振る舞い。
そのどれもが、ボクたちからすればまるで大人のように見えて仕方がない。
ウマ娘の大半がニンゲンの美的感覚で言う「美人」にあたり、更に「見た目の若さ」が長続きする体質はこの上なく強力な武器だ、ってマヤノが持っていた雑誌には書いてあった。
確かに、同じ年のニンゲンとウマ娘なら、ウマ娘のほうが若くて綺麗な時期が長いと言われているボクたちはとても有利だ。
トレセン学園に上がるまでは、ウマ娘というのは大体とてもモテる。
…だけど、カイチョーとボクは同じウマ娘だからそこは強みにならないし、たった数歳しか違わないのに「大人びた見た目」というのが強力な武器になるということを思い知らされてしまった。
じゃあ、ボクの強みってなんだろう?
マヤノもあれで自分のトレーナーを狙っているみたいで、妙にそういう情報に詳しいから、時折情報交換をしている。
でも共通の悩みとして上がるのはいつも「見た目の幼さ」に行きついてしまう。
どうあがいても、大人の女性…とまではいかないまでも、カイチョーの体つきにはボクは勝てない。
勿論諦めるつもりなんてない。
勝てないのは、あくまでも『今のボク』だけだ。
カイチョーだって入学したころは、身体が小さかったと聞いた。
そして、今のカイチョーでは、さっきのボクのようには中々甘えられない。
元々、小さかった頃のカイチョーは割と甘えん坊だったという話を、こっそりマルゼンスキー先輩から聞いている。
その頃にカイチョーがやっていた甘え方は、今はもう滅多な事じゃできない。
皇帝として周囲から認められてしまったこと、そして身体が大きくなってしまったがために、そういう振る舞いが出来なくなっている。
そう、つまり今のボクが切れるカードは、「距離感」だ。
カイチョーが出来なくなってしまったそれを最大限使っていく。
今ボクがすべきことは、トレーナーの警戒心の内側に入り込むこと。
そのことについて、同室のマヤノが、素晴らしい情報が記載された雑誌を持っていた。
今年入学してきたウマスタグラマー「Curren」の記事だ。
入学して瞬く間に新人トレーナーと専属契約を結んだという彼女のインタビュー記事が、とても参考になった。
…そう、すなわち『妹系』。
自分で言っていて頭悪そうだなあと思ったよ。うん。
でも、ウマ娘を相手する際に発揮されると言われる「トレーナーの警戒網」を潜り抜け、むしろその警戒網の内側に位置取るためには仕方がない。
そもそも警戒される以前の、近くに居ることが当たり前の関係。
これは諸刃の剣だ。
一歩間違えれば、ウマ娘おんなを意識されてしまう。
また、適切な距離感を誤れば、ただの妹扱いや、下手をすれば娘扱いで終わる。
本来ならこんな危険な橋は渡りたくはない。
だけど、残念なことにボクはカイチョーと似ているとよく言われる。
トレーナーと出会うまではただただ嬉しかったそれが、今は恨めしくて仕方がない。
カイチョーとトレーナーは、それこそカイチョーがボクよりも年下の頃からの付き合いだ。
だから、「その頃のカイチョー」とボクを重ねて見られていることは薄々分かっている。
ゆえに、そう。
目指すべきは、妹分だと思っていた子のふとした色気でドキっとさせるような、そんなポジション。
雑誌に書いてある話なんて鵜呑みにしては痛い目を見るのは百も承知だ。
だけど、その着眼点には目を見張るものがある。
カイチョーには警戒されるだろうけど、トレーナーの心の中にさえ上手く入り込めれば、カイチョーが排除しようとしてもトレーナーが抵抗してくれるようになることが期待できる。
そうして時間を稼いでいる間にボクの身体は成長するだろうし、そうなってさえしまえばカイチョーのアドバンテージは失われていく。
「ふむ…。娘、娘か」
腕を組み、立ち止まって考えに耽るカイチョー。
実に格好いい出で立ちだと思うけど、考えていることは正直、お互いに後ろ暗いそれだ。
うん、まあ、自分で仕掛けておいてなんだけど、カイチョーは多分この後ろ暗い取引は頭ごなしに否定せず、考えると思っていたよ。
ボクが近くをうろつくことを許容してしまえば、カイチョーは「担当が増えたのに近くをうろつく事を許すなんて器が大きい」というウマ娘たちからの評価や、外見の類似点から「トレーナーの奥さんとその娘」という美味しいポジションを疑似的に得ることができるのだから。
周囲への牽制にもなるという、「トレーナーを渡したくない」という目的に限って考えれば、ボクたちは共闘できるかもしれない。
ボクたちはお互いに最悪の敵だけど、お互い以外の共通の敵には二人で対応できるかもしれないのだ。
これはある種の淑女協定。
カイチョーも、ボクも、多分だけど勝負を決めるまでにまだ時間が欲しい。
だからこの取引は―――
「全く、テイオーは甘えん坊だな。私に甘えてもいいんだぞ?」
「えー?そうかなあ。でもカイチョーには色々聞きたいこともあるし、これからも仲良くしてね!」
―――成立する。
一息に勝負を決めてしまいたいという焦りもあるけれど、トレーナーは今後最低でも3年間は契約に縛られて、ボクから離れることは簡単にはできない。
恐ろしいのが、カイチョーがトレセン学園を卒業するときにトレーナーを連れて行ってしまうことだ。
今のトレーナーであれば、なんだかんだ理由を付けてついていってしまうだろう。
そして周囲も、「何の実績もないトウカイテイオー」の育成に縛られるよりは、引き継ぐなりなんなりしてでも「皇帝」を優先するべきだと考えるだろう。
故に、ボクはレースでも簡単に負けられない。
レースでカイチョーとも勝負できるだけの実績を叩き出すこと。
トレーナーの心に入り込むこと。
そして、カイチョーの恋を成就させないこと。
この三点をなんとか維持すれば、ようやく勝負になってくる…と思う。
穴だらけの考えだとは思うけれど、今のボクに打てる手はこのぐらいしかない。
利用するんだ。カイチョーが築き上げてきた信頼を。
トレーナーがボクをカイチョーと重ねて見ている今の内に、傍に居るのを当たり前にしてやる。
そのうえで「トウカイテイオー」として、その認識を上書きしていくんだ。
二人で顔を見合わせ、笑い合う。
…正面から勝負できないというのは、悔しいなあ。
ストックを吐き出し切りましたので、ここまでになります。
多数ご指摘を頂きました通り、稚拙な描写や展開が多いという自覚もあり、また二次創作としてお借りして書かせていただいている各キャラクターの魅力を損なうようなものであってはならないと思います。
技量不足、引き出しの少なさを痛感しました。
このため、もうちょっと練ったものがご提供できるように、出直したいと思います。