私の拙文のために不愉快な思いをさせてしまった方には大変申し訳なく思います。
このまま放棄してしまうのもなんなので、一章の終わりまではひっそりと投稿させていただければと思います。
「大体あなたはシンボリルドルフにばっかり熱を上げて…あの辞令はいい機会よ。あなたシンボリルドルフ以外に興味がないとか言われてたのよ?…ちょっと聞いてるの?」
「聞いてますよ…」
時刻は20時を回った頃。
19時丁度にベテランのたまり場と化したお高いバーへ集合した私達は、何故かテーブル席ではなくそれぞれカウンターに腰掛け、しっとりと話をしていた。
歓迎会と言えば大体が居酒屋だとは思うのだが、東条トレーナーがいて、メンバーが少人数である場合に限り、お気に入りのバーになることは殆ど確定事項だ。
サブトレーナー時代はまだ学生だったため、恐ろしく敷居が高い場所だと思っていたが、大人になってもまだ敷居が高いと感じるあたり、ベテラントレーナーがどれほど稼いでいるのかが良くわかる。
しかし、新米トレーナーとベテラントレーナーの交流を図る機会として設けられたこの場は、例年では私は概ね置物として隅で普段口にすることのないカクテルに舌鼓を打っているはずだったのだが、今日の私はひたすら東条トレーナーに絡まれてる。
一体どういうことなのだろうか。
確かに、サブトレーナー時代より東条トレーナーの下について活動することが多かったため、酒席に連れて行かれてお小言という名のアドバイスを貰う事は多々あったのだが、今日は珍しく絡み酒だった。
「大体あなた、皇帝皇帝って、私のビゼンニシキはどうしたのよ」
「ビゼンニシキはもう卒業したじゃないですか…」
ついにビゼンニシキのことを持ち出してきた。
ビゼンニシキはリギルのサブトレーナーとして活動していた時期に出会った、リギルに所属していた栗毛のウマ娘である。
東条トレーナーとの折り合いも良く、目を掛けられていた次期エース候補。
しかし、割とやんちゃと言えば良いのか…発言は真面目なくせに、よく私にちょっかいをかけてきていたウマ娘だ。
ビゼンニシキはゴールドシップやアグネスタキオンとは異なり、実害を及ぼすことがほとんどなかったので、サブトレーナーであった当時でも、精々が手を焼かされる程度で済んでいた。
結局、私が独り立ちするにあたって関係が切れてしまっていたが、私がルドルフと契約してからは今度はルドルフにちょっかいを掛けては喧嘩を繰り返していた。
なお、サブトレーナーの卒業認定を東条トレーナーから通達され、いざ養成所に戻るとなった段で最もそれを惜しんでくれたというか、絡みやすい相手が居なくなることを嫌がってか最後まで離れようとせず、最終的に私のシャツを引きちぎってくれた初の人物が彼女である。
その事件がきっかけでウマ娘との圧倒的能力差を思い知らされたのは今となっては良い思い出として扱っても良いかもしれない。
その後、トレーナーとして配属後はたまに姿を見かけていたものの、東条トレーナーの担当バであったために声を掛けづらく、そうこうしているうちにルドルフと出会い、再度相まみえたのはレースの場であった。
ルドルフにとっては、レースにおいても最大のライバルとして立ちはだかったウマ娘である。
なお、お互いまだ小さいというか、入学から間もない時期から仲が悪かったせいで、割と彼女が卒業するまでしょうもない喧嘩も繰り返していた。
『サブトレ…いやトレーナーさん!見ましたかさっきの!?ぶつかりルドルフしてきましたよコイツ!』
『えールナわかんない』
『ルナわかんないじゃねえですよ!』
『やーいビゼンニシキの負けウマ娘ー』
『ぶちのめしますよ!?』
子供の喧嘩のようで微笑ましくはあったが、取っ組み合いに巻き込まれた結果、救急車のお世話になる怪我を負ったりしたため、割と苦手な相手でもある。
ぶつかりルドルフとは一体。
結局、ビゼンニシキの卒業まではルドルフ…というよりは、余程悪い意味でウマが合う相手だったのか、ルナが煽るという今では考えられないような稚気が度々見られたものだったが、彼女の卒業を機にそれはぱたりとなりを潜めた。
気の置けないライバルの引退に思うことがあったのだろうか。
「私はてっきりあの子のトレーナーになるものだと思ってたのに」
「東じょ…おハナさんが目を掛けてた子を引き抜きなんて出来る訳がないでしょう…」
実際問題、新米トレーナーだった当時の私からすれば研修などでお世話になった恩師であり、その立場は国内でもトップトレーナーと言って過言ではない超一流。
そんな人物から目をかけていたウマ娘を横取りするなどという勇気は私にはない。
「あの子だって移籍する気でいたのよ?」
「なんですかその話。初耳なんですが…?」
大分酔ってらっしゃる。
素面であれば絶対に言わなかったであろう情報がぽろぽろと零れ落ちている。
この人が顔を赤らめて絡みに来るなど、数年前に一度見たきりだ。
第一、移籍する気でいたなら正式に赴任後に挨拶に行ったときにそう言ってくれれば、あんな苦労はしなかったというのに。
…いや、何を考えているのか。
あの苦労があったから、今があるのに。
「シンボリルドルフ」
ふと、東条トレーナーが声のトーンを下げた。
「ルドルフがどうかしましたか?」
「…あなたに聞くのもどうかとは思うけど、あの子、大丈夫なの?」
アルコールによって朱に染まった顔と、据わった目。
見た目だけで言えば、完全に疲れたキャリアウーマンそのものではあるが、心配そうな声色はきっと、本心から出た心配だろう。
トレセン学園の生徒全般に対して愛情を向ける東条トレーナーは、チームという一線を引かなければ無差別にその愛情をふり絞ってしまう。
以前、酒席ではあったが、若い頃にそれで一度失敗したと聞かされたことがある。
その東条トレーナーが、珍しく他人の担当を案じるような発言を零した。
確かに、最近のルドルフはどうも不安定になっている。
ここ数年、何か悩み…でもなく、懊悩とでも形容すれば良いのか。
精神の面で何かしらをずっと抱えているようには見えてはいた。
「どうにも、余裕がなくなっているように見えるわよ」
恐ろしく甘え下手な我が愛バのことだから、往々にして溜め込んでいく一方の状況に、しかし結局、私にはそれは解決できずじまいに終わっている。
不甲斐ない教え子に、東条トレーナーが心配がるのも理解できる。
あの手この手を尽くしても引き出せなかったそれが、複数担当を言い渡されてからというもの、我慢が爆発したかのように甘えるようになってきた。
担当トレーナーである自分の力で解決できなかったことには不甲斐なさを強く感じるが、一方でそのこと自体は良い傾向だ。
一人でプレッシャーやストレスを抱え込み、やがて心身に異常をきたして潰れていく者は多いのだから。
特に、自らにその在り方を課している彼女にとっては、余計に。
そんな彼女が、「それ」を誰かに預けることができるようになったというのは、きっと彼女にとって良い事なのだろう。
東条トレーナーがグラスを置き、こちらをじっと見据える。
アルコールに浸りながらも、心の奥まで見通すような怜悧なそれが私を射抜く。
ちゃんと対処しなさいよ、と叱咤されているような気がしてくる。
東条トレーナーの要求はいつだって、高い。
対処してきた経験なんてない。
うまく解決できるノウハウなんてものも無い。
いつだって、初めて尽くしのトラブルに右往左往するのが私というトレーナーなのだから。
つまるところ、上手くやれるなんて自信の持ち合わせなど一切ない。
しかし、覚悟を口にすることだけは得意だ。
ただそれだけ。
だから、精一杯強がって、口の端を上げる。
この恩師には見抜かれるだろうことも分かっている。
分かっていますよ。
「そのために私が居るのですから」
私なりにやれることをやるだけです、と笑って見せるしかないじゃないか。
カウンターの向こうに並ぶ磨かれたグラスとボトルに、私のみっともない強がりが映って見えた。
いつだって厳しい恩師は、仕方ないわねと笑った。
先代桐生院トレーナーのやらかしを暴露して今代を唖然とさせているベテランの笑い声が、どこか遠い世界で響いていた。
まだ慣れない職場で、俺達みたいなのに囲まれた結果、掛かっちまったのか。
緊張のあまりに飲み慣れないカクテルなんてハイペースで飲むもんだから、早々にへべれけになった桐生院トレーナーには悪い事をしてしまった。
解散予定時刻丁度にやってきたシンボリルドルフが介抱しつつ抱えて帰った後も、俺達はゆるりとグラスを傾けていた。
当然のことながら、あいつもシンボリルドルフにつまみ上げられるようにして帰っていった。
何か助けを求めるような目をしてこちらを見ていたが、俺も流石に手出しするような命知らずじゃない。
ウマ娘に蹴られて死ぬのは邪魔者と相場が決まっているからな。
時刻は22時を回った頃。
グラスを傾けながら、隣席へ目をやれば、顔色の一つも変えずにグラスを揺らしているおハナさん。
アイツと話してた時は強い酒をハイペースで空けて、随分とまあ回っていたようだが、あっという間に持ち直したらしい。
…相変わらずおハナさんは強ぇなあ。
可愛げはねえと思うがな。
可愛げが無い、といえば。
「…本当に可愛げのねえ後輩だなあ」
「桐生院トレーナーはそうでもなさそうだけど?」
「あっちはまあ、年相応って感じだな。いや、そっちじゃねーって。…あいつらをどう見る?」
水を向ければ、普段から寄りがちな眉間にさらに皺を寄せる。
「…私に聞くの、それ?」
「サブトレーナー時代からの教え子だろ?」
「…そうね」
あの二人。
シンボリルドルフと、そのトレーナー。
無敗の三冠ウマ娘にして七冠の皇帝と、その杖。
俺たちからすれば、厄介な敵を育て上げた腕利きの同僚で、可愛げのないカワイイ後輩。
あいつらにとっちゃ俺達はただの敵かもしれないが、連中が潰れていくのは出来るだけ見たくないと、そう思う。
頂点に立ち、ウマ娘を導く。
全てのウマ娘の幸福を願う。
そして、担当ウマ娘の夢を実現する。
そんな甘く大きな夢に囚われている、あの二人。
トレーナーというのはかなり極端なところがある。
俺も人の事を言えた義理じゃないが、ウマ娘のことを第一に考えすぎてしまう。
そういう生き物だから仕方がない。
でもなければ、この中央でトレーナーなんてやっていられない。
迎えにきたシンボリルドルフと、顔色は変わらないくせにどこかふわふわとしたアイツの姿を思い返す。
今日のあの激発といい、これまでのことといい…トレーナーの側から完全に融け合ってしまっている。
「…『夢は形を変えていく』。こりゃあおハナさんの言葉だったな。…それが進歩か、妥協かは別として、本来はそう言うもんだ」
あの二人の在り方は異様だ。
ただウマ娘がトレーナーに執着しているというような、トレセン学園ではありがちと言えるような話じゃない。
『夢を叶える』
ただそれだけの言葉が、まるで二人を縛り付けているように見えてならねえ。
しくじったトレーナーとウマ娘にありがちな『共依存』という言葉で片付けるには少々高潔すぎる相互関係。
…だから、形を変えるというよりも歪んでいく。
壊れないままで。変わらないままで。
夢ではなく、二人が夢に合わせて歪んでいってしまう。
まるで呪いのような関係だ。
本来、様々な経験を経て、様々な挫折を経て形を変えていくはずの「夢」。
それを、互いが互いのそれを強固に支えすぎてやがる。
「ありゃあ…なんだ、いわば呪いみたいなもんだ。あいつは他の誰よりもそれを警戒してる癖に、どうしてか誰よりも融けあっちまってる」
「いずれ壊れる可能性があるのだから、手を打つのは当然よ」
だから、少々無茶でも担当を取らせることには反対しなかった。
ルドルフの恋心…かどうかははっきりとは分からないものの、トレーナーの側が傍からは分かりづらい形で前のめりになりすぎている。
たまにいるんだ。そういう連中が。
頭をかち割って中身を見てみたくなってしまうような、はじめから狂った連中が。
まあ、大体がウマ娘に拉致なりなんなりされて気付くと居なくなっちまってるんだが。
「…いや、シンボリルドルフは気づいたのかも知れねえな」
自覚して、気づいて、そのうえで狂っている可能性はある。
下手なトレーナーなんかよりも遥かに洞察力が高いし、立場上、俯瞰してみるという事を徹底している。
それがあのザマになっている時点で、もしかしたら気づいたうえで、この呪縛じみた関係を壊そうとしているのかもしれない。
…なるほど、だからお互いあんなことになってんのか。
シンボリルドルフは気づいている。
だから、一番大切なものを守りたい。でも譲れない。
そして、あいつも多分気づいている。
だから、差し出された逃げ道を何としてでも遠ざけようとする。
「…大切な物、ね。酷いジレンマ。シンボリルドルフはキツいでしょうね」
「だろうな。自分の夢を掲げている限り、大事なもんが壊れていくかもしれねえってのに、その大事なもんが、自分の掲げた夢を下すのを許しやがらねえ。よしんば夢を叶えたら大事なものが離れていきそうなんて爆弾までセットだ」
あいつがあいつでいる限り、シンボリルドルフはきっと、それを諦めるということが許されない。
全力でシンボリルドルフの夢を支えてしまう奴がいるせいで、それができない。
そして、叶えてしまえば魔法は解けてしまう…と、シンボリルドルフは見ているだろう。
融け合いすぎてしまったことによる洒落にならない弊害だ。
夢に走るにも、恋に走るにも、身動きがとりづらい事この上ない。
「他のウマ娘の連中が焚き付けて壁をぶっ壊してくれりゃあいいんだが…」
「あの子たちが普通の恋愛みたいにくっついてくれれば何の問題もなかったわよ。それが上手くできない子たちだから大惨事になりそうなのよ…」
あいつにその気があるのかも不明ではあるものの、もうこの際堂々と交際してしまえとシンボリルドルフに吹き込んでしまいたい。
いや、『大事な物』が何かをきちんと自覚したのであろうシンボリルドルフであれば、なんとかしてしまうだろう。
問題はあの厄介で仕方がない、可愛い可愛い後輩だ。
「…いやーほんと見境ねえよなあ。シンボリルドルフの夢しか見えてねえくせに」
「その夢のせいであっちこっちで人助けして回るんだもの。たまったもんじゃないわ」
掲げた夢を叶えようと必死になっているから気付いていないが、そのおかげでトレセン学園若手トレーナーにお馴染みの恋愛模様が、あの周辺では恐ろしいまでに拗れている。
「確かビゼンニシキもあいつにやられたクチだったろ?…ったく大人しくしてろってんだよ」
爆発して惨劇を起こしていないのは、ひとえにシンボリルドルフという絶対的な力が働いているからに過ぎない。
「まあ、あの子のスタンスも大概だけど…それだけ私たちに救えてない子がいたってことでもあるわよ」
そう、そこが厄介なのだ。
極めて有能。ウマ娘が悩んでいれば放って置けないお人好し。しかし距離はきちんと取る。
担当はシンボリルドルフで、新人の域を出るまでは一切の付け入る隙がなかった。
…にも関わらず、あの有様だ。
そのおかげで救われたウマ娘も多くいるが、同時にどうしようもなく拗らせたのも何人か見てきた。
そしておハナさんが自嘲気味にこぼした通り、トレセン学園に在籍するウマ娘の数に対してトレーナーが足りていないということが遠因と言える。
「最悪の現実を突きつけられた気分だな。どうすりゃいいんだか…」
俺達がもっと多くのウマ娘の面倒を見ることが出来ていれば話が違ったのかもしれない。
ぐい、とグラスを煽る。
強いアルコールが喉を灼く。
「…ま、あいつらはこれまで通り上手くやるか。綱渡りが上手な連中だからな」
「あら?もしかしたら別の子が掻っ攫う可能性もあるんじゃない?」
「…トウカイテイオーか?確かにあれはあれで可愛いもんだが…」
「それだけで済めばいいんだけどね」
「…う、羨ましくなんてねえぞ」
「どうなるにせよ、あの子達が悔いの残らない選択ができれば私はそれでいいわ」
無敗の三冠。七冠の皇帝。
栄誉も、強さも。
欲しい物を手に入れたシンボリルドルフは、これまで数多の選択を積み上げてきた。
当然、そのトレーナーも。
そして、シンボリルドルフはいま二者択一を迫られている。
果たしてどう転ぶのか。
実の所、あまり心配はしていない。
これまで間違えなかったから、というわけでもない。
今度も、どうか「正解だった」と胸を張れるような選択ができますように、と。
柄にもなく、三女神にでも祈ってやろう。
…ま、それであいつがしくじった時には、先輩ぶってアドバイスの一つもしてやろうか。
グラスを満たす、琥珀色の水面を覗き込む。
ーーーだけど、もしも。
たった一度だけでも、あいつらが大事なものを間違えていたら。
「今頃どうなってたんだろうな、全く」
掌の中で、ゆっくりと融けて角の取れた氷が、グラスに触れて透明な音を立てた。
「…そういえばビゼンニシキは元気にしてるのかな」
「ビゼンニシキ⁉ビゼンニシキがまた何かやったのかトレーナー君⁉」