トレセン学園は今日も重バ場です   作:しゃちくらげ

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三釁三浴

 

 

さらさら、と資料に注釈や気付いた点をひたすらに書き込んでいく。

安価なボールペンが、安価ながらも滑らかに紙面を滑り、インクを擦り付けていく音が、ただただ自室に響く。

他に聞こえてくる音と言えば、秒針が時を刻む音。

そして時折、ウワーッ!という誰かの叫び声が聞こえる程度。

恐らくオフに外出しようとしたら玄関に担当ウマ娘でも立っていたのだろう。

小鳥の囀りのようなものだ。

 

書類仕事をする横では、コーヒーがこぽこぽと軽快な音を立ててゆっくりと抽出されている。

 

今日は実に平和だ。

午後からは外出の予定ではあるが、午前中は久しぶりの完全オフ。

完全オフだからこそ、ウマ娘の干渉もなく、いつ酷い業務命令が降りかかるかと怯える必要もない。

これは仕事が捗るというものである。

 

そろそろ頃合いだろうか、と席を立ち、コーヒーをマグカップに注ぐ。

部屋にはふわりとコーヒーの香ばしい匂いが広がり、幸福度を高めてくれている。

 

マンハッタンカフェが買い過ぎたとおすそ分けに持ってきてくれたコーヒー豆を、これまた彼女推薦のコーヒーミルで挽いたものだ。

 

口を付ければ、苦みと酸味の絶妙なバランスが舌を楽しませてくれる。

なるほど、美味い。

基本的にコーヒーなんて苦みで目さえ醒めればそれで良いと思っていた節があったが、マンハッタンカフェによる熱い抗議と講義の末にコーヒーの良し悪しが多少なりとも分かるようになってしまったがために、自室ではあまり缶コーヒーを飲まなくなってしまった。

 

おかげで、オフの朝は毎回美味しいコーヒーを淹れるべく試行錯誤する羽目になったが、これはこれで楽しい物。

 

…しかしマンハッタンカフェが時折気が向いたときに淹れてくれるコーヒーはもっと透き通っているように思えるが、やはり抽出するのに適当なコーヒーメーカーに任せきりだからだろうか。

彼女はバリスタのようにポットから注ぎながら抽出するので、やはりコーヒーメーカーではあの味わいは出ないのだろう。

 

時折朝やってくるルドルフにも美味しいコーヒーを飲ませてやりたいが、テイオーはコーヒーを飲めるのだろうか。

いつもはちみつドリンクばかり飲んでいる気がするが。

 

今度マンハッタンカフェと出くわした際にはコツでも聞いてみたいが、あまり遭遇しないこと、そして大抵ルドルフが近くにいるために中々話をしづらいため、機を伺いたいと思う。

 

香り高いコーヒーを楽しんでいると、だんだん事務仕事が億劫になってきてしまった。

トレーナー業務の中でも面倒臭い事この上ない、単純なメディア対応の書類ばかり残ってしまっているため、そろそろ片付けなくてはならないのだが、休みにやるには少々気乗りしない。

概ね面倒くさい案件については片付け終わり、後はトゥインクルだのと比較的顔なじみの所ばかり残っている。

 

…しかしトゥインクルは相変わらず情報が速い。

トウカイテイオーとの契約について詳しくインタビューしたいと、いつものあのトンチキ記者が何通もメールを送ってきている。

 

まだテイオーをメディアの前に引っ張り出すつもりは無いのだが、しかし放置しておくとあの記者は突撃してきそうなので、しばらく先の日程で返答を出しておく。

 

トゥインクル紙自体は好意的なスタンスではあるものの、あのトンチキ記者は聞いた話を拡大解釈し、個人の妄想まで特盛にして面白おかしく書き立てる悪癖がある。

聞いた話に尾びれも背びれもついて、最終的にジェットエンジンか何かを搭載されたかのような勢いで大きな話になって着弾する事が多々あるのだ。

 

しかも当のトンチキ記者こと乙名史記者には全く悪意が無い。

 

ウマ娘やレースに関する知識は凄まじいものがあるし、トレーニングの内容から次に出走を予定しているレースの距離どころかタイミングまでぶち抜いてくるなど、本当に油断ならない記者なのである。

来週のどこかでテイオーには予想される質問と当たり障りのない回答をしっかりレクチャーしておかなければなるまい。

 

あの妄想たくましい記者にかかれば、皇帝二世だの全ウマ娘に宣戦布告しただのととんでもない記事が掲載される恐れがあるのだ。

散々他紙から叩かれ続けた私ですら、あのトンチキ記者の手に掛かれば「忠義の天才トレーナー」に早変わりだ。

 

ジェットエンジンどころか大気圏から飛び出しているような書き振りに胃がしくしくと痛みを訴えてきたほどだ。まだ置物と書かれた方がマシだった。

 

…他の所はまあ、基本的にはルドルフへのインタビュー取材や、出演依頼、それと次のレース予定などに関する質問が大半である。

時折、何故かトレーナー特集などという頭の痛くなる企画をぶち上げてくる輩もいるが、基本的にそういう案件は新米かベテランが対象なので、割とお断りするケースが多い。

もう新米と名乗るには微妙なキャリアになってきたし、ベテランを自称できるほどでもないので、余計に断りやすいのは救いだろうか。

 

ふむ。

 

午後からはルドルフとの外出だ。

エスコートをしろ、と言われてはいる。

普通、シンボリルドルフという美女とのデートをエスコートするなどと聞けば舞い上がりそうなものだが、私がそういった気の利いたことが苦手なのを分かっていて言うのだから、しっかり罰として機能している。

 

そういえば、随分前、初めて二人で「デート」という名目で出かけたときは、それはそれはもう大変にお叱りを受ける羽目となった。

 

リフレッシュのために外出したので、散歩とカラオケ辺りで良いかと普段通りラフな恰好で待ち合わせ場所に向かったものの、そこにいたのは恐ろしくめかしこんだルドルフ。

当時はまだルナと呼んでいた頃なので、まだ幼さが目立つ頃合いではあったものの、薄く化粧を施し、余所行きのコーディネートに身を包んだ彼女はやはり、幼くとも立派なレディであった。

そしてその要求も、立派なレディであった。

 

その時点で大概嫌な予感がしたというか、これはリフレッシュだと強弁して散歩とカラオケに繰り出すには明らかにルナの装いは相応しくなかった。

確かに、デートと言われてはいた。

何かの冗談だと軽く流して当日を迎えたら、ばっちり決め決めのシンボリルドルフが出てきて白目を剥く羽目となり、思いつく限りのおしゃれスポットと同僚が話していたような場所を巡ろうと緊急着陸を試みたものの、見事に見抜かれて暫くの間へそを曲げられたのだ。

 

あのような失態はもう繰り返してはならない。

彼女がデートと言ったら、恐らくは本当にデートのつもりで来るのだ。

 

…。

 

いけない。早いところ服を選んでおかなければ。

最近、服を買いに行く機会が減っている。

しかもシャツは破られたり、洗濯物が忽然と消えたりとすることがあるため、まともな外出着を購入するということが極端に減っているのだ。

 

クローゼットを開けば、吊るされているのは仕事着。

仕事用に仕立てたスーツや、トレーニング時に着るようなものばかり。

隅の方に、普段まるで着ないジャケットなどが押し込まれているが、果たして。

…太ってないよな。まだ着れる筈だ。

学生の頃や新人の頃は服装にも気を使っていたような気もするのだが、だんだん仕事着で生活するようになり、今では買い出し程度ならば普通にそのまま出かけてしまう。

故に、いわゆるおしゃれ着というのが隅へ追いやられてしまっているのである。

 

いやいや、その前に―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

うろうろ。うろうろ。

 

自室の中、私は檻の中の熊のように右へ左へと当て所もなく彷徨い歩いていた。

ベッドの上に広げた私服を前に、ああでもない、こうでもないと拾い上げては置いてを繰り返しているが、一向に決められる気がしない。

 

しくじった、と思わず顔をしかめてしまう。

来週のオフにしておけばまだ、十分に吟味する時間が取れたというのに。

 

しかしそういう訳にもいかない事情もあった。

第一に、時間に余裕を持たせるという事は敵に時間を与えるも同義であるということ。

テイオーは元より、あの場にいたタマモクロス、そして周囲で聞き耳を立てていたウマ娘たちから情報は洩れるだろう。

それは瞬時に学内を駆け巡ることになり、邪魔が入る確率が上がる。

今まさに噂は拡散していることだろうが、オフになるウマ娘の多い日曜日は、外出の予定を先に組んでいるケースが多い。

出歯亀を楽しむにも、事前に立てた予定を変更して私達を探し回るほどの労力を払うとは思い難い。

 

また、妨害に走りそうな者に関しても同様だ。

先回りしてちょっかいをかけるには事前のリサーチが要る。

そのため、そもそも集合場所も時間もあの場では明言せず、約束だけ取り付けたのだ。

幸いにしてトレーナー君との外出は往々にして待ち合わせ場所も時間も、いつも同じである。

 

故に、昨晩普段使わないインスタントメッセンジャーを用いて場所と時間を指定した。

これで、深読みして普段の集合場所と時間に張り込む輩は排除できる。

通話を使わなかったのは、仮に誰かが私の部屋の前で聞き耳を立てていたり、収音機を悪用していた際に情報が漏れないようにするためだ。

 

行先もトレーナー君に委ねた。

エスコートしてもらうという事に対して憧れがあったことは確かだが、私達とは年代も種族も違うトレーナー君のセレクトであれば、多少はウマ娘たちの推測をかわすことができるのではないか、という狙いもあった。

 

更に、昨晩には予備の携帯端末を利用して、発信元として表示されるブラフをばら撒いておいた。

多少詳しいウマ娘に掛かれば、IPをマスキングすれば見抜かれる。

そのため、わざわざ投稿用アカウントの偽装、IPスプーフィングまでして幾重にも偽装を掛けながら、ブラフをばら撒き燃料を注いだ。

自分の端末から滅多に使わないウマッターや学内ネットワークなどで動向を監視していたが、問題なくブラフが浸透したようで、SNSを利用した情報収集については大分潰せたものと思われる。

 

念には念を入れ、偽装のために通話している風を装い、室内でブラフを口にするなど、対策は短期間で行えるものは片っ端から実行した。

 

問題はトレーナー君の方で、うっかり誰かに話さないか、という点。

トレーナー君はそもそも口数が少ないし、今日の午前中は自室で何かしら事務仕事をする予定となっている。

昨晩の歓迎会だけがネックだが、いくらウマ娘と言えども酒席に潜り込むことは中々に難しい。

店の前まで迎えに行った私が言うのも大概とは思うが、未成年は店に足を踏み入れることができないのだ。

 

事前にトレーナー君の端末や衣服などに盗聴器を仕込むような者がいれば話は別だが、そもそも昨晩迎えに行った際、トレーナー君は昼間に来ていた服からは着替えていた。

バッグも仕事用のものではなく、小ぶりな物に変わっていたため、物理的な仕込みについては携帯端末を除いては排除してもらえている。

 

正直、自分でもやりすぎだとは思っている。

 

やりすぎだとは分かっているのだが、今日はデートなのだ。

可能な限り余計な邪魔者は排除するのがウマ娘としての務めと言っても過言ではない。

 

…後は尾行などの、本当に原始的な手段での捕捉を避けるだけ。

私とトレーナー君の大切な時間を邪魔するものは、最悪実力で排除しても良いのでは無いだろうか。

 

「いや待て、シンボリルドルフ」

 

いかん、すっかり頭から抜けていた。

 

実力行使は最終手段でーーーいや違う。服だ、服。

デートに着ていく服、どうしよう。

 

ベッドの上に広げた色とりどりの衣装。

雑誌の取材等で、プロがコーディネートした衣装を着用して撮影に臨むことがあるが、撮影終了後にそのまま贈呈されることが多く、私の衣装棚のラインナップは、あまり買いもしない割には相当に充実している。

 

だが、そうであるがゆえに悩んでしまうのだ。

 

こういうとき、普段は頼もしい助言をくれるマルゼンスキーは本当にアテにならないのだ。

こう言っては友人に対して失礼だとは重々承知しているが、どうにもセンスが妙に古い。

生徒会の仲間に…とも考えたが、エアグルーヴに聞いては、真面目過ぎる彼女は考えすぎて胃痛を発症するだろうし、ブライアンに至っては面倒くさそうに手近なものを拾い上げて押し付けられる。

ヒシアマゾンやフジキセキはそれぞれ独特な感性をしており、私の趣味とは少々異なった選択をしてくる。

 

…いやはや、まさか服を選ぶだけでここまで悩まされるとは。

 

しかし、こうして右往左往し、考えている時間も、また愛おしいものだった。

トレーナー君は、喜んでくれるだろうか。

 

これはどうか、と拾い上げたワンピースを、体に当てて姿見を覗き込む。

姿見の向こうにいる私は、困った振りをしながらも、随分と楽しそうに頬を緩めていた。

 

 


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