随分と暖かくなってきた風が髪を擽る。
桜はもう随分と寂しくなってきてしまったが、徐々に芽吹いていく緑色が目に優しく、これからの季節を予感させてくれる。
駅前、というには駅から少し離れた、小さな喫茶店の窓際で、私は少し気も早く、水出しコーヒーを啜っていた。
から、ころんと、グラスを揺するたびに涼やかに氷が音を立てる。
店内はオレンジ色のランプと、春の陽射しが溶け合い、独特の世界観を見せている。
かすかに流れる品の良い音楽と、飴色になるまで使い込まれたアンティークな調度品が、ある種の異世界のような情景を描き出す。
店内には、喫茶店の店主と私しかいない。
昼時ももうそろそろだというのに、これだけ閑散としていて大丈夫なのだろうか、とも思うが、これはこれで、この空間を独り占めするという贅沢を楽しめるので、良いことだと受け取ろう。
カウンターの向こうで、スツールに腰掛けた店主はこちらに目もくれない。
会話なども当然ないのだが、不思議と居心地が悪くない。
かち、こち。
響く音は、壁に掛けられた、趣味の良い振り子時計が、時間を刻む音や、時折店の前を車が横切る程度。
ルドルフとの約束の時間にはまだ、随分と早い。
準備を早々に整えてからというものの、部屋で書類仕事に勤しむ気力が消滅した結果、さっさと外出した結果、ここに行き着いた。
元々、当てがあって早めに出たわけではなかったが、朝に淹れたコーヒーの残り香が、そういえばマンハッタンカフェが推薦していた喫茶店があったなと思い出させてくれたのだ。
とはいえ、随分と朧げな記憶を頼りに歩き回る羽目となった。
しかし、こうして美味しいコーヒーと食事にありつけただけでも、その価値はあっただろう。
すっ、とまるで音もなく食事の済んだプレートを店主が下げる。
ちらと目が合った。
「コーヒーのお代わりを」
「畏まりました」
仕事が片付いたわけでもないが、今日は基本的にはトレーナー業もオフだ。
たまには外で、こうして寛ぐのも悪くないだろう。
すい、と差し出されたコーヒーは、魅惑的な色を湛えている。
この色を見ていると、どうしても思い出してしまうのはあの金色の瞳と黒い髪のコントラスト。
よくこんな所にある店を見つけたな、と感心してしまう。
今度見かけたら、教えてくれたことにお礼を言っておこう。
束の間の休息。
明日からはまた仕事だ。
東条トレーナーに言われたように、おそらくは明日には理事長よりお叱りを受けることだろうが、今はあまり考えたくない。
不意にバッグから取り出しかけた書類を、見なかったことにして仕舞い直す。
今はただ、この穏やかな時間を素直に享受するべきだ。
ここのところ、せかせかと慌ただしい生活を続けていた反動だろうか。
久しぶりのオフ、そしてルドルフとの外出。
それはそれで気が抜けないところではあるのだが、しかし仕事とはまた異なる、心地の良いそれだ。
ぼんやりとこれからに思いを馳せていると、時間の感覚が曖昧になっていく。
普段はストップウォッチなどを手に、コンマ数秒を争うような競争に関わっているくせに、気を抜けばあっという間に緩んでいってしまう。
緩やかに形を変えていくグラスの中の氷と、薄まっていくコーヒーだけが時間の経過を知らせてくれるような気がした。
カラン、とドアベルが鳴る音がした。
おや、この独り占めもここまでか、と思い、何気なしに音の聞こえた方へと視線を向ければ、そこにいたのは見知った顔だった。
つい先ほど想起したばかりの金色がこちらに向いた。
「…トレーナーさん?」
「やあ、マンハッタンカフェ」
コーヒーの師、或いはコーヒー仲間が、珍しく目を丸くしていた。
「なんでいるんですか」
席を一つ開けて隣に腰掛けた腰掛けたマンハッタンカフェが、平坦な声で呟いた。
「時間を持て余したから。前に紹介してもらったしね」
「そうですか」
間が持たない、とは言わない。
彼女はいつもこんな感じだ。
かりかり、ごりごり、と店主が豆を挽く控えめな音が場を支配する。
言葉数が少ない、とでもいえば良いのだろうか。
自分と似たタイプではあるものの、これで意外と表情も動くし、年相応なところがある。
背伸びしているというわけではなく、あくまで自然体。
泰然とした、とも少々違うか。
「お友達」と彼女が称する何かが見えているようだが、かといって付き合いを変えるつもりもない。
濁った目をしないだけ随分と付き合いやすい相手だと思うほど。
無理に会話を迫られない、という意味でも、絶妙な距離感のある相手だった。
何も注文していないにも関わらず、白い湯気を立てるカップがマンハッタンカフェの前に置かれた。
なるほど、相当に足繁く通っているのだろう。
「今日は外出だ、と聞きましたが」
「…うん?」
「タキオンさんが残念がっていましたよ」
「彼女が試験管さえ手にしていなければ素直に受け取るんだけどね」
「今日はビーカーでした」
「……大差ないじゃないか」
思わず憮然とした表情を出してしまう。
くすり、と薄く微笑んだ彼女は、口許を隠すようにコーヒーカップを口に付ける。
あまり多くは語らないが、その必要もない。
時間は緩やかに流れていく。
「…以前貰った豆、今朝挽いてみたんだ。よかったよ」
「それはよかったです。…まあ、ここで分けていただいた豆ですが」
「へえ、そうだったんだ」
思わず店主を見れば、ひょいと眉を上げ、軽く会釈された。
なるほど。道理で。
「喫茶店で訊くのも何だけど、マンハッタンカフェが淹れたコーヒーのようにはいかないね」
「…特別なことはしていませんよ」
「それを特別と思わないことが凄いことだと私は思うけれどね」
不意に、店主が私とマンハッタンカフェの前に、小さな皿を差し出してきた。
洒落た装飾のそれには、艶のある黒い立方体が三つ、綺麗に積まれている。
「…これは?」
思わず、何も考えずに訊いてしまった。
「当店からのサービスです」
ぱちり、と控えめに片目を瞑って見せた店主に、やられたと恥ずかしくなる。
野暮な質問だったか。
結局、マンハッタンカフェは美味しいコーヒーの秘訣を教えてはくれなかったが、サービスのチョコレートは実にコーヒーとよく合うものだった。
それからどのぐらいの間、ぽつぽつと言葉を交わしただろうか。
ぶるりとポケットの中で端末が振動したことで、ふと我に返るように、遠ざかっていた時間が戻ってくるような感覚に見舞われる。
「…」
ポケットから取り出した端末は、約束の時間の15分前を示していた。
ここから駅までそう遠くはないとはいえ、ルドルフを待たせる訳にもいかない。
この穏やかな時間も良いものだったが、これからの時間も代え難い大切なものだ。
大いに気を引き締めなければならない、というのが玉に瑕ではあるが。
「…さて」
バッグを取り上げ、椅子を引いて立ち上がる。
いつの間にか音もなくレジ前に店主が移動しており、会計は至ってスムーズ。
全く、良い店に巡り会えたと思う。
今度ルドルフを連れてきても良いかもしれない。
案外コーヒー好きな彼女のことだ。大いに気に入ることだろう。
テイオーは…うん、今度試しに缶コーヒーでも飲ませてみるか。
ドアを出る前、振り返ってマンハッタンカフェに「じゃあ、また学園でね」と告げる。
思わず腰を浮かせかけ、少し上げた手を彷徨わせた彼女だったが、学園でもあるまいにと手で制する。
少し迷うような素振りを見せる彼女に、思わず足を止める。
「…探されています。気をつけて」
「…ありがとう。気をつけるよ」
店のドアを押し開く。
からん、からんと小気味良く鳴るドアベルに背を押されるようにして、駅の方へと足を向けた。