綱渡りのような、それでいて強固で揺るがないふたり。
ふわり、と暖かくも柔らかい感触が背に回された。
変わらない、優しい感触。
変わったものがあるとすれば、それは背に回される彼女の腕の位置が、少し高くなったくらいだ。
「落ち着いたな?」
「…ごめん」
「いいさ」
あれからしばらくして。
落ち着いたところで解放してもらい、改めてソファに座り直す。
ルドルフも今度は腰を下ろした。
私の隣に。
…うん?
相変わらずなようで安心した。
何故、私は当時この部屋に入り浸る彼女のために買った椅子ではなく、狭いソファの隣に座られているのだろうかと毎度疑問に思うが、いちいち向こうに行けと言うのも心が痛む。
何度か試してみたことはあるが、その全てがすげなく却下されている。
一度こうなったルドルフは気性難を遺憾なく発揮するのだ。
「それで?新しく担当を二人持つのだろう?」
私の目を横から覗き込むようにしながら彼女は聞く。
確かめるように。答え合わせをするように。
伝聞や他人からではなく、当事者の口から聞きたいという事だろう。
「ん、そうだな…」
ここで嘘を吐くことは容易い。
出任せにその場を取り繕えばいいだけの相手であれば、私はそうする事に躊躇はない。
他のウマ娘を相手にしていたならば、適当にその場凌ぎの嘘でも口にして距離を取る事だろう。
だが、そうするには些か相手が悪い。
薄い紫色の瞳。気品、高貴さ、神秘の色。
嘘や誤魔化しの許されない、見透かすようなそれ。
「秋川理事長から辞令があったよ。私には荷が重いんだがな」
私は素直に白状する事にした。
「はは、君は温良恭倹なのが美徳だが、自己評価が低すぎるのも考えものだな」
ころん、と。
私の膝の上に転がりながらルドルフが笑う。
「あの」
「うん?」
「いえ、いいです」
いつものことだし。
言葉自体は普段通りのそれだが、この部屋での行動はどうにも当時から変化しない節がある。
以前、諸般の事情によってこの部屋で喧嘩になったことがある。
見た目はもうほとんど現在のルドルフぐらいまで成長した時点だったにも拘わらずである。
二人の時はルナって呼んでって言ってるのに!とぷんすこ怒られたことを思い出す。
その時は随分と可愛らしく頬を膨らませていたが、一方で当時使用していた小さなソファは無残な姿に変えられることとなった。
この凛々しい見た目でその怒り方はどうよ、とも思うが、それも彼女の魅力の一端なのだろう。
「皇帝」に憧れるウマ娘は卒倒するかもしれないが、絶対に他人の目に触れる場面ではやらないのでその点では安心しているが、トレーニング中に嬉しいことがあったりすると、ついうっかりはしゃいでしまったりと意外と抜けている面もあるのであまり油断はできない。
ついでに、お亡くなりになられたソファに関してはギャグかと思ったよ。
座面からスプリングが飛び出していたもの。
それにしても。
…自己評価が低い、ね。
「正当な自己評価だとは思わないよ、私は」
「…口に出していたかな」
「目を見ればわかるさ。君のそれは特に分かり易い」
目は口ほどに物を言う、とは言うが。
心情が表面に出やすいウマ娘にそれを言われるのも、釈然としないものがある。
…正直、シンボリルドルフ一人ですら持て余しているのだ。
トレーナーとしての力量も当然だが、ルドルフ一人にさえこれだけ振り回されている状況だ。これが増えるだなどと考えるだけで胃が取れてしまいそうになる。
次は執着させないように細心の注意を払う必要があると心の底から思うが、失敗した場合を考えると嫌な汗が吹き出しそうになる。
刃引きされているとはいえ、武器を勝負服の装飾に所持している者だっているのだ。
蹴られただけでも即死しかねないのに、事故として処理できないであろう刃傷沙汰は本当に御免被りたい。
「ルドルフへの指導が散漫になったりするようなことがあってはならないし、頭が痛いよ」
はあ、とため息をつきながら零せば、くす、と笑ったルドルフの手が伸びてきて、頬に触れた。
そして、そのままぐいと頬を引っ張られた。
「
「ルナだ」
眼下から掛けられる強力な圧。
こう言う時にカリスマ性を悪用するのは宜しくないと思うのだが、どうだろうか。
「
「うむ」
頬を引っ張られたままルナと呼んでやろうかと思ったが、名前を呼ぶ瞬間に手を離されてしまった。
心か、あるいは行動を完全に読まれた挙句、にっこりと笑顔を向けられてしまった。
どうにか意趣返ししてやろうかと思ったところで、不意に頬を引っ張っていた手が、そっと添えられた。
必要以上の出力を誇りながらも、年頃の少女らしい、暖かいその手が。
ふわり、と優しい目をして、皇帝は言う。
「君ならできるさ」
…。
「どこのウマの骨とも知れない新人の一人や二人、育てるくらい簡単なことだろう?」
思わずきょとんと間抜け面を晒してしまったという自覚はある。
普段であれば絶対に口にしない科白だ。
どこのウマの骨というか、ウチの生徒なのだが。
いいのだろうか、生徒会長がそんなことを言ってしまって。
「ふふ、青雲之志、そのぐらいの意気込みで挑め、と言うことさ」
「…手厳しいね」
「こんな事を私から言うまでもなく、君はやって見せるさ。私のトレーナーは頑固で、欲張りで、どうしようもなく我儘な奴だからな」
「信頼が重いなあ」
思わず苦笑してしまう。
それをルナが言うのか、と。
彼女が少しでも妥協していれば、無敗の三冠なんて大記録は達成できなかった。
そして、私もそれを後押しした。
ウマ娘も、トレーナーも。
どちらも頑固で、欲張りで、そしてどうしようもなく我儘だ。
「君がどのウマ娘を連れてくるにせよ、「絶対」は私だ。それは揺るがない」
絶対的な自信。
ウマ娘に絶対はない。だが、“絶対の皇帝”は揺らがない。
…いや。
違う、そうじゃない。
私が、揺るがさせない。
これは事実を語ったわけでも、なんでもない。
そうありたい、と言う決意だ。夢物語だ。
『全てのウマ娘の幸福を実現する』。
そんな夢物語を叶えるために、彼女は高みを目指し続ける。
それはレースの枠だけでは到底実現ができない世界。
私はその夢の眩さに眼を灼かれたのだ。
「さすが、貫禄あるね」
焼きついて、離れないのだ。
降り頻る雨の中、私を見上げて語った、その姿が。
「当然だとも。世界一のトレーナーの愛バが一番に決まっているだろう」
「あまり持ち上げないでくれよ。私のハナが伸びてもレースでは勝てないぞ?」
「ふふっ、ならば私のハナが更に高くなるようにしてくれ。ハナ差で更に強くなれる。…ま、ハナからそんなぎりぎりのレースをするつもりはないがね」
ふんす、と鼻息も荒く、何かに勝ち誇ったような顔をしてルナは言い切った。
随分とまあ、数年で大人びたものだ。
…駄洒落のセンスについては、全く成長しなかった気もするが。
いや、そこはもうちょっと成長して欲しかったと思う。
天は二物も三物も与える事があるが、それでもうっかり与え忘れたものがあったと言う事だろう。
…ああ。
あの頃と違うものがあるとするならば。
少し視線を下げた先にある、どろりと濁った光を湛えた、彼女の瞳ぐらいな物だ。