トレセン学園は今日も重バ場です   作:しゃちくらげ

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水到渠成

 

 

 

朝練を終えて。

 

二人がトレーニングウェアから制服に着替えに行っている間に、トレーニングの片付けを行う。

とはいっても、朝練はあまり時間がなく、大掛かりな準備をしないため片付けもそう時間がかかるものでもない。

 

どうにも動きの鈍い体に鞭を入れ、なんとか手早く片付けると、桐生院トレーナーからトレーニング初日の感想を聞き出しつつ、午後のトレーニングメニューを組み立てていく。

 

ここ数日は模擬レースやリフレッシュなどが立て続きであったため、桐生院トレーナーがまともなトレーニングに参加するのはこれが初めてだったが、流石というか何というか。

何をやらせても手早いし、きびきびと動いてくれる。

 

意図せずして私が体調不良で動きが鈍いのを十分にカバーしてくれているため、大変にありがたいと思う。

新米トレーナーがつくことはこれまでも何度かあったが、一番仕事ができるタイプだった。

 

朝練でのトレーニングメニューの変更や、午後のトレーニング案を説明していても、打てば響くような反応。

名門だから、という色眼鏡が掛かっていることは否定しないが、それにしても理解も早い。

 

彼女自身の地頭の良さ、聡明さは当然あるだろうが、桐生院家が代々加筆しながら受け継いできているという例の秘伝書もそれに拍車をかけているのだろう。

噂によると、40巻を超えていると聞くが。

 

秘伝書というと実にアナログではあるが、智の集大成というものはバ鹿にできない。

私から教えられることが果たして残っているのか、とも不安になるが、やれるだけやるしかないのだ。

 

…油断しているといずれ追い抜かれてしまうかもしれない。

トレーナー同士というのは、同僚であり、仲間であり、そして最大の敵でもある。

これはこれで、気を引き締める良い切っ掛けになったと思う。

 

「この後はどうされるんでしょうか?」

 

「基本的には午前中の授業が終わるまでは手待ち時間になるよ。その間に事務仕事を片付ける人がほとんどかな」

 

「覚悟はしていましたが、思っていた以上にハードですね…」

 

「休もうと思えば午前中に仮眠を取ることもできるから、自分の体調と相談しながらやっていくといいよ」

 

一体どの口が体調と相談などと言うのか。

 

アグネスタキオン印の薬のおかげで、寝起きよりも大分マシとはいえ、流石に身体が重い。

パフォーマンスの落ちた状態で仕事をするのは全くもって褒められたことではないが、しかしこちらとしてもここで休むと言う選択肢が簡単には取れないと言うのが現実。

 

仕事が切迫しているという訳ではないが、昨晩を踏まえて翌日に私が体調を崩したとなると、気を病む者が若干2名ほど出てきてしまう。

それだけならまだ挽回は効くのだが、もう一つ大きな問題が存在する。

 

看病イベントが発生するとトレーナーがその後姿を消す可能性があるのだ。

 

自分が走る訳でもないトレーニングに参加することもできず、寝込むしかないような状態というのはつまり、相当に消耗しているということ。

そんな、酷く弱っているトレーナーをこれ幸いとご実家などにお持ち帰りしてしまうウマ娘が沸いたりしてしまう。

 

普段、そんな素振りのないウマ娘ですら発生事例があるため、気が抜けないのである。

場合によっては、動けなくなってしまった場合は寮で寝込むよりも、学園附属の病院にさっさと入院するのが最適解とまで言われているほどである。

 

しかし、それはそれでウマ娘には相当な精神的ショックを与えてしまうことになり、その後の動向が過激化する恐れもあるため、軽々には使えない手段。

何せ、ずっと一緒にいられると思っていた相手が突然の入院である。

このまま離れ離れになってしまうのではと思い詰めたり、あるいは最悪の事態を想像するウマ娘もいるのだ。

 

それらの切実な、のっぴきならない状況を踏まえた結果、アグネスタキオンの薬などと言う何が含まれているかもわからないがとにかく効く薬を飲んででも出勤し、不調を悟られないように立ち回る羽目となっている、ということだ。

 

こういう情報はできるだけ新米トレーナーにも共有しておきたいところではあるのだが、着任早々に現実を突きつけて目から光を奪うのも偲びない。

良心と後ろめたさがせめぎ合った結果、最初の1年が過ぎ、新米トレーナーが事実に気づき出した頃なってようやくベテランから教授が行われるという有様となっているのだ。

 

「……?」

 

そんなことを考えながら、じっと見つめてしまっていただろうか。

きょとんと首を傾げる桐生院トレーナー。

 

「ごめん、なんでもないよ」

 

「は、はあ…?」

 

「他に質問はあるかな」

 

「あ、はい。午後のこのトレーニングですが……」

 

いくら同僚といえども、じっと見つめられたら困るだろう。

うっかりするとセクハラで訴えられるかもしれないので、じろじろ見ないように注意しなければ。

トレーナー業をしていると、人をじっと見る癖がついてしまっていけない。

ウマ娘たちの身体や細かい所作までしっかり見ていなければならないので、いわゆる職業病だった。

 

 

 

 

「着替え終わったよ、トレーナー君」

 

「たっだいまー!」

 

桐生院トレーナーから上がった疑問に答えつつ待っていると、着替えを済ませた二人が戻ってきた。

 

「おかえり」

 

「ただいま。今朝は少しウォーミングアップが長かったが…」

 

「ああ、夜に体が冷えてしまったでしょ?そのせいか、少し体の動きが硬かったからね。二人とも怪我して欲しくないから、今日は少し長めにしてる」

 

「なるほど、自分でも気づいていなかったな、それは…気を使わせてすまない。午後のトレーニングはどうする?」

 

「午後はみっちり併せ・強めで走ってもらうよ。坂路のチップが入れ替えられたみたいだし、そっちも試しに走ってもらおうかな」

 

「承知した」

 

頷くルドルフに、先ほどまで修正を加えていたトレーニングメニューを手渡す。

ぺらぺらとめくり始めたルドルフを他所に、テイオーは渋い顔。

 

「うぇ…坂路って苦手なんだよね…」

 

「苦手意識をなくすためのトレーニングだからね。…そういえばテイオーは泳げる?」

 

「うん、泳げるよー。プールもやるの?」

 

「んー、もうちょっとしたらプールもやろうかなって」

 

「やった、楽しみ。あ、ボクの水着姿にノーサツされないように注意しなよー?」

 

「そろそろ時間かな?」

 

「流さないでよ!?」

 

テイオーの戯言を受け流しつつ、腕時計に目をやれば。

表示されている時間は始業の15分前。

丁度良い時間だろう。

 

「うむ。名残惜しいが、行ってくるよ。昼に迎えに行こう」

 

「ボクも迎えにいくから待っててね!」

 

どうにも慌ただしいが、できるだけトレーニングに時間を割きたいという思いもある。

ギリギリまでトレーニングに時間を使ってしまっているので、更衣室から教室へ直行して構わないと毎度言っているのに、なぜかルドルフは律儀にも毎回必ず一度戻ってくる。

テイオーも、ルドルフと行動を共にしているためになんとなく「そういうもの」と思って行動している節がある。

 

若干の名残惜しさを醸し出しながら、ルドルフとテイオーが学生鞄を手に小走りで校舎へとかけていく後ろ姿を見送る。

 

そろそろトレーナー室に引き上げ、午前は一旦解散するとしよう。

実の所、結構体に来ているので一度自室で仮眠を取っておきたい。

 

…しかし、今日のルドルフは珍しく制服の着こなしが緩かった。

あれは確実に首元を少し緩めているな。

テイオーは服装自体はいつも通りだったが、若干足の振りが大きい。

シューズでうまく隠れてはいるが、時折アンクレットがきらりと陽の光を捉えて煌めいている。

 

プレゼントを喜んでもらえたのは贈った側としても嬉しく思うが、浮かれすぎではないだろうか。

 

いや、浮かれたままでお願いしたい。特にルドルフは。

普段であれば気づくような事を、今日は機嫌がいいためか流してくれているのだから。

 

 

 

 

 

 

トレーナー室で荷物を下ろし、桐生院トレーナーと一旦別れる。

なんとかして自室に戻れば、どっと疲労と体調不良が身体に押し寄せてきた。

 

買ったばかりの鞄を放り出し、着替えすらせずに、ベッドに倒れ込む。

 

今朝は風も殆どなかったので、外に居たとはいえ比較的埃っぽくもなっていない。

仮眠を取るにしても、せめてスウェットか何かに着替えたいとも思うが、正直今の体調で着替えに体力を使える筈もない。

 

ベッド脇に置いたコップに手を伸ばすも、そういえば朝に飲み干していたと思い出し、手を引っ込める。

 

ごろん、と身体を転がせば、天井のライトが目に眩しい。

 

「あー…」

 

いかん。

意識が濁り、落ちていく。

霞んだ目を瞼が覆い、重石を乗せられたかのように動かない。

せめて、昼前にタイマーをセットしなければ。

起きたらトレーナー室へすぐに戻って……

 

残った気力で、ベッドに放り出した携帯端末に手を伸ばしたが、指先が届く前に意識が落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

かちゃかちゃ、ぱたん、と。

沈み行く中、何か物音が聞こえた気がした。

 


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