朝の挨拶とあいさつと他愛の無い雑談。こういう時間が、いつの日か価値のある宝物だったと思うのでしょう。
「おはよう、トレーナー君。朝食はもうできているよ」
ゆさゆさ、と体が軽く揺すられる感覚。
瞼の向こうが明るい。
もう、朝なのだろうか。
「…ん、うん」
まだ寝ていたい。
昨日はなんだか随分と気疲れしてしまった。
…とはいえ、あまり寝てばかりもいられない。
もそもそと布団を引き剥がしながら、なんとか身を起こす。
足がだるい。昨日冷え過ぎてしまっただろうか。
ええと、今日は授業がある日だし、昼は入学式か…。
朝練は筋トレを中心にして、そのあとレース分析…。
昼の入学式からルドルフは動けないから、午後はほとんどオフだな。
うん。
うん?
「・・・ルドルフ?なんでいるんだ?」
寝ぼけ眼を必死に擦って覚醒を促す。
おかしい。何かがおかしい。
いや、ルドルフがここに入り浸っているのは日常的なイベントだったが、それは1年以上前の話だ。
最近は精々が偶然を装って二日に一度より短いスパンで、寮の前まで挨拶に来ていた程度。
「おかしなことを聞くな」
一方、当のルドルフはキョトンとした顔。
え?これ私が何か間違えているのか?
「昨晩あったことを忘れてしまったのか?」
・・・は?
「いやちゃんと帰ったでしょ君」
何度思い返してもきちんとルドルフを帰し、施錠したことは鮮明に覚えている。
こう見えても身持ちは固いのだ。
「うむ。あのあと自室に帰ってちゃんと寝たぞ」
エプロンをつけた胸を張って答えるルドルフ。
エプロンの胸のあたりにはデフォルメしたシンボリルドルフの顔。
片手にお玉を握っているためか、妙な若妻感があるが実年齢を考えるに明らかに犯罪である。
これでうっかり同衾しましたなんて言ってみろ。
トレーナーのイントラですぐさま情報共有されて同情の目を向けられ、ウマ娘たちは嗅覚で察するぞ。
そうすると何が起きるか?
簡単だ。自分にもワンチャンあると思った奴らが動くのだ。
「じゃあなんでもう居るの」
愛用の目覚まし時計にちらりと視線をやれば午前5時30分。
冬場ならそろそろ陽が出る時間だが、この時期はすでに明るくなっている。
トレーナーは基本的に担当の朝練があるため、早朝に出勤し彼女たちの座学がある授業中に仮眠および書類仕事やレース分析、出走ローテーションの作成や取材スケジュール等メディア対応の調整など、デスクワークを中心に行う。そして午後はトレーニングという生活になる。そのため、オフの日以外はトレーナーは寝不足になりやすい。
そして、5時30分はいつも目覚ましを掛けている時間である。
そして、そんな時間にばっちり身支度を済ませて朝食まで作っているルドルフ。
「早起きしたに決まっているじゃないか」
ふむ。
早起きすると施錠した部屋に入れるらしい。
ウマ娘による鍵の複製被害が絶えないため、基本的に半年に一度のペースで鍵は交換されているのだが。
今回は随分と(鍵を複製されるのが)早いな。
「鍵は?」
「昨夜拝借して合鍵を作っておいた。不便だからな」
絵面で言えば私が犯罪者だが、犯罪被害に遭っているのはどう考えても私の方である。プライバシーとは一体。オマワリサン助けて。
え?オマワリサン逃げた?なんで追い込みじゃないんだろうな彼女。
「そっかあ」
まぁ、毎年「担当トレーナーの鍵をお守りにすると両想いになれる」「担当になってほしいトレーナーのシャツを下に着て3200メートル走ると願いが叶う」などの風説が飛び交うこのトレセン学園である。
私物をお守りと称して強奪されることが理由でセキュリティレベルが毎年強化されている寮などというのは世界広しと言えども精々各地のトレーニングセンターぐらいなものだろう。
地方のトレセンってそのあたりの事情はどうなってるんだろうか。
中央ほど噂を聞かないが、向こうは平和なのか?
「ほら、寝ぼけてないで顔を洗ってきてくれ。朝食が冷えてしまうぞ?」
「あ、はい」
もはや諦めの境地である。
それにしても、皇帝が手ずから朝食を用意してくれると言うのは、数年前ならまだしも今となっては不思議な気持ちになる。
もはや作らせる側に立っている筈の彼女。
皇帝の作る手料理というのは、とんでもなく贅沢な朝食だろう。
朝食は和食だった。
だし巻き卵や味噌汁、そして焼き魚に白米と文句のつけようがない。
ついでに、漬物まで完備だ。これで休みだったら最高なのに。
にこにこ、と笑顔の圧に屈したように箸を伸ばす。
「…うまい」
確かに美味い。
「久しぶりに腕を振るったが、少しは上達しただろう?」
「上達…というか。いや、すごいなこれは。まるで実家の…ん?」
うん?
いや、この味付け・・・うん?
一口、二口と箸を進める。
…はて。
疑問はあっという間に確信に変わった。
…実家の味付けに似ているのだ、これは。
「…いやに食べ慣れた味で嬉しいのだけれど、ルドルフはどこの出身だっけ?」
「残念ながら、出身地は違うよ。それは君のお母様に連絡してレシピを伝授していただいたんだ」
「っ、げふっ、ごほっ!?」
もそもそと嚥下した油揚げが気管を直撃した。
機関部に損傷。総員退避。
「ああ、落ち着いて食べてくれて大丈夫だぞ。まだ出勤まで十分余裕があるからな」
さっと水の注がれた愛用のマグを差し出され、一気に飲み干す。
なんとか油揚げは胃袋へと洗い流されていったようで、呼吸は荒い物の人心地つく事ができた。
「…っはあ…びっくりした。私の母がどうしたって?」
「うむ。お母様にレシピを伝授していただいてな。随分と熱心に教えてくださって大変有り難かった。君にもよろしく伝えてくれと言伝をいただいたぞ」
???????
おそらく今の私の後ろには宇宙の写真でも写されているのではなかろうか。
母よ。
実家の母よ。
いつの間にルドルフとコンタクトなど取ったのですか。
いや、むしろ逆か?どうやって実家を突き止めた?
「安心してくれ。君のお母様とお会いしたのは偶然だよ。街でファンに声をかけられたと思ったら君の御母堂…いや、『お義母様』だった、という話さ」
サインのためにお名前を伺ったら、お義母様だったと気づいてね。などと笑っている。
我が家はありきたりな苗字なので、サインで普通気付くなんてことはないと思われる。
つまり、元々母の名前を知っていたと言うことだろう。
なんで知ってるの?
それに母よ。なぜこんな東京くんだりまで出てきていたのですか。旅行ですか。
それとも年甲斐なく渋谷とかではしゃいじゃったりしてたのですか。
あと何かこう、おかあさまの響きに余計なノイズが入っている気がする。
「ちょうどメディアで君が・・・なんだ。取り上げられていた頃でね。心配して君の顔を観に行こうと思っていたらしい」
だったらそのまま顔を出してくれよと言いたい。
母の胸で泣くような歳でもないが、顔を見れば少しは安心もできたかもしれないのに。
いややっぱりいいや。電話するたびに「孫はまだ?」と延々と聞いてくる母だから恐らくロクでもない事になるだろう。
「少しお話をさせて頂いたが、「なら安心ね。うちのをよろしくお願いします」と言って観光してお帰りになられた。ご両親ともにお元気そうだったよ」
父もいたのかよ。
「あの」
「なんだ?」
「メディアで私が叩かれていた頃ってもう1年以上前じゃないか?」
「そうだな」
「せめて教えておいてくれないか?」
「君をびっくりさせようと思ってな」
びっくりしたわ。当然のようにびっくりするわ。
これか。これが数多のトレーナーをヌマ娘界に沈めたウマ娘の行動力か。
週末にお出かけに付き合っていたはずが実家に連れて行かれたとかよく聞いては「ぼんやりしてるからだよ」なんて笑っていたが、知らないうちに実家の母と挨拶していたと言うのは想定外だった。私が防備を固めていればいいという問題ではなかったらしい。
見てくれ、お母様と連絡先も交換しているから、何かあっても私が責任持って君の実家に報告できるぞ。などとにこにこしている。いわゆる緊急連絡先として確かにトレセン学園には提出している番号だが、ルドルフが握った以上は絶対に違う用途に使用される。
あるいは報告の内容がだいぶ愉快な事態になっているに違いない。
外堀。外堀はどこへ行った。
頭を抱えつつも、久しぶりの味に箸が止まらない。
悔しい。でも食べちゃう。
添えられた漬物に手をつけた瞬間、頭の中で故郷の風景が弾けたような気がした。
…この漬物、絶対に母が漬けたやつだろ。
まだ浅めだ。つまり割と最近届いたんだろ、これ。
私のところには何も届いていないんだが。
母?ねえ母?