「はっ、はっ、はっ……しかし副会長もしつこいねえ!」
背後から響く怨嗟の声。
走る私を追走して来ているのは、少々改造しショートさせた使い捨てカメラのフラッシュを浴びせた相手であるところのエアグルーヴ副会長。
ちらりと振り返れば、ああ、なるほど。
般若というか、阿修羅のような恐ろしい形相をして差しに来ている。
これは捕まっては只事では済まないだろうねえ。
ま、差される気はないんだがね。
地獄の底から響いてくるような、少々寒気のするような低い声を努めて無視しながら、白衣のホルダーから試験管とアンプル2本引き抜くと、アンプルを親指で圧し折ると、まとめて背後に放り投げる。
どうなったかを見届けることはない。
あれはただの煙幕代わりだ。
少しばかり目に染みるかもしれないが、特に害はない。
催涙ガスほど強力でもないし、精々が焚き火の煙を増量した程度の効果。
研究の中で偶然生まれた副産物だが、意外とこういうものに限って後々役立つことが多いのだ。
無駄な轟音とともに爆発的に立ち登る白煙に、トップスピードに乗っていたエアグルーヴ君は急制動をかけたところで飛び込むハメになる。
マイル程度の距離とはいえ、全力で追走して来たのが仇となったようだね。
「わぷっ!?げほっ、ごほっ!?……アグネスタキオン貴様!!」
「はっはっはっは!悪いねエアグルーヴ君!あまりに恐ろしい形相で追いかけてくるものだからうっかり瓶を落としてしまったよ!後片付けは頼んだよ!」
流石に頭に血が上っていても、妙に目に染みる煙幕の中に飛び込んでしまえば減速せざるを得ない。
怪我をされても困るので、視界を奪うよりも足止めに重きを置いているので、無事に立ち止まったようだ。
響いてくるやけに低い声の恨言を柳に風と受け流し、私はトップスピードに入れる。
念には念を。
噎せ返っていた上に、彼女の適正距離から考えるに、中長距離に特化した私の脚にはもう追いつけないことくらいわかっているだろう。
これ以上の追走は断念してくれる公算だ。
彼女の失敗はそもそも、フラッシュをまともに直視して出遅れた時点で確定していた。
『タキオンさん、聞こえますか?対象A動きました。対象Bは合流の動きです。くりかえします。対象A動きました。対象Bは合流の動きです。』
ちょうどいいタイミングで、インカムからデジタルくんからの報告が飛び込んでくる。
「ああ、了解したよ。私はこのままポイントZへ移動する。あとは頼んだよ」
『はい、あなたの忠実なる信徒デジたんにお任せください!』
信徒?
随分とまた面白い形容をするものだと思いながら、私は仕上げに入るべく、脚を振り上げた。
呼吸数、寝息の波長。
そのどちらもが安定して
さあ、そろそろお目覚めの時間だよ、トレーナーくん。
……混乱を作り上げた狙いは何だろうか。
自白剤などという劇物であれば、声を掛ければ誰だろうが二つ返事で協力を引き受けるようなものの筈だ。
現に、これだけの混乱が発生しているのだから。
それが何故、わざわざそんなカードを混乱を引き起こす形で切って来たのか。
ばたばたと行き交う生徒たち。
学園関係者はこぞって避難したため、見える姿の大半は生徒だけだ。
蜂の巣を突いたような騒ぎの中、足を止めて考える。
相手は誰だ?
あの異端児にして切れ者、アグネスタキオンだ。
何の考えもなく行動には出まい。
頭を整理しろ、シンボリルドルフ。
問題となっているのは自白剤。
以前の惚れ薬もどきとは異なり、今回は明確に自白剤と名言している。
あのアグネスタキオンのことだ。無差別に提供できるということはある程度薬効も確認済みだろう。
だとすれば何故こんな真似を?
治験対象の確保か?
否。
自白剤が確かであれば、治験対象の確保など容易いだろう。
効果を説明してテスト分意外にも余計に渡すとでも言えば、喜んで参加するものが多いのは目に見えている。
周囲を見渡すだけでも、自白剤を求めてこれだけの生徒が血眼になっているのだから。
ならば何が起きている?
薬の被検者を探すでもなく、混乱もこれだけの時間が経過して収まっていないという事は、アグネスタキオンが誰にも薬を渡していないという事だ。
話がおかしくなってくる。
大きな騒ぎを起こすことが目的だったとすれば?
一体、何のために?
不意に、第三者の目での意見が欲しくなり、端末を取り出して。
そして気付いた。
今更、気づいてしまった。
違和感の正体がようやく理解できた。
端末に表示されているのは、知恵を求めようとして立ち上げたメッセージアプリ。
そして、トレーナー君からのメッセージ。
『もし見かけたら
……随分とまあ考えたものだな、アグネスタキオン。
思わず端末を握る手に力が入る。
びしり、と音を立てて、端末の液晶を覆うガラス面に罅が入る。
無条件にメッセージの出所を信じすぎていた、ということだろう。
だとしても、これだけの時間気付くことができなかっただなどと、酷い失態だ。
……なるほど。
狙いはトレーナー君か。
確かに、騒動を起こせば私は前線に釘付けになる。
現場に出ていようがいまいが、生徒会長として事態の収集に迫られることは間違いない。
私の背負う職責を利用されたということだろうな。
そして、騒動を引き起こした物が物だ。
自白剤。
惚れ薬もどきを作り出しておいて、何故中途半端な物を?と疑いもしたが、なるほど。
確かに自白剤程度ならば、最悪の事態でもトレーナー君の意思を捻じ曲げて愛を奪うこともできない。
最悪、トレーナー君の秘密が赤裸々に暴かれるところで済んでしまう。
つまり、被害はトレーナー君の元へ届くことがないと無意識に高を括っていたのだ。
その結果、私はトレーナー君の元へ安全の確保へ向かうことなく、現場で無様にも参戦してしまったということだ。
首元のネックレスに触れる。
嬉しそうな笑顔。私へのプレゼントを真剣に選ぶ横顔。
それらを思い返すにつれ、腹の底から遣瀬ない怒りが湧き上がってくる。
……私は何をやっていたのだ!
無意識下でそう判断した、ということはつまり、トレーナー君の安全を軽視したことに他ならない。
そしてその結果が、まんまと騙された間抜けが一人、ということだ。
だん、と苛立ちのままに地面に足を叩きつける。
びしりと割れた足元を無視して、深呼吸を繰り返す。
落ち着け。今苛立ちのままに八つ当たりをしたところで何も解決しない。
非常時ほど、頭は冷静に。レースも同じだ。
幾たびか呼吸を繰り返し、頭を冷やす。
……アグネスタキオン、ないしその協力者の手によって、トレーナー君の端末が何らかの形で利用されている。
これはほぼ確定と見ていいだろう。
それが電子的なジャックによるものなのか、物理的に奪うなどしたのかは不明だが、現状からの推測では物理的な要因で確保されていると見るのが自然だ。
動ける状態にあるのであれば、これだけの時間が経過していれば携帯端末の異常に気づかないほうがおかしい。
あれでマメに連絡をくれるトレーナー君だ。
それが午後になっても連絡を向こうからくれなかった。
大抵の場合は私から連絡しているが、しかしトレーニングの時間になっても連絡を私がしていないにも関わらず連絡を寄越さないというのはまずあり得ない。
考えられるのは一つ。
動けない状況にあるということ。
端末に触れることさえできないという状況。
今朝方調子が悪そうにしていたのは把握しているが、しかし体調不良で寝込むにしても、大抵の場合はなんとかして連絡を入れてくれる。
弱っているところを見せたくないのか、看病に行くことを嫌がるという悪癖があるが、それでも一応私には状況を伝えてくれるのだ。
それがなかった。
トレーナー君の持ち物にこっそり仕込んだGPSタグの類は、寮の部屋とトレーナー室で反応を返している。
今日の服や靴からして、間違いなく寮の部屋が現在地点だろう。
だがそうなれば、アグネスタキオンが前線で暴れていることが腑に落ちない。
学内のネットをざっと見ていた限り、出没情報がいくらか見つかっている以上、これがアグネスタキオンによる欺瞞工作でもなければいまだに前線で暴れているということだ。
トレーナー君を抑えるにしても、自分が前線に出てしまっては意味がないだろうに。
何がしたい?
トレーナー君を放置して、端末あるいはアカウントを利用して私にメッセージを偽装してまでやる事は何か?
仮に協力者がいたと仮定しても、トレーナー君に懐いて……もとい、懸想しているアグネスタキオンが離れる意図がわからない。
側にいないのであれば、何故拘束したのか?
考えろ。
……いつも通り、胡乱な薬の被験者にして何か異常が出た?
時間経過で元に戻る何かをやらかした結果、時間稼ぎを行わなければならない状態にでも陥ったか?
そう考えるほうがまだ辻褄が合う。
だが、しかし。
考えてもキリがない。
今重要な事は何か。
トレーナー君の安全確保だ。
ひとまず、寮へ向かわなければ。
鍵は持っているし、最悪ドアを蹴り破れば問題ない。
駆け出そうとして、不意に握りしめていた携帯端末が着信を告げた。
咄嗟に出てしまう自分のなんと浅ましいことか。
今はそれどころではないというのに。
「私だ」
『エアグルーヴです。申し訳ありません、アグネスタキオンを取り逃しました。学園棟付近です』
「そうか」
エアグルーヴからの報告は音声。
これが事前に収録された音声を加工したものと考えることもできるが、声に継ぎ目のようなものは感じられない。
信用し切るには少々難があるが、今はこの情報が有難い。
取り逃がした、ということはつまり、接触はしたということ。
これでいまだに学内を彷徨いており、トレーナー君の近くに張り付いているわけではない事は確定だ。
「アグネスタキオンは単独か?」
『はい。一人でふらりと現れました』
そうなると、トレーナー君はまだ寮の部屋にいると考えて良いだろう。
『逃げた方向はーーー』
ああ、これは……
『トレーナー寮のある方面です!』
悪い予感は的中する。
私は全速力で飛び出した。