「……飲んだ?あの包みをかい?自分で?」
私と同じく名門の系譜であり、またこれほど感情の抑制に長けた筈のアグネスタキオンが彼女らしくもなく、耳も尻尾もほぼ垂直に立てている。
彼女にしても完全に想定外であるらしい。
先程までの剣呑な空気は完全に霧散していた。
驚いた表情のままほとんど硬直したアグネスタキオンが、油を差していないロボットのようなぎこちない挙動で、恐る恐るテイオーに尋ねた。
自白剤をうっかりトレーナー君が飲んでしまったのであろうことだけはテイオーの発言から理解できたが、しかし驚くほど情報が頭に入ってこない。
ええと、なんだ。
その袖の中は一体どうなっているのだ。
ええい、情報量が多すぎる。
「たぶん…ドアをちょっと開けて覗き込んだだけだけど、見せてもらった包みと同じのが落ちてたから……。飲んだ、と思うんだよね……」
間抜けそのもののような状況ではある。
何せ、薬の争奪戦の果てに一触即発の状況まで縺れ込んだと思えばこの様だ。
しかも肝心の薬はトレーナー君が飲んでしまったらしい。
とはいえ、表情は真剣そのもの。
二人して額からだらだらと汗を垂らして顔を付き合わせている。
自白剤を巡るこの一連の騒動には確かに不可解な点が多かった。
突如としての校内放送。自白剤の提供。縛られて放置されたメイショウドトウ。不自然なトレーナー君からの返信…。
いや、違う。
気になる点は多いが、今はそこに注目すべきではない。
「……包み?」
思わず鸚鵡返しのようにして問うてみれば、アグネスタキオンがこちらを見もせずに答える。
「……自白剤の包みだね」
半ば解ってはいたことではあったが、余計な情報がそこかしこに埋伏している。
こいつ、薬を持って彷徨いていると言いながらトレーナー君の部屋に置いていたな?
いや、それよりも大きな問題が一つ。
何故アグネスタキオンがトレーナー君の私室に自白剤を置いているのか。
事と次第によっては、権力を振り回す事も視野に入れなければならない。
いや、権力などという悠長なものを振り回すより先にこの脚がうっかり飛び出してしまう可能性は否定出来ない。
しかしそんな事も今は些事だ。
嫉妬心よりも優先すべきことがある。
「何故そんなものがトレーナー君の部屋にあるのか…事が終わったら追及する。覚悟しておけ。……それで?」
「ふぅン……?私に追いつけるとでも?弱りきって倒れていたトレーナー君を甲斐甲斐しく看病までしたウマ娘だよ、私は?」
ふん、と鼻息も荒く、胸を張って見せるアグネスタキオン。
「むぐっ……そう、それだ。そこが気になった。どういうことだ?」
看病?トレーナー君の今朝の様子がおかしかったのは認識していたが、花粉症と言い張る以上、踏み込めなかった。
となるとやはり体調が悪かったということだろう。
風邪?
……ああ、何故その可能性に思い至らなかった!
昨夜あれだけ雨で体を冷やしてしまっていたというのに。
先ほども指摘された通り、また浮かれてしまっていたとの誹りは免れないだろう。
脚下照顧。猛省せねばなるまい。
成程、確かに一つ一つの意味を考えれば不可解な事項ばかりだった。
この後に及んでしたり顔をするつもりもないが、その『点』ごとに存在していた不可解さには意味があったということだろう。
ここまできてやっと線で繋がるとは、随分と腑抜けていたようだ。
ようやっと線として繋がったそれが示しているものは、陽動の可能性。
トレーナー君を確保していながらも接触させようとしなかったのは、つまり―――
「待って!今は時間がないんじゃないの!?タキオン先輩、効果時間は!?」
慌てたようにテイオーが割り込んでくる。
確かにテイオーの言う通り、今はアグネスタキオンの狼藉を糾弾したところでさして意味はない。
「……ああ、確かにその通りだ。アグネスタキオン、状況は」
「ああ、そうだ薬の効果時間が…バイタルサインと寝息からして覚醒したのは…」
端末を取り出すと、ごそごそと何事か計算を始める。
画面に表示されたのは睡眠計のグラフ。
「……どうやってバイタルサインと寝息を監視しているんだ」
「うるさいねえ。今はどうだっていいじゃないか」
どうだってよくない。
わたしのトレーナー君が監視されていると思うと平常心ではいられない。
それはそれとして手口を教えてはもらえないかなとは思うけど、教えを乞うのもなんか癪だった。すごくもやもやする。
「カイチョー、しーっ」
アグネスタキオンの端末を覗き込みながら、人差し指を口元で立てるテイオー。
「む……」
いかんな。随分と掛かってしまっていたようだ。
…いや、でも気にならないか?バイタルサインと寝息だぞ?
特に寝息は恐らくだが高い安眠効果が期待できる。
神経を休めるのにこれほど効能の高いものは存在しないと断言できる程だ。
「……起きてすぐ寝ぼけて飲んだ、と仮定すると、概ね……」
ぽちぽち、と画面をタップして数字を計算していくアグネスタキオン。
アプリケーションを忙しなく切り替えながら、電卓やメモ帳に羅列されていく数字だけを追っていても理解が及ばない世界だ。
こう言う時、門外漢が口を出しても大抵ろくにならないことはわかっている。
とやかく言いたい気持ちも非常に強くはあるが、今の最優先事項は自白剤の効果時間が具体的にどうなのか、という問題。
ふよふよと頭上で揺れるアンテナのような癖毛を思い切り掴んでやりたくなる衝動をなんとか抑え込み、その時を待つ。
そして、ようやく顔をあげた。
「……前後1〜2分の誤差はあるだろうが……あの薬だと予想される効果時間はおおよそ17時19分から29分の間だね。今何……時……」
成程。19分から29分までか。
先ほどアグネスタキオンが自分で言っていた通り、覚醒時間はあくまでもバイタルサインなどの情報からの推定。
そうなると、実際に目を覚まし、身を起こし、薬を飲むまでの間に若干のラグが存在していることは間違いない。
覚醒した瞬間に薬を服用するということは考えづらいし、これまでの経験則上、寝ているところをメッセージや電話で叩き起こしてしまった場合でも、あるいは合宿中の朝に起こしに行った時も、行動までのラグが若干ではあるが存在している。
頑なに同衾を拒まれているため、正確な時間は不明だが、寝起きに送ったメッセージに既読が付いてからレスポンスが返ってくるまでの時間程度のラグは見込むべきだろう。
それが概ね1分から2分程度。
前後で多少切り捨てる時間が生じてしまうことは大変に残念ではあるが、少なくとも効果時間の中央6分間程度は、トレーナー君の私室にお邪魔すれば本音が聞き出せると言うことになる。
夢のようなボーナスタイムだな。
しかし今は何時だったか。
ばたばたしていたおかげで、時間を把握していなかったなと思い、3人してそれぞれ腕時計や携帯端末の時刻表示に視線を落とす。
確実な効果を見込める時間も短いことだし、効果時間が始まるまでに「説得」して二人にはお引き取り願うしかないだろう。
さて、後どのぐらいの猶予が―――
そして冗談のように、びぃぃぃんと妙な音を立て、耳と尻尾が立ち上がり、三者三様に固まった。
現在時刻 17時18分
もしもアグネスタキオンの計算通りの結果だとすれば、自白剤を飲み、効果が発現するこの地上でもっとも貴重な10分間がたった今から始まろうとしていた。
馬鹿な。早すぎる。
「ふぅン……一瞬一秒の選択が結果を分かつ事もある。まさにそういう状況だということかな。……じゃあ、そういうことでいいね?」
くるりと振り返ったアグネスタキオンが、珍しく、実に屈託のない笑顔を浮かべた。
「どういうーーー」
そしてその無駄にだぼついた袖から、ぽろぽろと無闇に蛍光色を放つ試験管やアンプルがこぼれ落ちてゆく。
……あ。
この
現在時刻を見て硬直した脳が、体へ信号を送り出すのを一瞬だけ渋った。
遅れて伸ばした手は、それらに触れることなくーーー
「ぱりん」と。
乾いた音が響いて。
ぶしゅう、という蒸気のような音と共に、爆発的に煙が立ち登った。
反射的に目を閉じ、呼吸を止める。
「っ!?」
「ぎゃーーーー!なにこれなにこ…げほっげほっ!目があああああ!?」
アグネスタキオンのすぐ側にいたテイオーが直撃を食らったらしい。
悲鳴をあげて地面に転がるような音が聞こえた。
同時に、遠ざかろうとする靴音も。
逃がさん。
充満する煙が目に入ると、テイオーのように無力化される。
恐らくだが、催涙効果も持たせているのだろう。
ごろごろと何かが転げ回る音が聞こえるので、テイオーが苦しんでいるのだろう。
無駄にリスクヘッジを取っている彼女の事だし、タマネギ程度の物だろうが痛い物は痛い。
反射とはいえ、目を閉じ、呼吸を止めたことは僥倖だったと言わざるを得ない。
もはや白煙で前はろくに見えていないが、何年間この寮に通い詰めていると思っているのだ。
私の記憶力は、現在地さえ解っていれば目を閉じていても問題ない程度には機能してくれる。
一度見ただけで人の顔を絶対に忘れない、という話は誇張でもなんでもないのだから。
今日の失態は酷いものだが、ここで更なる失態を重ねることは許されない。
足音の方向、そして自分の記憶を頼りに、地面を蹴った。
許せテイオー。願わくばそのまま永久に脱落してくれて構わないぞ。
あれだけ多用してしまった煙幕が1組だけとはいえ、手元に残っていてくれて助かったねぇ。
煙の爆発から後方への跳躍、つまりは寮の方向へ飛び出すことでまんまと逃れた私は、脇目も降らずそのまま寮のエントランスへと突入する。
同時に酷い悲鳴が上がった気もするが、ああ、気の毒にと多少思うばかり。
廊下を踏みしめ、駆ける。
恐らくは全力で走る事もあろうと、ローファーではなく運動靴を装備し、しっかりと蹄鉄まで装備した私の脚は、きちんとカーペットの下に敷かれている床板を打つ。
こつん、こつんと硬質なくぐもった音を立てながら、飛ぶように前へ。
所詮はふかふかと弾力のあるカーペット程度、流石に人間目線での「弾力がある」程度でしかない。重バ場でも余裕で走ることができるだけの脚を備えた私にとってみれば、この脚を阻むような物には成り得ない。
さて。
あれだけ騒いでいたおかげで、非常事態に怯えて避難してきていたトレーナーたちの姿はない。
ちらりと見えたエントランス脇の食堂では、まだ湯気を立てるカップが取り残されていたりと、空襲警報でも鳴ったのかと思うほど悲惨な有様だ。
多少気障かもしれないが、まるで人が忽然と消失した廃墟のようだねえ。
騒ぎ立てた私が言っていいことでもないのだろうが。
……もう目覚めているとはいえ、トレーナーくんはまだ本調子ではない。
風邪で具合が悪いというのに、飲ませるつもりのなかった自白剤まで自ら飲んでしまうというのは実に見上げたモルモット根性だと驚嘆するほかないが、今はただ、あの担当二人に滅茶苦茶に振り回されてしまわないかという心配が先に立つ。
まったく。
これほど心配させて何様なんだろうね、あのモルモットくんは。
ううん。どうしたものか。
残念なことに寮の入り口から、トレーナーくんの私室はほど近い位置にある。
食堂、ランドリー、その他諸々の生活関連設備群を越えれば、すぐの位置。
トレーナー達の住居の中では、出入り口にほど近い位置。
出勤のアクセスが近くて楽でいいじゃないか、などと過去にのほほんとしたコメントを付けた折には、なかなかに苦虫を噛み潰したような色を浮かべていたのを思い出す。
その時は疑問に思っていたが、確かにこうした際には防衛力に難があるとしか思えない。
しかも1階である。
その気になれば窓をぶち破ってやればフリーアクセスだ。
ドアを蹴り破るよりは被害は些少なものだろう。
せめて1階をミーティングルームなどで埋め、最奥部の階段から上がった先にしか部屋を配置しないようにでもすればいいのにとは思うが、トレーナー寮の間取りは高待遇を反映するかのようにやたらと広く、天井高もなかなかのものだ。
独身寮というよりは、ほとんどマンションのような構造。
そのため、利便性やら階高が増えてしまいすぎる事も手伝ってか、今の構造に落ち着いたとは誰の弁だったか。
ふぅン……。
できれば後10分だけでも時間を稼ぎたいところではあるね。
後どれだけ稼げるかな?
あの爆発を受け、皇帝が短く唸っただけだったのが多少恐ろしくはあるが、流石に間近で煙の爆発を受けてそのまま動けるというのならばそれは化け物だ。
「逃がすか!」
……訂正しよう。
まるで躊躇なく、煙幕を突き破って飛び出してきたウマ娘の形をした化け物か何かが猛追してくる以上、それも難しいかもしれないねえ。
一度不意打ちを食らわせてしまった以上、次はすぐに対応してくることだろうし。
これだから無闇に優秀な皇帝陛下は困るよ。
手持ちは……室内で使うには向かないものばかり残ってしまったな。
流石の私もこんな狭い空間で音響弾など使えば自爆する。
お互いに目的地が一致してしまっているおかげで、行動不能にしなければならないというのが実にハードルが高い。
あくまでも捕縛から逃れる事を前提に道具を選んでしまったため、事ここに至っては効果がいまいちだ。
嗅覚を潰しても、視覚を潰しても。
逃げることだけはできる。
だが、トレーナーくんと接触させないという目的を達成するにはいまいち弱い。
あとはもうこの身一つで食い止めるしかないが、私たちが本気でやり合えば寮の中に被害が出るだろうしねぇ……。
トレーナーくんの棲家で被害を出すのは、流石の私も少々気が引けるところだよ。
仕方ない。行動不能に追い込むのは少々難しいことだし、トレーナーくんの体調を見ながら適宜対処していくしかないだろうね。
いくらトレーナーくんを溺愛している生徒会長とはいえ、二人きりにさえしなければ滅多な事もするまい。
そして、あっという間にトレーナーくんの部屋の前へ。
鍵を取り出し…。
「…あ」
しまった。テイオーくんに鍵を預けてしまっ―――
「ええいまどろっこしい!」
私を追いかけて突っ込んできた皇帝が、その勢いのまま身体を見事に捻り、それはそれは美しい蹴りを繰り出してきた。
思わず身構える。
速度のままに繰り出された蹴り技の威力は想像を絶する。
煽りすぎたせいもあって、加減が全くない。
自業自得ではあるが、これは直撃すればただでは済まないだろうねえ。
だが、それが突き刺さったのは私ではなく、私のすぐ後ろに居た善良な一般玄関扉であった。
ばきっ、と。
いい音を立て、くの字に折れ曲がりながら室内へとすっ飛んでいく。
蝶番が無残にも引き千切られ、番の筈が独身へと戻っていく様がやけにスローに目に映った。
そして無残にも真ん中あたりから折り曲げられて宙を舞う善良なる扉くんは、そのままリビングの引き戸を巻き込んで、破滅的な音と実際に破滅をまき散らしながら室内を跳ねまわっていった。
そして最後に、トレーナーくん愛用のソファに見事に突き刺さり、玄関を守っていたと思ったら突如与えられた運動エネルギーの全てを開放しきったらしく、散々跳ねまわり破壊の限りを尽くした玄関扉くんを受け止めた度量の深いソファくんと共に力尽きて倒れ伏した。
この位置からではリビングの惨状は部分的に垣間見える程度ではあるが、それでも暴虐の限りを尽くしたのであろうことだけは酷くよく分かる。
玄関そばで丹念に育てられていた鉢植えくんも巻き込まれたのか、無惨な姿で転がっているし、ドアの角が引っ掻いたのであろう痕跡が廊下の壁にくっきりと刻まれている。
子育て中で大変にご機嫌の麗しい熊でも通り過ぎたのかな?
思わず天を仰ぐ。
もしトレーナー君が寝室から出てリビングに居たりすれば、間違いなく過失致死になっていたであろうほどの事件が眼前で起きてしまっていた。
玄関扉というものは結構な質量を有するはずだが、それがあんなにも跳ね回る姿は一種非現実的であり、更に言えばあの質量がぶち当たって貫通していないトレーナー寮の壁の強度は一体どうなっているのかと興味は尽きない。
……しかしまあ、思ったよりも遥かに野蛮じゃあないか、皇帝陛下?
ラボの扉くらいならまだしも、他人様のお宅でこうまで躊躇なく破壊活動に勤しむことができるというのは、流石は皇帝の所業だねえ……。
皇帝というよりは暴君の類だけどねぇ。
「実はルドルフは気性が荒いところがある」とは以前トレーナーくんから聞いたことがあったが…しかし何故ドアを蹴り壊したんだい?
部屋のあちこちにもはや修繕というよりはリフォームを要するレベルの破滅が齎されているが…きみ、本当にトレーナーくんの愛バなのかい?
もし私の勘違いだとすれば、盛大に騒ぎを起こしてしまって申し訳ないのだけれど。
ひょっとしてきみ、トレーナーくんの愛バを自称しているだけのやばい奴じゃないだろうね?
ドアの破壊に至った経緯としては多分に私の所業が影響していることは言うまでもないが、しかしこれは短絡的な解決に走った生徒会長のせいだと思うよ。
後生だから、私のせいにだけはしてくれるなよ?
…というかきみ、合い鍵を持ってたんじゃなかったのかい?
思わず唖然としてしまったその一瞬の隙に、シンボリルドルフ会長は靴を脱ぎ棄ててずんずんと室内に突っ込んでいく。
慌てて後を追いかけ、会長に続いて寝室へと滑り込む。
「トレーナー君、無事か!?」
「おはよう、トレーナーくん」
ひょいと生徒会長閣下の横から顔を出せば、ベッドから身を起こしてぼんやりとしていたトレーナーくんが、緩慢な動作でこちらを見た。
……ああ、顔色は大分改善したようだね。良かった。
これならば多少は動けるだろう。
後は風邪薬などをきちんと飲むようにして、この暴君が無茶苦茶しないように見張っておかなければ。うっかり持って帰られたりしまわれたりするのは絶対に避けたい。
私の脚をどうにかしてしまうような優れたトレーナーくんを失うようなことがあれば、それは世界の損失だ。そんな世界は赦されな―――
「…うわ。
残念だよ。滅ぼさないと駄目だねぇ、世界。
「…え?」
目が覚めれば、小窓から差し込んでくる陽の光はすっかり赤色に染まっていて、盛大に寝過ごした事を知らせていた。
壁に掛けられた時計は、殆ど縦の直線になりつつあるところ。
いつの間にやら、夕暮れ時だった。
頭が働かない。
風邪をひいたのだったか。
ぼーっとして動かない頭で、ひとまずベッド脇に置かれた錠剤をまとめて胃に流し込む。
ああ、これはアグネスタキオンが用意しておいてくれたんだな、と、薬を胃に流し込んだ後になって思い出した。
そういえばアグネスタキオンが来ていたのだったか?
薬品類に関しては彼女を頼ることは、まあ時折身体が妙な色に発光するというおかしな副作用が発現することがあることを除きさえすれば正解なのだろう。
今朝方に薬を飲む際も、おかしな副作用がない事を半ば祈りつつだった。
何故か常備薬を買ってくるたびになくしている辺り、物の管理が杜撰なのだと思いたい。
そのアグネスタキオンが、まさか不調を察知してわざわざ看病に来てくれるとは思わなかったが、また授業を放棄したのだろうか、あの変人は。
しかし、介抱された時は妙な安心感があったのも事実だった。
思わず、甘えてしまいそうになるほどに。
そして、あれは幻覚だったのではないかと今でも疑っている。
幻覚でアグネスタキオンを見たとすれば私の精神は相当な危険水域まで来てしまっていることだろう。
……とはいえ先ほど薬を飲んでいるし、明らかに普段使わないトレイにわざわざ薬包紙を敷いて薬を置いておくほど、自分に余裕があったとは思えない。
それに、薬包紙など部屋に備えがあるはずもない。
記憶があやふやな自分がやったとは考えられないので、現実として、看病してくれていたと見るべきだろう。
喉の渇きを感じて、見たことのない水差し…というかこれはただのフラスコではないだろうか…を取り上げ、グラスに水を注いで呷る。
時間が経って温くなった経口補水液は大変に不味い物だったが、身体が水分と塩分を求めていたのか、よくよく染み渡るようだった。
一息ついて、やっと少しだけ頭が回り始める。
アグネスタキオンに薬を貰ったことで少し症状が落ち着き、身体を休めることができたのは有難いのだが、想像以上に眠ってしまっていたようだった。
ベッドで上体を起こしたまま、窓の外をぼんやりと眺める。
窓の外はいつもと変わらない風景。
しかし、それを彩る色彩だけは、滅多に見かけないような色をしていた。
何はともあれ、ひとまず体調を整えなければ。
薬は先ほど飲んだし、ひとまず体温でも計っておこう。
…余程疲弊していたのだろうか。
確かに、ここ数年程まともに仕事から離れて休暇を取った記憶がない。
ルドルフのリフレッシュに付き合ったりと息抜き自体はしていた筈なのだが。
しかし休暇と言うと記憶にない。
それこそトレーナーとして働き出してからというものの、仕事が面白くて仕方なく、やがてやることが増えるにつれてそれが常態化していった。
…実家に帰るどころか、年がら年中何かしら仕事をしていたような気がする。
ほどほどにやれていると自負があったため、あまり認めたい話ではないが…ひょっとすると、自分は働き方が下手なのかもしれない。
そういった意味では、大事になる前にただの風邪で寝込むことになったのは、働き方を自覚する上で良かったと受け取ることもできるだろう。
あまり賢くない私は、痛みを伴う失敗でもしなければなかなか学習できないのだ。
それに、突然倒れたりしたりすれば、ルドルフやテイオーを放り出すことになってしまう。
二人ともこれからがあるウマ娘たちだ。
それを私の都合で勝手に離脱するなど、無責任な真似は出来ない。
…とはいえ年齢的にも、そろそろ体力の低下が避けられなくなってくる。
10代の頃のように体力に任せた無茶な出力を保ち続けることは出来ないのだ。
これからは自分の体調管理もある程度考えなければならないのかもしれないが、働く量を減らすということは、質を上げて補わなければならないということ。
個々人に割ける時間の少なくなりがちなベテランの手法から、改めて学ぶ必要があるだろう。
何にせよ、誰がどう考えても長時間雨に打たれたまま外に居ることは控えるべきだった。
ふと、携帯端末を拾い上げて画面を確認する。
ルドルフやテイオーからメッセージが来ているかと思ったが、入っていない。
こんな時間までトレーニングをすっぽかして眠りこけていたにも関わらず、妙だなと思いメッセージアプリを開いてみれば、どうやら既読を付けているどころか返信までしていたようだった。
記憶には残っていないが、朦朧としたまま返信したのかもしれない。
幸いにして、おかしな発言はしていなかったし、トレーニングも本日は中止の旨を伝えて…いや、おかしい。
おかしいというべきか微妙なところではあるが、ルドルフからの報告によれば、昼休み直前頃からアグネスタキオンが暴れているらしい。
詳細は追って連絡、とのことだが、今朝方ここで看病していた人物と同一存在とは到底思えないような暴れっぷりだそうで、胃が痛み出す。
幸いにしてこうしてこんな時間まで見事に眠り続けていたということは、私自身には影響はないようだったが、問題はその始末に追われるルドルフだ。
つい昨日リフレッシュしたばかりだというのに、その翌日にはまた無駄な疲労を貯め込ませてしまう事になるとは。
また何かリフレッシュさせてやらないとならないかもしれない。
それに、テイオーとの約束もある。
流石に反応を見ていれば、二人同時にリフレッシュに連れ出すというのは現状では避けておいた方が無難だろう。
今度はずぶ濡れになることだけは避けたいと切に祈っていると、体温計が電子音を鳴らし始めた。
取り出してみれば、37度5分。
寝込む前の考えたくもないような体温だったことに比べれば、随分とマシになっていた。
頭痛と怠さはあるものの、身動きが取れなくなるほどではない。
とはいえ、どうにも頭が本格的に動いてくれない。
ぼやけたような、どこか薄いベールの向こうにいるようなふわふわとした違和感が抜けきらない。
トレーニングも休みにしているし、今日はこのままもう一度休んでしまおうか。
その前に、寝ている間に汗をかいてしまっていたようだし、シャワーでも浴びて…
ばきっ。ばこん、ぱりん、がしゃん。
ベッドから立ち上がろうとして、そのままベッドに戻った。
なんだ今の景気のいい音は。空襲か?部屋が揺れましたよ?
思わず目を白黒させていると、部屋のドアが大きな音を立てて開け放たれた。
「トレーナー君、無事か!?」
始めに飛び込んできたのは、血相を変えたルドルフ。
続けて、ぬるりと滑るような動きでアグネスタキオンがその脇から顔を出した。
「おはよう、トレーナーくん」
…なるほど、先ほどの空襲か何かが近づいてきた事で助けに来てくれたわけだ。
開け放たれたドアの向こうにちらりと覗いている、見慣れた建材らしきものがあられもない姿になっているが。
…。
え、我が家が戦場になってるの?
「うわ」
彼女たちの後ろには、惨い目に遭わされたと思しき見慣れた観葉植物が転がっている。
あぁ、またルドルフから貰ったプレゼントが…。
ふたりともそんなに慌ててどうしたの?
と、声を上げようとした。
その筈だった。
その時、ふと自分が風邪をひいていることを思い出して―――
ぼんやりと定まらない思考が咄嗟に上手く口を回せず、喉から出たのは違う言葉だった。
「ふたりとも近づかないでくれる?」
そして二人揃って、びたんと酷い音をさせて床に倒れたのだった。
「…は?」