「…は?」
ルドルフとアグネスタキオンが突然目の前で倒れた。
しかも、前のめりに顔からいった。
うん?
今、私は何と言った?
風邪をひいているから近づかないで欲しいと言おうとしたのだが。
何故二人は倒れたのだろうか。
…。
駄目だ。
頭がぼんやりとしていて、いまいちはっきりとしない。
しかし、顔から倒れこんだのは心配である。
「…大丈夫?」
ベッドから立ち上がり、恐る恐る声を掛けてみるも、当然のように返事はない。
ルドルフの方は微動だにしないし、アグネスタキオンは何かぴくぴくと時折痙攣したように動いており、なんというか…。
「正直近づきたいとは思えない…」
ひとまずベッドサイドに置いてあったマスクを付ける。
誰だこんな無駄に高性能なマスクを購入したのは。
マスクの性能が高いということは、ほぼイコールで息が辛いということである。
「…しかし私もトレーナーの端くれだ」
絶対にウマ娘に風邪をうつしたりすることだけは避けなければならない。
そして、倒れているウマ娘を放置することもできないのである。
「…やだなあ」
何故か思考の端端が口から漏れている気もするが、先程まで寝込んでいたので少々様子がおかしいのかもしれない。
幸いにして、二人は気絶しているようだし、多少おかしな言動をしていても気付かれる前になんとか立て直せば良いだろう。
というか、もういっそこの二人を保健室まで連れて行ったら寝直しても良いだろう。
「さて、と」
ごろん、と。
まずはルドルフを転がして、仰向けにしてみる。
………。
………………。
「あの、ルドルフが泡吹いてるんですが」
……。
「見なかったことにしたい」
アグネスタキオンも同じように転がすも、こちらはいつもの笑顔のまま白目を剥いていた。
怖い。
何が怖いって、何故か突然二人して意識を失って倒れた事である。
自分では風邪だと思っていたが、なにかやばい病気にでもなっていたりするのだろうか。
或いは……もしかすると、寝込んでいる時に汗をかいていたようだから、汗臭かった?
ウマ娘の嗅覚は人の千倍だと聞くし、もしかすると汗臭さで…?
「いやいや、そこまで汗臭いだなんて…」
服の胸元をつまみあげ、鼻を寄せる。
流石に寝汗を随分かいていたためか、多少汗臭くはある。
「……もしそうだったとしたら立ち直れなくなりそうだ……」
念の為、消臭スプレーをあちこちに吹き付け、自分にもかけてみる。
…大差ない気もするが、やらないよりはマシだろう。
ううむ。
どうにも頭が回らない。
この惨状を前に、何から手をつけていいのか分からずに思わず消臭スプレーをぶちまけたものの、この二人をどうしたものか。
『うわああああああああ!?なにこれ!?強盗!?』
最近徐々に聴き慣れつつある声が、玄関から響いてきた。
もしかするとこれは救いの手なのではないだろうか。
今の私は全くもってアテにならないのだから。
ルドルフの体の下に手を差し込んで、ひょいと持ち上げる。
……相変わらず、見た目の印象よりもはるかに軽い。
ひとまず、病人の居たこの部屋に二人を放置して伝染してしまってはまずいので、リビングのソファに移動させて、丁度来たらしいテイオーにお願いして保健室まで……ん?強盗?
ルドルフを抱えて廊下に出ると、そこは地獄のような惨状だった。
「なにこれ、戦場?」
思わずそう呟いてしまうのも無理はないと思う。
廊下の壁には何かに引き裂かれたような盛大な引っ掻き傷がついて、下地が見えているし、壁紙も大きく剥がれている。
玄関を見れば呆然と立ち尽くすテイオーの姿と、寮の廊下がぽっかりと四角く切り取られたようにぽっかりと見えていた。
「……ドアはどうした?」
足元を見れば、フローリングにも亀裂が走っているし、瓦礫のようなものが無数に転がっている。
瓦礫の中には、数年前にルドルフに貰って、大切に育てていた観葉植物だったものも転がっている。
反対側、リビングの方を見れば。
リビングの引き戸も消えており、その向こうは筆舌に尽くし難い光景だった。
玄関のドアがリビングに落ちているというのもなかなかに新鮮な光景だなと、ぼんやりと霞がかったような頭で考えたあたりで、私の思考はショートした。
「ショートしたというか、何も考えたくなくなってきた」
とりあえず、来客を迎えることにしよう。
びっくりしたような顔で固まっているトウカイテイオーをそのままにしておくわけにもいかないだろう。
「やあ、テイオー」
声をかけると、驚いた表情から一転、にっこりと笑顔に変わる。
年齢的にはルドルフとそう大差ないところではあるのだが、この年頃の1歳2歳と言うのは結構大きいもの。
並ぶと、よく似た流星や毛色のおかげで、本当に姉妹や親子のように見える時がある。
そんなところがあるせいか、いつも表情がころころと変わって可愛らしいな、と思った。
「今日もかわいいね」
精一杯の平静を装った声を出したつもりだったが、何か余計なノイズが言動に混ざった気がした。
「
部屋の中で爆弾でも爆発したんじゃないかっていうような状況で、カイチョーを抱えたトレーナーが爆弾を放り投げてきた。
「うぇえええええええ!?」
一瞬、頭の中が真っ白になる。
かわいい?誰が?ボク?いやこの状況からしてボクしかいないよね。
なんで急にプロポーズ?え?結婚?昨日くれたアンクレットってやっぱりそういうことだったの?じゃあボクとうまぴょいする?いいよ?でもちょっとこの瓦礫まみれの部屋はムードが足りないかな?あ、寝室は被害出てないのかな。ならいっか。そのカイチョーと多分どっかにいるタキオン先輩はちょっとその辺に放り出しておいて、ゆっくりしよっか。
いや待って、なんで急に?
……?
「えっ!?何!?あっ、そういうこと!?」
そして、状況が理解できてくると共に、お腹の底から喜びが湧き上がってくる。
二重の意味で。
なるほど。
これ、
口が滑りやすくなる、という効果が出てるっぽい?
「そっか。ねえトレーナー、カイチョーとタキオン先輩、どうしたの?」
「わからないけど、気絶しちゃったみたい」
少し困ったようにトレーナーが言う。
これはもしかすると、チャンスというやつかもしれない。
カイチョー風に言うと、好機到来?それとも千載一遇?
「なるほどねー…」
頭の中で、「かわいいね」の言葉が反響し続けている。
なんで録音していなかったのかと、つい先程までのボクを正座させてお説教したいくらいだった。
あの言葉が飛び出した、と言うことは今のトレーナーは自白剤の影響下にあるのは間違いない。
そして、本人は自白剤の影響に気づいていない。
違和感くらいは気づいて居るのかもしれないけれど、困ったような顔をしている辺り、この散々な状況と、気絶してるっぽいカイチョーを抱っこしているという割と意味不明な状態にあるせいか、いつものキレがない感じ。
自白剤の影響については、さっきタキオン先輩から聞き出してある通りと考えて良さそうだった。
休ませるために飲ませた睡眠薬の健忘作用がまだ残っている上に、自白剤というか、お酒を飲んだ時みたいに会話の自制心部分を抑制する薬が効果を発揮しているみたい。
行動自体はいつも通りだから気をつけるべきだとは言ってたし、下手に手を出すような真似はしないほうがいいだろう。つまり残念なことだけど、そういうのはお預けになる。
……要するにどう言うことか。
本当の事しか言えなくなると言うよりは、口が滑りやすくなってる、ということみたい。
ということは、だよ。
「かわいいね」という発言は完全に本心ということ。
勝った。
完全勝利だよ。
出遅れからの1バ身差どころか大差勝利だよ。
昨日貰った左足のアンクレットといい、トレーナーがボクの事を嫌いではないというのは確実だし、むしろ女の子として好きだと思われていることは間違いない。
思わず尻尾が上下にばさばさと暴れてしまう。
いや、少し待った。
かわいいと思われていること自体はこれで確定とみていいけれど、問題はそこじゃない。
その言葉でだいぶ安心したのも事実だけど、あの試算が正確だったとすれば、薬の効果時間はあと3分程度しかないと見ていい。
タキオン先輩の煙幕でだいぶ出遅れてしまっていたおかげでこの状況に持ち込めたのは幸運だけど、一方で時間についてはだいぶシビアだ。
部屋に上がろうとして、瓦礫まみれであることに気づいて足を止める。
ガラスのカケラなんかも散らばっているし、上がらないほうがいいかな?
話すだけならここからでも…
「いいよ土足で」
そんなことを思っていたら、トレーナーが土足で上げてくれた。
やさしいなー。もうやけくそなのかもしれないけど。
「はーい!」
足を怪我することがないように、慎重に。
でも時間がないので、急いでトレーナーの元へ。
いつもの距離。
でも今日はちょっと近め。
なんでかって?
かわいいと思われているのであれば、容姿を活用しない手はないからね。
思わず口許が緩む。
トレーナーとボクは結構身長差があるから、近づくと見上げる形になる。
にこにこと笑って見上げつつ、思考を巡らせていると、ふとトレーナーが呟いた。
「ああ、ガチ恋距離と言うんだったかな……それで、心当たりないかな」
「ぴぇっ!?」
ガチ恋距離!?そんな単語出てくるの!?トレーナーから!?
びっくりした…。
思わず抱きついちゃうところだったよ。やっぱりうまぴょいする?
「……ええと、ないよー?」
ひとまず、カイチョーが気絶している理由を聞いているのだろうけれど、しらを切っておく。
状況を聞けば予想はできるだろうけど、そんなことに使う時間がもったいないし。
今回、思いっきり出遅れたと思っていたけれど、状況は完璧にボクに味方した。
カイチョーとタキオン先輩はおそらく玉砕。
何か都合の悪い言葉がトレーナーの口から出てきて気絶でもしたんだろう。
部屋の中がこんな有様だし、多分下手人はあの二人だろうし、それについて何か言われたのかもしれない。
だけど、幸いにして出遅れたボクは無関係。
トレーナーは困ったように「だよね」なんてのんびりしているし、ボクに対しての現状の感情はほぼフラット。
ボクもあの二人に乗っかって何か仕出かしていれば、そっちの事が意識の上で先行した反応が帰ってくるだろう。
口が滑りやすい状態、というか思ったことがそのまま出る状態ということは、悪感情もストレートに出ると言うこと。
普段はトレーナーが心の中で折り合いを付けてくれて大目に見てもらえていることでさえも、場合によってはストレートに飛んでくる。
薬の影響でぼんやりしている上に、発言がうまく制御できない状態みたいだから。
確かに、ここについてから耳をそばだてていたけれど、トレーナーにしては独り言が多かった。
普段あんなに静かなトレーナーが独り言を垂れ流しにしている、ということは、薬の効果がちゃんと出ていると言うことに他ならない。
仕掛けるのは今しかない。
トレーナーが正気に帰るであろう残り3分程度に全力を尽くすんだ。
「ねえねえ、トレーナー!」
「うん?」
いつもの仏頂面。
今日はマスクを付けているせいで、余計表情はわかりにくい。
トレーナーは人間のヒトだ。
ボクたちみたいに、尻尾や耳の動きで感情を表したりはしないから、何を考えているのかわかりづらいところがある。
しかもトレーナーは本当に顔色が変わりづらいから、なかなか内心が読めない。
カイチョーの微笑みぐらい、何を考えているのか読ませないところがある。
だけど、今のトレーナーは、本心が口からこぼれ落ちている。
「ちょっと聞きたいんだけどさー!」
だからボクは、この好機を思いっきり活用する。
今まで好位抜け出しばかり意識していたけれど、こういうのは差しって言うんだろうか。
意識してやったわけじゃないけれど、結果的に出遅れたことが最上の結果を運んできてくれた。
常に好位置をキープするのはカイチョーのやり方で、ボクも真似しようとしていたけれど…なるほど、状況に応じた戦い方があるってことだね。
たまに例外はあるけれど、レースの勝者はいつだって一人だ。
だから、偶然かもしれないけれど、運も実力のうち。
なにせダービーは
そして、
だから今日は、一番運がいいウマ娘が勝った。そういうことだよね。
ねえ、そうでしょ?カイチョー。
だから。
今日はボクの、勝ちだ。