「会長…一体何が…」
ベッドの前で呆然と立ち尽くすエアグルーヴ。
女帝にしては珍しく、顔色が青い。
まあ、確かに慕っているルドルフが寝ているでもなく、気絶している姿というのはこれまでずっと側にいても見たことはなかっただろう。
正直なところを白状すると、私もルドルフがこうして意識を失っているところを見るのは随分久しぶりだった。
足がつかないプールで無理矢理泳いだ挙句、足をつって溺れかけた時以来だろうか。
あの時は随分と焦ったものだった。
とはいえ、眠っているルドルフは発見当初よりは少々顔色も良くなり、エアグルーヴと対面する前に口元もちゃんと拭っている。
呼吸も安定しているので、あの時ほど慌てなくて済んでいるのが救いである。
これで泡を吹いているところを目撃されていれば、今度はエアグルーヴが卒倒しかねなかった。
「…貴様がいながら何があった?」
暗い顔をしてこちらを振り返るエアグルーヴ。
「すまない、エアグルーヴ。風邪で寝込んでいて、目が覚めたらこんな状態だったんだ」
「……なるほど。となると今回は貴様も被害者か。マンハッタンカフェは何か見たか?」
「いえ……私も来た時にはこの状態でした」
私とマンハッタンカフェには声をかけてきたエアグルーヴだが、先ほどから部屋の隅でぺたんと座り込んでしくしくとべそをかいているメイショウドトウを視界に入れないようにしているような気がしてならない。
意外とこれで清純派というか、初心なところがあるので触れたくないのかもしれないが、できれば助けてあげてもらえると嬉しい。
なにせ流石に目も当てられない姿というか、あまり公衆の面前に出せない姿になっているためタオルケットは掛けたものの、私にあれは助けられないのだ。
流石にあれだけ食い込んでいる縄に触れて解くというのは、いくらトレーナー業といっても危ない橋を渡りすぎである。
マンハッタンカフェも解いてやればいいのにとは思うが、最初の一言からもわかる通り、アグネスタキオンを探してこの部屋に来たようなので、恐らくは解けない類のものだったのだろう。
そして騒ぎの元凶がアグネスタキオンだというから、恐らく何かしらメイショウドトウが運悪く出くわすなりして、捕縛されたものと見ている。
「エアグルーヴ。すまないけど、彼女らを保健室へ」
「……確かに、今はそうすべきだな。ブライアンはアグネスタキオンを。手が空いているならマンハッタンカフェも手伝ってくれ」
そんなことを言いながら、エアグルーヴはそっと壊れ物を扱うような手付きで私が運ぼうとしていたルドルフをさらりと抱き上げた。
「体調が悪いのだから無理はしなくていい」
「いいの?」
わかっていたことではあるが、この女帝、普段の言葉遣いが少々刺々しいところがあるので誤解されがちではあるが、実は結構面倒見がいい。
「貴様が倒れたら会長が困る」
…そのはずだったが、彼女の私に対する評価はルドルフ基準なのであった。
エアグルーヴがルドルフを運び出し、マンハッタンカフェが流されるままにテイオーを運び出していった。
この後、アグネスタキオンを捕縛した旨を校内放送で知らせ、騒動の鎮圧にかかるらしい。
「……それで、お前この有様でどうするつもりだ」
アグネスタキオンのだぶついた袖を縛りながら振り返ったナリタブライアンは、ぶすっとした顔でそんなことを問うた。
「この有様?」
「部屋」
ひょいと顎で寝室のドアを示され、怪訝に思いながら廊下に出て見れば、それはそれは大変に酷い有様だった。
怪獣映画か何かのセットのような有様である。
玄関ドアは忽然と姿を消したと思えばリビングのソファで寛いでおり、部屋は瓦礫とガラス変など、破壊の痕跡ばかり。
窓も粉砕されており、なんとまあ随分と風通しが良くなった物だった。
「ええ……」
ルドルフからのプレゼントだった観葉植物までもが無惨な姿となって足元に転がっている。
思わず拾い上げたが、鉢植えには盛大に罅が走っているし、茎は根元付近からぽっきりと折れてしまっていた。
接木のようになんとか元に戻らないかと手を尽くするも、手遅れであるようだった。
「……嘘でしょ」
そんな言葉しか出てこない。
なんとか気力を振り絞って部屋を見て回る。
仕事道具などはクローゼットにしまっていたし、直近で必要になりそうなものは全て寝室に置いてあったから無事であるとはいえ、部屋としてその機能を十全に発揮できそうなのが寝室と洗面所、シャワールームだけという有様である。
本当に一体何があったのか。
押し込み強盗でもここまでの破壊はするまい。
ここでハリウッドもかくやの銃撃戦でも繰り広げられたのかと思うほどの有様。
部屋に弾痕がないのがむしろ不思議というレベルで破壊されていた。
私に恨みのある人物が破壊の限りを尽くしたのかもしれない。
寝室にいなかったら今頃死んでいたかもしれないことを考えるとぞっとする。
寝室へ戻ってきて、なんとか最後の気力を振り絞ってデスクチェアに腰を落とす。
疲労感がここにきてピークに達しそうだった。
私が一体何をしたというのだ。
「…駿川さんを呼んでおく。部屋の復旧までの仮宿でも手配してもらえ」
「そうだね……」
いつも通りに返事を返すことすら億劫になってしまう。
「…なんだ、その。御愁傷様というやつだ」
あのナリタブライアンに気を遣われていた。
「あの、助けてもらえませんか…」
ナリタブライアンが出ていってしばらくして。
部屋の隅でメイショウドトウがか細い声で鳴いていた。
やばい、忘れていた。
「……助けようにも、それだけ食い込んでいると……」
「そ、そろそろ苦しくて……だめでしょうか……」
もぞもぞと体を揺するメイショウドトウ。
だんだん縄が食い込んでしまっているのか、少々苦しそうな表情をしている。
後ろ手に縛られているため、流石に放置もできない。
「わかった。助けを呼ぶから少し待ってて」
先ほどナリタブライアンが駿川さんを呼ぶと言っていたので、助け自体は来ると思うが、鋏なりなんなりがないと厳しいだろう。
部屋には鋏やカッターナイフ程度なら置いてあるのだが、全てリビングにおいてあったせいで瓦礫の下に沈んでいる。
「あの、あのぉ………トレーナーさん………」
そう思い、端末を取り出して連絡しようとしたところで、メイショウドトウが小刻みに震えながら言った。
「実は………そのぉ、お手洗いに………」
「あっ」
どうやら悠長に待ってもいられない状態らしかった。