ーーーーあっ。
か細い声が、鳴いた。
振り返れば、背中を丸めがちなメイショウドトウの白く、か細い喉が露わになっていた。
大きな音に驚いたのか、仰け反り、呼吸を忘れたかのように動きを止めている。
仰け反った際にふわりと浮かび上がった癖のある鹿毛。
一際目立つ大きな流星が、時を思い出させるようにゆるりと降り落ちて行く。
思わず、こちらの呼吸までもが止まるようだった。
握りしめていた懐中電灯が手から溢れ、ごとりと意外と重い音を立てて床に転がってようやく、時間が動き出したかのように声を上げることができた。
「えっ」
まさか。
…メイショウドトウ?
「あっ、あっ…」
耳までもを真っ赤に染め上げ、ぴくん、ぴくんと小刻みに身体を震わせる姿は、いっそ不健全なまでに生の質感を叩きつけてくる。
まずい。
複数の意味で大変にまずい。
まずいというか、手遅れになったかもしれない。
「だ、大丈夫…?」
恐る恐る声を掛けると、硬直していたメイショウドトウが息を吹き返す。
「んん…っ、はぁっ…せ、せーふ…せーふです…」
がば、と仰け反っていた体制を元に戻すと、荒い呼吸を繰り返している。
セーフだと言い張るのであれば確かにセーフかもしれない。
どうにか一命を取り留めたらしいメイショウドトウは、半べそになりぷるぷると小動物のように小刻みに震えながらも、なんとかして乙女としての一線を守り切ったらしい。
だが、この絵面を第三者に目撃された私はどう考えてもセーフではない。
「ひゅー、ひゅー……大丈夫…大丈夫です…わわわ、私は往生際が悪いのだけが取り柄…なので…っ!」
喘鳴じみた呼吸を繰り返しながらも、気丈にも小さく拳を握って言う。
うん。
メイショウドトウの往生際が良かったら私の部屋に敷かれたカーペットは重バ場に沈んでいるだろうし、それ以前に二度とこの部屋に戻ることが許されなくなりそうである。
本当にその取り柄には救われた思いで一杯だった。
できればこれからも、少なくともこの窮地を完全に脱するまではそのままの君で居てもらいたいと切に願う。
ありがとうメイショウドトウ。
本当にありがとう。
仮に堤防が決壊していたら、きっと私と一緒に死んでもらうことになるところだった。
寝室の入り口に立っている怖いお姉さんと、あとなんらかの手でその事実を耳に入れてしまったルドルフの手によって。
「な、な、なにをしているんですか…?」
その怖いお姉さんが、震える声で訪ねてくる。
彼女がぶら下げているドアが、みしみしと悲鳴をあげる。
シンプルな金属製のドアノブが、本来決して立ててはならないような音をその身から発し、悶え苦しんでいた。
しかし残念なことに、そのごくごく自然で真っ当な問いかけに対して、私にはこう答えるしかないのだ。
「ご覧の通りですよ」
と。
一体何がご覧の通りなのか。
私にもよくわかっていないが、私の把握している状況を端的に示していると言えるだろう。
気が付けばルドルフとテイオー、アグネスタキオンが自室のベッドで気絶しており、マンハッタンカフェにあの目で凝視され、メイショウドトウは部屋の隅で小刻みに震え、エアグルーヴがナリタブライアンを引きずって乗り込んできて、気絶した三人をどうにかして運び出し、そしてメイショウドトウの縄と格闘しているような状況なのだが、これを説明するには時間も状況の理解も足りない。
子供向けの特撮ヒーロー番組や公共放送の教育番組ですら、もう少し丁寧に事の経緯を描写するだろう。
しかしこの切迫した状況でいちいち順を追って説明している余裕はない。
メイショウドトウの犠牲を割り切ってしまえばいいと思うかもしれないが、その結果被害を受けるのは彼女の尊厳だけでなく、私の生命活動もついでのように被害を受ける。
また、こんな状況を丁寧に説明したところで更に混迷を深めるだけだ。
駿川さんの目線からすれば、アグネスタキオンを捕まえたがトレーナーの部屋が蹂躙されているとかなんとか聞かされて駆けつけたところ、当の被害者?が明らかにいかがわしい行為に手を染めているのである。
手を染めようとしているを通り越して、絶賛染めている最中にしか見えないことだろう。
本質的には被害者の会に近いと思うのだが。
実際がどうあれ、この状況にはもはや情状酌量の余地は残されていない。
どれほど芸術的で見事な言い訳を思いついたところで、言い訳を述べる前に射殺される可能性が高い。現行犯処理へと一直線だ。
先ほどから背中を伝う冷や汗が気持ち悪い。
違うんです。誤解です。話を聞いてください。説明させてください。
そういう言葉を紡ごうと思えば簡単なことではあるのだが、自身が状況を理解していないこの状況での下手な言い訳はまず間違いなく印象を悪化させる。
駿川さんは聡い。
そもそも、このトレセン学園でそれなりの修羅場を経験し鎮圧してきた駿川さんであれば、早とちりで事態を悪化させるような真似はしない。
だからこそ、現状をありのまま伝えるしかなかったのだ。
そして、こんな状況で意味不明な発言をした私を訝しんでくれる程度には良好な関係が構築出来ているものと信じる他ないのである。
「見て分からないから聞いているんです」
ぴしゃり、と斬り捨てられた。
当然の反応だった。
当事者になりつつある私にも訳が分からないのだから。
駿川さんは、外れたドアを乱雑にドア枠に立てかけ、ずかずかと部屋へと踏み込んでくる。ガサ入れを受けた反社会勢力の下っ端はこんな気持ちになるのだろうか。
思わず反射的に立ち上がった私の目の奥を覗き込むように、ぐいと顔を寄せてきた。
彼女の帽子越しに、額がそっと触れる。
そっと触れて、そのままめりめりと押し込まれる。
いつものように薄く細められた瞳の圧力が凄まじい。
「な・に・を・し・て・い・る・ん・で・す・か?」
わざわざ一文字ずつ区切って強く発音してくるあたり、相当頭に来ているらしい。
この状況を見て正義感を胸に怒り狂わないのであれば、教育に係わる者としては失格なので、その反応は正しく、ごく真っ当だ。
だが、ここはトレセン学園であるという事を是非思い出していただきたい。
大抵のケースにおいて被害者になるのは私たちの方である。
それと、頭にくるのは大変結構だが、私の頭は今まさに胴体からもげようとしている。
…普段の温厚な態度故に忘れがちだが、これで意外と気性が荒い所があるのだ。
トレセン学園なんてところでトラブルにいつも対処していれば荒むのも当然かとは思うが、割と昔からそういう所があった。
過去に一度、彼女と一悶着あった折には、締め上げられた挙句病院送りになった事すらある。
故に、こう言う時の対処も心得ている。
ご覧いただいても何も分からないという状況を叩きつけて一旦思考と動きを止めてしまえばいいのだ。
この聡明な理事長秘書であれば、一瞬でも空白ができれば冷静になる余地が生まれる。
今回その手が私の首へと伸びてきたりしなかったのは、少なくとも一瞬でも思考させる余地を挟んだことによる成果だと考えても良いと思われる。多分だが。
「何も分からないことが伝わったならそれで。とにかく、メイショウドトウの乙女の尊厳が今にも決壊しそうなんです」
「今にも乙女の尊厳が散らされそうになっているようにしか見えないんですが?」
案の定、こんな説明ではご理解いただけない。
当然である。
とはいえ、対話を続けてくれているのは幸いである。
「とにかくメイショウドトウの縄を解くのを手伝ってください。もう時間がないんです。いや本当に余裕がないんです」
「納得がいくように説明してください」
「あの」
「説明してください」
ルドルフのような怒り方でもなく、テイオーのように激発するでもなく、低温のままぐいぐい押し込んでくる。
吐息が触れるような距離がこれほどまでに嬉しくないことがあるだろうか。
何なら死神の吐息にでも触れたような気になってくる。
「………」
「説明してください」
…怖っ。
…もはや形振り構っていられない。
メイショウドトウの震えがだんだん激しくなってきているし、半べそがもはや全べそに変わりつつある。
それに、ごりごりと押し込まれている私の首がもう持たない。
ふぅ、とため息を吐く。
無論、内心での話ではあるが。
仕方あるまい。
「助けて、
ぐいぐいと増していく一方だった強烈な圧力が、ぴたりと止まる。
細められていた筈の緑色が、一際大きく開かれてこちらを覗き込んでいた。
「……はぁ、わかりました。後で問い詰めますから覚悟しておいてくださいね」
どうやらなんとかご理解いただけたらしい。
ようやく押し付けていた額を退いてくれた。
ため息と、ぎろりとひと睨みはされてしまったが、駿川さんはメイショウドトウの元に駆け寄ってするすると縄を解いていく。
難航不落を体現したかのように解けなかったそれが、簡単に解かれていく様はいっそ気持ちがいいほどだった。
…。
…ねえ駿川さん。
その結び目、硬すぎてペンやら懐中電灯やらを駆使してもまだ解けなかったぐらい硬く結ばれてたんですが。
「あああああありがとうございますうううぅぅぅぅぅ…」
長きの雌伏の時を経て、遂に自由を得たメイショウドトウは弾丸のように飛び出していく。
どこかのスピード狂ばりの瞬発力だった。
怪我をされては困るので、こんな狭いところで全力を出さないでほしいのだが、全力を出さなければ恐らく怪我を通り越して致命傷を負うのだろう。
ドップラー効果じみた残響を残しながら飛び出していった。
「……助かりました」
額と首は地味に痛めつけられたものの、話のわかる理事長秘書のおかげでなんとか窮地を脱出することができて何よりであった。
これが我が担当ウマ娘諸姉であらせられたならば、今頃締め上げられていたのは間違いない。
こういう繊細な問題においてはかの皇帝はまるで役に立たないどころか火に油を注ぎに来て事態を悪化させてしまいがちなので、気絶していてくれて良かったと申し訳なく思いつつも胸を撫で下ろす。
「ずるいです」
この件に関しては恩人と呼称すべき駿川さんは若干お怒りのようで、そっぽを向かれてしまったが。
「すみません」
「何年ぶりですか、普通に呼んでくれたのは」
そっぽを向いたまま、ぽつりと呟いた。
少しばかり、寂しそうに。
「…どのぐらいでしょうね」
別に、それが嫌だったわけじゃない。
「本当に変わりませんね、
…変わらないと言われても、これでももういい歳をした大人だ。
いつまでも若い頃の気分のままでは居られないし、まだ学生であるウマ娘たちの前ではきちんとした大人として振る舞わなければならない。
じっとこちらを見つめる深緑。
覗き込むように、私を見透かすように。
これだからこの人は苦手なんだ。
自分の無駄に重ねることになった年齢が、立場がそうさせてしまう。
そんなもの、大した重さでもないにも関わらず。
プライベートと仕事の区別もついていなかった頃とは、何もかもが違っていた。
「ごめん」
こうして反射的に謝罪の言葉が口を衝いて出てしまうようになったのは、いつからだっただろうか。
その緑色を見ていられなくて、思わず目を逸らしてしまう。
「またお酒に付き合ってくれればいいですよ」
「了解。いくらでも付き合…」
「…ぅぅぅぅぉぉおおおてあらいどこですかああああああ!?」
そして涙目のメイショウドトウが戻ってきた。
当たり前のように部屋に侵食し、我が物顔で半ば生活していたルドルフや、いつの間にか室内を把握していたテイオーとは違い、そもそも寮の構造自体を彼女は知らないのか。
「あぁ、そうか…」
涙目で足踏みをしているメイショウドトウを放置もできない。
「案内する。こっちだよ」
せっかく窮地を脱したと言うのに、間に合わなかったではあまりにも酷い。
案内するため、部屋を出る。
「本当に、ずるいですよ」
すれ違う瞬間、解いた縄を握りしめる音が微かに聞こえた気がした。