その後。
なんとか尊厳を守り抜く事に成功したメイショウドトウは足元をふらつかせながらも帰っていった。
貰い事故で散々醜態を晒してしまってしまったためだろうか。
自虐を散々述べ、涙目で、逃げるように。
あんな目に遭った直後なので、そっとしておいてやる以外に取れる手はなかったが、あれはいずれなんとかしなければならないだろう。
とはいえ、それは今の私の役目ではない。
今だけは、他人の心配をしている場合ではなかった。
送り出してドアを閉めようとしたところで、ドアが有給を取ってリビングで寛いでいることを思い出し、ため息とともに手を下ろす。
目下最大の危機であった時限爆弾を処理出来たのは良いが、この後に残っているのは怖いお姉さんへの事情説明だ。
どうにも今日は散々な目に遭っている。
普段から似たような目に遭っているのではないか、と問われればそれはその通りではあるのだが、全く状況が理解できないまま推移していくというのはどうにもよろしくない。
何せ、自分に理解できないにも関わらず相手に何とかしてご理解いただこうとしているのである。
そして相手はあの駿川さんである。
足も重くもなろうというものだ。
部屋に散乱した瓦礫や生活の潤いだったものの亡骸を、室内用スリッパが踏みしめる。
じゃりと床を擦る音が、酷く癇に触った気がした。
「…それで、何が起きたんですか?」
ところ変わってトレーナー寮の屋上。
真っ赤な夕陽は既に水平線の向こうに姿を隠しつつあり、洗濯物の掛けられていない物干し台がそこかしこに並ぶさまは、どこか病院の屋上を髣髴とさせる。
普段あまり屋上になど出ることがないし、星空を見上げるのであれば学園敷地内には絶好のスポットがいくらでもあるので、ますますこの辺鄙な屋上へ来る用事というのは少ない。
背後から掛けられた言葉には応えず、そのまま端へと歩いていく。
後ろを付いてくる足音は、風の音に吹き消されてどこかへ流されていく。
屋上を吹き抜けていく風は、少し強い。
風に嬲られ、好き勝手に踊る髪を鬱陶しく思いながら、欄干に身を預ける。
トレセン学園内でも珍しく、比較的手入れのされていないそれ。
塗装はところどころひび割れ、剥がれており、全体的に年季が入っている。
こうした建物にしては珍しく、邪魔なのか電気施設は地下にまとめられているおかげで、がらんとした屋上はどこか殺風景だ。
コンクリートの床に、赤錆の浮いた欄干。
何も掛かっていない物干し台以外で目に付くものと言えば、滅多に使われず、寂しげに鈍い金属の光沢を見せる灰皿がぽつんと隅に置いてある程度。
置いてあるには置いてあるが、吸い殻が入っていることの方が珍しい。
匂いに敏感なウマ娘の相手を日々しているおかげで、トレーナーの大半は日常生活を送る中で、自然と煙草というものから遠ざかっていく。
吸う者ないし元喫煙者は案外いるにはいるが、誰もかれも、翌日が完全オフでの時や、実家に帰省するなど、ウマ娘と接触するまでに匂いが消せる時ぐらいにしか利用しない者が多い。
故に、誰もかれもが思い出したように吸うぐらいで、自然と禁煙に成功する者の方が多いと言われている。
益体もない事を考えながら、遠目にトレセン学園の本校舎を眺める。
夜の帳に包まれていく中、ぽつりぽつりとそこかしこに明かりが灯っていく。
生徒会室に灯った明かりは、さて誰のものか。
「順を追って説明します」
正直自分でもさっぱりよくわかっていない状態にあるが、それでも。
説明しなければ大変な目に遭わされるのだけは分かっているから。
それにしても夕闇の時間に、屋上の欄干に寄りかかって洗いざらい吐かされるというのはどうにも刑事ドラマのクライマックスのようでよろしくない。
話し終わったら逮捕されるか飛び降りるかの二択しか残っていない。
さて、自己弁護の時間だ。
全てを話し終えた。
微に入り細を穿つように。
意識がはっきりする前にアグネスタキオンに風邪薬を貰ったらしいことも含め、全て吐き出した。
「…ああ…そういうことでしたか。道理で…」
全てを話し終えると、駿川さんは疲れたような顔をして額に手を当てている。
たかだか1時間程度の出来事だったはずなのに、思い出しながら話していると結構な時間を要してしまったし、ところどころうろ覚えであったがために、大変いい加減な説明となったところもあったが、駿川さんはその説明で何かに一応納得したらしい。
やはり騒動に関する情報は入ってきていたようで、私の話と合わせて何かが判明したようであった。
「話は分かりました」
一体何に納得したのだろうか。
「話しておいてなんですが、私が状況を把握していないんですよね」
思わずため息をついてしまう。
目が覚めてから怒涛の展開に巻き込まれたおかげで、情報も足りなければ、思考も追いついていない。
「後日、ちゃんと全体像も含めて報告しますね。部屋の修繕も手配しておきますのでご安心ください」
確かに、今把握したところでどうにもならないと言えばどうにもならない。
後で把握して納得するぐらいで丁度いいのかもしれない。
ロードサービスと同じで、こういう時は保険会社なり何なりを間に挟んだ方が落ち着いて対応できるのである。
その保険会社というか、仲介に入った者が殴り合いを始めるといったことさえ起きなければだが。
「ありがとうございます」
こういう時、持つべきものは頼れる理事長秘書だ。
火災保険の類は利かないだろうに、すぐに部屋の修繕を手配してもらえるのは有難い。
流石に完全復元は物理的に不可能だが、せめてルドルフがプレゼントしてくれた観葉植物だけはなんとかして生かしてもらえると有難い。
やることと言えば水やり程度ではあるが、私の部屋における私以外の生物と言えばあの観葉植物ぐらいなので、大切なルームメイトと言っても過言ではない。
どこぞの腕利きの殺し屋も、鉢植えは大変に可愛がっていたことだし。
まあ、大切なものは概ね寝室に置いてあるし、リビングにある大事なものはアルバムと、必要以上に大きいせいで「ぷち」の名を冠していていいのか悩むシンボリルドルフぱかぷちぐらいなものである。
どこかの皇帝陛下は目を離した隙にベッドに寝かせたがるのが悩み物だが。
学生寮に足を踏み入れる機会が滅多にないお陰で、ルドルフの私生活というのが今一つイメージが付いていないのだが、意外とぬいぐるみに感情移入するタイプなのだろうか。
そんなことを考えていると、ぽちぽちと、軽い爪音を立てて端末をタップしていた駿川さんが、ぱたりとカバーを閉じた。
事後処理の手配か、或いは報告でもしていたのか。
顔をあげると、その整った眉根が少し困ったように寄っている。
「それにしても、相変わらずウマ娘が関わると…なんというか…」
明言は避けたものの、言外に含まれた言葉は分かり易い。
「そうですかね」
そうは言ったところで、ウマ娘と関わらないでトレーナー業を名乗る訳にもいかないので、曖昧に答えるしかない。
「…そうですねえ。そういう体質なんでしょうか?」
実に不思議そうに、お淑やかに頬に手を当て、首を傾げられてしまう。
呆れたようなその声色から逃れるために、学園の明かりに目を戻した。
「トレーナー全般がそうだと思いますが。私は運がいいほうだと思いますよ」
こればかりは明言できるが、私の特異体質では、断じて無い。
仮にそうであるならば、トレセン学園のトレーナーはもっと潤沢にベテランが揃っていた筈だ。
いくら我々が職業上気を付けているとはいえ、彼女たちは年頃の少女なのだから、一つの失敗で嫌われてしまう可能性だって大いにある筈だ。
そんな可能性だってあったはずなのに、歴史はどこでどう間違ったのだろうか。
一つの失敗で監禁されたり、ご家族と挨拶させられたり、もしかすると見慣れない記入済みの紙を押し付けられ、担当ウマ娘の名前が書かれた欄の隣へ署名させられてしまうのがこのトレセン学園であった。
つまり、特異な性質が招いたと強弁することは不可能なのである。
日常的に起きている事故が、ちょっと今日は大きかった。ただそれだけの事だ。
「なんと言えば良いんでしょうか。連続通り魔に刺されたけど、他の被害者と違って重傷で済んだからラッキー…みたいなポジティブ思考ですよね、あなたのそれって」
駿川さんにしては表現が過激だと思うが、言わんとすることもわかる。
呆れたような声色。
流石にトラブルの対処でお疲れなのだろうか。
横目でちらりと伺えば、学園棟を眺めていた私と同じように、欄干に身体を預けて、同じ光を眺めている。
少しばかり距離のある位置。
いつもぴしりと姿勢を正した姿からは少し離れた、ほんの少しばかりラフな姿。
その姿に、私は何を重ねたのだろうか。
「…流石にそこまで行ったら素直に嘆きますよ。今回は…一張羅がばっさりいったけど怪我してないからラッキー、ぐらいの感覚です」
何せ怪我をしていないし、何だかんだでアグネスタキオンの処方が的確だったのか、体調が頗る良い。
それに、致命傷を受ける前に他ならぬ駿川さんの手により助けてもらえているので、さほど嘆く必要も感じない。
観葉植物に関しては素直にルドルフに謝らなければならないので、気が重いというか、折角のプレゼントを台無しにしてしまった負い目はあるが。
なお、ある程度状況を把握していそうな駿川さんが語らないため、誰が部屋を荒らしたのかについては未だ不明なままであった。
「結局何かしら被害を受けているんですけどねえ…」
視線をやる必要はない。
苦笑いされていることなんて、声色で分かるのだから。
お互いの視線は、あの光の向こうだ。
「ウマ割きの刑だとか、先人の遭ってきた待遇を考えれば十分です。今回は、病院送りにもなっていないどころか怪我もしていませんし」
「…ふぅ、分かりました。本当にそういうところですよ、
そう言って、ため息を吐いた駿川さんは、笑う。
どこか虚ろで、自虐的な笑み。
それは、あの日の事を思い出してのことだろうか。
視界の隅で、彼女が欄干から身を離す。
赤錆の浮いた頼りない欄干が、ぎしりと少しだけ鳴いた。
「風が強くなってきましたね。風邪をひかれていたようですし、お疲れでしょう。今はゆっくり休んでください」
確かに、熱を出していたのだった。
あまり身体を冷やすとぶり返すかもしれないので、早いところ部屋に戻っ…。
「はい。…いや待ってください。あの部屋、ドアも無くなってるんですが」
「あ、ひとまず今日のところは私の部屋を使ってください」
そして、とんでもない言葉が飛んできた。
「え?」
「お忘れですか?一応泊まり込みのために、寮に私の部屋、あるんですよ?
「…そういえば。忘れてましたよ」
部屋がある、という話自体は立ち話の中で聞いたことがあった。
時折疲れ果てて理事長室のソファで座ったまま眠ってしまっているところを目撃した事もあったため、この人本当に帰って休んでいるのだろうかと疑問に思うことが多い。
毎日毎日、早朝から声掛けに学園の門に立っているし、夜間の見回りまでやっているので忘れがちだったが、これでいて実は学園敷地外のマンションから通っているのだ、この人は。
とはいえ、流石に深夜にもなれば一度帰って、というのが辛くなる時間まで仕事をしていることもままあるため、寮の一室を押さえているのである。
諸々の被害を受けやすいため、修復しやすいよう工夫の粋が凝らされたトレーナー寮ではなく、別途設けられた職員寮の方ではあるのだが。
場所自体は何度か届け物などをしているので知っているが、足を踏み入れたことはない。
「はい。なくさないでくださいね」
ちゃり、と金属の音がして、慌ててそちらを見れば。
暗くて見づらいことこの上ないが、少ない明かりをきらりと反射させた銀色カギが、ふわりと弧を描いて星空に舞った。
わたわたと慌てて受け止める。
こんなものを、こんなところで投げないでほしい。
もし受け止め損ねたら、探すのが大変になるのだから。
「それでは、ゆっくり休んでくださいね。おやすみなさい」
少しだけ、先ほどよりも柔らかい笑み。
彼女は踵を返し、屋上から立ち去っていく。
屋上を吹き抜けていく風は、少し強い。
風に嬲られ、好き勝手に踊る髪を鬱陶しく思いながら、欄干に身を預ける。
今度は背中から腰を預けて、もうすっかり暗くなった空を見上げて。
ここトレセン学園は、俗世から隔離されたような場所だ。
夜を切り拓くようなあの明かりは、この屋上には届かない。
受け取った鍵を空に翳す。
ちゃり、と金属の擦れる涼やかな音がする。
「……こんなの、まだ使ってたんですね」
口から零れ落ちるものがあった。
地獄耳のくせに、言葉は帰ってこない。
少しだけ音色の違う、足音だけ。
風に紛れて微かに聞こえていた。