ちゅんちゅん、と月並みに囀る小鳥の鳴き声で目を覚ますなんていつぶりだろうか。
当然のように端末のアラームによって叩き起こされているためか、意識の覚醒はとかく緩やかであった。
耳に触れる柔らかな囀りが心地よい。
カーテンの隙間から差し込む陽の光は随分と柔らかく、肌寒さを感じる室温に対し、ふかふかと私を包み込む毛布は酷く温かく、私を再び引き戻そうと躍起になっているようにすら思えてくる。
身を起こそうとして、はたと気付く。
見慣れない部屋。
瞬間、飛び起きる。
「っ!?」
飛び降りて、状況を…。
「…ああ」
ふわり、はらりと身体から滑り落ちる毛布。
常とは異なる、甘く優しい花の香りが立ち上がった。
…そういえば、そうだった。
駿川さんの部屋を借りたのだったか。
ソファに隣接したローテーブルの上。
無造作に放置した端末を手に取れば、時刻は朝の5時25分。
通常勤務であれば、アラームが鳴る5分前。
そっとアラームの息の根を止めてやれば、随分とまあ静かな朝だった。
二日連続で「目が覚めたら訳の分からない状況に巻き込まれている」という恐ろしい事態は避けられたようで、安堵のため息を一つ。
昨日の出来事で著しく痛めつけられた胃の痛みも、幾分か加減をしてくれている様子。
比較的に穏やかな目覚めだった。
昨夜は自室の貴重品をトレーナー室の鍵付きロッカーに放り込み、買い出しを済ませ、そしてこの部屋でソファーに倒れ込んで眠りに落ちた。
ルドルフやテイオーとその他一名に関しては結局眠ったままだったらしく、眠りに付くまで連絡はなかった。
しかしまさか、駿川さんの部屋に避難することになろうとは。
泊まり込みになる時期しか使いませんから、と彼女は言っていたが、埃もほとんどなく、放置している部屋とは到底思えないほどきちんと手入れがされているお陰で、随分と快適なものだ。
現に、床に落としてしまった毛布に汚れが付く事もない。
普段使っていないというのは、私に余計な気を回させないようにする建前だろう。
トレーナー寮では、激務に追われるトレーナーがゴミ屋敷を量産しないための対策として福利厚生が用意されているため、あまり気にすることはない。
学園側が専属で雇用しているハウスキーパーにリクエストすれば、福利厚生の一環として清掃してもらえるからだ。
一方で、比較的シフトがきっちりしており、生活リズムが一定である一般スタッフが住まうこちらの寮には生活周りの代行サービスは存在していないと聞く。
昨晩は発熱によって体力を奪われていたこともあり、疲れ果ててろくに室内を見ることもなくソファーで眠りに就いたが、改めて見渡せば、部屋自体はそこまで広くはない。
少しお高いワンルームマンション、といった風体である。
造園スタッフや調理スタッフと話をした際に仕入れた情報ではあるが、夜勤のあるスタッフが仮眠室として使っているケースが多いせいで、フロアによっては比較的こじんまりとしたワンルームマンションのような間取りになっているのだと聞いたことがある。
その割に広く感じるのは、やはり物が少ないからだろう。
洗濯機、冷蔵庫、テレビなどの最低限だけ揃っており、余計なものはあまり置いていないようだ。
家具類も、ベッド、ソファ、ローテーブルなど、ある程度充実はしているが生活感はあまり感じない。
予想に反して茶系をベースとした、穏やかな色彩は心が安らぐ。
何なら部屋中が緑色で占められているのでは、と思っていたことについては墓地まで持って行く所存である。
知られたら墓地送りにされそうなので、どのみち持って行くことにはなるのだが。
流石に軒を借りている身で好奇心のままに室内を物色することも躊躇われるので、努めて考えないようにする。
ローテーブルに置かれた小さな写真立てに、妙に見覚えがあっても、である。
昨晩焼け出されるようにして出てきたわけだが、一応着替えなどはちゃんと持ち出してきている。
無造作にバッグに突っ込んで来てしまったので、多少皺が寄っているがこの際仕方あるまい。
シャワーは諦めてトレーナー室に備え付けの物で済ませてからここに来たことだし、出かける前に軽く掃除して、朝練…いや、ルドルフたちが起きていればだが。
それらを済ませた後に、凄惨な事になってしまった自室の中では珍しく無事なシャワーでも浴びて…。
などと午前の計画を修正しつつ、冷蔵庫を開く。
昨日、朝食用にとカフェテリアで軽食を作ってもらったのだ。
電子レンジもあることだし、温めて頂くとしよう。
なお、冷蔵庫にぎっしりと詰まっていた酒類については触れないものとする。
案の定ストレスを溜めてしまいがちらしい。
食事を済ませ、身支度も整えた。
幸いにして、カフェテリアの主任が気を利かせて使い捨てのパッケージに詰めてくれたおかげで、処分も楽だ。
特に何も言っていないのに、顔色だけ見て食べやすい物を作ってくれたあたりも好感が持てる。実に男前である。
本人に言おうものなら脳天に鉄鍋が振り下ろされるだろうが。
さて、寝床にさせてもらったソファや、部屋も簡単にではあるが清掃した。
洗面台も綺麗にしたし、ゴミの類は全て袋にまとめて搬出する準備も整えた。
随分と穏やかな朝を迎えてしまった訳だが、そろそろ行かなければならない。
ペットボトルのコーヒーを飲み干し、ビニール袋に放り込みつつ立ち上がる。
そろそろ、向き合わなければならない。
先ほどから延々と、それこそ目を覚ます前から延々と振動し続けている、私の携帯端末に。
「…」
ぶいーん、ぶいーん。ぶぶっ、ぶぶっ。ぶいーん、ぶいーん。
着信を告げるアラームの切れ目で、小まめにメッセージの受信を知らせては再び着信を告げるという離れ業を披露し続けている携帯端末はそろそろ疲労困憊。
鳴りっぱなしになっているせいで、ただでさえ充電器を持ち込み忘れてバッテリーが心許ないというのに、そろそろ止めが刺されようとしていた。
そっと画面をのぞき込めば、日常生活ではちょっとお目に掛からない量の着信とメッセージ数が蓄積されている。
未読のメッセージが3桁を超えているのは、一体どういうことなのだろうか。
昨晩は0件だった筈だが、携帯端末だけ時を超えたりしたかのような履歴の溜まり方に、背筋に冷たいものが落ちる。
差出人はルドルフ、テイオーが大半。
たまにその二人以外からのメッセージも混入しているが、アラームを止めようとした5時半時点で既に100件を超えていた。
その件数を見て考えることを放棄した結果、更に数百件ほどメッセージが蓄積されたという次第である。
仕事を棚上げにしたら雪だるま式に膨らんでしまったようなものだ。
大変熱心な悪霊でもここまではやるまいと思うほどの地獄だった。
意を決して、通話アイコンに触れる。
先ほどからほとんど交互にテイオーとルドルフがひたすらコールしてきており、どちらかのコールがなっている間にもう片方からメッセージがひたすら送られてきている。
もはやルーレットを止めるのに近い感覚でもって、受話器のマークに指先を添わせた。
バッテリーは既に虫の息だし、私のメンタルも既に虫よりも小さくなってしまっているが、それでもなお、立ち向かわなければならないのである。
恐らくだが、獅子に立ち向かうカマキリというのはこんな気持ちで前脚を振り上げていたのだろう。
今度からは優しくしてあげようと心に決め、ついでに声をなんとかして絞り出す。
「…はい」
「な゛ん゛で取゛っ゛て゛く゛れ゛な゛い゛の゛お゛ぉぉぉぉお゛!」
振り上げた前脚諸共、あっという間に持って行かれた感触がした。