別に、好きでやっていたわけでは、なかった。
走ることが好き。
誰よりも早く駆け抜けられれば気持ちがいい。
そういう、本能に基づいた感傷が無かったとは言わない。
だけど、私はいわゆる欠陥品。
それでもなお、走れてしまった。
脚が痛む。いつ壊れてもおかしくない。
それでも、そうせざるを得なかった。
そう思いながらも、それがやめられなかったのは、なぜだったか。
結局、足を壊すまで走ってしまったのは、走れてしまったのは、なぜだったか。
レースに勝つまで私に一切関心がなかった家族からの、現金な期待か。
周りから背負わされることになった、重たい期待か。
どれも違う。
私がそうしたのは、そうせざるを得なかったのは、そんな理由では無かった。
ただひとつ、欲しいものがあったから走った。
それだけだった。
私には居場所がなかった。
両親は私にほとんど関心を示さなかったけれど、お金だけは与えてくれた。
別に使い込むような趣味があったわけでもない。
それなりの教育環境ではあったし、不自由もしなかった。
唯一、私に関心がないという点を除いて。
だから私は居場所を外に求めた。
同年代の友達、学校の先生。
子供の狭い世界ではあったけれど、私にはそれで十分だった。
だから、関心を持ってもらうということには、それなり以上に気を遣ってきたと思う。
勉強もしたし、ウマ娘として走るために体も鍛えることもした。
関心がないなりに、両親は私のやりたいことにも興味はなかったが、そのための資金だけは出してくれた。
あれがあの人たちなりの愛情だったのか、それとも騒がれると面倒だからと出してくれていたのかは、今なお、わからないけれど。
受けることを望んだのは、勉強を教える塾と、レースを教える教室のふたつ。
ピアノやダンスなど、やってみたいことは色々あったが、私にとって切実な問題として、あまり家に居たいと思わなかった事がある。
だから、遅くまでやっている塾と、土日や平日の終業後にみてくれるレース教室を選んだのだ。
大した知名度のあるところではなかったが、私の通うレース教室で、人並み以上に足が早いことがわかった私は、全寮制のトレセン学園を目指すことにした。
全寮制であれば、きっとルームメイトもできるだろう。
切磋琢磨する友達もできるだろう。
目標さえ決まってしまえば、あとは合格できるようにトレーニングを積んで、最低限の学力を確保しなければならない。
だから、そのどちらもがない日は遅くまで、みんなが帰るまで外で遊ぶか、教室で教わったトレーニングを校庭でやっているかのどちらかだった。
今日は、トレーニングの日。
放課後に目一杯体を動かして、家に帰ったら宿題と予習をして、あとは眠るだけ。
帰ろうとして、宿題を机に入れたままにしていたことに気がついて、教室まで取りに来た。
ーーー君、つまんなそうに走るよね。
肘を机について、窓の外の景色をただぼんやりと眺めながら。
そんな一言が、放たれた。
放課後になったのに、ぼんやりと座って窓の外を眺めていたのが気になって。
忘れ物を取りに帰ってきた私は、何の気なしに「まだ帰らないの?」と声を掛けた。
そして、返ってきた言葉がそれだった。
ぼんやりしたやつ、という印象が強かった子。
いつもつまらなそうに窓の外を眺めては、授業が終わればさっさとどこかへ行ってしまう。
周りから遠巻きにされて、孤立しているというのに何も感じていないかのように振る舞う姿は、私には理解し難かった。
そんな「ぼんやりしたやつ」から急にそんな言葉を投げつけられた私は、何を知ったような事を、と思った。
そういう自分が、誰よりもつまらなさそうにしているくせに。
それでも、その通りだと納得する自分がいたことはよく覚えている。
いつもつまらなさそうに、窓の外ばかり眺めている「ぼんやりしたやつ」は気に入らなかった。
私が誰かと繋がりたくて必死で、冷たい場所から逃げたくて必死なのに。
そいつはいつも飄々と、ひとりぼっちであることを何でもないような顔をしている。
しかも、腹が立つことに成績がいい。
授業なんてろくに聞いていないくせに、いつも私よりいい点数を取っていく。
だから、気に食わないというのが正直なところだった。
「だから、なに?」
稚気、と言われればそれまでだ。
だけど当時の私には、余裕がなかった。
自分でも驚くほど低い声で、それは放たれた。
それでも。
「ぼんやりしたやつ」は眉一つ動かさずに、私の事を見ることさえしなかった。
腹がたった。
いや、ムカつく、とでも言えばいいのか。
とにかく当時の私には、それは耐え難い仕打ちだったのだろう。
「言いたい事があるならはっきり言ってよ」
思わず、そいつが肘をついている机に、ばんと手を叩きつけた。
反応はない。
ただぼんやりと、いつもの顔で、ただ窓の外をみているだけのそいつ。
陰気で、いつも一人ぼっちのくせに。
不意に、がたりと椅子を鳴らしてそいつは立ち上がった。
机の横に引っ掛けてあったランドセルを引っ掴んで、私の横をすり抜けて。
私を無視するように。
ぺた、ぺた、と。
上履きが教室の床を叩く音。
それと、外から聞こえてくる楽しそうな声。
それだけが、教室の中を満たしていた。
がらら、と引き戸を開ける音がして、ようやく私は振り返った。
ちょうど、そいつも首だけで振り向いたところだった。
そして、口が開かれる。
「いつもへらへら笑って、本当に楽しいの、君?」
とんでもない暴言が、飛んできた。
そして、ぴしゃりと戸が閉じられた。
「……は?」
あまりの事態に、私は呆然と立ち尽くすばかりだった。
鍵を回し、部屋へ立ち入る。
普段とは違う、誰かの匂い。
狭いワンルーム。誰もいない部屋。
あれは大変そうですね、と思いながらも、トレーナーさんならなんとか切り抜けるでしょう、と思い、ひとまず撤収したあと。
私は、自分の部屋に帰ってきていた。
一応仕事中ではありますけど、これも昨日の騒動の後始末の一つ、ということで。
部屋の中は、誰かがいたような形跡はほとんど残っていない。
恐らくは洗面台なども使ったのだろうに、ご丁寧に水滴まで拭き取られていた。
そこまでしなくてもよかったのに。
言葉を濁していたけれど、トレーナーさんが使ったソファーにそっと触れる。
随分と時間は経っているはずなのに、ほんのり感じる熱は一体何だというのでしょう。
丁寧に折り畳まれた毛布。
その上に、添えられたメモ。
『助かりました。ありがとうございます。毛布も。このお礼はいずれ』
そっけなく書き付けられたメッセージ。
昔から、言葉が足りないせいで散々痛い目に遭ってきたのに、こういうところは直りませんね。
ぽす、とソファーに腰を下ろす。
ああ、机の上に写真立てを置きっぱなしにしてしまいましたか。
懐かしい写真。
あの頃の名残なんて、あなたのそういうところと、この写真ぐらいでしょうか。
写真立てを手にとれば、向こうで笑う私。
手にしているのは、ここの合格証書。
その隣で、相も変わらず無愛想な顔をしているのは、さて、どこの誰なんでしょうかね。
まあ、無理矢理写真を撮ったので仕方ないとは思いますけれど。
随分、お互いに丸くなったものですね。
結局、欲しいものは手に入っていないですけれど、それでも、今。
ふと、写真立ての下に紙が一枚、伏せられているのに気がついた。
ぺら、と音を立ててひっくり返せば。
『駿川さん、冷蔵庫にお酒しか入ってないのはどうなんでしょうか?』
…そういうところですよ、トレーナーさん。