………参った。
参ったというか、降参したいというか。
胸の中では鼻を擦り付けて泣くウマ娘が一人。
何を隠そう、”皇帝”シンボリルドルフその人であった。
もう一度チャンスを、と言われ、訳が分からないなりに「分かった」と答えたまでは良かった。
よくわからないけどとにかくヨシ!と脳内でヘルメットをかぶったウマ娘が妙なポーズを取っている例の画像が再生される程度には、私はルドルフを信頼している。
彼女が何か盛大に失敗―――それは大抵レースではなく、私生活関連ではあるが―――して、その後の立て直しにしくじった事はない。
それに今回は被害を被ったのが私と、せいぜいが玄関に飾っていた観葉植物ぐらいなものだ。
誰かを相手に示談交渉をする必要もない。
であれば、私相手にしてしまった失敗には、態々許しを与えるような真似は必要ない。
全面的に信頼しているというのは、そう言う事である。
全てを無条件で許すほど聖人ぶっているわけでもないが、彼女が反省なり謝意を見せている限り、立ち直ることを信じ、許しを与えると言うのが私なりの基本方針である。
まあ、場合によってはきちんと罰を与えることもあるが。
これは別にルドルフだけに限った話でもなく、恐らくはテイオーだったとしても、少なくとも担当ウマ娘に対しての態度として、一貫しようと思っている事だ。
何かの拍子に怪我を負わされたところで、大事にしようとも思わない。
そんな事よりも大切なことがあると信じているからだ。
とまぁ、大層な御託を並べてみたところで、今一つ状況が分からないままに、とりあえずドアと部屋を壊したことについては「うんうんそうだね許すよ」と頷いている水飲み鳥じみた挙動をしているだけなのだが。
今更だが、ルドルフの言う「チャンス」とは一体何のことを示しているのだろうか。
ドアを脚で蹴破る事が無いように、ということであれば多分ここまでやらかしているのでもうやらないだろうとは思うが、この皇帝は緊急事態と見ればルールも破ることができるから恐ろしいのである。
目的と規律を天秤に掛け、大切な物のためには手段を択ばない、という選択を自ら取れるという意味で恐ろしいのだ。
大抵、その後に酷く自戒の念に苛まれ、悩み抜いた挙句気が付くと精神年齢が若干退行するので、そういった意味でも。
「うぅぅぅうぅぅ……」
今がまさにそうなっているようで、私が許した事で諸々緩んでしまったらしい。
なんだか諸々緩んだ結果、私を締め上げるという方向でバランスを取ろうとするのは心の底から勘弁いただきたい。
濡れて滲むアメジストの双眸は何度見ても美しいものだが、大抵のケースで私が碌な目に遭わないので、ある意味鬼門と言うか、この色を見てしまうと怪我を負うと身体が勝手に強張ってしまう。
ウマ娘が絡んだ怪我や事故には慣れたものだが、痛みというのは中々慣れないものだし、慣れたいとも思わない。
「…っ、ルド、ルフ………あれはそういうのでは………」
「ううーっ!!!ビゼンニシキがなに!!!!」
言ってない。
何かと勢いでビゼンニシキに責任を被せようとするのをやめなさい。
ぎり、と締め上げる力が強められた。
ばたばた、と苛立たし気に尻尾が左右に振れている。
「ぐっ…」
駄目だ。
ウマ娘特有の地獄耳は、こういう場面ではまともに機能しないらしい。
参った。どうしたものか。
早くも酸素が足りなくなってきている頭を必死で回転させる。
もはやシンボリルドルフである事を盛大に投げ捨てているので、こちらとしても気が気ではないのだ。
テイオーの担当入りによって嫉妬心が刺激されたのか、或いは兄弟のできた長子の心境なのだろうか。最近は割と見かける事は多いそれ。
周りに誰かしら人の気配があれば、基本的に彼女は自戒して、仮に掛かっていたとしても理性はきちんと保った上で掛かる。
非常に器用である。
そんなルドルフが、色々とこう投げ捨ててしまっている現状がいかにまずいのかが分からないほど間抜けでもないが、軽く両足が地面から離れつつある矮小なヒト生物である私には、お手軽な解決策というものは思いつかない。
あったらとっくに実行している。
幸いにして、といえば良いのか。
往来のど真ん中、というには少々どころか人の姿が一切ないし、そもそもスタッフ寮の方向はウマ娘の往来のあるトレーナー寮、学生寮のどちらからも遠い。
搬入出のトラックなどが入れるのもこちら側であるため、あまりウマ娘が通らない方向に建てられているのだ。
それが幸いしてか、ウマ娘はこの辺りでは滅多に見かけることはない。
すなわち、彼女の体面は守られる。
ついでに、この時間帯は早番のスタッフはもう出勤しているし、夜勤のスタッフ達が返ってくる時間はもう少し先である。
それはつまり、ルドルフの体面は今しばらくは守られるものの、私にとっては助けが来ないと言われているに等しい。
仮にスタッフが通りがかったとしても、掛かりウマ娘に締め上げている私の姿は、相手がシンボリルドルフという時点でまず間違いなく締め上げられているのが私だと特定されるし、大抵は「あぁまたか」と軽く流される。
一般スタッフたちは大抵痛ましい事件をみたように目を伏せ、とりあえず距離を取るという、トレセン学園に生息する生物として、生存本能として刷り込まれているのだ。
通報はするかもしれないが、一般スタッフの中でも助けになってくれそうだった気がするあの剛腕もとい駿川さんは早々に姿を眩ませている。
もし仮に通報してもらえたとしても、助けが到着するのはしばらく先だ。
これはあれだろう。
トレーナーなら何とかできて当然、という彼女特有の妙な要求ハードルの高さゆえか。
いわゆる駿川しぐさというやつに違いない。
捨ててしまえそんなもの。
あまり悠長に助けを待ってもいられない。
ぎりぎりと縄でも締めるような嫌な音を立てて私の胴体には徐々に力が込められている。
万力をゆっくり回すように。
ぎりぎりと、めりめりと。
「早く吐け」と。
濡れてぎらついたアメジストが圧力をかけてくる。
その鬼気迫る殺気もとい気迫にか、周囲から小鳥が一斉に飛び立っていく。
私を見捨てないでくれと遠ざかっていく小鳥の群れを視線で追いかけるが、締め上げられているためか声は殆ど出ない。
「大人?大人ならいいのか?大人がいいのか!うまぴ…問題ないからか!?倫理的に!それとも黒ストッキングか⁉」
そして肝心のルドルフもとい我が家の暴れん坊皇帝ルナちゃんによりかけられた嫌疑はあらぬ方向へと飛んでいく。
微妙に突かれたくないところを突いてくる程度には理性の欠片が残っているところが心憎い。
ここまでで得た情報を元に考えるに、部屋が損壊したのがルドルフの所業だとすれば、間違いなく私が家なき子になり、同僚の部屋を借りる羽目になったのもルドルフの所業と言って良いはずである。
そのことが分かりそうなものだが、普段聡明なルドルフはどうやら珍しく休暇でも取って出かけているらしい。
今ばかりはなるべく早急に帰ってきていただきたい。
「違………部屋、寝れる状態じゃない………」
「ああああああああああやっぱり私のせいだああああああああああああ」
うわあああ、と騒ぎながら、より一層締め上げる力が籠ってゆく。
その通りだよ。
そうなんだけど、冷静になって欲しい。お願いだから。
「私のせいで…他の女の家にい゛……くっ、なんて無様を!こんな不覚を取るなど…っ!!」
いや本当に君のせいでこうなってはいるんだけどね?
大荒れ模様のせいで、口調もところどころおかしい。女騎士か何かか?
……このままだと、また病院送りになってしまう。
腰のあたりがもう折れそうな勢いである。
肋骨のあたりも少々怪しい。
何度かルドルフのこうした締め上げでヒビが入ったり、実際に折れていたこともあるのだ。
トレセン学園附属の病院は腕の良い名医揃いだが、それとこれとは話が違う。
こうなればもはや諦めるしかないのだが、最後まで希望は捨てたくない。
ルドルフをまた傷害事件の加害者にするわけにはいかないのである。
まず間違いなく私が被害者なので内々に処理されることは処理されるが、ルドルフはメディアからの注目も強い。
迂闊に怪我もできないのだ。私は。
なんとかして、拘束に巻き込まれていない方の腕をあげて、頭を撫でてやる。
割と深刻に窒息しかけているというか、呼吸が相当怪しいらしく、ひゅーひゅーと細い呼吸を繰り返す様は他人が見たら若干やばい状態だが、こうなったルドルフは本当に離れてくれない。
そういえば、トレーナー間の怪談話として鉄板のネタがある。
担当バの巨大ぱかぷち(抱っこ人形タイプ)に宿った怨念によって絞め殺されるというものである。
あながち無いとは言い切れないのが恐ろしいポイントである。
過去にあった事件として、とあるトレーナーが抱き枕にしていた等身大サイズの巨大ぱかぷちに対して何故か嫉妬に狂ったウマ娘が、ぱかぷちの綿を引きずりだして中に潜み、トレーナーと一晩を供にするという事件が起きたのだ。
まあ、中に詰まっていたウマ娘が色んな意味でのぼせ上って気絶しており、何かすることもなく無害化されていた。
このため、「どうしてもトレーナーと一緒にいたかっただけ」だとして可愛らしい愛情話として処理されたと聞く。
綿を引きずり出され、中身を乗っ取られる羽目になったぱかぷちの心境を考えれば、自分の姿を模したぬいぐるみに祟られてもおかしくないとは思う。何せ、ぬいぐるみとは言えウマ娘なのだから。
いけない。思考が明後日の方向に飛ぶ。いよいよ本格的に呼吸が怪しい。
側から見れば、美人のウマ娘に抱きつかれて顔を赤くしている大人というあまりよろしくない構図ではあるのだが、少々待って欲しい。
少し待っていると、この顔の赤らみが興奮の類ではなく、締め上げられた結果、血流が滞ったものだとご理解いただけるだろう。
だんだん青くなっていくから。チアノーゼって奴ですね。
……そういえば、私がウマ娘に関わって初めて怪我を負わされたのはいつ頃だったか。
更なる現実逃避に踏み込みつつ、懸命に、それこそ命を懸けつつルドルフを鎮めようと頭を撫でているおかげか、若干ではあるが、拘束力が低下した。
それと同時に、浮いていた両足がようやく地面を踏みしめることを許された。
相も変わらず相当に苦しい状態ではあるものの、何とか酸素を取り戻すことに成功。
こうなれば、何とかして甘やかすなりして精神を安定させる他ない。
一度持ち直したからには、切り札は温存していく所存である。
今できる最善はそう、全力で抵抗することではない。
何とか姿勢を変え、目の前辺りに飛び出している耳に口許を寄せ、かろうじて出せる蚊の鳴くような声で囁く。
「部屋を借りただけだし、眠ったのもソファーだから」
また少し、拘束が緩んでいく。
ふわり、と花の香りがした。
泣いて体温が上がっているルドルフから、仄かに、花開くように。
彼女の香りに、花の香りが混ざっていた。
アイリスの花。
いつも付けてくれている、私のプレゼントした香水の香り。
気高い花の香り。
気高さは一体どこへいってしまったのかは分からないが、ぐずっていようが似合うものは似合うのだな、と明後日の方向へ感想を飛ばしながら、10分もの時間をかけてあやすこととなった。
「大丈夫。このぐらいで怒ったりなんてしない」
そうか、部屋を満たしていた香りはーーー。
ルドルフによる胴締めから逃れるべく言葉を重ねながら、ふとその事を思い出していた。
「今、他の者の事を考えなかったか?」
「どうして」