「…すまない、取り乱した」
これ以上ないというほどの取り乱しぶりを見せた皇帝による追及を躱し切った。
もはや殆ど本能や勘のレベルで物を言っているはずにも拘らず、妙に的確に追い詰めてくるものだから大変に苦労したが、なんとか落ち着きを取り戻して頂く事には成功したらしい。
ばたばたと忙しなく左右に振り回されていた尾も、今ではしょんぼりと項垂れている。
相変わらず耳だけはあまり感情を露にせず、何時もの様子で登頂に聳えている。
一方、表情を伺えばどうにもばつが悪いらしく、少しばかり目が泳いでいる。
背に回された腕が、そっと離れる。
温もりが離れた事で、少しばかり背が冷える気もしているが、私は名残惜しいとでも思ったのだろうか。
離れる際、あまり聞きたくない類のねちょりとした音が聞こえなくもなかったが、勤めて無視をする。
胸元に何やら色々と液体が付着している気もするが、考えてみればデビュー後も模擬レースで負けた時など、トレーナー室でよくこうして悔しがっていた事を思い出す。
数少ない敗北の都度、本人の自覚なく、悔しさのあまり力が入って締め上げられ、その都度病院送りにされたものだった。
最近はすっかり落ち着いていた、というか。
被った仮面が強固なものとなったおかげか、そういった感情をあまり表面化させなくなっていた筈なのだが。
ぐいと身体を動かしてみれば、みしりと体が軋む。
しかし幸いなことに、折れたりしたような感触はない。
このトレセン学園でトレーナー業に慣れるにつれ、だんだんと肉体が破損する瞬間というものが分かるようになってきてしまったのは、成長と言うべきか、それとも諦めか。
思考を脇に押しのけつつ、ポケットからハンカチを取り出してルドルフの顔にそっと当てる。
「む…」
ぽんぽん、と軽く押し当てるようにして、涙の跡を拭っていく。
されるがままになっているルドルフだが、彼女にはこういう所がある。
基本的に他者が世話を焼く事に対し、無抵抗、或いは寛容というようなところが。
これは名門の出身に多いが、他人に世話されることに慣れているのだ。
それでも少しくすぐったいのだろう。
僅かに表情が緩む。
薄く施している化粧が若干崩れているが、こういうのを面と向かって指摘しないだけのデリカシーはいくら私でも存在している。
ウマ娘は化粧をしなくても通用するだけの美貌を持っているのだから、化粧など不要だとは常々思うのだが、それを口にしたところ「面倒ではあるが、こういうのは最低限のマナーだからな」と言っていた。
その後、自分で言って照れたのか、暫く落ち着きを失っていたところはルドルフらしいと言えばらしいか。
「…落ち着いたかな」
さっぱりしたのか、表情が随分と穏やかになった。
目はまだ充血しているし、もしかすると昨晩からあの様子だったとすれば暫くは目元のむくみも取れないかもしれないが、それでも晴れやかな顔をしていた。
「ああ。またトレーナー君にはみっともない姿を見せてしまったな」
少しばかり照れ臭そうに、頬を赤めて言うルドルフ。
つい数分前までの狂乱ぶりが嘘のような切り替えである。
虚勢を張る、という事は簡単だが、後に引きずらないところは美点だろう。
避難していた小鳥たちが、「そろそろ大丈夫?」とばかりに少しずつ戻ってきた。
彼らには悪い事をしたと思う。
「別にドアを壊したことについては怒ってないよ」
声に力を込めて、そっと髪を撫でる。
「本当か?近づくな、と君は言っていた。相当怒っているものだと……」
身に覚えはない。
しかし覚えがないなりに、ぼんやりとだが記憶の片隅に引っかかるものがあった。
「風邪を引いてしまっていたのは把握していたと思うけど、うつしたくなくてね。入るならマスクをつけてくれと言いたかったと思うんだよね」
「マスク……ああ、なるほど。あの時は薬の効果が……」
「うん?」
今何か少し不穏な雰囲気がしたような気が。
しかしルドルフは何かに合点が行ったらしい。
「いいや、失礼。こちらこそ早とちりをしていたようで、トレーナー君に拒絶されてしまったものかと思ってな」
なるほど。
確かにウマ娘の執着心であれば、執着対象に手ひどく拒否されてしまえば。
だからといって気絶するほどの事だったのだろうか。
…深く考えるのは止そう。
過ぎたことは反省すべきだが、とはいえ今は優先すべきことが他にある。
「…ルドルフ、そこ座って」
「うん?」
「いいから」
脇に設置されたベンチを指し示すと、ルドルフは不思議そうにしながらも素直に腰を下ろす。
「座ったが…」
「ドアを蹴った脚はどっち?」
「右だが」
あれだけの重量を持つ構造物を吹き飛ばすというのは、私達人間の身からすれば大概フィジカルモンスターだとは思うが、物事というのには必ず反作用というものがある。
「こっちか…失礼、脱がすよ」
「え?え?待て、待ってくれ。いや言わんとすることは分かるが自分で脱げる!」
断りを入れるだけ入れて、靴を脱がせて、ソックスも引っ張って剥ぎ取る。
わたわたと珍しく狼狽え始めるが、努めて無視をする。
「どれ…」
ぺたぺた、と。
剝き出しになった脚に触れていく。
細い、白い足。
あれだけの速度で駆け回り、そして我が城の扉を無残に粉砕せしめた恐ろしい凶器とは思えないほど、すらりと整った造形。
触れるだけで壊してしまいそうな気さえしてくるのに、その出力は狂ったような大きさ。
そんなものが、頑丈であるはずがないのだ。
「痛みはないかな?」
「あ、ああ。今のところは特にないが…」
トウカイテイオー然り、アグネスタキオン然り。
才能というのは時に本来の能力の限界を軽々と飛び越えて往くが、一方で肉体の物理的な限界でさえも飛び越えて行ってしまう事が往々にして存在している。
中央に集まってくるようなウマ娘と言うのは、大体がそんな連中ばかりだ。
上澄みのそのまた上澄み。
極一握りの、天稟を持った者たち。
名門か、或いは雑草か。
そんなことはお構いなしに、そういう連中ばかりが集まる。
そんな背景も手伝ってか。
トレセン学園では、デビュー出来たとしても、故障により挫折してしまうウマ娘が多い。
日々のトレーニングでの事故、勢いよく飛び出していく際ゲートに軽くぶつけた、といったものから始まり、レースで限界以上の出力を叩き出した結果骨折する、或いは転倒して…などという話もよく耳にしたし、実際に見てきた。
致し方ないことではある。
だが、それを可能な限り0に近づけるのが、私の仕事だ。
「…腫れもない。触診も問題ない、か。他に違和感はない?」
ともあれ、あれだけの重量物を蹴り飛ばしていながらも怪我はなかったらしい。
「良かった」
「…こんなことで心配をかけて、すまない」
本当に。
先日に平気で入ってきて朝食を作っていたあたり、確実に鍵か或いは何らかの開錠手段を持っている筈だ。
それにも関わらずドアを蹴り破るなど、正気の沙汰ではない。
恐らく本当に正気を失っていたのではないかと勘繰っている。
…そして、そんな事で怪我などしようものならば。
そう考えるだけで背筋が冷える。
「次にやったら、今度は怒るからね」
「承知した」
なるべくこうしたことは明確に口にしておいた方が良い。
ルドルフの事だ。こんな事は態々言わずとも理解しているだろうが、それでも。
一応のレベルでも口にしておかなければならない。
万が一の時、一瞬でも冷静にさせるための、ある種の布石のようなものなのだから。
その結果、ドアを蹴り破る必要があったのならば、それは構わないと思う。
怪我の有無も確かめたところでようやく人心地付けたような気がして、隣に腰を下ろす。
昨日どころか、ここ最近のところ酷い目に遭い続けている気がしていた。
思わず深くため息を吐きそうになって、なんとか飲み込む。
背もたれに体重を預け、空を見上げる。
今日の空は憎たらしいほどに晴れていて、まさに穏やかな春の陽気というところ。
桜はもう大分寂しくなってしまったが、青葉のと評するにはまだ少々早いか。
お互いに暫く、無言が続く。
もそもそとソックスを履き直すルドルフの揺れる耳だけが視界にちらちらと映る。
何を話そう、どんな話が良いか。
箒で掃いたような雲を眺めながら、そんなことを考えて、諦めた。
そういう気の利いたことは私には出来ない。
何せ、深刻なコミュニケーション障害を患っている。
言葉が足りないと昔からよく周りを怒らせたものだった。
そんなことを考えていると、靴を履き終えたルドルフが口火を切った。
「…ああ、そういえば、何故電話に出てくれなかった?」
できれば何となく話が決着した感じを醸し出して、なんとか有耶無耶にしたい話が持ち出された。
今更になって「単に疲れていたから後回しにした」とはもう言えないような状態。
どの時点からあの掛かりを見せていたのかについては本人も語らないだろうが、気まずい事この上ない。
連絡を一旦無視した挙句のあの充電切れである。概ね起床時間が把握されているため、明らかに無視していたことは分かってしまう。
「駿川さんの使っていない部屋を借りていたからね。出る前に部屋の清掃をするつもりだったのにいつも通りの時間に目を覚ましてしまって、慌ただしく準備していたんだ。それで少し時間がかかってしまった」
「なるほど……。とはいえ、あれだけコールを繰り返していたのだから、メッセージぐらい返してくれても良かったのではないか?」
流石に誤魔化されてはくれないようだ。
日頃、丁寧に対応してきた分、こうしたときに追及されてしまうと弱い。
まだ調子が悪くて、などと言えば回避は可能。
だが、そんなことを言えば余計な騒ぎを起こすことは分かり切っている。
昨日寝込んだだけでこの騒ぎなのだから。
故に、ある程度は真実を混ぜてぼやかす。
嘘を分かりにくくするには、嘘を口にしない事だ。
そして、対ウマ娘に隠し事をしたいなら、感情の方向性を合わせるしかない。
この距離であれば、声に含まれる微細な感情の欠片さえも拾い上げてくるのだから。
「テイオーとルドルフから大量に来ていたからね…朝のことを一旦片付けてから、しっかり対応するつもりだったんだ。その結果、通話に出た途端にバッテリーが切れてしまった、というわけだよ。充電器を持ち込み忘れてしまってね」
苦し紛れに説明を口にしながら、ポケットから端末を出し、電源ボタンを長押しして見せる。
苦し紛れではあるが、殆ど真実しか語っていない。
単に、面倒だったと言わないだけである。
今回、声から「後ろめたい」という気持ちは伝わっているだろう。
それが「正直に言わない」からなのか、はたまた「結果としてバッテリー切れで連絡できなくなった事」に関してのそれなのか、流石のルドルフも判断はできない。
「ああ、バッテリーが切れてしまったのか…道理で」
こくこく、と頷くルドルフ。
流石にあれだけ端末を鳴らし続けていればバッテリーも切れてしまうか、と呟いているので、なんとか理解はしてくれたようで幸いである。
納得までは行っていないことは、表情からもわかりやすいが。
「ひとまず、これで誤解は解けたかな?」
「概ねは。ただ一つ。トレーナー君に駿川さんの匂いがついていることだけは気になるがね」
「え」
「とはいえ…こればかりはもう追求する気はないよ。思わず少し力が入ってしまったが…元を正せば私が性急に押し入ったことが原因だ。同衾したというわけでもなければ、私は特に追求はしない」
「助かるよ」
やれやれ、と肩を竦めるルドルフ。
思わず、一瞬身構えてしまったが、確かに自ら好き好んで宿泊した訳ではない。
「だが」
これで解決か、と思った矢先、ぐいと鼻先を寄せられる。
今日何度目かだが、紫色の瞳は今度は落ち着いた理性の色を宿している。
「今夜は私の部屋に泊まりに来てもらおう」
「……………は?」
「なに、元をただせば君の部屋に住めなくしてしまった下手人は私だ。責任を取って私の部屋に招くのが礼儀というものだろう」
理性的な目をしたまま、とんでもないことを言い出した。
これはその賢さを明後日の方向性に発揮している。
何事か携帯端末の画面も見ずに片手で操作しているのがちらりと見えた。
ヒシアマゾンにでも連絡を入れている可能性が高い。
「待って、それは不味い。トレーナーは基本的に寮には―――」
トレーナーは学生寮には入れない。
そんな基本的なルールを知らないルドルフではない。
そもそも、先日の見舞いの一件が特例だったのだ。
…特例。特例?
ああ、しまった。
トレーナーの寮が何らかの事情により使用不能になった場合なんて、トレセン学園の規則を見渡しても
つまり、例外措置として学生寮を使うつもりだ。
例外を認めないだけの理由は。いや、他に関連規則は?
私が思考の沼に嵌りつつあるのを尻目に、ひょいとルドルフがベンチから立ち上がった。
「では、そろそろトレーニングに行こうか」
身を離すと、そのままトレーニング場へと歩き出してしまう。
実に機嫌よさそうに、いつもより少しばかり口角を上げ、尾も上下に振れている。
いや、流石にそんな事が許される筈が―――
…いや、駄目だ。
規則としての問題は生じていない。
『トレーナーの住居が何らかの理由により破損し、住居に適さなくなった場合』などと言うトンチキな条項は、いくら気が狂っているのではないかと思うような規則の多いトレセン学園の規則集にさえ存在しない。
同時に、学生寮へのトレーナーの立ち入り禁止に関しても、一定の条件の元で立ち入りが許可される場合がある、という例外条項が付記されているだけだ。
『宿泊してはならない』というような項目は存在しない。
考えろ。
論理に陥穽は無いか?
いや、倫理に陥穽があるのは分かり切っている。
ここで認めてしまえば恐らくトレーナー寮は翌日には更地と化すのではないだろうか。
寮という邪魔な建造物さえ跡形もなく始末してしまえば、トレーナーを自分の部屋に連れ込めるのだ。
生徒会長が実行しており、了承されるという前例も付いていれば猶更、使わない手はないと短絡的に考えてもおかしくはない。
だがそれは承知の上だろう。リスクを押してでも実行するということは、何かある。
「待って。トレーナー寮にはゲストルームがある。あっちなら普段から空いているはず」
間取りが一番広い事を理由に、トレーナー寮には一室ではあるが、ゲストルームがある。
海外客などを迎えるときに時折利用する事があるぐらいなので忘れていたが、確か寮の最上階にあった筈だ。
私の部屋からルドルフの部屋へ荷物を移動するなどするよりも遥かに近く、設備的にも問題ない。トレーナー寮特有のサービス類も機能する。
生活を変えないという意味では合格点が出せるだろう。
普段全く忘れ去られているそんな設備を思い出せたのは奇跡に近いが、管理しているのは確か…
「そうしたいところではあるんだがね」
「まさか」
振り返ったルドルフが、困ったように眉を寄せて笑う。
さも残念がっているように。
「残念ながら、今日からゲストルームには『