「あまりのんびりしていると、トレーニングの時間になってしまうぞ」
私の前を、再びご機嫌なルドルフが楽しそうに歩いていた。
皇帝陛下におかれましては、ぱたぱたと御尻尾を上下させ、ご機嫌が大変に麗しいご様子である。
時折振り返っては、微笑み掛けてくれる姿はとても綺麗だと思うが、私を追い詰めて楽しそうにしている辺りは、猫科の習性なのだろうか。
時折「ライオンじみている」と形容することはあったが、こういう所で発揮されても困るのだが。
お陰で、私の胃はそろそろ取れそうであった。
「…一旦棚上げにしよう。トレーニングに急ごうか」
考えても埒があかないことは、一旦棚に上げるに限る。
長年のトレーナー生活において、幾たびも危機を潜り抜けてきた私が身に着けた、数少ない特技の一つだった。
こういう時、ルドルフに時間を与えるということがどういう結果を招くのかは重々承知している。
皇帝という単語からイメージするような、高い能力に任せた正面からの力押しとは縁遠いレース運びをする彼女は、地固めも得意なのだから。
またの名を根回しとも言う。
しかし、トレーニング後に授業により拘束されるルドルフとは異なり、トレーナーである私は午前中はフリー。住まい探しに動く時間が確保できる。
駿川さんに部屋の鍵を返し忘れていた事もあるし、返却がてら駿川さんと理事長へも相談に行った方が良いだろう。
このまま座視していては、流されるままに帝城で御一泊となりかねないので、ここら一帯の統治者である学園側の意向も確認しておきたいところ。
実に恥ずかしい話ではあるのだが、流石に昨日からのあれこれで肉体的・精神的な疲労感が重く圧し掛かって来ている。
特に、大事に育てていた観葉植物くんの死は私の心に大きな影を落としている。
ガジュ丸……くっ。
尊い犠牲はさておき。
慣れない場所で眠ったことで、若干の不調も引きずっているところなので、早いところ安寧の地を手に入れたいというのが偽らざる本音であった。
できれば心の底から安心して眠りに就ける約束の地に辿り着きたいところだが、トレーナー業を引退でもしない限り手に入りそうもない。
皇帝の寝室に招き入れられれば、衣食住は完全に保証されそうではあるが、私が求めているのはそういう片足を墓地に突っ込むタイプの生涯の安寧ではなく、今一時の平穏である。
そんなわけで、トレーニング後の算段を立てつつ、目下の問題から一時的に目を逸らす。
切り替えよう、と前を向いた瞬間、しゅる、と何かが指に絡み付いてきた。
驚いて目をやれば、よく見慣れた毛色。
ばたばた揺れていることが多く、また流石に艶やかな毛並みのそれ。
いつの間にか私の隣に下がってきていたルドルフが、尻尾を絡ませてきていた。
なるほど。
これが任意同行か。
「お、おはよー!」
『任意』という能動的な単語が入っている割に全くもって自由を感じない、連行されていく容疑者の心境で辿り着いたのは、いつものトレーニング場である。
概ね集合場所と言うのはそれぞれ決まっているわけだが、今まではルドルフ一人がストレッチしながら待っていることが多かった。
そこに、にこにこと、垂れ目がちな目を楽しそうに細め、手を振っているテイオーがいるのは、何となく不思議な心境にさせられる。
基本的に私のトレーナーとしての経験の全ては、ルドルフと共にあったのだ。慣れるまでまだ多少の時間が必要なのだろう。
「おはよう、テイオー」
さも「何も無かったが、何か?」と言わんばかりの表情と態度に一瞬で戻ったルドルフが、するりと指から尻尾を離してテイオーの元へ歩いていく。
少しばかり涼しくなった指に、思いのほかはっきりと締め付けたような痕が付いていたのを見なかったことにしつつ、私も向かう。
まぁ、鬱血していたもの。痕が付くのも仕方ないね。
「おはよう」
「トレーナー、カイチョー!おはよー!」
とんとん、と足取りも軽く、迎えるように近づいてくるテイオーに、ひどく違和感を感じ足を止めた。
…何かがおかしい。
いや、昨日の今日でまだ情報も出揃っていないわけなのだから、迂闊なことはできない。
だが、朝の壮絶な担当ウマ娘通話ルーレットや、見ることは叶わなかったが毎分を上回るペースで届けられていたメッセージを考えるに、こうして落ち着いているのは異様だ。
本当に、なんというか違和感が凄まじい。
視線を隣へちらと向けて、ルドルフの様子を伺うが、ルドルフも困ったような、どうしていいか分からないような顔で固まっている。
反応に困る、というのが正直な所である。
不躾だとは理解しているが、どうしても違和感の元凶へと目が吸い寄せられてしまう。
当の本人も笑顔が若干強張っているし、尻尾も落ち着かないようにあちらこちらを彷徨っている程だ。
私は一つ頷くと、口を開いた。
「さて、トレーニングの準備をしようか」
強烈な違和感は、意志の力によって見なかったことにする。
逃げたとは言わないでほしい。
これは高度に政治的な判断なのだから。
「トレーナー君?」
見なかったことにするという判断を下した私を、ルドルフが「どうするんだこれは」と睥睨してくる。
そう言われても困る。ルドルフがどうにかするの?という意志を込めて見つめ返せば、瞳が僅かに揺れた後、すっと横へと逸らされた。
どうやらこの件に関しては、「触れないでおこう」ということで、我々は分かり合えたらしい。
「…そうだな。光陰如箭、時間は有限だ。ウマ娘三日会わざれば刮目して見よ、と言うしな。着替えて来よう」
うんうん、とルドルフが重々しく頷いて追従し、そそくさと更衣室へと向かっていく。
「いってらっしゃい。早く戻ってきてねー!」
ふりふり、と手を振るテイオーを横目に、ルドルフを見送ってから気付く。
やられた、と。
集合時間に少し遅れたために、テイオーは勤勉にも既に準備を終えていたのである。
つまるところ、ルドルフは着替えのためにこの場を離脱し、私とテイオーが取り残された形となる。
……どう対応すべきか悩んだ末に逃げたな?
今朝から駿川さんといい、ルドルフといい、撤退の判断が的確で参ってしまう。
これは私も準備のためと言って撤退すべきか、と考えたところで、声が掛かる。
「ね、ね、トレーナー」
そそくさと立ち去っていくルドルフが見えなくなって暫くして、テイオーがするりと身を寄せてきた。
相変わらず、滑らかな足取りは綺麗な事この上ない。
ちゃり、とつい先日プレゼントしたアンクレットが音を立てて揺れる。
心境は逃げ遅れた小動物か何かだ。
この仕掛けタイミングは天性のセンスによるものか。
どうせ発揮するならレースにしていただきたいものだが、今の私は逃げることも封じられ、ただ返事を返すしかない。
「なにかな?」
「今日のボク、どう?」
少し上目遣いで、じっとこちらを見上げてくる。
流石に少し恥ずかしいのか、ほんのりと色づいた頬。
柔軟を先に済ませていたのであろう、僅かに汗ばんだ肌。
……どうと仰られましても。
大方、昨日あの部屋で倒れていたところから考えると、メイショウドトウのあの姿を見てしまったのかもしれない。
触発されるにしても、もう少し取るべき手段はあると思うのだが。
テイオーの小柄な身体にフィットしていた筈の体操服の胸元が「これでもか」とばかりに押し上げられているのである。
パッドを詰めるにしても、どうやってそこまで詰め込んだのか、というかむしろ何を詰め込んでいるのか気になってくるレベルである。
小柄で細身なテイオーの胸元がすごい事になっているわけだが、色気というよりは、小さい子がモデルに憧れて適当に詰めてみました、という感が強い。
こんなのにどう対応しろというのか。
余りにも異次元の体験すぎて、どう対応するのが正解なのかさっぱり見当もつかない。
期待に目を輝かせて尾を振っているテイオーには申し訳ないが、元気いっぱいな彼女の印象がより強化されているだけであった。
より幼なげな印象を強化する形で。
「テイオーはいつも元気だね」
対応に困ったら、ひとまずセクハラで蹴られない程度にスキンシップを図れ!
……とは、スピカのトレーナーが拳を握って力説していた事である。
スキンシップと言っても、適度な交流の事を指しているのだろうが、スピカのトレーナーがその言葉を口にすると、どうしても時折ウマ娘の足を何の遠慮も容赦もなく撫でまわしては寸評して蹴り飛ばされる姿しか思い浮かばない。
ぴょこぴょこと動く頭に、掌を置いてぐしゃぐしゃと撫でてやる。
あまり丁寧に撫ですぎると、妙な雰囲気を出し始めるので、適度に髪型を崩しそうで崩さないラインを見極めなければならない。
この辺りは経験だろうか。
何かの拍子にルドルフの髪をぐしゃぐしゃに撫でまわした時は、丸一日ほど拗ねられた。
そして、今になって考えてみると、あんなことをして蹴り飛ばされるだけで許されているあたり、スピカのトレーナーは異常である。
流石は巨頭の一角。練度が違う。
「わっ、くすぐったいよー!」
テイオーは比較的距離感が近いというか、人懐っこい犬のようにフレンドリーなところがある。
多少の事では拗ねはしても怒ったりはしないだろう、という判断の元での行動だったが、思ったよりも好意的な感触だ。
幼さがまだ目立つ部分はあるが、それでも年頃の少女。
容姿には気を配っているのか、これでいて存外隙が無い。
育ちが良いのか、破天荒な部分もありながらも時折所作に上品さが滲む。
よく考えずとも、彼女も名門の出身だ。当然と言えば当然のことなのだろう。
どちらかと言えば、そういうギャップを出していった方が受けるのかもしれないが、注目を集める様になれば自ずと身に付いていく物でもある。
今は自然体のままで居てほしい、と思うのは私のエゴだろうか。
その不自然に盛り上がった胸も、出来れば自然体のままで居て頂きたかった。
助けを求めて天を仰げば、今はその青さまで憎らしく感じた。
隣の芝は青いという。
天才だ、天才だと持て囃されたトウカイテイオーにも、手に入らないものはあるのだ。
そして、そういうものに限って羨ましく感じる。
仕方のない事だ。
掌の下できゃっきゃと楽しそうにしているテイオーは、このままでも十二分に可愛らしい。
だから。
「それは盛り過ぎじゃないかな」
「トレーナーのばかあああああああああああ!」
まずい、一発で噴火した。
ぐるりと回る視界。
一瞬の浮遊感と、次いで衝撃。
肺から空気が押し出され、呼吸が止まる。
一瞬だけ再び見えた青空は、先ほどと変わらず、小憎たらしいほど綺麗に透き通っていた。
「……何をやっているんだ、二人して」
ようやっと我が君が帰還めされ、テイオーを猫でも拾い上げるような手つきで摘まみ上げたのは、私はうつ伏せに地面に転がり、その背中の上でテイオーが「むーむー」と遺憾の意を表明し、引っ張ってみたり転がしてみたりと駄々を捏ね始めた頃だった。
駄々を捏ねる、といえばなんだか愛らしい印象を受けるが、明らかに私よりも一回りも二回りも小さいテイオーに投げ飛ばされた私は息も絶え絶えである。
呼吸が止まったこともそうだが、もうなんだか朝から色々と疲れているのだ、
転がされる団子虫のように抵抗する気力もない。
べしゃりと俯せに転がったまま、やってきたルドルフを見上げる。
「トレーナー君、大丈夫か?」
「これが大丈夫に見えるかい、ルドルフ?」
質問に質問で返すな、と子供の頃に言われたような記憶もあるが、それでも思わず口をついて出てしまった。
「見えないな」
それはそうだろう。
着ていたシャツはもう事故にでもあったのかと見紛うような姿にされている。
私のシャツは今朝から粘液を塗されたり引っ張られたり土に塗れたりと大変に忙しい。
私も逃亡を考えていたのであまり言えた口ではないが、さらりと上手く逃げていってしまったルドルフには少々思うところがある。
ルドルフの口から指摘した方がまだ角が立たなかっただろうに、と。
起きあがろうとしたところを、ルドルフの手が伸びてきて、簡単にごろりと仰向けに転がされてしまった。
それこそ、ダンゴムシでもひっくり返すような気軽さで。
覗き込んでくる、気遣わしげな紫色と、すっかり大人しくなった水色。
水色の方は憑き物が落ちたかのように大人しくなっている。
流石に首根っこを抑えられると大人しくなるのは、大体の生物に共通した習性らしい。
もちろん、私がやっても腕が引き千切られるだけだと思うので、そもそも逃げ損ねた時点で絶望的なのだが。
「……起こして」
「承知した」
手を取れば、簡単に引き起こされる。
テイオーを片手で摘み上げたままだというのに、簡単に引き起こされた。
その勢いで弾みをつけて立ち上がると、軽く服を叩く。
土汚れが若干落ちたような気がしなくもないが、湿っていた胸元に関してはもはやどうしようもない状況。
着替えたいところではあるが、あの壊滅した寮の一室に足を踏み入れると本格的に崩れ落ちそうな気がするので、トレーニング時間をそんなことに割きたくはない。
諦めて、仕切り直しに咳払いをひとつ。
「……さて、トレーニングに移ろうか」
「うん、だがその前にテイオー」
ちらり、と摘み上げたままのテイオーに一瞥すると、しゅんと耳を萎れさせたテイオーが口を開く。
「………ごめんなさい」
「ああ、気にしていない………か………ら………」
「………トレーナー君?」
まずい。ルドルフが気づいていない。
これは絶対にひどい目に遭わされるパターンだ。
慌てて目を逸らす。
あれだけの詰め物を、ちゃんとフィットしたサイズの体操服に無理やり詰め込み、結果ぱっつんぱっつんになっていた。
そして今、ルドルフに首の後ろをつかんで摘み上げられた事でさらに伸び、詰めていたらしい物体も地面に転がっている。
結果、トウカイテイオーの体操服の胸元は。
それはそれは、もうがばがばに伸びきっていた。
「ぎゃあああああああああああああああああああああ」
天高く、透き通った空に汚い悲鳴が木霊した。
それはとても、綺麗な水色をしていた。
話の本筋から外れた特別編(渋に掲載のものなど)、こちらでも掲載した方がいいですか?
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