「は? あたしに
あたしと組んでいる研修生が言った言葉は、耳を疑うような内容だった。
「次は府中ステークスって話じゃなかったのか? 自己条件の」
「ああ、その予定だったんだが……」
歯切れ悪く言うと、視線を逸らす相手。
この反応……ドッキリだとしたらかなりの役者だぞ。演技上手いな、オイ。
あたしは半ば呆れながら詰め寄った。
「オイオイオイ、いくらなんでも冗談が過ぎるだろ? エイプリルフールはまだまだ先だぜ、研修生」
「オレも、先生に言われたときは、同じことを思ったさ」
「……ってことは、マジか?」
そのあたしの問いに乾井というトレーナー研修中の男は、複雑な表情で頷いた。
どうやら秋の天皇賞に出ろ、というのはウソでもドッキリでもなく、本当に本気の話らしい。
「正気かよ……あのオッサン、気でも触れたのか? それとも夏の暑さにやられていたのが、涼しくなってきて顕著になったとか」
「ギャロップダイナ……」
あたしの口の悪さをたしなめるように、相棒はやんわりと
オッサン……普段は“おやっさん”と呼んでいるけど、今回は頭に来て思わずそう呼んじまった。
その人はあたしが所属しているチームのメイントレーナーで、その下で研修をしている乾井
もちろん書類上はうちのチームのメイントレーナーが担当だが。
あたしだって決められたときは、おやっさんに「なんで研修生が担当なんだ」と文句を言ったぜ? さすがにな。
でもそうされちまうのも仕方がなかった。あたしはそんな贅沢を言えるような立場じゃなかったんだから。
ま、今じゃそんな不満は無い。堅っ苦しいところもなく、付き合いやすいのは助かってるくらいだ。
「あのオッサンに一度確認してきてくれ。あたしがオープンじゃなくてまだ条件戦走ってるウマ娘だってのが、わかってるかどうかをな」
「真っ先に確認した」
「で?」
「『あの落ちこぼれだぞ? そんなのわかってるに決まってんだろ』だとさ……」
「お~お~、言ってくれるねぇ。その“落ちこぼれ”は、芝じゃなくて
「ああ。先生は、『
「ハッ……あのジジイ、最近ゴルフやってんのかよ……」
あんな性格の下でよくもまぁ、こいつの先輩の
反面教師ってヤツか?
それにしても──
「その理由、ひょっとして……」
「ああ、お察しの通り。あの“皇帝”陛下が一緒にコースを回ってくださるそうだ。光栄なことにな」
「あ~、あ~、道理でお上品なことで……ったく、ヘドが出るぜ」
あたしは思わず「うへぇ」と嘆いてから、ため息をつく。
“皇帝”──シンボリルドルフ。
無敗でクラシック三冠達成という前代未聞のことをやり遂げ、今までたった一度しか負けていないウマ娘。
その一度の負けは、あたしと同期の三冠ウマ娘との対決のときだ。
(両者がバチバチに牽制し合ってる隙をついて逃げ切ったカツラギのヤツの作戦勝ちだけどな……)
そこで無敗が途切れたルドルフだったが、そこでツキを落とすようなこともなかった。
相も変わらず有馬やらで勝ち続け──今年の春の天皇賞を制して春シーズンを終了して休養に入った。
それが復帰してくるってのは聞こえてきてたが、完全に
2000以上を走ったのなんてだいぶ前の話だ。とっくに体も忘れてらぁ。
だからそれより長い距離のレースを走るルドルフとはカチ合う可能性もない。
(この歳になっても
当然、“皇帝”とまともに戦うような身分ではなく──その一方、ルドルフはルドルフでそのあまりの強さに同じレースを走るのを他に嫌われるのだろう。
あれだけ圧倒的ならそれも納得だ。
つまりあたしは、その“賑やかし”メンバーで呼ばれたってわけだろ。
「……先生も、『ウチから誰も出さないってわけにはいかねえから』って言っててな。東条先輩の手前もあるんだろうし」
シンボリルドルフが所属しているチーム〈リギル〉のトレーナーは東条ハナ。かつてはウチのチームのサブトレーナーだったのが独立したらしい。
同じ師匠から教えを受けた、
そいつの晴れ舞台が寂しくなっちまうのは師匠として許せない。かといって、負けるとわかってる戦いに自分のところの秘蔵っ子を出すわけにはいかない。
……で、別に負けたってかまわないあたしにお鉢が回ってきたってワケだ。
「──ちなみに、付き添いはオレだけだ」
「……は? オッサンは?」
「シャダイソフィアが京都で出走するから、そっちに行くそうだ。お前のことはオレに完全に任せるから、二人で好きにしろ、だとさ」
「ちゃんと生八ツ橋買ってこいって伝えておけよ? お嬢、訳の分からねえモン買ってきそうだからな……」
軽口を叩いちゃいるが、頭を抱えたかった。
完全にビジョウに丸投げじゃねえか、ったく。あのオッサン、やる気
まぁ、まかり間違ってもソフィアにこっちを走らせたくはねえ。お嬢に“皇帝”の相手ができるとは思えねえし。
だが、いくら勝ち目が無えからって、メイントレーナーまで不在とは──
「面白くねえな。完全な敗戦処理じゃねえか……」
味わいたくもないが、プロ野球のピッチャーの気持ちが分かっちまったぜ。
エースじゃなくて、落ちこぼれの方の気分だけどな。
「……いいや。違うぞ」
「あん?」
あたしのつぶやきに、研修生が反応した。
それがカチンと来てつい睨んじまう。
だが……こいつは何を考えてるんだか臆することなく笑いかけてくる。
「勝って、いいんだからな?」
「はぁ?」
なに言ってんだ、コイツは?
あたしなんぞを
言うに事欠いて、“勝つ”だと?
「野球の敗戦処理ピッチャーは、一人だけじゃまず勝てない。試合を捨てるような点差が付いている中だから、自分一人で打っても逆転できるわけが無い」
「そいつはご愁傷様だ。ついでに言えばパ・リーグなら
あたしがツッコむと、研修生は「それもそうだった」と苦笑する。
「だけどダイナ。お前はたった一度、“皇帝”よりも前でゴールを駆け抜ければいいんだ。それだけで勝てる」
そんな頭のおかしくなっちまったあたしの担当は、ふざけたことを大真面目に言い始めた。
どうやらその目を見る限り、冗談でもなければ、正気で言っているらしい。
「その勝利にチームメイトの頑張りもいらなければ、ホームランを打つ必要もない。バットを振る必要さえないんだ」
「ハッ……言ってくれるじゃねえか。その
「じゃあギャロップダイナ、お前は……最初から諦めて走るのか?」
そう言った研修生の目は──完全に
今まで二人で笑い、時に喧嘩もしながらダートを主戦場に──まさに泥まみれになって戦ってきた。
そんな中で、今までに見たことがないほどに真摯な眼差しをあたしに向けてきたんだ。
「研修生、お前……」
「最高の舞台で、最強の敵を相手にするのに……どうせ勝てないと、
そう言って彼は──ダン! と地面を思いっきり踏みつけた。
「食えねえブドウなら踏みつぶしちまえ。グッチャグチャになるくらいに」
「はぁ?」
「潰したブドウは美酒に変えちまえばいい。たとえ失敗して
さらに訳の分からねえことを言い出したぞ。
メイントレーナーに無理難題言われて、おかしくなっちまったのか?
「なぁ、ギャロップダイナ……オレ達はこのレースで失うものも無いし、どんな結果でも誰からも笑わないんだ」
「ビジョウ、お前……」
芝のGⅠ、それも天下の八大レースで、“ダート勝利ばかりの条件ウマ娘”が勝つと誰が思うだろうか。
世間のヤツらは思っている。数合わせか、どうせ“思い出”出走だと。
──ああ、クソ面白くねえことにな!!
数合わせ? 思い出? そんなもんこっちは頼んじゃねえんだよ!!
胸糞悪いにもほどがある。
あ~、あ~、世間様に“皇帝”サンよ。そこまで言うなら出てやるから……覚悟しろよ?
「……なぁ研修生。
「ああ。シンボリルドルフは休養明けのぶっつけ本番。そこに隙が必ずあるはずだ」
本当に隙のない万全な状態で秋を迎えているのなら、間に一度でも走っているはず。
あくまで可能性だが、と注釈を入れて──ビジョウはニヤリと笑みを浮かべる。
「最弱の
その初めて見せた表情に──やっとあたしの担当に相応しくなってきたじゃねえか、と密かに思った。
「──で、秋の天皇賞に出走して、
そう言って、「アハハハッ!」と豪快に笑うギャロップダイナさん。
うぅ……せっかく立ち上がったのに、またドカッと元の椅子に腰掛けたので、私の座布団さんは彼女のお尻の下でつぶれてしまいました。
「まぁ、ビジョウの口車に乗せられて、出走したからには一泡吹かせてやろうと思ってスタートしたんだが……ゲートを出たと思ったらルドルフのヤツはもう向こう正面の坂にいやがったんだよ。躓いておいてそれだからな、『ヤベーな、これ』と本気で愕然としたぜ?」
「あのレースはペースも速かったからな」
ギャロップダイナさんの言葉に、トレーナーさんも苦笑混じりに頷いてます。
「そうそう。あんなバカっ
「ッ──」
聞いて思わず吹き出すたロンマンガンさん。
それを「ああ?」と睨むギャロップダイナさん。
「オイ、そこ笑うとこじゃねーぞ」
「いやいや、ダイナ
「よし、言ったな? じゃあ……ロンマンガン、アウト~!!」
そう言いながら、ギャロップダイナさんはきっちり制裁のゲンコツを落としました。
ロンマンガンさん……雉も鳴かずば撃たれまいって言葉、知ってます?
ともあれ、いつ弾が飛んでくるか分からないこの戦場からどうにかして逃げないと……
「ハイペースで進んで最後の直線……ここまで来たら、最後くらい目立ってやるぜって持てる力全部振り絞ったわけよ。一人抜いて、二人抜いて……そしたらなんか妙な感覚に襲われてな……」
「「「──ッ!?」」」
あれ? トレーナーさんとミラクルバードさん、それにダイユウサク先輩が驚いたような顔をしていますが……なにかあったのでしょうか?
「ねぇ、トレーナー。それってやっぱり……」
「ああ、たぶん……“
「あれ? 今まで気がつかなかったの?」
「アイツがこんなことを話すのが、初めてだからな」
私の近くでコソコソと話し始めたトレーナーさんとミラクルバードさん。
彼女は眉をひそめてトレーナーに問います。
「なんで? だってダイナ先輩って、自己顕示欲強そうなのに……」
「あの日……オレ達が東京で金星を挙げた一方で、大怪我したチームメイトいたんだ。だからアイツ自身はあまり話さなかった。なにしろアイツの──」
「──おいビジョウ、ツマんねえ話するんじゃねえよ」
ジロッとかなりキツい目つきでトレーナーさんを睨みつけるダイナさん。
その剣幕に、私は思わず「ひぃッ!」と悲鳴をあげ、飛び上がらんばかりに驚きました。尻尾もピンと立ち上がってしまいます。
思わず周囲に隠れる場所を探して──そんな私の様子に、当のギャロップダイナさんは呆れたような顔をしていました。
そしてため息を一つついて、気を取り直し──
「……で、直線で一人抜かし二人抜かし、その辺りでさっき言った感覚に襲われてな。あとは無我夢中よ。三人四人五人と抜いているうちにテンションが上がって、抜かすのが楽しくなっちまった」
そのときの再現とばかりに揚々と語るギャロップさん。
「まるで時代劇の殺陣みたいに、次! その次! と並ぶヤツらを片っ端から撫で切りに追い抜いて……急に前が開けた。で、同時にふと気付いたわけだ。あれ? 今、左に見えた勝負服、ルドルフのだったんじゃねえか? って。気になってチラッと見たら、アイツの『やっちまった』って顔があたしよりも後ろにあるじゃねえか。ホント、傑作だったぜ……」
そう言いながら爆笑し──連れてきたマルゼンスキーさんが少しだけ眉をひそめました。やっぱり、普段から会長の補佐をしていますから……
気付いたトレーナーさんが、「ダイナ……」とたしなめます。
「──で、気がつきゃゴールはとっくに過ぎてたってわけさ。実況に“あっと驚く”なんて言われたが、一番驚いてたのは間違いなくルドルフだな」
語り終えて、満足したギャロップダイナさんはトレーナーを振り返り、そしてニヤリと笑みを浮かべます。
「……さて、ビジョウ。あたしにわざわざこんな話をさせたってことは、あんたのチームから出るんだろ?
「え? そうなの?」
確信していたギャロップダイナさんとは対照的に、意外そうな顔をしたのは部外者のマルゼンスキーさんでした。
彼女は、眉をひそめて考え込むと──
「出るのは、ダイユウサク?」
「調子が万全なら、得意な距離だしもう一度挑戦させてやりたかったんだが……残念ながら違います」
マルゼンスキーさんの問いにトレーナーさんは首を横に振り、ダイユウサクさんへと優しい目を向けます。
そして……それから私の方へと視線を向けました。
「走るのは、そっちにいる方のウマ娘ですよ」
「あぁ。最近、調子がいいみたいね。えっとたしか名前は、レッツ
「おい、マルさん。違う違う──」
……はい、ギャロップダイナさんの言う通りです。“ラ”は入りません。
「コイツの名前は──」
そんなダイナさんは私の方へと近づいてきて、肩に手をかけて──ひィッ!! いったい何を……
「──レッツゴードンキ、だよな!」
ギャロップダイナさんは良い笑顔を浮かべて、私の顔をのぞき込みました。
でも…………あの、それも違うんですけど。
たぶん、人違い……ですよね、それ。
ギャロップダイナは、オレが研修をやっていたころに、お世話になったチームに所属していたウマ娘だった。
予想外にエントリーすることになり、自由にやらせてもらったのをいいことに……好き勝手に調整し、オレはダイナを秋の天皇賞に送り込んだ。
その結果──とんでもない大金星を手にしたのだが、当時のオレはあくまで研修生であり、そこに名前は残ってない。
その後も師匠の名の下に、オレがメインで面倒を見ていたんだが……翌年の安田記念で「親友の代わり」と挑んだ安田記念を制したあと、フランス留学へと旅立ったんだ。
オレはその後、研修を終えてトレーナー資格を得て──
「例の弥生賞の話はマルさんから聞いたぜ? ったく、あたしが残ってたらそんなワガママなウマ娘も、その後の話をしてるヤツらも、片っ端から蹴り飛ばしてたのによ……」
「ああ、お前が残ってなくて良かったよ。そんなことをしたら間違いなく退学になっただろうからな」
憤慨するギャロップダイナ。その真っ直ぐな心根は、留学を経ても変わっておらず、オレはうれしかった。
「お前、これから復学するんだよな?」
「そのつもり……なんだけど、な……」
苦笑を浮かべながら、「近い世代がシービーとルドルフくらいしか残ってねえけど」と愚痴る。
「じゃあチームは?」
「ああ、それは元いた〈ミモザ〉……って言いたいところだけど、おやっさんは引退しちまったんだろ?」
「……そうだ」
その経緯から、オレの心がチクリと痛む。
師匠はオレが過去に起こしたことの責任をとって、トレーナーを辞めていた。
「なら選択肢は無いも同じだろ? たとえ他のチームに入れさせられても、あんたがチーム作ったんだから移籍する気しか無ぇよ」
「「「「……え?」」」」
奇しくも、その場にいたチームメンバーの声が一致する。
「あたしも入れてくれよ、チーム〈アクルックス〉に。と言っても、全盛期の時みたいにガンガン走るワケじゃねえけど……」
「ああ。分かってる。もちろん──」
「だ、ダメよ!! 絶対ダメ!!」
オレが承諾しようとしたら、脇にいたダイユウサクが突然反対し始めた。
ん? 珍しい……いや、そういえばコイツ、昔は他のメンバー入るのをものすごくイヤがってたよな。ミラクルバードの時とか。
そう考えると懐かしくもある。
でも、ロンマンガンにレッツゴーターキンのときはそこまで頑なに反対もしてなかったから、完全に慣れたのかと思っていたんだが……
「あ? なんでダメなんだよ? それに……お前に決める権限あるのか?」
「あ、あるわよ! 元々はこのチームはアタシだけのソロチームだったんだから! アタシの意見も尊重されるべきだわ!」
「なに言ってんだ? 元々なんて関係ねえし、そもそもトレーナーであるビジョウのチームだろ? ならビジョウが許可すれば、他に異論を挟めるヤツなんていない……違うか?」
「く……ッ」
凄むギャロップダイナに、睨み返すダイユウサク。
だが、ダイナの言ってることの方が筋は通っている。例えば、たとえ名前をとっているチーム〈アルデバラン〉であろうとも、ウマ娘アルデバランの意向ではなくメイントレーナーの
(まぁ、相生さんもアルデバランも、基本的には来るもの拒まずって感じだしなぁ……)
そう思いながら、オレは相生さんとアルデバランの顔を思い浮かべていたんだが──
「で、どっちにすんのよ!! アタシの意見、まさか反対なんてしないでしょうね?」
「おいビジョウ。あたしのこと、当然入れてくれるんだよな?」
──気がつけば、ギャロップダイナとダイユウサクが揃ってオレを睨んでいる。
え? なにこの状況。まるで修羅場みたいな──
「うん、やっぱり大神さんだよね……」
「前門の虎に後門の狼。どっちを切ってもロン和了される的な……完全に詰みな状況だわコレ」
おい、ミラクルバード。お前面白がってるだろ?
それにマンガン、「くわばらくわばら」とか言って距離をとるんじゃない。
──で、ターキン。お前はダンボールに入るな。
オレはため息をつき……そして言った。
「さっきの話もありがたかったが、チームに入ってもらうと助かる、ダイナ」
「っし! やっぱり分かってるなぁ、ビジョウ!」
「なッ──」
ガッツポーズを取るダイナに対し、唖然とするダイユウサク。
噛みつかんばかりの勢いで「ちょっと、アンタね!!」と迫ってきたダイユウサクに対し、オレは片手を出して制した。
「落ち着け、ダイユウサク。冷静に考えろ。ターキンが挑むのは秋の天皇賞だぞ? 歴代でも最強クラスのウマ娘を相手にして勝ったダイナは、これ以上ないような味方だ」
「ぐ……それは、そうだけど……」
「そうそう、そういうことだぜ。なんたってあたしは、秋の“盾”を手にしてるからな。えっとダイユサク、あんた確か……不調だったオグリキャップよりもさらに下、だったんだっけ?」
顔を寄せて煽るギャロップダイナに、ワナワナと震えるダイユウサク。
「うっさい!! そういうアンタは、グランプリとって無いじゃないの!!」
「ええ、ええ、“世紀の一発屋”さんと違ってとれませんでした。ま、あたしは
「ぬぁんですってぇぇぇ!!」
つかみかからんばかりの勢いで言い争いを始めた二人。
……というか、
確かに、ダイナの経験を得られるのは、今回のターキンにとっては渡りに船だし、それ以外の経験もチームにとってプラスになる。
なるんだが……
「やっぱり、やめた方が良かったかも……」
「そんなこと言っても、ダイナ、絶対に納得しないわよ」
ガックリ肩を落とすオレに同情したような目を向けたのは、こいつを連れてきたマルゼンスキーだった。
彼女は苦笑を浮かべながら、励ますようにオレの肩をポンと軽く叩く。
「一度承諾しちゃったんだから、責任持って面倒見てよね、乾井トレーナー」
そう言って、マルゼンスキーはチームの部屋から去っていった。
彼女が連れてきたこの危険人物……ウチのチームにはたしてどんな変化をもたらすのか。
(まだ、こんなものでは……)
自分の出したタイムを見て、私──オラシオンは小さく首を横に振りました。
それを見た渡海さんは、小さくため息をつきます。
「まだ、満足できないの? クロ……」
二人きりなので、彼は幼いころのあだ名で私を呼んできました。
そして彼がそう呼ぶのは、私を
「ええ。デビュー戦は絶対に勝たないといけないの。養父の期待に応えるためにも」
「それはわかるよ。でも……」
「──そんなに時計が気になるのか? シンデレラじゃあるまいし」
渡海さんの声を遮るように聞こえた女性の声に、私はサッと振り向きました。
頭の後ろで一房にまとめた鹿毛の髪をなびかせて、鋭い目をしたウマ娘が、不適な笑みを浮かべてこちらを見ていました。
その表情は、まるで私を揶揄して笑っているように見え、その不快さに思わず顔をしかめてしまいます。
「オラシオン……だよな? 〈アクルックス〉所属の」
「……人に名を尋ねるのなら、まずは名乗ってはいかがでしょうか?」
険しい表情のまま答えると、そのウマ娘は突然笑い出しました。
「アハハハハ……ビジョウが手を焼いてるって聞いたから、どんな跳ねっ返りかと思ったら、随分と礼儀正しい優等生じゃないか!」
「ビジョウ……?」
聞き慣れない言葉に、私は眉をひそめます。
渡海さんも聞き慣れないようで、戸惑っている様子でしたが──
「すまないね、優等生。泥んこ遊びで育ったもんで行儀が悪くてね……あたしの名前はギャロップダイナ。今度からあんたと同じ〈アクルックス〉で世話になることになった。その御挨拶、ってわけだ」
「……私はオラシオンと申します。その御高名、存じています」
彼女が名乗った名前は、私も知っている名前でした。
何年も前に、施設の“姉”達がトゥインクルシリーズに挑戦している時に、絶対王者として君臨していたシンボリルドルフ会長。
悪戦苦闘している“姉”達のことを思えば、連戦連勝のウマ娘のことは複雑ではありましたが、ルドルフ会長はあまりにも強すぎて私もあこがれた存在でもありました。
そのシンボリルドルフ会長から栄冠を勝ち取った、たった二人のウマ娘の一人……それがギャロップダイナというウマ娘。
「……チームに入ったのはターキン先輩の臨時コーチ、といったところでしょうか?」
「“臨時”じゃねぇ正式メンバーだが、ま、そんなところだ……ともかく話が早くて助かるな。打てば響くってのは気持ちがいい。あんたの爪の垢、他人に関心の低い
皮肉気な笑みを浮かべるギャロップダイナ先輩。
「……もっとも、あんたもあいつの爪の垢を煎じて飲んだ方がいいかもしれないけどな」
「どういう、意味でしょうか……?」
「少しは愚直にアイツを信じてやれよ、って意味さ」
「アイツ?」
「ビジョウ……お前のメイントレーナーのことだよ。最近、方針で揉めて上手くいってないんだろ?
「ッ! ……それは意味もなく、トレーナーが私のデビューを遅らせたからです。それにしっかりと与えられた課題はこなしています。何の問題もありません」
「あんたが、自分で、選んだトレーナーだろ? 信じねぇでどうするんだよ、ったく……」
呆れたように、頭をガシガシと掻くギャロップダイナさん。
彼女は面倒くさそうな表情で、私に言い放ちました。
「アイツは、意味もなくそんなことをするようなヤツじゃねえぞ。そもそも、お前のデビューを遅らせて、アイツにどんな得があるんだよ?」
「それは……」
そんなことは、私もわかっています。
でも……私のデビューを遅らせたその真意がわからない以上、信用だってできないんです。
トレーナーとの信頼関係が無い──そうなってしまい、私はこのチームに入ったことを後悔さえしていました。
「まぁ、好きにするといいさ。だが……アイツのやってることは必ず意味はある。あんたのデビュー戦が遅くなったのも、アイツなりの考えがあって選んだレースなのは間違いないからな」
「随分と信頼しているんですね。他人を信じるのは美徳ではありますが、信頼と盲信は違いますよ?」
「ハッ……まるで説教だな。神父みたいなことを言いやがる」
「ええ、未熟ですが神官位を授かっていますので……」
「なるほど、ガチってわけか。コイツは失礼しちまったな」
ギャロップダイナ先輩は、口では謝罪の言葉を言いながら、まったく悪びれた様子もありませんでした。
そして、意地の悪い笑みを浮かべます。
「どこにおわすか分からねえ三女神サマを信じるよりも、まずは身近にいるトレーナーを信じることをお勧めするぜ、
そう言いながら彼女は振り返り──「じゃ、またな……」と言って手を振りながら去っていきました。
「くッ……」
私はうつむき、悔しさに唇を噛みしめます。
あの方に言われるまでもなく、トレーナーが意味のないことをするとは、思っておりません。
でも──
(私は、一日も早く結果を出し、そして……
それは──自分が支援したウマ娘がその栄冠を勝ち取り、共に喜びを分かち合いたいという、養父の長年の夢だったのですから。
「そのためにも、同期に
先日、ダイユウサク先輩とトレーニング中に出会った私の同級生のウマ娘、セントホウヤ。
彼女は8月にデビューして勝利。さらに勝利を重ね、現時点ではもう3勝もしています。
デビュー前の私は、随分と水をあけられてしまい、気持ちが焦っているのは自覚しています。
(しかし、デビュー戦は決まりました。11月の第2週……)
1200メートルのメイクデビュー戦。
それがやっとトレーナーが決めた、私の初舞台。
心を落ち着けるため、私は目を閉じて胸の前で手を組み──三女神に祈りを捧げます。
(女神よ。力をお貸し下さいとは申しません。だた目標への道をお示しください……)
絶対に譲ることのできない夢。
そこに至るための道程を照らしていただければ、私は全力でそこを駆け抜け、至ってみせましょう。
「クロ……」
祈る私を、どこか戸惑いながら見つめる渡海さん。
“祈り”という行為を私に教えてくれたはずのその人が不安そうになっているというそのことに、この時の私は気がついていなかったのです。
◆解説◆
【Let's enter! “あっと驚く”その名は──】
・“enter”は加入という意味。
・“あっと驚く”は言わずと知れた、ギャロップダイナがシンボリルドルフを破って天皇賞(秋)をとった時の、ゴール時の実況。
・なおこのフレーズを言ったのはフジテレビの堺アナ。「これはビックリ」と同じ人であり、「サンキョウセッツだッ!」の人でもある。
【府中ステークス】
・東京で開催される、プレオープン(現3勝クラス、昔の1600万下とか)の条件戦。
・GⅡの重賞、府中
・現在では春(4~5月)の開催になっていますが、1988年以前は秋(10月)の開催でした。
・距離は現在は2000メートルですが、1998年以前はマイルや短距離のレースだったんです。
・作中に出てくるのは1985年のもので10月26日に開催。件の天皇賞(秋)は27日で、ギャロップダイナは前日のこのレースに出走を予定していました。
・ところが、社台ファームの総帥の吉田善哉氏(ギャロップダイナの馬主は(有)社台レースホース)が「日本一の牧場から天皇賞に一頭も出走させないわけにはいかない」という理由で天皇賞(秋)へ予定を変更。
・もちろんルドルフの出走は知ってたので、吉田氏はその勝利は見たくないとばかりにシャダイソフィアが出走するスワンステークスを見に京都へ行ってしまったのでした。
・……ちなみに1985年の府中ステークスを勝ったのはイクエヒカルという鹿毛の牡馬でした。
【カツラギのヤツ】
・カツラギエースのこと。公式ウマ娘になったら「サービスサービスぅ」とか言いそう。
・元ネタの競走馬はミスターシービーやギャロップダイナと同い年1980年生まれの黒鹿毛の牡馬。
・1984年に、日本の調教馬として初めてジャパンカップを制した競走馬として有名。
・そしてそのレースこそ、皇帝シンボリルドルフが初めて敗れたレース。
・しかもそこには同期の三冠馬ミスターシービーの姿もあり、三冠馬2頭を同時に破った大金星でした。
・それ以外には同年の宝塚記念も制していたり、毎日王冠でシービーに勝っていたりと、しっかりした実績があっての勝利でした。
・当初はこの年に新設されたマイルチャンピオンシップに参戦するはずだったカツラギエースでしたがジャパンカップへ参戦。
・そして初めての逃げをうち、向こう正面では2番手以下を10馬身以上引き離す。
・しかしそのペースは遅かった。ところがミスターシービーは最後方に陣取り、有力な外国馬のストロベリーロードも、シンボリルドルフも動かず……そうして有力馬同士が牽制し合ってしまうことに。
・結果的に脚を溜めたカツラギエースは追いつかれることなく、見事に逃げ切って勝利。
・なお、それで皇帝に目を付けらえたカツラギエースさんは有馬記念では徹底的にマークされて敗北。とはいえ2着。
・そしてその結果を残し、そのまま引退。
・……泣いて悔しがったり、ルドルフってなんかホントに賢いというか、妙に人間臭いというか……
【シャダイソフィア】
・同名の競走馬をモデルにした本作オリジナルウマ娘。
・元の競走馬は1980年生まれの栗毛の牝馬。
・クラシック三冠はミスターシービーが全制覇した世代の、牝馬三冠のひとつ、桜花賞を制している。
・桜花賞を制したのだから、当然にオークスに出走すると思いきや、なんと日本ダービーに出走。もちろんミスターシービーに敗れています。
・これには社台にも批判が集まったのですが、この当時、社台はまだ日本ダービーをとったことがなく、さらにはこの年の牡馬も有力なのがいなかったが、牝馬にはソフィア以外にダイナカールもいたため、クラシックの一つを制したシャダイソフィアに賭けた、という側面があったそうな。
・残る牝馬三冠、エリザベス女王杯は惜しくも2着。
・翌年は7戦走るも勝利することなく終わったものの、馬体にはそれほど消耗がみられなかったため、現役を続行。
・マイルチャンピオンシップに照準を合わせて調整し、天皇賞(秋)と同日に京都で開催されたスワンステークスに出走する。
・が……悲劇はそこで起こりました。
・好スタートで先行したソフィアでしたが、外からローラーキングに押圧され、内のオサイチボーイと挟まれて逃げ場を失ってしまう。そしてそのままオサイチボーイと共に転倒。
・立ち上がったシャダイソフィアでしたが、京都競馬場内の診療所で第1指関節開放脱臼で予後不良が宣告されてしまうことに。
・安楽死の措置がとられた現場には、彼女をとても気に入っていた吉田善哉氏も立会い、目頭をおさえながらシャダイソフィアの顔に白いハンカチを被せました。
・本作では名前しか出てこないのですが、史実に基づき「小柄」で「裕福な親に可愛がられた箱入り娘のお嬢様」という設定になっています。
・また、件のスワンステークスで負傷して、その怪我を原因に引退したということになってます。
・なお、ギャロップダイナが天皇賞(秋)制覇の翌年以降はマイル路線に行くのですが……史実ではニホンピロウイナーが引退して手薄になったからなのですが、本作ではシャダイソフィアの分まで走るという意志を示したもので、そして安田記念を制しています。
【ゲートを出たと思ったらルドルフのヤツはもう向こう正面の坂にいやがった】
・元ネタは『優駿』(雑誌の方)に掲載された根本康広騎手の回想インタビュー。
・この後のギャロップダイナの思い出話は、根本騎手が語った記事を元ネタにしているのが多くあります。
【レッツゴードンキ】
・人違いで名前だけ出たウマ娘。
・元ネタは同名の競走馬、レッツゴードンキ。
・2012年生まれの栗毛の牝馬。2015年の桜花賞馬。
・父は初期のウマ娘ではそれっぽい存在が確認されていたキングカメハメハで、母の父はマーベラスサンデー。
・2019年に競走馬を引退。その後はアイルランドに渡りそこで繁養し、出産。2021年12月に仔馬と共に帰国しており、今後の産駒の活躍が期待されています。
・なお……私も最初は名前の語呂が似ているんで誤解しかけたこともあったのですが、血統的にも馬主的にもレッツゴーターキンとは無関係でした。
・その名前の由来も……JRAに提出されたのは『さあ進もう「ドンキホーテ」のように』というもの。
・ところが、馬主さんがディスカウントストアのドン・キホーテの創業者安田隆夫とが知己だったので命名されたと報じられています。
・それを示すように公式な馬名のローマ字表記は「Let's Go Donki」。ちなみに騎士道物語は「Don Quixote」であり、ドン・キホーテ社の商標登録は「DONKI」。
・JRAの馬名のルールにある“広告宣伝を目的として会社名、商品名等と同じである名称”という相応しくない名前に抵触しかけているような……
・しかし、ギャロップダイナのモデルがブラックラグーンのレヴィなもので、彼女が言うと「レッツゴー鈍器」にしか聞こえないわけで……
・余談ですが、ギャロップダイナのモデルをレヴィにしたんだから、名前がロシア語なプレクラスニーのモデルをバラライカの姐御(ただし火傷は無し)にすればよかったと後悔中……