見えぬ輝きの最南星《アクルックス》   作:ヤットキ 夕一

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「なぁ、オラシオン。お前、なんで祈ってるんだ?」

 ある日、トレーナーは突然、そんな質問をしてきました。

「私は三女神の敬虔な信徒ですし、神官位も──」
「そういうことじゃなくてだな……」

 私の答えはトレーナーの求めていたものとは大きく逸れていたようで、困ったように頭を掻いていました。

「レース前はどういうことを祈ってるんだ?」
「もちろん私自身の勝利の祈願や、レースの無事な開催です」

 ──人事を尽くして天命を待つ。
 まさにその心境で祈っていますし、そのためにレース前には鍛錬はもちろん体調の調整を万全にし、レース場やそのコースから対戦相手を含めて脳内でのシミュレーション等できる限りのことはしています。いえ、しなければなりません。

(そうでなければ、女神様方に祈る資格さえありません)

 一般の信徒ならともかく、神官位を有している私にはより厳格なものが求められるのは間違いないのですから。

「……一つ、言っていいか?」
「どうぞ」

 私が答えると、わざわざ事前に確認したにも関わらず、トレーナーは躊躇い──それから意を決した目で私を見て、そして言った。

「なんで、神頼みなんだ?」
「……はい?」

 トレーナーの質問の意図が分からず、私は思わず問い返す。

「今、勝利祈願と言ったよな? 競走(レース)に出て勝ちたいという気持ちを、なぜ神様とはいえ他に任せるんだ」
「そ、そんなのは……それはもちろん不確定な要素もあるからじゃないですか。一番速い、一番強いウマ娘が必ずしもレースに勝つ訳じゃありません。運が絡む要素だって……」
「ああ、それはわかるぞ。ダービーは“一番運のいいウマ娘が勝つ”と言われてるくらいだからな」
「そうです、だから──」

 トレーナーの言葉に私が頷こうとした、そのとき──

「──そこが、お前の弱さだ」

 ……え?
 静かに、キッパリと言いきったトレーナーの言葉が、私の胸に深く突き刺さりました。
 唖然としながら、彼の顔をあらためて見つめる。

「お前程の実力を持つウマ娘が、どうしてあんなクセを持っていたのか、疑問に思っていたんだが、やっとわかった」
「……なにが、ですか?」
「お前は、自分の力を信じ切れていないんだ。自分に自信がないから、最後は神という超越した存在に頼る──」

「──違うッ!!」

 私は反射的に思わずそう言っていました。
 トレーナーに一方的に言われて、私の感情はもはや抑えが効かなくなったんです。
 それに任せた言葉が口からついて出て行くのを、私は止められませんでした。

「違う! 違うんです!! 世の中は、そんなに甘くないんですッ!」

 豹変した私に対し、トレーナーは思わず言葉を止めて呆気にとられた様子で見ていました。

「世の理不尽に、人やウマ娘の力は無力です! 不運に対抗できる? なら、どうして! お母さんは死んじゃったんですか!?」
「オラシオン……」

 私の叫びに、トレーナーは沈痛そうに目を伏せます。
 母は幼い私を残して病死しました。注意していれば、それを防げたとでも言うのですか? 病気を気付けなかった、悪化させた母が悪いとでもいうのですか!?

「病気や事故……襲い来る死に対して、私達の力は余りに無力じゃないですか……どんなに医学が発展してもそれは覆せない」

 人の限界は厳然として存在する。

「それ以外にだって理不尽に命は奪われるじゃないですか! ただ道を歩いているだけの人が、暴走した車の事故に巻き込まれたり、事件に巻き込まれたり。そんなヒトやウマ娘の力を越えた不運にさえ抗えるのは、人智を越えた存在である神様しかいないじゃないですか!」

 ああ、三女神様よ。お許しください。
 私は信徒として、神官として許されざる程に罪深き存在です。こんなにも俗な理由で信徒となり、祈りを捧げていたのですから。

◆  ◇  ◆  ◇  ◆


 オラシオンの豹変に、オレは少なからず驚いた。
 だが、彼女の内なる心がやっとわかった気がした。
 普段の優等生然とした振る舞いや神官位の奥に隠した、彼女自身の心の闇。
 病気というどうしようもない理不尽で母という唯一の家族を失った彼女が唯一すがることができたのが神という存在であり、彼女の心を守ったのが“祈る”という行為だったのだ。

(幼き日に“人智”の限界を見せつけられたからこそ、彼女は信じられなくなっているんだ。人やウマ娘の……いや、自分自身のことを)

 子供の当時に比べて精神的に成熟した現在になっても、神に祈って護りを求めることが常態化していたために、無意識で自分自身の力を信じきることができない。心のどこかで神様に頼っている。
 そしてそれこそが“領域(ゾーン)”=過剰集中状態への障害になっているのだと直感した。

(もちろん神を祈り、宗教を信じるのは悪いことじゃない。だが、彼女の場合はその無意識レベルでの神への依存のせいで、自分との戦いへの没入を妨げている)

 だが……これは簡単に解決する問題じゃないとも理解できる。
 彼女の三女神への依存の原因は、幼いころに母を失ったこと。
 幼い彼女が自分の気持ちにケリを付けて今まで生きてきたのに、それをひっくり返すのは容易じゃない。

(実際、そこへ踏み込んだだけで今みたいに感情的な反抗を見せたしな……)

 彼女の苛烈な反応は、自分の心を防衛しようとしているように思えた。
 どうするべきか、とオレは迷う。
 今のままでもオラシオンは速く、そして強い。
 ひょっとしたら……いや、おそらくは中央(トゥインクル)シリーズで通用するくらいにはなるだろう。
 シニアの頃には重賞レースの常連になってその中で何度か勝利する──程度のウマ娘に落ち着くことになる。

(……はたして、それでいいのか?)

 重賞の常連ではなくそれ以上──重賞制覇を常として年度代表や懸賞ウマ娘さえも狙えるような才能を持っているオラシオン。
 だが彼女がそうなるためには、殻を破ってもう一段の高みに昇らなければならないだろう。

(それを目指させないのは損失じゃないのか?)

 そう思ったオレの脳裏に、一人のウマ娘がよぎった。

 トレーナーとして育てるウマ娘の理想と目標であり、第二の彼女を生み出すことが夢。
 その夢をかなえることができるウマ娘が、今まさに目の前にいる。

 ──その可能性を逃していいのか?
 ──そのために彼女の今までを否定していいのか?

 それはオラシオンのためではなく、自分自身のために強制しようとしているんじゃないかという思いが、オレを迷わせていた。
 だが……

(多くの人の夢や思いを応えられるようにならなければいけない。それが中央(トゥインクル)シリーズのウマ娘という存在だ。その舞台に立ったからには、その覚悟があって当然──)

 そのウマ娘をサポートするトレーナーがやるべきことは、彼女の心を守りつつ、さらに上へと上り詰めさせることだろう。
 スターとなる存在の誕生を諦めるのは、シリーズのファンを裏切ることになる。
 上を目指さずに可能性を潰すのは、今度はウマ娘本人への裏切りだ。
 だからといって、本人の心を犠牲にすることは決して許されない。

(だが、もしもオレが今から挑むことに失敗して、オラシオンからの信頼を完全に失うことになっても、渡海がいる……)

 支える存在が他にいれば、彼女は走り続けることはできるだろう。
 たとえ〈アクルックス〉から離れたとしても、だ。
 だからオレは──

「なぁ、オラシオン……誰よりもレースで負けたくないと思っているのはお前自身だろう?」
「え……?」

 感情を発散させ、落ち着きを取り戻しかけていたオラシオンは、急に変わった話題に戸惑ったようだった。
 負けたくないという気持ちの、その必死の抵抗こそ内へヨレるという悪癖。

「だからこそ、レースの終盤で追いつめられたとき、最後の最後で神様に(すが)っていた。敗北という結果から逃れたくて……違うか?」
「………………」

 一度、自分の気持ちを吐露したオラシオンは自分を冷静に見つめられる心境になったらしい。
 彼女は無言で思案している。
 だがきっと……肯定はしないだろう。それは自分の弱さをさらけ出すことに他ならなず、負けず嫌いな彼女がオレを相手にそれを見せるとは思えなかった。

「オラシオン……お前は、お前自身が思っている以上に、強いからな」
「え……?」

 オレの指摘に、オラシオンは戸惑う。
 その彼女にオレは根拠となるものを示してやった。
 オレが彼女に差し出したのは……スポーツ新聞。

「お前は強い。それをみんなが知っているからこそ、一番人気になっているんだ」

 皐月賞では圧倒的一番人気となったオラシオン。
 それは出走メンバーの中で一番勝って欲しいと思われていることであり、ファンの夢や希望を託されているということ。

「“祈り”というのは、誰かに願いや思いを託すことだろ?」
「それは……その通りです」
「お前はその名の通りに“祈り”を背負って走れるウマ娘にまでなったんだ。それほどまでに強いウマ娘なんだよ。だからできるはずだ。神に頼らなくても、お前自身の強さで勝利を掴めるはずだ」
「そんな……」

 オレに強く言われても、オラシオンは戸惑うだけだった。
 その手を掴み、オレは強く言う。

「今までレースの最後で三女神に祈るくらいに追いつめられたときに思い出すんだ。お前自身が自分を信じられなくても、その強さを信じてくれる存在がいることを」

 それは〈アクルックス(チーム)〉のメンバーであり、また夢を託す多くのファンであり、そして勝利を願う養父のこと。
 もちろん、その夢の中にはオレのものもあ──

「──なにしてんのよッ!!」

 突然襲ってきた有形力の行使に、オレは為すすべもなく蹂躙され、そのまま吹っ飛んだ。
 オラシオンの「と、トレーナーさん!?」という言葉も聞こえたが、

「このセクハラ現行犯め!!」

 ──というダイユウサクの怒った声の方が何倍も大きかった。
 無論、この後はたづなさんに通報され、「(嫌がる)担当ウマ娘の手を握りしめていた」という、セクハラかつパワハラという訴えを一方的にされ、オレは弁明する羽目になったのだが……



第56R ──黒い風(3)

 

 

 ……その場所が迫るうちに、ボクはいつの間にか目を閉じていた。

 

 

 

 思い出すのは、あの日のこと──

 負けなしの4連勝で挑んだあのレース。

 ルドルフ会長以来の、無敗の三冠達成も夢じゃないって言われてたボク──ミラクルバード。

 それまでのレースと同じように……ううん、それ以上にボクの調子は絶好調だった。

 ハッキリ言って、負ける気がしなかった。

 

 今日もまた勝てる。

 

 ……その思いで走っていたボクは違和感に襲われた。

 それまでにないほどに体の調子がよくて、大舞台でのレースにボクの集中力は普段とは比べものにならないほど高まっていて──その《領域(ゾーン)》に足を踏み入れちゃったんだ。

 

(え? なにこれッ!?)

 

 その異質な感覚にボクは戸惑いしか無く、受け入れることができなくて拒絶して──気が付けば、ボクは外へヨレていた。

 そこへ──猛然と上がってきていた他の()がいるなんて、気が付く余裕もなく。

 そして……

 

「────ッ!!」

 

 思わず固く目を閉じる。

 そうしたまま、目を開くことができなかった。

 

 ──ボクが越えることができなかった、皐月賞のあの場所(第3コーナー手前)を、後輩達が過ぎ去るところを。

 

 全身に力がグッと入ったまま、体がこわばって動かない。

 自分でもコントロールできないそのことに戸惑い──そのとき、肩がポンポンと優しく叩かれた。

 

「……大丈夫だ、ミラクルバード。あの場所を……越えたぞ」

 

 温かさを感じる、大人の男の人の声。

 肩から伝わる温もりと共に、それが冷たく固まったボクの心に染み渡っていく。

 ほぅ、と口から息が出て──ボクは目を開けることができた。

 

 ボクが到達できなかった、第3コーナー。

 

 それを越えて先頭のアップショットは走り──何事もなく、他のウマ娘達も駆け抜けていった。

 うん……そうだよね。

 そういうことが起こることが極めて(まれ)なこと。何も起きないのが普通なんだから。

 ごくごく当たり前のことをボクは考えて……大きく、ほぅと、ため息をついた。

 

「悪いな、ミラクルバード」

「ううん。そんなことないよ……」

 

 トレーナーはこっちを見ずに、オーちゃん達の方を見ながら声をかけてきた。

 このタイミングで言うんだから、ちゃんと見てくれているはずなのに、あえて視線を向けないのはボクに気を使ってくれているからだとわかる。

 

「ボクは、みんなをサポートする裏方とはいえ、中央(トゥインクル)シリーズに関わる人生を決めたんだよ。そうする以上は、皐月賞と無関係ってわけにはいかない」

 

 皐月賞はウマ娘にとって人生に一度しか出走チャンスが巡ってこないレースの一つだから。

 それをボクの都合でチームのみんなを避けさせるわけにもいかないし、たとえボクだけが来ないようにしても、今回みたいにボクが関わっていたら不在なことでウマ娘(後輩)たちに迷惑をかけるかもしれない。

 どんな形にしても学園に残る、中央(トゥインクル)シリーズに携わる以上は、避けて通れないんだから、いつかは克服しないといけなかったんだ。

 

「……逆に気を使ってもらってゴメンね、トレーナー」

「いいや、あんなことがあったんだから無理もないさ。今回だって、お前が『行く』と言わなかったら向こう(阪神)に行ってもらうつもりだった」

 

 そうは言うけど、トレーナーがボクに気を使ってくれているのはボク自身が一番分かってた。

 走れなくなったのはショックだった。

 涙が枯れるまで泣き尽くして……それでも競走(レース)が好きな気持ちは残ってた。

 だから、ボクは走るウマ娘(みんな)の応援がしたくて……ううん、競走(レース)に少しでも関わりたくて、転科してまで学園に残ったんだ。

 でも、それでも……

 

(あの事故からしばらくボクは中山レース場さえ怖くて、行けなかった時期さえあったんだ)

 

 自分に何が起こったのか知りたくて、あのレースの映像は見た。

 第三者視線で見たその事故は完全に他人事のようにしか見えなくて、だからボクは無感情に淡々とそれを見て、「ああ、これならそうなっちゃうよね」と思わず納得した。

 でも、実際にレース場に行くとなると話は違ったんだ。

 転科しても関係が続いた、親しい友達が出走するレースでも、中山だけは応援に行けなかった。

 テレビを通さないと応援ができないことにもどかしさも感じたけど、それくらいに中山、特に皐月賞への恐怖は大きかったんだ。

 そんなボクは、この〈アクルックス〉というチームを手伝い、そしてメンバーになったんだけど……あれ以来の中山レース場に行ったのは、ダイユウサクのあの有記念だった。

 

(故意か偶然か、どっちかわからないけど……トレーナーならあえて避けてたって言われても、納得できるんだよね)

 

 ボクはこっそりトレーナーの顔を見上げる。

 訊けばきっと「そんなわけないだろ? そもそもダイユウサクはレースを()り好みできるほど強くなかったんだから」って答えて、それを訊いたダイユウ先輩が怒って……ってなるのが目に見える。

 

(真相は分からないけど……それでも実は、あの日は気が重かったんだ。もちろん先輩の気持ちも分かってたし、チームがそれに向けて頑張っていたんだから。でも……)

 

 当日は憂鬱、とはいかなくても気が重かったのに──完全に想定外のトラブルが発生して、気が付けばバタバタと中山レース場にいたんだよね。

 思い出して、ボクは思わず苦笑してしまう。

 

(そしてそこで──最高のレースを見た)

 

 それは多くの、マックイーンのファンからすれば悪夢のようなレースかもしれない。

 でも、あの二人と共に歩んでその悲喜交々(こもごも)を見てきた側からすれば、あれはまさに二人が起こした奇跡だった。

 

(ダイユウサクに勝機があるなんて思ってなかったあのレース……あの奇跡があったから、ボクは……)

 

 中山レース場の思い出は、ダイユウ先輩のあのレースとその直後のどよめき、それにウイニングライブに完全に塗り替えられた。

 なにしろ、ボクの皐月賞の記憶は途中からないんだから、印象はそっちの方が強くなるのも当然だけど。

 だから、今日もこうして中山レース場になんの(おそ)れもなく来ることができている。

 その経験があるからこそ……今度は、皐月賞を歓喜で塗りつぶして欲しい。

 

「頼むよ、オーちゃん」

 

 最終局面へとレースが進む。

 もう、ボクのレース(皐月賞)が終わった地点は過ぎた。

 だから……できなかったゴールを、皐月賞ウマ娘の栄冠を──

 

「ボクの代わりに、掴んで……」

 

 ボクは思わず、手を組んで祈っていた。

 でもそれは三女神さまではなく、今まさに走っているウマ娘……“祈り”の名を持つウマ娘に向かって祈っていたんだ。

 

◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

(……なんや、おかしい)

 

 ウチ──ロベルトダッシュは、前に位置しているオラシオンの走りに違和感を感じていた。

 ここまでデビュー戦で前塞がれるっていうポカやらかして負けた以外は、全勝のオラシオン。

 今日のレースも大本命に押されてる。

 そんなオラシオンの様子が、今日はどうにもいつもと違うようにしか思えない。

 

(中段に待機しているのは、いつも通りのレース展開のはず。それが、なんでこんなに違和感がある?)

 

 なるほど、確かに序盤から中盤にかけて8番手くらいの中段待機はいつも通り。

 中盤過ぎてから、堰を切ったようにスパートをかけ他を圧倒する……それがいつものオラシオン。

 

(だけど、今日は中盤を過ぎても行く気が見えないって……いったい、どういうことや?)

 

 先頭のアップショットは集団から抜け出して一人で走ってる。

 そのペースがけっして速いものではないのは、こっちもわかってる。

 

(仕掛けるのが遅ければ、まんまと逃げ切られる……)

 

 マークしたオラシオンの背中。

 修道服を模した勝負服の、さらに先にチラチラと見えるアップショットの影の大きさが意外に小さい──つまりは距離がある──ことに内心ヒヤヒヤし始めていた。

 

(かといって、この大本命のマークを外すのは危険すぎる)

 

 ひょっとしたら、故障でも発生したんか? と思わないでもない。

 でも、走る姿からはそれを肯定する要素は見えなかった。

 体調不良や、調子が悪くてペースが上がらない可能性もある。

 

(いや、ないな……)

 

 後ろからオラシオンの走りをじっと見つめながら、そう思った。

 走り方に違和感はない。

 もちろん確かにウチが彼女の右後方にピタリと付いて走って、牽制しているからスパートをかけてこない可能性も捨てきれない。

 けど、そんなことを気にしすぎるようなタマじゃないのは、こっちは百も承知。

 なぜなら──

 

(ソエが出てレースに出られず、走ることもできない間、ウチがやっていたのは、オラシオンの研究や)

 

 間違いなく格が違う……そう思ったからこそ、同期で最強を誇るこのウマ娘を徹底的にマークすることにした。

 クラシックレースのド本命になって、争うことになるのは間違いなくこのウマ娘だと。

 確かにスプリングステークスよりも前ならセントホウヤは無敗で、そっちの方が世間的評価が高かった時期もあった。

 でも──

 

(巽見さんが、『警戒すべきはオラシオン』と断言してた)

 

 あまりに躊躇い無く言い切るトレーナーに、当然、「ホンマかい?」「なんで?」と疑問をぶつけた。

 それに対する答えとして彼女は「トレーナーの実力差」と言い切った。

 

「チームとしての規模なら、断然〈ポルックス〉の方が上やで?」

 

 〈ポルックス〉は、元々チームとして大きい。そのせいで兄弟チーム〈カストル〉が暖簾分けしてできたほどで、しかもそれが解散した際にメンバーの一部を再度取り込んでいる。

 おかげで人数的にも十分に大きなチームのまま。

 かたやその〈カストル〉が消滅した騒動の真ん中にいたダイユウサクを守るためにできた彼女だけのソロチームが〈アクルックス〉である。

 

「所属するウマ娘の数が全然違う。それはウマ娘の間での人気の差の顕れで、それこそトレーナーの差やないの?」

「あのチームは先代が大きくしたチームよ。今のトレーナーはそれに乗っかってるだけ。それよりも()()ダイユウサクだけだったチームを、今の状態にまで持ってきた手腕の方が驚異だわ」

 

 当時は2戦して2TO(タイムオーバー)という超弱小ウマ娘が、異例の待遇で認められたソロチーム。

 そんなものは当然に消えていくものだと思われていたのに、予想外の奮闘によって生き残っている。

 

「逆に訊くけど……〈ポルックス〉のトレーナーが担当していたら、ダイユウサクにマックイーン破って有記念を、レッツゴーターキンにテイオーを破って秋の天皇賞を取らせられたと思う?」

「それはさすがに無いわ。とはいえ、あまりに極端な話やないの?」

 

 あんなの奇跡の(たぐい)だ、とトレーナーに答えた。

 確かにどっちも大金星。

 けどマックイーンは降着騒動で調子を落としていて、テイオーも無敗が途切れた上に怪我からの休養開けで万全じゃなかった。

 だから勝てた……少なくともそう言われてる。

 

「その奇跡を、目の前で同じ人に3度も起こされたら、恐ろしくもなるわよ」

「3度?」

 

 さらにもう一つ……研修生時代に、担当したウマ娘に大金星を取らせているという巽見さん。

 

「は……?」

 

 それがよりにもよって、あの“皇帝を泣かせた”勝利だと説明させれば、そりゃあ絶句するわ。

 もちろんトレーナーとしての実績の格が違うと納得するし、巽見さんが断言するのも頷けるというもの。

 

(実際、今日のセントホウヤを見れば、巽見さんの言うことが正解だったとわかるわ)

 

 可哀想になるくらいに今日のセントホウヤの調子は最悪。

 前走でオラシオンとの直接対決に負けて、それで無理をしたんだろう。

 

(オーバーワークにならんように調整するのが、トレーナーの仕事だろうに)

 

 おまけにさっきのオラシオンへのヤジ。

 そんなことしてる暇があったら、自分のウマ娘のケアしろっての。アップしすぎて汗だくになって、走る前に息切らしてるってどういうこと?

 トレーナーとしてもう論外。

 

(さすがに同情するわ……)

 

 まともなトレーナーが付いてたら、結果は違ってただろうに。

 そのセントホウヤが必死の形相で走って抵抗を見せてたけど、さっき他のウマ娘に抜かれてズルズルと順位を下げていった。

 気の毒には思うが、やはりセントホウヤはもう蚊帳の外。

 やはりオラシオンへのマークは正解だった……そう思いたい。

 

「なぜ動かん? そろそろ動かな間に合わなくなるわ、本気で……」

 

 なにより、先頭のアップショットが無視できなくなってきた。彼女をこのまま気持ちよく走らせたら、逃げ切られてしまう。

 

(仕方ない……動かんオラシオンは不気味やけど、アップショットを放置するわけにはいかん)

 

 前の4、5番手の位置にいるウマ娘の脚色も悪くなってる。それに付き合ってたら間に合わなくなる。

 自分自身がアップショットより前に立てなければ、そもそも1着になれないんだから、オラシオンを気にしすぎるのは危険だ。

 そう判断し、第3コーナーから第4コーナー付近で前二人を内一杯から追い上げ、そして抜かす。

 

「よし、これであとは……」

 

 先頭のアップショットへと照準を合わせ、ペースを上げる。

 チラッと一瞬だけ意識を後方へと向ければ、今し方抜いた2人を避けて、オラシオンは外へと進路をとったのがわかった。

 

(そこへ行くしかないのはわかる。けど、それで仕舞いや。オラシオン……)

 

 ウチはこの時点で、オラシオンへの意識を完全に切った。

 これから4コーナーを迎えるこの地点で外へと進路を取ったということは、コーナーで大幅な距離のロスが出るのは間違いない。

 最内を回り、第3から第4コーナーを最短距離で走れるこっちとの差は歴然としている。

 

(しかも現時点でこっちが前にいる。負ける理由は──無い!!)

 

 現時点で先頭にいるアップショットと違い、オラシオンと同じように脚を残している。

 

「オラアアアアァァァァァ!!」

 

 スパートをかけるのは、ここしかない!

 第4コーナーから直線へと向かうこの位置で、速度を一気に上げた。

 完全に直線へと入る。この時点でのアップショットとの差は2バ身半といったところ。

 

(くッ……意外と差が大きい。ここまでスローペースだったせいや。追いつけるか?)

 

 先頭にまんまと自分のペースで走るのを許したのは、ほとんどのメンバーがオラシオンに警戒しすぎたのが原因。

 その結果が、ウチとアップショットとの差を生んだ。

 オマケに中山の直線は短い。

 思わずウチの心に弱気がもたげてくるが……

 

「だが──そこには上り坂がある!!」

 

 逃げる身に、この最後の坂はキツいはず。

 ウチは、猛然と駆け上がり──

 

「──ッ!?」

 

 そのとき突然、ゾワッと総毛立つような感覚に襲われた。

 それは圧倒的な存在感が後ろから迫る、その危機を本能が教えてくれたものであり──

 

「なん、やてッ!?」

 

 それは一陣の風のように、まるで一瞬で通り過ぎていった。

 漆黒のヴェールと青鹿毛の髪をなびかせた、まさに黒い疾風だった。

 その前髪に白く描かれた綺麗な星形は、黒い夜空に流れた流星のようであり──後塵を拝したおかげで通り過ぎたのがウマ娘だとわかったほどに段違いの速さだった。

 

「オラシオン、やとッ!?」

 

 離されていくその後ろ姿は見間違えるはずもない。レースの序盤から中盤までずっと見続けた後ろ姿なのだから。

 

「バカな!? 今まで同じ距離走ってるんやぞ? ウチががアップショットみたいに逃げたわけでもない。同じように走り、同じように末脚溜めとったはずやのに……」

 

 まるでこっちだけ長い距離を走らされたような、向こうがスタート間もないような、そんな差を感じていた。

 坂を上っていく勢いがまるで違う。

 その姿にもウチは愕然とするしかない。

 

「まるでジェット機とプロペラ機や。別次元の速さ、あんなのについていけるか……」

 

 同じ飛行機でもその2つは推進方法が全く違うし、速度も桁外れに違う。

 今のオラシオンの速さと、ウチも含めた他のウマ娘とはそれくらいの差があるように見えた。

 アップショットが簡単に抜かれる様を見て、呆然とそんなことを考えていた。

 




◆解説◆

【──黒い風(3)】
・前々回参照。
・(3)ってことでまだ続きますので。

向こう(阪神)
・皐月賞のこの日、〈アクルックス〉のメンバー全員がここにきているわけではなく、別の場所で出走するメンバーがいたので、付き添いと一緒に阪神へ行っています。
・実はそのことをスッカリ忘れて、初期稿では普通に全員いたのですが、慌てて変更しました。
・しかし(1)では、登場バージョンがアップされてしまっていたので、それを現在では登場を削っています。


※次回の更新は9月12日の予定です。  

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