──日本ダービー。
そのレースの名に、憧れを抱かないわけじゃなかった。
でもアタシは自分がそのレースに無縁なことは、よく自覚していた。
なにしろその頃のアタシはデビューできるレベルでさえなかったんだから。
その頃のアタシにできたのは少しでもマシになるように人一番努力することと、もっとも身近なウマ娘に、クラシックレースの夢を託して応援することだけだった。
その彼女は、クラシック三冠じゃなくてトリプルティアラに進んだけど──
「……ここにいたんだね、ユウ」
「コスモ……」
背後から声をかけられて、少なからず驚いたけど……聞き慣れたその声は警戒する必要のないもの。
そして振り向けば、案の定、見知った笑顔がそこにあった。
髪を伸ばしているアタシとは対照的な、短くした髪のウマ娘──コスモドリーム。
レースにすら出走できないアタシは、従姉妹である彼女の応援に熱を上げて、その勝利を自分のことのように喜んだわ。
そしてコスモは、トリプルティアラの一つを制してる。
そんな彼女と共に歩んだトレーナーは、今、また一人のウマ娘を育てていた。
「今日は敵、じゃなかったかしら?」
「そうだよ。だからオラシオンの連勝、今日こそウチのロベが止めるからね」
「ロベって、ロベルトダッシュのこと?」
「うん。そりゃあオラシオンに比べれば競走経験は少ないけど、実力は十分にあるし、それになにより涼子さんが面倒見てるんだから」
「わかってるわ、あの人のスゴさは。だって、アタシはコスモのことをずっと見てたんだから」
「え……?」
アタシが素直な気持ちを言うと、コスモは急に言葉を詰まらせて困惑している様子だった。
「こ、コスモだって……オラシオンの、乾井トレーナーのスゴさは分かってるよ。ユウのこと見てたんだからね」
慌ててそっぽを向きながらコスモが言う。
「あんなデビューして、どうなることかとコスモがどれだけ心配したことか……」
「アナタねぇ……デビュー戦の話はやめてくれない? 普通、一番良かったレースの話するでしょうに」
アタシがジト目で睨むと、コスモは悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「だからその後にユウが一生懸命頑張ってる姿は眩しかったし、高松宮杯で直接競えたことはどれだけ感謝してもしきれないよ。涼子さんにも、乾井トレーナーにも」
アタシにそう言うと、コスモは視線を走路へと向ける。
そこにはアタシ達の後輩の姿があった。
「だから今日もウチのロベと、そっちのオラシオンの対決が、コスモとユウの時みたいに白熱したものになって欲しい。もちろん……コスモ達みたいに中段での順位争いじゃなくて、1着を争うものになって欲しいけどね」
「それはもちろんよ。それに……コスモ、アナタ大事なこと、忘れてるわよ」
「大事なこと?」
首を傾げるコスモに、アタシは向けていた視線を少しずらして言った。
「〈
「あ……」
注目を集めるオラシオンの周りには、彼女を警戒するようにライバル視するウマ娘たち──ロベルトダッシュやセントホウヤ、アップショットといった面々──が集まっている。
でもそこから少し離れた場所で、まるで目立たないのを意識しているかのように念入りにアップする、肩付近まで伸ばしたウェーブのかかった髪のウマ娘がいた。
「ロンマンガン、だっけ? 忘れてた……そっか、だから今日は乾井トレーナーの傍じゃないんだ」
アタシがロンマンガンの面倒を見ているのをコスモは知ってる。ロンマンガンが勝ってもトレーナーは素直に喜びを分かち合えないだろうし、オラシオンが勝ってもアタシがそうなる。
そんな事情を察してくれたコスモにアタシはニヤリと笑みを浮かべてあげる。
「“
人気薄になった〈
アタシが胸を張って言うと──
「それ、自慢になりますの?」
後ろから声がかかる。
振り向けば──
「げッ……セッツ…………」
「ダイユウサク、貴方いい加減に、人を見てそういう反応するのやめなさいよ」
アタシの反応を見たそのウマ娘──サンキョウセッツが負けじとイヤな顔をしながら、こっちへ近寄ってきた。
「なにしにきたのよ? それにシヨノは?」
「そちらと同じで、わたくしだって後輩の応援ですわ。シヨノさんとはチームが違いますから、今日はおりませんわ」
なるほど。
アタシが出走したときにセッツがいるとシヨノロマンもたいてい一緒にいたからなんとなく二人セットのようなイメージだったから、てっきりいるのかと思ったわ。
すると、コスモが首を傾げてセッツに尋ねていた。
「後輩? 誰かいたっけ? セッツのチームって確か……」
「〈ポルックス〉ですわ。つまりセントホウヤさんです」
「「あぁ~」」
アタシとコスモの納得した声が重なった。
すると我が意を得たり、とサンキョウセッツは得意げな顔になり、アタシとコスモに向かって指をビシッと突きつける。
「今日のレースはいわばわたくし達の代理戦のようなもの!」
「……え? それは違うと思うけど……」
素直なコスモがポツリと漏らしたけど、セッツは聞いてないフリをしてそれを完全に無視する。
「今日こそはセントホウヤさんがオラシオンを、ついでにロベルトダッシュもまとめて破って見せますわ!」
「へぇ……おもしろいじゃん。セッツ。ついでとは言ってくれるね。さすがオークスで実況に勝ちウマ娘として名前を連呼されただけはあるよね」
後輩をぞんざいに扱われた仕返しとばかりに、コスモが闘志を燃やしながらニヤリと笑みを浮かべてセッツを見る。
そうやって古傷をえぐられたセッツは指をさした姿勢のまま「う……」とたじろいだけど、すぐに気勢を取り戻して言い放った。
「昨年の最優秀ジュニアの名は伊達ではありませんわ! 今日のレース、絶対にわたくしの後輩が貴方方の後輩を打ち破って、ダービーウマ娘の座に輝くのです! その様を──共に見て差し上げますわ」
「「はい?」」
言い放ったサンキョウセッツを、アタシとコスモは呆気にとられて見ていた。
「……ねぇ、セッツってひょっとして、チームで居場所ないの?」
「そ、そんなことありませんわ!?」
「それなら、チームメンバーと一緒に見ればいいじゃないの」
コスモに続いてアタシが言うと、「ぐ……」と押し黙るセッツ。
「わたくしは……優秀なウマ娘では、ありませんでしたから。それに、仲の良い先輩方も、別のところで観戦するようですし……」
「え? セッツと仲の良い相手、いるの?」
「いるに決まってますわ! ダイユウサク、貴方一体わたくしを何だと──」
「なら、そっちと一緒に見ればいいんじゃないの?」
「そ、それは……あの方達は、オラシオン
彼女にしては珍しく、弱気に口ごもるサンキョウセッツ。
それを見かねたコスモがセッツの背中をバンと叩いた。
「あぁもう! 分かったよ。ゴチャゴチャした事情はどうでも良いから、コスモ達はコスモ達でそれぞれの後輩の応援するってことでいいよね。ユウ」
「コスモが言うなら……別に構わないわ。セッツがコスモの隣でも怖じ気付かないなら、ね」
「もう、ユウはまたそういう意地悪を言う……」
さっき自分だって同じネタでからかってたじゃないの、と思ったけど言い返さなかった。
発走時間が近づいて、出走するウマ娘達がゲートへと移動し始めたのをみて、観客のざわつきが一段と大きくなったから。
いよいよ始まる、日本ダービーの大舞台。
(でもねセッツ、アタシはクラシックレースの舞台に立てたアナタのこと、ずっとうらやましいと思っていたのよ)
絶対に口には出さないけど、チラッとだけ彼女へと視線を向けて、そんな思いを頭に浮かべた。
──チーム〈アクルックス〉、〈アルデバラン〉、〈ポルックス〉にそれぞれ所属する後輩達の火蓋は、切って落とされようとしていた。
──ダービー発走直前。
続々とゲートに入っていくウマ娘達。
早めに入ってスタートを待つ身になったアップショットは目を閉じて精神を集中させていた。
『ダービーで同じような走りができるかしら?』
皐月賞のゴール後にそう声をかけたのは私──アップショットであり、かけた相手はオラシオン。
その言葉が頭の中で何度も響きわたる。
(なんであんな言葉を言ってしまったの……)
会心の走りに皐月賞を掴んだと思ったからこそ、そこから完膚無きまでに叩き潰してきた相手であるオラシオンに、悔しさからつい出てしまったものだった。
本来なら声をかけるつもりはなかった。
いや……最初は、本当は彼女に「おめでとう」と言ってその走りを称えるつもりだったのだ。
ところが、いざ声をかけようとして彼女の姿を見て──
その浮かべている余裕のある笑みで自分が負けたことを思い知らされて──
(つい、皮肉めいた言葉が出てしまったのよ)
自己嫌悪になるほどの負け惜しみじみた言葉。
本当は勝ったのが自分だ、と。
とんでもない末脚で抜き去られたという、訳の分からない負け方をしたが故の自己弁護のようなものだった。
(そうよ。ああでも言わないと、私は自分を保つことができなかった)
でも……そのあとは確かに言い過ぎた。
次も同じ走りができるか? なんて挑発して。
そして彼女のチームの先輩を揶揄することまで言ってしまった。
(なんであんなことまで……)
激しい後悔と自己嫌悪にさいなまれる。
あの日から今まで、思い出す度に同じ思いにかられていた。
しかし、それもこれも……あのレースによって、私自身が極限までに追いつめられたせい。
(私は、私にできる最高のレースができたというのに……それでも勝てなかった)
その事実を認めたくなかったから負け惜しみを言い、ささくれだった心が攻撃的な言葉を吐いた。
心のどこかでは、改めてオラシオンと話し、己の心の醜さ全てをさらけ出して謝りたいという思いもあったのに。
(でも、そんなことをすれば……私は二度とオラシオンと戦えなくなる)
それがわかっているからこそ、できなかった。
前走でそれまで隠していた“逃げ”という切り札を切ってしまっている。
もしもそれで勝てずとも、ギリギリまでに彼女を苦しめることができていたなら、また“逃げ”を出すのか、それともそれまでの走りを使うのか、オラシオンを悩ませることができたかもしれない。
しかし、完膚無きまでに叩き潰された今となっては──迷っているのは自分の方だ。
(NHK杯を回避した分、体調はこっちの方が上回っている可能性が高い。だから今回も逃げれば……今度こそ追いつかれないかもしれない)
そういう思惑はある。
だが、負けた作戦を再度使うという踏ん切りがどうしてもつかず、迷っていた。
そして──
──そのままゲートが開く。
あ、っと思ったときには遅かった。
『──ああっと、アップショット出遅れた!!』
「っし……」
ゲートが開くと同時に飛び出すことができ、良いスタートが切れたという自負はあった。
……いやぁ~、トレーナーは「ダイユウサクはゲート得意だからよく教えてもらえ」ってあっしに言いましたけど、ダイユウ姐さんの説明は全っ然参考になりませんでしたけどね!
だって、「開いたら出るだけよ」って当たり前のことしか言わねえんですから。指導されたこっちはどうしろってのよ?
それに唖然としてたら、なぜか近くにいた他のチームの先輩に「コスモも同じ苦労したよ?」って同情の目で見られるし。
そんなわけで、この抜群のスタートもあっしの努力の賜物ってワケ。
「スタートで出遅れてたら、勝てるわけがない……」
あっしみたいな弱小ウマ娘は、出遅れなんてハンデを背負った瞬間に負け確定だしね。
誰もが認める天才のオラシオン。
それと負けないくらいの才を持つセントホウヤ。
彼女たちより後発ながらも頭角を現してきたロベルトダッシュ。
そして、皐月賞まで虎視眈々と爪を研いでいたアップショット。
そんな彼女たちに対抗できるほどの才を持たないあっしは、いかにミスをせずに食いついていき──勝負どころで一か八かの賭けに出るしかない。
それこそ“走る雀ゴロ”の競走道ってワケよ。
──なんて思っていたんだけど“勝負の分け目”ってもんはどこに潜んでいるかわからないわけで……
「む……?」
そんな“それ”がいきなり、序盤も序盤のスタート直後にやってくるなんてのはさすがに予想外だった。
あっし……いや、出走メンバー全員が気がつき、戸惑った。
(アップショットが、出遅れた? マジ?)
前走の皐月賞で、シオンには負けたものの見事な逃げを見せて2着に入ったアップショット。
それまで“逃げ”を使わずに意表をついた、完全な伏兵だったのもある。
でもそれが彼女の今までのレースで最も良かった
だからこそ──誰もが彼女は今回も
そのアップショットが出遅れて……しかも前に出られないでいた。
そんな予想外の展開に、出走メンバーの中に緊張が走る。
すなわち──誰が先頭でレースを引っ張るのか、だ。
(こうなったアップショットがここから無理をして出てくるとは思えない)
例えばメジロパーマー先輩やツインターボ先輩みたいな逃げ一辺倒のウマ娘なら強引に前に出てきて引っ張る可能性はある。
でもアップショットはそうじゃない。なんなら逃げたのは前回一度きりなんだから、無理をする理由がない。
だとしたら──
(ひょっとして……ここが勝負どころ?)
あっしの
幸いなことに、ここで使える
そして、持っていたその切り札を──切った。
『おっと、ここで先頭に立ったのは……なんと3番のロンマンガン! そのまま後続を引き離し始める!! 意外や意外、ロンマンガンの逃げだ! まるで皐月賞でのアップショットだ~!!』
「そんな付け焼き刃の作戦など……」
出遅れたアップショットの前走のお株を奪うように前に出たロンマンガンの、“逃げウマ娘以外の逃げ”という作戦に、私──セントホウヤは正直辟易していましたわ。
とはいえ……
(確かに前走は、
結局、前に出ることができなかったアップショットに視線をチラッと向ける。同じことをされたことになる彼女の心理は、どのようなものでしょうか。
前走を見ればアップショットが“逃げ”の研鑽を行っていたのは明らか。その安易な“モノマネ”には怒りさえ覚えるかもしれません。
(出遅れた上にこのようなことがあれば、心が乱されて当然)
皐月賞で2着になった強豪とはいえ、平常心を欠けばその実力を発揮できなくなるのは必定。
そういう意味では、先頭を走る彼女──ロンマンガンとか言いましたか──の稚拙な作戦……と言えるかどうかも分からない、ダービーの空気に当てられた高揚感による暴走は、私を含めたアップショット以外のウマ娘にとっては僥倖だったと言えるでしょう。
「く……」
見れば、やはりアップショットは悔しげに先頭のウマ娘を見ている様子。
そして先頭で逃げているウマ娘は、他を引き離して独走していました。
(あのようなペース、最後まで保つはずがありません)
無謀な先頭よりも、気をつけなければならない
彼女は、私のすぐ前を走っている。
修道服を模した勝負服。頭に被ったヴェールからは、セミロングの
(オラシオン……今日こそは、絶対に……)
この学園に入ってから意識していた相手でした。
絶対に負けたくないからこそ、早くデビューをして実戦を経験して実力を磨きたかったのです。
その気持ちのままに夏にデビューした私はジュニアでは連戦連勝。
誰にも負けない──そんな自信を持ちながらも、心のどこかではやがて現れる彼女の存在が引っかかっていたのでしょう。
そして彼女は随分と遅れて、秋も深まったころにデビュー。しかもそこで敗戦。
その結果にトレーナーは浮かれていましたが、私はそれを冷静に見ていました。
(こんなところで終わるようなウマ娘ではあるはずがない……そう思ってはいましたが、やはりそうでしたわ)
そこから勝ち続け──その一方でレースに出続けていた私はトレーナーを指導していた先生──
そうして満を持して挑んだスプリングステークスで私は破れ……無敗を止められたのです。
(でも正直、貴方が羨ましかった。いきなり“無敗”というレースを重ねる度に重くなっていく枷をつけられることなく走っていたのですから)
私もそこから解き放たれた──はずでしたのに、今度は別の枷をつけられてしまったのですわ。
そう……打倒オラシオンという枷を。
(貴方がNHK杯に出ている間、私は貴方に勝つ一念で修練しておりましたわ! ですから……今度こそ、勝たせていただきます!!)
定位置とも言える場所でレースを展開している彼女の、すぐ後方に控えて私は虎視眈々と彼女に勝つべく機会を待ち続けるのでした。
◆解説◆
【──長い流れ(2)】
・「長い流れ」については前話参照。
・なお、4話以上になるのは確定しましたので、前話の上中下にタイトルが変わるかも、という心配は無くなりました。
【出遅れた】
・実は、原作『優駿』ではアップショットは出遅れていません。
・出遅れたのは、アップショットと同じく逃げをうとうとしていたダンガーブリッジという馬。
・実は本作では、今回のダービーはオリジナル展開です。
・というのも、オラシオン達の『優駿』組と、ロンマンガン達の『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』組が混じっているレースになっているので、そのハイブリッドのレースにする必要があったからです。
・そのため、本来なら出遅れないはずのアップショットが、ダンガーブリッジの代わりに出遅れることになりました。
【ロンマンガンの逃げ】
・この展開は、『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』(というよりはその外伝の『Sire Line ─父の血筋─ 』)の原作通りのもの。
・ダービーで息子の竹岡
・そしてロンマンガンは単独で逃げることになるのですが……
・↑で解説した通りに原作を改変してまでアップショットには出遅れてもらったのは、この展開の再現のためです。