──あの一瞬のことを、ボクは生涯忘れない。
人生の最高点からドン底へと突き落とされた、あのときのことを──
デビューから4戦4勝の負け無しで挑んだ皐月賞。
ボク──ミラクルバードは、無敗でクラシック三冠に挑んだんだ。
もしも、このまま順調に勝ち進んで、皐月賞もダービーも、そして秋の菊花賞まで勝ち続ければ、
正直なところを言えば、その頃はボク自身がそれがどれだけの偉業なのか、分かっていなかったんだと思う。
でも、一つだけ確かで、それが嬉しくて勝ち星を重ねられていたのは──お父さんがとっても喜んでくれたことだった。
毎日、楽しみに来てくださるお客さん達のために焼鳥を焼いてる、無骨なその手で頭を撫でてくれる。
『スゴいなぁ、お前は……あんなことがあったのに、ホントによく頑張って走ってる。お前のガンバリを見て、父さんもどれだけ元気づけられてることか……』
そんなボクの目元を隠すように付けられた覆面。
まるでプロレスラー……なんて揶揄する
幼いころに、走っていて他のウマ娘とぶつかって、顔を蹴られるような形になってできた大きな傷。
ドン引きするくらいにひどい傷跡になったそれは、ボクは未だに好きになったヒトにさえ、見せることができないでいるほどだった。
……だって、それが原因で嫌われたくなんて……ないもん。
ウマ娘はみんな容姿端麗で、そういうのを見慣れているんだから。そんな中でボクの素顔を見られたら、きっと嫌われちゃう。そんなの我慢できないよ。
そんな大怪我の痕を隠す覆面を、まるで自分の責任かのようにそっと撫でながら、お父さんはさっきの言葉を言ったんだ。
でも、違うよ、とボクは言いたかった。
地元神戸で話題になるほどの焼き鳥の名店。その名は関西に轟いて大阪とか京都からだってお客さんが来るくらいに、お父さんはがんばっていたんだから。
お父さんの頑張りがあったから、ボクはここまで成長できたんだよ。
それを言いたくて、それを証明したくて……頑張った結果が、4戦4勝という結果なんだから。
(ボクが勝ちを重ねることで、お父さんがスゴいことの証明になるんだから)
そして、それが少しでも広告になって、もっと一杯のお客さんがきて、お父さんの焼き鳥の良さに感激してくれる人が増えたら──
「さらなる高みへと──羽ばたいてみせる!!」
前の方でレースをしていたボクは、向こう正面から3コーナーへと向かう途中で、皐月賞という大舞台でいつも以上に高ぶった気持ちを収束させて──脚に力を込めたんだ。
そして──
──悪夢は、起きた。
いつもとはかけ離れた奇妙な感覚。
まるで時間の流れが変わったかのようなそれにとらわれてたボクは……その違和感を
──気持ち悪い。
──イヤだ。
直感的にそう思ったボクは、次の瞬間には我に返っていた。
そしてその一瞬の間で、ボクは外へとヨレていたことに気づいて──
後ろから、かなりの勢いで上がってきていたウマ娘に気が付いたのは、まさにぶつかる直前──
あっ、と思う間もなく、ボクはぶつかった衝撃で宙を舞っていた。
天が芝の緑で、地が空の青──そんな逆さまになった景色が、そのときのボクの目に最後に映ったものだった。
──そしてボクは、走るどころか、立つ脚さえも失ったんだ。
「オーちゃんッ!!」
思わずボクは身を乗り出した。
グンと視界が高くなって、その光景がボクの目に飛び込んでくる。
ゴール板の前を先頭でゴールを駆け抜けたのは、オラシオン……この学園に入る前からよく知っているウマ娘だった。
これまで、デビュー戦以外は圧倒的な強さで後続に差を付けていたけど、今日はわずかに半バ身の差。
それでも1番で駆け抜けたその姿に、ボクは「ほぅ……」と大きくため息を付く。
そして──視界がグラリと傾いた。
「え?」
体が傾く感覚。
バランスが取れていたはずの体幹が、わずかな揺らぎから加速度的にズレていく。
そしてそれに対してボクは、バランスを取り戻す手段を持っていなかった。
「──ッ!!」
倒れる、という恐怖感。
それに対して、「こんな感覚、いつぶりだろうか」という場違いに冷静な感想が頭に浮かぶ。
転ぶ衝撃に対して覚悟して、身を固くしたけど……それはやってこなかった。
ある程度の傾きで、横からサッと手が伸びて、ボクの体を支えてくれたんだ。
「……大丈夫か、ミラクルバード」
「う、うん……ありがと」
予想外に近いその顔──乾井トレーナーの心配そうな、そして驚いたような顔にボクは驚いていた。
でも、体を支える足に力が入らないボクは、自力で体勢を整えることができない。
力強く両肩を掴んでくれたトレーナーが、ゆっくりとボクの体を車椅子へと戻してくれる。
下がる感覚が止まってお尻が落ち着く感覚に、ボクは小さく「ほっ」と安堵の息を吐いた。
「ありがとね、トレーナー」
「ああ。ともかく倒れなくてよかったよ……ところで、ミラクルバード」
「なに?」
「お前……いつの間に自力で立ち上がれるようになったんだ?」
「えっ?」
呆気にとられて、ボクは思わずきょとんとした顔でトレーナーをじっと見つめていた。
いやいや、立ち上がるどころか、ボクの足は相変わらず動かないよ?
あの事故からだいぶ経っているけど、その感覚だけは全然変わらない。
リハビリ……とは銘打っているけど、正直、足の感覚をとにかく取り戻すために刺激を与えるというのが実状。
それでも全然、目処が立っていないんだから──
「でもお前、今、立ち上がったよな?」
ボクが言外に「あり得ない」と主張して苦笑するのを見て言ったトレーナーの言葉に、ハッとする。
そうだ。今、確かにボクは……
──オレはその光景に、愕然とするしかなかった。
東京レース場の最後の直線。
そこでオラシオンはロベルトダッシュに追い上げられていた。
逃げたロンマンガンが死に物狂いの粘りを見せたがために、オラシオンはそれに気づくのが遅れ──そこで生まれた焦りが、彼女の走りを狂わせた。
そして……“
「こんなところで、よりにもよってそいつが出ちまうなんて……」
オレが思わず口に出して悔しがる中、内へと
しかしその内には──後方からセントホウヤが上がってこようとしていた。
その光景に、オレは思わず「危ない!」と声が出そうになった。
それが出なかったのは──
「オーちゃんッ!!」
すぐ横で起こった大きな声に、オレが驚いたからに他ならない。
その聞き慣れた声が誰のものか、オレにはすぐに分かった。オラシオンと古くから付き合いのあるミラクルバードだ。
彼女が思わず声を上げたのも、理由は推測できた。ミラクルバードが他のウマ娘と激しく衝突したあのときと、シーンが重なったからだろう。
おそらく、ロベルトダッシュに気を取られたオラシオンは、“
まるで、初めて“
あのときと同じように後方から迫るウマ娘の姿に、ミラクルバードは祈る思いで叫んだのだと思う。
そして──彼女の祈りは通じた。
「──ッ!!」
ヨレて体勢を崩しかけていたオラシオンが、驚異的な体幹を見せて体勢を立て直すと、最後の力を振り絞ってもう一伸びして見せたのだ。
その走りに、ロベルトダッシュが驚く。
セントホウヤも、衝突どころかその影さえも踏むことさえできず、さらに差を付けられていた。
粘っていたロンマンガンだが、ロベルトダッシュに追い抜かれ、オラシオンに食いついていくことはできない。
そして──オラシオンはゴール板の前を駆け抜けていった。
そこまでの短い時間が、とても長く感じた。
ゴールを見届けたオレは、ふと隣に目を移し──
「──っと、」
倒れかけていたミラクルバードへと手を伸ばし、その身を受け止める。
そうか。妙に声が大きく聞こえたと思ったら、コイツ立っていたのか。
そりゃあ、普段の位置よりも近いから大きく聞こえるはずで──
──いや、待て。
ミラクルバードが立ってるのは、おかしいだろ。
足が不自由で普段は車椅子生活をしているし、しかもあの事故からだいぶ月日が経ったが、それでも足が動かなくてリハビリは上手くいってないって話のはずだ。
それが、どうして──
「ありがと、トレーナー」
オレが思考をフル回転させていると、ミラクルバードが恥ずかしげにしながら礼を言ってくる。
その彼女にオレは、素直な疑問をぶつけた。「今、立ち上がったよな?」と。
「え……あ、うん……」
彼女自身、戸惑っている様子だった。
そしてすでに車椅子へと座っていたが、再びそこから立ち上がれるような気配もない。
どうにか足に力を込めようとしている様子だったが……再現は不可能そうだった。
(ミラクルバードの必死な祈りが──二つの奇跡を起こしたのかもしれないな)
それが“
お返しとばかりに、ミラクルバードの麻痺している彼女の脚に、入らないはずの力を込めて立ち上がらせた──
その場で起こった2つの奇跡を目の当たりにしたオレとしては、そうでもなければ説明が付かなかった。
だが──それ以上は、その件を考えることはできなかった。
『勝ったのは、先頭でゴールを切ったのはオラシオン! 一番人気に応えた。そして二着はわずかに及ばずロベルトダッシュ!
……そして三着には伏兵、今日は逃げたロンマンガンが脅威の粘りで入りました──が、いえ……掲示板には審議の表示ですッ! 着順表示も出ておりません!!』
場内に流れる実況に、東京レース場内はどよめき、周囲がざわつき始めたからだ。
その一方で、オレは思考を、今のミラクルバードに起こったことからレース結果へと戻しつつ、「だろうな」と冷静に受け止めていた。
今の最後の直線で起こったことを考えれば、当然のことだと思う。
確かに勝った……いや、一番入線したのはオラシオンだった。しかし──
(あのヨレ──最後の直線での明らかな斜行だ。しかもその後方にはセントホウヤがいた。進路妨害をとられても仕方がない)
オレはその状況を理解していた。
確かに直後に立て直してはいる。しかし斜行したことには変わりなく、それで内のセントホウヤの行き脚が悪くなったのなら──進路妨害ということになる。
「トレーナー、今のって……」
「分からん。オレの位置から全てが見えたわけじゃないからな」
実際のところ、オレだってこの見解が正解かわからない。上から見ていたわけでもないので、セントホウヤとオラシオンの位置関係が正確にわからない。
そこがハッキリしなければ、そうだともそうじゃないとも言い切れない。
しかし──
「降着だ!! 誰が見ても降着だぞォ!! 直線で内側に斜行だ!!」
そんな中で大声を上げて、こっちを見るトレーナーいた。
勝ち誇ったような笑みを浮かべて言うのは──
「〈ポルックス〉の……」
オレが視線だけ向けたのに対し、ミラクルバードは露骨に嫌そうな表情を浮かべていた。
明らかな挑発。
しかしそれにムキになって反論する必要なんて無い。
オレは起こったことを理解しているし、それはオラシオンがしてしまったのは覆らない。
だからそれをごまかしたり、反則ではないと殊更に否定するつもりもない。
そう思って言い捨てたのと同時に──
『お知らせいたします。ただいまのレースで、10番・オラシオンが最後の直線走路で内側に斜行した件につき、審議いたします』
──というアナウンスが流れた。
やはり、と思う一方で〈ポルックス〉のトレーナーが嫌らしくニヤリと笑みを浮かべたのが見えたために、オレは心底呆れて視線を逸らした。
(こんなヤツの相手なんて、していられないな……)
そんなことよりも、オラシオンの着順がどうなるのか。
オレは祈るような心境で、視線を審議の表示のみになっている掲示板へと向けた。
場内がどよめく中、大きな声が耳につくのを私は不快に感じていた。
「あんなもの、反則に決まってるだろ! 一昨年の秋の天皇賞だって──」
ゴチャゴチャと言っているそのトレーナーの口に、私──巽見 涼子は我慢できず手元にあったファイルを突っ込む。
「ふごッ──」
フン、情けない顔ね。
そんなヤツの顔を思いっきり見下しながら、私は言い放ってやった。
「黙んなさいッ! アンタも
そのまま睨みつけてやると、アイツは呆けたように静かになった。
ふぅ、これで少し落ち着いたわね。
私はそう思いながら視線を移す。
その先では、さっきのトレーナーとは対照的に、静かにその裁定を待つトレーナーの姿があった。
「先輩……」
スポーツインストラクターを目指し、少し寄り道をしてこの世界に入った私よりも年下で、そしてトレーナー歴では私よりも上になる、そんな年下の先輩。
彼が担当したウマ娘こそ、今まさに委員が協議する原因となっているウマ娘だった。
(確かに、オラシオンが斜行したのは間違いない)
その事実は覆らない。
その行動によってセントホウヤが進路妨害を受けたのか、そこが問題なのだ。
もしも進路妨害が認められれば、オラシオンの順位はセントホウヤの下となる。
それは一昨年の秋の天皇賞で、スタート直後に斜行して進路妨害となったメジロマックイーンが影響を受けたウマ娘よりも下の順位となったのと同様に。
そして、代わりに1着となるのは──
「ロベ……」
両膝に手を付いて上半身を
私が担当しているウマ娘。
今のレースで2番入線した彼女こそ、繰り上がって1着になるかもしれないウマ娘だった。
でもその表情は──厳しい。
(当然よね。勝負としては
まるで睨むように、確定しない掲示板に鋭い目を向けている。
それが私には、彼女が「余計なことすんな!」と言っているように見えた。
NHK杯から短い間隔での出走で万全とは言い難い調子だったオラシオン。
対してロベルトダッシュは、皐月賞から整えられたおかげで万全だった。
そんな有利な条件だったというのに、彼女の脚はオラシオンに届かなかった──現実をハッキリと突きつけられた気持ちは、察して余りある。
(私だって、似たような経験はあるもの)
学生時代は剣道を嗜み、全国大会にも出たことがある。
その経験の中で、どうやっても勝てない相手に遭遇したことは何度もあった。
団体戦でそんな相手と戦い、私は負けたけど、他のメンバーが勝ってチームは相手に勝利した、なんてこともある。
無論、勝利は嬉しかったけど……私の中にはやりきれない悔しさが残った。
(ううん、そんなものじゃないでしょうね……)
私の方はそれが団体戦のルールなのだから、チームとして勝ち上がるという結果は当然のこと。私を揶揄する者なんているはずがない。
でも……もしも今回のレースでオラシオンが降着になれば、ダービーの栄冠はロベルトダッシュのものになる。
そしてそれは2番入線での優勝という“屈辱の栄冠”として残ることは間違いなかった。
(あの秋の天皇賞の……プレクラスニーみたいに、ね)
レッツゴーターキンが制した秋の天皇賞から遡ること一年前。同レースをぶっちぎりの一番入線したメジロマックイーンが降着になったことで、優勝が転がり込んだのは2着のプレクラスニーだった。
(彼女は“盾の栄冠”を掴んだはずなのに、その姿は気の毒でさえあったわ)
ウイニングライブでは観客は困惑し、陰口は叩かれ──彼女はその屈辱に対して
実際、マイラーだというのにマイルチャンピオンシップもスプリンターズステークスにも出走せず、2500の有馬記念でマックイーンに挑戦状を叩きつけている。
(……あのレースはそんな事情に関係ない誰かさんが、奇跡の走りを見せて勝っちゃったのよね)
私がチラッと視線を移した先で、そのウマ娘は
そうして、有馬記念を制することはかなわず、着順でもマックイーンに勝てなかったプレクラスニーは、さらに打倒マックイーンにのめり込んでいったのだ。
でも、彼女のその後は──ほぼ語られることは無い。
(なぜなら……壊れてしまったから)
その“妄執”と言得るほどの執念は、過剰なトレーニングを招いて無理がたたり、彼女は負傷してしまった。
そしてその怪我は、競走ウマ娘として致命的なものだった。
そういう経緯を経て、彼女は失意のまま学園を去ることになってしまったのだ。
(そんな結末を見ると、あの
もしも、マックイーンの降着が無ければ……プレクラスニーはもっと余裕のある競走人生を過ごせたに違いない。
たとえそこで秋の天皇賞を掴めなかったとしても、有馬記念ではなくマイルチャンピオンシップやスプリンターズステークスに出て、そこで勝利していた可能性だってあったはず。
もちろん、ダイタクヘリオスもダイイチルビーも楽に勝てるような相手じゃないけど、それでも彼女が有馬記念──いえ、打倒マックイーンにかけた情熱をそちらに向けていたら、十分に勝ち目はあったはずよ。
そして、もしも息長く活躍できていれば翌年の春のGⅠや、さらには秋の天皇賞だって再挑戦できたはず。そこで栄冠を掴めるほどの才を間違いなく持っていたんだから。
(まぁ、去年の秋の天皇賞にプレクラスニーが出ていたら、きっとあのハイペースに巻き込まれていたかもしれないけど……ね)
あのレースを勝った、先輩のチームから去ってしまったウマ娘の顔が頭をよぎる。
ともあれ……今回の結果次第では、まさしくプレクラスニーを襲ったことが他人事ではなくなるかもしれないのよ。
もしもオラシオンが降着という結果になれば、それが現実味を帯びてくる。
(もちろん、ダービー制覇は一生に一度しか挑戦できないものだから、ロベに取って欲しいという気持ちはあるわ)
でもそれで、重い十字架を背負ってしまうのだとしたら……どっちが彼女のためにはいいのだろうか。
こんな思いをさせてくれているオラシオンを少しだけ恨めしく思いながら電光掲示板を見ることしか、今の私にはできることはなかった。
先頭で入線した私でしたが、その勢いのままに走路を走っても、途中で足を止めていました。
このダービーという大舞台で、先頭きってゴール板前を駆け抜けたのだから、正直な気持ちを言えば、ウイニングランをしたかったのです。
でも、私の心の中には後ろめたさがありました。
(やって、しまいました……セントホウヤの前を、進路をふさいでしまった)
その自覚があったから、私はウイニングランをせず、観客の声援に応えることができなかったのです。
場合によっては、降着処分になるでしょう。
もしもそうなれば、私を期待し、思いを託して応援してくださったファンの方々を大きく裏切ってしまうことになります。
しかも、力及ばず破れたのではなく、1番入線しておきながら、私自身のミスでそれを棒に振ってしまうことになるのですから。
足を止めて、胸に手を当てて呼吸を整えつつ──様々な視線が自分に刺さるのがわかりました。
確定しない順位への不安。
私がしてしまったことへの不満。特にセントホウヤのファンからは恨みがましい目で見られています。
そして……一番強い感情が籠もった視線が、ロベルトダッシュから浴びせられていました。
その強烈なまでの“不満”の感情は、よく理解できます。
(もし逆の立場であれば、私だって同じ思いに駆られるでしょうから)
力及ばず2着になったにも関わらず、先着のウマ娘が反則で降着処分になって、1着が転がり込んできたら……その試合に勝って勝負に負けたというような状況に、絶対に納得できないことでしょう。
いつの間にやら彼女のやり場のない怒りが込められた視線は、結果を求めて電光掲示板へと向けられました。
そして、それ以上に……なによりも不快な「負けてしまえ」という露骨な視線を向けてくる、〈ポルックス〉のトレーナーの目。
それに顔をしかめかけ──私の目に、乾井トレーナーの姿が映りました。
「あ……」
その直前までの思考で弱り切っていた私は、恐る恐るといった歩調になりながら彼の下へと歩き進みました。
「オーちゃん……」
彼の隣で、車椅子に座ったミラクルバード先輩が、どう声をかけていいか分からず戸惑っているのがわかります。
私はそんな先輩に顔向けできず、トレーナーの方を向くと勢いよく頭を下げました。
「下手な走り方をして、申し訳ありませんでした」
そんな私に、トレーナーは最初は驚き、そして困惑したように頬を掻き、そして最後には──
「……あれが下手な走り方だって? 冗談言うなよ」
ため息をついてから、苦笑を浮かべてそう言いました。
そんな反応に私は思わず目を丸くし、ミラクルバード先輩も「え?」と困惑した様子で振り向いています。
「お前は一生懸命走った。それだけだろ、オラシオン?」
「私のせいで……私がヨレたせいで、こんな事態になってしまいました」
「審議のことなら気にするな。もしも『抜かれまい』と思って、
もちろんそんなつもりはありませんでした。
でもそれは私の言い訳でしかないんです。わざとでなければ良い、などという理屈は通じません。
私がなにも言えずに黙っていると、トレーナーは優しい笑みを浮かべて、私の頭の上にポンと手を乗せました。
「お前とロンマンガンの勝負は……見事だったぞ」
「え……?」
「正直、ロンマンガンの大逃げが決まったと思った。あれはもう作戦勝ちだ。周りはお前を警戒して動けない連中ばかりで、しかも全員があの大逃げを見て『どうせ最後まで保たない』と判断していた。ただ一人、アップショットだけが遅ればせながら気付いて追い上げたが、あの時点の彼女には追いつけるほどの力が残ってなかった」
それに触発されて皆がペースを上げたからこそ、ロンマンガンさんは追いつかれてしまった。
そう私は思っていたのですが……
「だが実際には、アイツは最後まで追いつかれずに走り抜けれたはずだった……辛抱強く末脚をためていたお前がいなければ、だけどな」
「私、ですか?」
「ああ。あの位置から追いつけたのはオラシオン、お前だけだった。あの坂での走りはお前も、ロンマンガンも、どっちも見事だったぞ」
意地で粘るロンマンガン──
意地で追い込む私──
その攻防は手に汗握ったとトレーナーは言いました。
「追い上げてきたのがお前だったからこそ、ロンマンガンはペースを上げざるをえなくなって逃げきれなかった。ま、そこでスタミナを余計に使ったから、ロベルトダッシュにも抜かれてしまったけどな」
「そんな……」
「そこで悲しげな顔をするなよ。確かにロンマンガンは意地を張らずにすんなりとお前を通していれば、残した余力で2着はキープできたかもしれない。だが……あの場面で、抗いもせずに2着でいいと思う競走ウマ娘がいるか?」
それは……確かにトレーナーの言うとおりだと思います。
ウマ娘の本能は走ることこそ喜びで、競走を志すからには“誰よりも早く走ること”こそが目標なんですから。
それにロンマンガンが勝負事となると、負けが見えたときは手を引くのが早いんですけど、勝ちが見えたときは誰よりも貪欲になるんです。
今回の終盤の粘りでは、私もつくづく思い知らされましたけど……
「それでもあれを“情けない走り”だとオレが認めたら、競ったロンマンガンを誉められなくなるからな。それはカンベンしてくれ」
トレーナーは苦笑したままそう言って、少し離れた走路に寝転がったままのウマ娘──ロンマンガンさんを指します。
「あの走りを叱ることはできない。アイツが挑み、それに応えたお前のことも、オレは叱れないさ」
「でも、
「アイツと競って、死力を尽くしたからこそああなったんだろ?」
もちろん体調が思わしくなかった、という理由もありましたが……ヨレて斜行したのは、余力がなかったせいでもあります。
「それに、もしもあの斜行で接触が起こっていたなら、オレはもちろんセントホウヤや〈ポルックス〉に謝りに行ったが、それでもお前のことを責めたりはしないぞ。真剣勝負の結果なんだからな」
私の頭の上に乗せられていた彼の手が、私の肩へと移動します。
そして軽くポンポンと叩かれ──
「胸を張れ、オラシオン。たとえ降着になっても……今日のレースは恥じるようなものじゃなかった」
「トレーナー……」
彼の言葉が胸に染み入り……激しい後悔に
私が思わず顔を上げたその時──場内アナウンスが流れた
『おしらせいたします。10番のオラシオンが、最後の直線走路で内側へと斜行した件につき審議いたしましたが──』
「……長いわね」
ダービーのゴールから、そして審議のアナウンスがあってから、アタシ──ダイユウサクがそう思うくらいの時間が経っても、電光掲示板に数字は現れないでいる。
それだけ時間が経っても、アタシの所属するチームのメンバーであるロンマンガンは、走路の芝に大の字で横になったままだった。
(大丈夫かしら?)
そんな彼女の様子にアタシは不安を感じていた。
今までレース本番で逃げたことがなかった彼女が、一時は2位以下に大差を付ける大逃げを敢行したのよ。無理をしていないわけがないわ。
さらには最後の直線の、上り坂でのオラシオンとの張り合い。
正直、ロンマンガンがあそこまで頑張れるなんて、粘りを見せるなんて思ってもいなかった。
逃げきれずに集団に飲まれて──あっけらかんとした表情でアタシ達の前に現れて「いや~、逃げきれなかったッスわ」と笑みを浮かべる、なんてことまで予想してたのに。
結果的にはオラシオンに抜かれ、大外からきたロベルトダッシュにも抜かれたけど、最後の粘りで後続の追い上げを断ち切って、3番で入線している。
(それだって立派な結果よ)
人気上位のセントホウヤやアップショットよりも前の順位なんだし、この審議の結果次第ではオラシオンよりも上の順位になり、ダービー2着という結果にもなり得るんだから。
(……ちょっと、本気で動かないわね)
再度視線を向けても、横になったままのロンマンガンが本気で心配になり──アタシは思い切って走路に入ると、そのまま彼女に駆け寄った。
そんなアタシに気づいた何人かが、「何事か!?」と訝しがるように見たけど、駆け寄った先のロンマンガンが寝転がったまま動かないことに気づいて納得すると同時に、心配そうな目を向けてくる。
「ロンマン! 大丈夫なの!?」
アタシが声をかけたとき、芝に寝転がったロンマンガンの腕は隠すように顔にかかり、その表情が見えなかった。
そのことがアタシの不安を助長させる。
「ロンマン!!」
「だぃ………ッス、パイセン……」
かすかに聞こえた、かすれたような声は「大丈夫」と言っているようだった。
でも、そんなか細い声で言われても安心なんてできないわよ。
さらに注意深く彼女を見ると──呼吸のための胸の上下が不規則なように見えた。
(やっぱりまだ呼吸が乱れているじゃないの……)
たしか吸入用の酸素を
その姿を探し求めて振り返ったアタシの耳に「うぅッ……」という嗚咽の声が聞こえた。
「……え?」
思わず声のした方を見て──その声が、アタシの足下からだと気がつく。
それは、地面に転がったままのロンマンガンからだった。
「ロンマン……」
よく見れば、顔を隠すような腕は、しっかりと両目を覆っていた。
その口は酸素を求めて大きく開かれているのではなく、時折悔しさをかみしめるように食いしばっていた。
そう……ロンマンガンは、泣いていたのだ。
今回のレースという“場”で、周囲の状況から自分の勝ちが見える最善の手を打ち、そして勝利まであと一歩というところまできたのに──届かなかったのだ。
彼女は間違いなく全力を出すことができた。
ううん、それ以上の力を絞りきれるところまで出したのに──及ばなかったんだもの。
その涙は当然だと、アタシは思っていた。
「パイセン……あっし、悔しい、ッス……」
「ええ、そうね。悔しくて当たり前よ。あれだけ練習して、このレースに出るために頑張って勝って、本番に備えてさらに練習して……本番でもあんなに頑張って、あと一歩だったんだから。悔しくないわけないわ」
ここに至るまでだって、人一倍苦労していたんだから。
アタシはロンマンガンから視線を外し、未だ確定しない電光掲示板を見つめる
「あとちょっと……あと少しで、シオンにだって……勝てたのに。なんで……もうちょっと頑張れなかったんだろ、あっし……」
「彼女の方が競走に本気で取り組むのが早かっただけよ。それを、ここまで詰められたんだから……もう少しよ」
アタシが言うと、彼女は「うん……」と答えて、少しの間口を
確定しない結果に、観衆が固唾をのんで掲示板を見守る中、アタシの周囲はロンマンの嗚咽の声だけが聞こえていた。
そして──
「パイセン……スゴいッスね」
「ん? なにが?」
「パイセンは、こんなに悔しい気持ち、何度も経験してるってことッスよね?」
……うん。ちょっとだけイラッとしたわよ。そういう場じゃないってのはわかってるけど。それでもやっぱりね。
アタシは確かに「一流ウマ娘だ!」なんて胸を張って言える成績じゃないかもしれない。
周囲にはオグリキャップやスーパークリーク、ヤエノムテキみたいな優秀な成績をおさめたウマ娘がたくさんいたんだから。
そんな彼女達を意識しないわけにはいかなかったし、それと比べればそんなことを言えなかったもの。
でも、それだって勝ったレースの数は10を越えてるのよ?
そしてそれは、たくさんのレースに出走した結果。さっきあげた3人やメジロアルダン、サクラチヨノオー達に成績では及ばずとも、彼女達よりも多くのレースを走ったんだから。
「……そうよ。それも何十回も、よ」
アタシはそれらの光景を思い出しながら、言ってやった。
もちろん惨敗したレースもあった。
惜しくも届かなかったレースは、沢山あった。
一年近く勝利から遠ざかったこともあった。
そんなアタシの経験から言えるのは──
「でも、悔しいから……次こそ、と思えるのよ」
確かに、勝ったから次も勝ちたいって思える。
でも勝利の喜びの他に、負ける悔しさが加われば、もっともっと勝利に貪欲になる。
心折られて、その勝利を「どうせ酸っぱい」と
「だからね。たとえ負けても、無駄なレースなんて、一つもないの……ううん、違うわね。負けたレースでも、無駄なレースにしちゃいけないのよ。だから今は、存分に悔しがりなさいよ、ロンマン」
あれだけオラシオンと良い勝負ができたのに、今行われている審議の結果がどうなろうとロンマンガンにダービー制覇の栄冠が転がり込んでくることはない。
それだけが本当に……アタシにとっても悔しかった。
そして彼女の手がその栄冠に届かないのなら──苦労を見ていたもう一人の後輩が掴むのを祈るしかない。
(シオンの方が、ロンマンよりもつきあいが長いんだものね……)
チームの中での編成上、アタシはロンマンガンの面倒を見ることになったから今まで感情移入してたけど、それを抜きにすれば彼女の勝利を祈りたい気持ちは大きいんだから。
なにしろアタシが金杯の後でなかなか勝てないときも、そして有馬記念のときも、彼女はアタシを応援してくれたんだもの。
(入線は1番なんだから……あとはもう運を天に任せるしかない!)
アタシにできるのは祈って審議の結果を待つしかなかった。
そしてその運こそ、我ら〈アクルックス〉が他の強豪チームにも負けないところなんだからね
そして……その審議の長さに、アタシの心の中に、「やっぱり斜行で降着かしら」と不安が首をもたげてきたその時──アナウンスが流れた
『おしらせいたします。10番のオラシオンが、最後の直線走路で内側へと斜行した件につき審議いたしましたが着順を変更するには至らないと判断し、入着通どおり確定いたします』
電光掲示板の1着には“10”の数字が出る。
同時に、ワッと観客席から大きな歓声があがった。
それを聞いて、アタシはホッと胸をなで下ろした。
◆解説◆
【──長い流れ(5)】
・「長い流れ」については前々々々話参照。
・おそらく次でこのタイトルも終わりかな……
【多くのレース】
・競走馬ダイユウサクが走ったレースは38戦。
・ちなみにオグリキャップは37戦、スーパークリークが16戦、ヤエノムテキ23戦、メジロアルダン14戦、サクラチヨノオーは10戦。
・サクラチヨノオーが少ないのは故障で引退が早かったせいで、アルダンも引退こそ遅いですが故障で走れない期間が長かったから。
・逆にオグリキャップがあれだけ有名な馬な割に多いのは、笠松時代に12戦も走ってるのが影響していると思われます。
・晩成型の競走馬はランク上げに苦労するので、レース数も多くなりがちで、その典型であるダイユウサクはまさにそのタイプ。
・同じくクラシックに縁が無く晩成型だったバンブーメモリーも生涯39戦と多くのレースを走っていました。
・バンブーはデビューは87年11月と、ダイユウサクよりも1年近く前にデビューしていました。その分、ダイユウサクの引退はバンブーの約一年後でしたので、活躍期間的にはほぼ同じですが。
・やはり馬主さんは使ったお金を少しでも取り戻したいので、なかなか勝てない馬は結構な頻度で出走することになります。
・例えば……本作ではおなじみのサンキョウセッツはダイユウサクやバンブーメモリー以上の43戦を走っていますからね。