(クッ、余計な体力を使ってしまった……)
私──シンボリルドルフが想定外に消耗しているのに気が付いたのは、4コーナーを終えて最後の直線にかかかろうとしたところだった。
秋の天皇賞の舞台である東京レース場の直線は長い。
その長い直線を最後に控え、思うように伸びていかない自分の脚に、僅かながら焦りを感じたのだ。
「やはりスタートでの──」
あの躓きが原因なのは間違いなかった。
春の天皇賞から本番のレースを長期間離れていたせいで勘が狂っていたのは疑いようもない。
しかし、それだけではない。
無敗ではなくなったとはいえ、まだ“1敗”のウマ娘。『たった1度しか負けてない』という肩書きは、それでもまだ価値があるだろう。
しかし逆に言えばもう、後はない。『2敗のウマ娘』にはもはや看板として何の価値もない。
故に、負けられない。
『────を越えろ』
長年、URAで言われ続け、目標とされてきたまさに呪文のような言葉。
あまりの強さに“神”とまで言われたそのウマ娘。彼女を越えることこそ彼女以降のウマ娘に課された使命だった。
偉大な先輩方の中には迫った方達もいた。人気と国民的知名度なら越えたとされた先達もいる。
しかし……成績で彼女を越えるウマ娘はいない。
(光栄なことに、私にはそれが手が届くところまで来ている)
そんな伝説と化している“あの方”だが幾度かの敗戦をしていた。
レース本番に向けての“調整”では本気で走らず手を抜くために、困り果てたトレーナーが窮余の一策としてたどり着いたのが『レースを走らせて調整する』というもので、その結果として『勝利を逃したのはそれでも2位』というのも含めて有名な逸話だった。
そんな御仁を
(だからこそ……もう、負けることはできない)
負けられない重圧。それも原因の一つだっただろう。
そしてもう一つ、“伝説を越える”ための金看板──“初の天皇賞春秋制覇”だ。
春の天皇賞を制している私にかけられた期待。
そして春の天皇賞を制した直後の私なら、そこまでの重圧は無かったと思う。
(しかし、夏の絶不調を体験した今の私はあのころとは違う)
天皇賞の後、私は体調を崩した。
そしてそれはなかなか治らず、調子があがらない。負傷も疑ったがどんなに検査しても骨折や炎症等は見つからなかった。
(そんな私に突きつけられたのは──『引退』の二文字だった)
まったく想定もしていなかったそれに、私は頭が真っ白になった。
焦り、私はいろんなことを試した。最終的には針治療という科学的根拠の乏しいものにまで手を出し──それが功を奏して、どうにか復帰ができた。
本当に幸いなことではあったが……同時に今まで抱いたことがなかった恐れを感じようになった。
それは──
『私は、いつまで走れるのだろうか?』
いつまでも頂点にいられる──そんなはずはないことは頭では分かっていた。
しかしそれが急に現実として突きつけられた衝撃は、私を不安にさせるのに十分すぎた。
そして思った。走れる間にできることは全て終わらせなければならない、と。
春秋制覇を達成には“秋の”天皇賞をとらなければならない。
もし今年を逃せば、当然のことながら次は来年の秋だ。
だが──
(果たして、来年の秋に出走できるのか?)
そんな強迫観念が、最悪の夏を過ごした私に生まれている。
引退直前なほどに追い込まれた調子は、秋が深まった今でも万全とは言い難かった。
それでも今年の
だからこそ回避せず、休養明けで一戦も挟まめないほどギリギリのタイミングでも出走しなければならなかったのだ。
「しかし! それでも私は──」
スタートで躓いたのは明らかに長期の休養で勝負勘が鈍っていたからだ。
それを挽回すべく、私は
そして今、まさに──最後の直線で先頭に立とうとしていた。
(く……)
ここまで無理をしたツケは間違いなく体に来ていた。
だからこそ体に負担がかかり過剰にスタミナを使うあの感覚──“
(それでも……勝てる!!)
先頭まであと少し。
しかしまだ残るゴールまでの距離を考えれば、無理をするリスクを犯さずとも追い抜くことができると私は判断した。
「~~ッ!」
死力を尽くし、顎が上がりかけている先頭のウマ娘──リキサンパワーに並び、そして追い抜く。
あとはこのままゴール板の前を駆け抜けるのみ。
(後続はここまで競ってきた者達ばかり。余力のある者などいるはずがない!)
横に並ぶはウィンザーノット。
死力を尽くして走る彼女だが、私の前には至らない。
さらに後ろから迫るのは……ニホンピロウィナーか?
迫るその脚が止まり、届かないのを確信する。
そうだ。今まで最後の直線で私を追い抜いたウマ娘などいない。
たった一度の敗戦も私が追いつけなかったレースだったのだ。
「誰も私に追いつけない……追いつけるわけがないッ!」
そして迫り来るゴールが私の目に入った。
見えた勝利。
そして初の春秋制覇という栄光。
(私は、越えられる)
“神”とまで賞賛され、以降のウマ娘の呪縛となったそのウマ娘──シンザンを。
それを越えるという、長年の夢とされたその実現を確信し……
「勝っ──」
ゴールを前に、それを確信した。
──その瞬間だった。
『外から──ギャロップダイナ!!』
後方から一陣の風が吹いた。
一人のウマ娘が連れてきたその風は……私を追い抜き、そして去っていく。
「な……ッ!?」
私の意識の範囲から外れた、外を通って追い抜いてきたウマ娘の姿に私は愕然とする。
誰だ? という疑問が頭に浮かぶ。
今回のレースで私に対する有力候補の名前が次々と浮かぶが──そのいずれでもない。
『外からギャロップッ!!』
──ギャロップ、ダイナ?
いったい誰だ……?
最後の直線を迎えるころ、あたしは後ろから数えた方がどう考えても早い位置にいた。
2000メートルが長いと感じる距離を主戦場にしているあたし。
それに加えて大本命ルドルフがカッとばし、それに負けじとライバル達がついて行ったおかげでできあがったハイペースなレースになった。
そんな状況だから、
だからもうレースに勝つとか“皇帝”サマがどうとか、そんなことは頭の中になかった。
(そういや、スタート前に
こんな位置でもひたすらにゴールまで走り抜けるという以外に考える余力が無くなっていた。
それでも……いや、こんな状況にまで追い込まれたからこそ、あいつの言葉が頭に浮かんでいた。
『──楽しんでこいよ』
あぁ? あいつ……どういう考えでこんなこと言いやがったんだ?
楽しむ? こんな後ろで走って、いいところなく終わる競走で、なにを楽しめってんだ?
(ま、ソフィアに何の話もできねえってのは……確かに面白くは
ならせめて──1人か2人は、追い抜いてやらねえと!
あたしは最後の直線で死力を振り絞った。
どうせ周囲は
(まずは──1人。続けざまに、2人……)
とりあえず2人をブチ抜いてやったが、それでも次の背中はすぐ前に見えた。
ならそれも抜いてやろうじゃねえか!
(3人目、そして4人──)
……だんだん抜かしていくのが楽しくなってきやがった。
次々と現れる敵を、片っ端から倒してく──ああ、そうか。まるで時代劇の
そう思いついて──あたしはいつの間にかニヤリと笑みを浮かべて、現れる背中を次々と撫で斬りにしていった。
「次! 次ッ! 次次次次! その次──」
内の方で固まってる連中をまとめて外から抜き去る。
まとめて倒した感があって、実に爽快だった。
で、次は縦に2人並んで走ってやがる……その後ろにいた方を抜き去る。
そして次は前にいた──緑の勝負服のウマ娘の番だ!
「その次は──」
そいつを追い抜き──視界が、なぜか一気に開けた。
あ? 何が起こった?
あたしは思わず眉をひそめ、そして気が付いた。
「あん? 前に誰もいねーじゃねえか……」
スローモーションのように流れる景色の中で、最後に追い抜いたウマ娘の姿がゆっくりと後方へ流れていくのが視界の端に映っていた。
彼女の驚愕した表情は──ん? コイツどこかで見たことあるような……
(それに緑の勝負服……コイツ、ルドルフじゃねえのか?)
なんだ、あの後輩クンが言った通り、ぶっつけ本番のルドルフは調子が悪かったらしいな。
あたしになんざ抜かれちまうような下の順位なんだから本当に体調が最悪で──
『あっと驚くギャロップダイナ!』
急に耳に飛び込んできた実況の声。
ああ、確かに……ルドルフのヤツ、マジで驚いてやがる。まさに“あっと驚く”って感じの顔だな。
あ? そういえばなんであたしは実況に名前呼ばれてんだ?
「──って? は?」
いや、待て……
さっき急に視界が開けて、前に背中が無くなったんだよな?
そういえばほぼ同時に、ゴール板みたいのも見えてたような気もするが……
それって──あたしが勝ったってことか?
秋の天皇賞を?
いや、あの絶対王者に、あたしが……勝った、のか?
「マジ、か? いや……これ、マジだ!!」
あたしの後方にシンボリルドルフがいるのを確認し、こみ上げる感情と共に思わずガッツポーズをしたのは、もう反射みたいなものだった。
『──あっと驚くギャロップダイナ、右手を高々と突き上げた!』
──京都。
レース本番を前に、周囲がざわつくのをわたしは感じていました。
思わず頭の耳をピンと立て、声の方へと向けてしまいます。
「“皇帝”が負けたってよ!」
「えっ? 負かしたの誰だよ? ウィンザーノットか? ニホンピロウィナーか?」
「いや……全然、注目されてなかったヤツだ。しかも……」
「しかも?」
「オープン昇格してない、条件ウマ娘に負けたらしい」
「はあッ!?」
「──え?」
思わず声が漏れてしまいました。
あのレースで、条件ウマ娘って……まさか、ひょっとして……
「オイオイ、“皇帝”以下あれだけそろってたメンツが、揃いも揃ってそんなのに負けたのか!?」
驚いているその人たちを尻目に、わたしは思わず微笑んでいました。
出走メンバーの中で、条件ウマ娘なんて一人しかいないのですから。
すごい……
信じられない……
でも、ここまで話題になっているということは、きっと本当に起こったことなのでしょう。
「どうした、ソフィア?」
わたしの変化に気が付いて、トレーナーさんが声をかけてきました。
思わず驚きのあまり声が出てしまっていましたしね。
「いえ、ちょっと噂を小耳に挟みまして……“皇帝”さん、負けてしまったそうです」
「本当か?」
どうやらトレーナーさんはまだ知らなかった御様子。
「2敗目か……で、誰に負けたんだ?」
「ダイナさんですよ」
「──は?」
わたしが言うとトレーナーさんは呆気にとられたように問い返してきました。
そして次の瞬間、思わずと言った様子で苦笑を浮かべました。
「なんだソフィア、緊張していたのか? こんなところで冗談を言うなんてお前らしくもない……」
そこへ──
「た、たたた大変です! トレーナー」
チームのサブトレーナーの一人が血相を変えて飛び込んできたのです。
レース直前ですし、周囲の目もあります。トレーナーさんは眉をひそめ、やってきた人をたしなめようとしますが──そのただならぬ様子に思わず言葉を飲み込んだ様子でした。
「なんだ、どうした?」
「そ、そそそそそれがですね。おおおお驚かないでくださいよ?」
「いいから落ち着け、いったい何が──」
「だ、だだッだ、ダイダイダイダイダイナ──」
「……なんだ? 大爆発でもするのか?」
「ち、違います! ダイナが! ギャロップダイナが、勝ちましたッ!!」
硬直するトレーナー。
「──あ? いやいや……待て、待て待て待て待て。アイツの出ていたレースって確か──」
「はい、
わたしと同じように最初はピンときていなかった様子のトレーナーさんでしたが、ふと何かに思い当たって、その表情がガラッと変わりました。
掴まれていた手を振り払い、逆にやってきた方の肩をガッと掴み返して──
「一応、確認するが……ギャロプダイナが、勝ったんだよな?」
「はい!」
真剣な面持ちでそう問い返すトレーナーさんの姿は、自分の中にでている答えを正解と答え合わせするかのようで……
「あのダイナが、シンボリルドルフに!! しかも盾ですよ盾!!」
驚きと同時に歓喜を爆発させて報告するサブトレーナーさん。
それを聞いた瞬間、答え合わせの結果にホッとするように息を吐き──
やがてその事実に驚きがこみ上げ──
そして……後悔するように、空を見上げて目を閉じ──
その姿にわたしは、トレーナーさんが心の中でダイナさんに謝っているように見えました。
「お、おやっさん?」
「わかっとる! わかっているさ。よくぞ……よくやったな、ダイナ。それに乾井も……」
「はい、まさか勝つだなんて。それもルドルフに土を付けて……あの、ギャロップダイナが、本当に……」
「乾井には、悪いことをしてしまったな。全部アイツに押し付けちまった。今頃は大慌てだろうに」
ええ。チームスタッフの大半は、メイントレーナーさんと共にわたくしのレースのために京都に来てしまっています。
一方、ダイナさんは開催地が学園からすぐの東京レース場ということで大丈夫だろうと、最低限のスタッフ──ほぼ担当になっている研修生の乾井さんと彼を手伝う後輩さん達くらい──しか残っていなかったはずです。
「あらあら、大変でしょうねぇ……」
わたしが思わずその光景を頭に浮かべて笑ってしまい、それを聞いたトレーナーさんは、地肌の見える頭をペシッと叩いたのでした。
「ああ、まったく想定外だ。しかしなぁ、ソフィア……誰がアイツが、ギャロップダイナがシンボリルドルフに勝つと予想できる?
「あら? ゴルフではそういうのを“ちっぷいん”というのでは無かったのでしょうか?」
思わずクスクスと笑ってわたしが言うと、トレーナーさんは「一本とられた」と苦笑しました。
「ま、確かにそういうこともあるな。だが、やったことはチップインなんてもんじゃあない。ホールインワンよりももっと有り得ないようなことだからな」
最弱の札が、最強の札を負かす──それこそダイナさんが教えてくださったトランプ遊びの大富豪でいうところの「革命」のように、わたしには思えていました。
(“皇帝”を倒す辺りも史実のそれに一致しますし……)
わたしは思わず空を見上げ──この空と繋がっているはずの東京レース場で起きた、いえ起こされた“奇跡”に思いを馳せました。
そして視線を下ろし、自分のレースへと足を踏み出しました。
「ソフィア……」
「トレーナーさん、わたしも……ダイナさんに負けない走りをしてきますわ」
勝敗を口にするまでもない。
彼女がやってのけた偉業に傷を付けないため……そして共に勝利を分かち合うために勝利は絶対条件なのですから。
「祝勝会は、東京で行いましょう」
「ああ、わかっとる。行ってこい!」
わたしの意を汲んだトレーナーさんが力強くうなずいてわたしを送り出してくれました。
──それが、気負い過ぎだったのかもしれません。
レース中、わたしは“鳥籠”に囚われました。
冷静に周囲を見ることができていれば、もしかしたら避けられたかもしれない事態。
苛烈な
まるで静かに圧搾してくる万力のように、外を走るウマ娘が内へと寄り──わたしは、内ラチとの間に挟まれる。
そして…………それは、起こったのでした。