──高松宮記念はGⅠレースである。
かつては高松宮杯という名前であり、そのころは距離も今より長かった。
それが高松宮記念になり距離は1200に、グレードもGⅡからGⅠになったことで春の短距離GⅠという個性のあるレースへと変貌した。
──そのGⅠに賭けるウマ娘がいた。
彼女は今回GⅠ初挑戦となるダイタクヤマトとは対照的にGⅠ経験は豊富。
生まれ持ったその才能から早くから期待された彼女は、長距離から様々な距離のGⅠを走っている。
しかし未だにGⅠタイトルは無し。
そして今回、高松宮記念にGⅠ初制覇の夢を賭けてきた彼女は、緑色のドレス型の勝負服を身にまとい、初春の風に緩くウェーブのかかった髪をなびかせている。
「周りは強敵ばかりだからな」
「そんなことは当然でしょう?」
トレーナーの言葉に彼女は眉をひそめつつ返すそのウマ娘。
勝ち気で強気な性格を如実に表すその瞳。
それは自信の実力を映す鏡でもあった。
「今までだってそうだった。だから──」
その手が届かなかった。
自分が積み重ねてきた努力には自負がある。
そして傍らにいるトレーナーの能力を疑うわけがない。
もしそんなトレーナーだったらそもそも担当に選んでいない。信頼しているからこそ傍らに立つのを許しているのだから。
しかしそれでも勝てなかったのは──相手が強かったから。
ただそれだけ。
少なくともそのウマ娘はそう思っていた。
だからこそ、今度こそ、GⅠ制覇という栄冠を掴むために努力と研鑽を重ねてこの場に立っている。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、トレーナーはスタート前で走路に散らばった出走する他のウマ娘達に視線を走らせている。
「去年のスプリンターズステークス覇者に、海外重賞経験もある1200の日本記録を持ってるウマ娘。それ以外にも……
「知っているわ。去年の
そんな強者達を見ながら彼女は、その強気の目を変えずにハッキリと言い放つ。
「相手が強いってことは、倒しがいがあるってことよ」
無論、強がりなどではない。
それができるという自信があった。
それをできるだけの鍛錬を積み重ねてきたのだ。
だからこそ──
「今度こそ、負けないわ」
痩身ながら背の高いトレーナーを見上げるように、彼女は不敵な笑みを浮かべる。
そんないつも通りの彼女を見て、フッと表情をわずかに緩めたトレーナーは視線を逸らしながら言う。
「上を見るのは当然だ。だけど足下をすくわれないように気をつけろよ」
そんな意外な言葉に、拍子抜けしたようにきょとんとした表情になるウマ娘。
出走メンバーを見れば警戒すべき相手は多い。
そんな中だからこそ強者へ意識を向けるべきで、それこそ他に気を配る余裕なんて無いのでは、と思ったからだ。
しかし自分が信頼するトレーナーの
今度こそGⅠを掴むという強い決意を持っているのは彼も同じはず。
その彼の言葉を信じない理由がない。
「……誰のこと?」
「6番のウマ娘だ」
周囲を見渡し、出走表を思い出しながらそのウマ娘を探した。
今日のレースはGⅠ。ゼッケンを付けずに皆それぞれの勝負服に身を包んでいるので見ただけでは番号がわからない。
しかしそのウマ娘の今日のこのレースにかける意気込みは人並みではない。
だから出走メンバー全員の情報は頭に入っており、勝負服だけで見分けられた。
そして彼女を見つける。
大戦時の軍服のようなデザインの勝負服と、それに合わせた帽子を被っているウマ娘だった。
「見覚えのないウマ娘ね。期待の新人?」
思わず首を傾げてしまう。
名前を見ても経歴がパッと浮かんでこなかった。
だからこそ新人かと思ったのだが……
「いや。一つ上だぞ」
「歳上なの? 全然記憶にないけど?」
「それはそうだろ。昨年末にオープン昇格したばかりのウマ娘だからな」
「なによそれ。この私が注意を払うような相手ではないでしょう?」
ただでさえやっとオープン昇格してきたような実力だというのに、それが歳上だというのではなおさら低くなる。
警戒するに値しない有象無象。十把一絡げのごくごく平凡な──オープンクラスに昇格している時点でけっして平凡ではないのだが──ウマ娘であると彼女は判断した。
しかしトレーナーの返した言葉は意外なものだった。
「ああ。警戒するべきなのはその“ウマ娘”の名前じゃない」
「……どういうこと?」
意味が分からず思わず眉をひそめてしまう。
一方、トレーナーはまだ彼女を見つけられ無い様子で、視線を追うことでようやく同じ相手を見つけた様子だった。
しかし彼が見たのは──その傍らにいるトレーナーだった。
「その所属チームが問題なんだ」
「チーム? いったいどこよ?」
思わず彼女もまたそのトレーナーを見る。
その顔を見てスッと名前が出てくるほど有名なトレーナーではないと思った。
例えば《フェアリー・ゴッドファーザー》とか《ターフの魔術師》とか《王子様》とか……そのクラスの“担当トレーナーがその人の時点で警戒すべき相手になる”ような有名人ではない。
「〈アクルックス〉だ」
「ッ! それって確か──」
軍服風の勝負服に、長い
タイミング良く彼が動き、着ているスタッフジャンパーの背中がこちらを向く。
そこに描かれた下の星を強調した南十字星の意匠と“α-clux”のロゴがそれを雄弁に語っていた。
その彼の名前は──
「乾井
彼女もその異名は聞いたことがあった。
むしろこれまで何度と無くGⅠタイトルに挑戦してきた彼女が知らないはずがない。
周囲からGⅠ勝利を期待されてレースに挑んで勝てなかった彼女とはまさに対照的な存在。
フンと鼻先であしらいながら、面白くなさそうに視線を逸らすウマ娘。
「大層な呼ばれようだけど走るのはトレーナーじゃなくてウマ娘よ。肝心の彼女はこれまで実績も無いわ」
「同じような目立たないウマ娘を今まで何度も勝たせているのがあのトレーナーだぞ?」
だからこそ警戒するべき、だという彼の主張はよく分かった。
本気でGⅠ制覇を目指すからこそ、その“伏兵”の存在は不気味だし命取りにもなる。
しかし──
「その余裕があったらね」
なにしろ周囲は強敵ばかりである。
そんな中で弱小ウマ娘にまで注意を払えるかどうか……
「ま、
踵を返し、そのトレーナーとウマ娘に背を向けるウマ娘。
ただ彼女は、一瞬だけそのトレーナーを厳しい目で睨んでいた。
──彼女の名は、キングヘイローという。
『──スタートしました』
初めての大舞台に緊張があったのは間違いありません。
ゲートが開いて、私は飛び出しました。
『──17名、綺麗なスタートを切りました』
出遅れることなく、スタートに失敗しなかった私は前へ出ようと加速します。
いつも通りの
私の武器はそれしかない。
だからそこに迷うことはありません。
(たとえどんなウマ娘達が相手でも、揺らぐことなく──)
確かにオープンクラスという立場は一緒でありますが、出走している他のウマ娘達は私なんかと実績が違う。
昨年末の
そんな中で──ダーリング殿がスッと抜け出して先頭に立とうとしていました。
(負けられません!)
彼女との対戦は今まで1勝1敗。
彼女の前でレースをして勝利し、彼女に前でレースをされて敗北しています。
つまり勝つためには、彼女より前に出ないといけません!
『──まず先行争いに入ります』
彼女に追いつき、そして前に出る。
そのために──
「ッ!!」
前に出ようとした私を阻む尻尾と背中がありました。
GⅠの舞台ゆえに纏う服が勝負服になっていても、私は前にそれを見ている記憶があるのです。
『──アグネスワールド』
圧倒的な速さで、私の目の前で1200のレコードタイムを叩き出して見せたそのウマ娘。
その時の勝利でオープンクラスへと昇格し、その後は海外の重賞で結果を残して凱旋した彼女。
『──これを制してシンボリスウォードあるいはメジロダーリング。アグネスワールド。ダイタクヤマトは4番手につけました』
(くッ、前が塞がれました……)
先頭のダーリング殿ともう一人をピタリとマークするように後ろに付けたアグネスワールド。
あの時よりも一段と大きくなったように見えるその背中に阻まれ、私は前に出ることができない。
1200という短時間勝負でGⅠというハイレベルなレースの中、
「…………」
「ヤマちゃんにとって難しい展開だね」
オレが苦虫を噛み潰したような顔になりそうなのをどうにかこらえていると、傍らの下方からそんな遠慮のない声が聞こえた。
振り向いて確認するまでもなく、車椅子に座ったミラクルバードの声だった。
「確かにな……」
オレは彼女にそう返すのが精一杯だった。
その指摘通り、ダイタクヤマトにとっては本当に厳しい展開なのは間違いない。
ダイタクヤマトと先頭のメジロダーリングとの実力差はさほど無い……はずだ。
だが、そのメジロダーリングの後ろには彼女をマークするようにピタリと付けているウマ娘がいる。
アグネスワールド。
彼女が記録を持つ1200のレースで、その存在を意識しない
そのアグネスワールドよりも前に出られなかったのは、本当に痛い。
「理想は先頭、せめて2番手か3番手に付けたかった。なによりその2番手の壁がとんでもなく分厚い」
「アグネスワールドが強いのは分かるけど……そこまで悲観することかな?」
「実力上位で得意な脚質が同じウマ娘相手に前をとられているんだぞ」
状況は最悪と言っていいだろう。
「かといってスタートが悪かったわけでもないんだ」
「確かに出遅れてなかったけど、でも
「もっと単純な話だ」
「単純な話?」
オレは走るダイタクヤマトから視線を外すことなく、ミラクルバードの問いに簡潔に答えた。
「周りのレベルが高すぎる」
純粋に力不足。
ダイタクヤマトが今まで走ってきたレースとは文字通りレベルが違う。
(もちろんそんなことは覚悟していた)
頭では分かっていた。
オレだって昨日今日トレーナーになったわけじゃない。今まで担当したウマ娘に何度もGⅠレースというものに挑戦させているんだ。
もちろんダイタクヤマトだって伊達にこれまで中央で走っていたわけじゃないし、オープン昇格まで果たした実力を持っている。
その実力があれば、充分に戦えるはずだと判断したんだ。
ただ、今回のレースは今までオレが担当した彼女達と挑戦したレースとは一つだけ違うことがある。
それは、高松宮記念が短距離レースだということ。
「
担当のウマ娘を短距離の重賞に出走させたことはもちろんある。
ダイユウサクは有馬記念に出走する前にスワンステークスを走らせている。
だが、ダイタクヤマトのような
だからこそ頭では分かっていても、ちゃんと理解していなかったんだ。
「数少ない短距離GⅠ。距離が短いからこそ自力と集中力がモノを言う……そんな
今もダイタクヤマトはレースに付いていけていないわけじゃない。
しかしその彼女が勝つにはやはり
強豪相手にそれをするには、ただ良いスタートを決めるだけじゃ駄目だったんだ。
スタート直後にさらに集中力を高めて抜け出す。そこまでしなければ先頭を奪うことはできない。
(序盤からハイペースになる短距離レースでの“逃げ”……そこで抜け出す本当の難しさをわかっていなかった)
後悔が頭をよぎる。
自分の見込みの甘さに、ダイタクヤマトを付き合わせてしまったことに対して申し訳なささえ感じていた。
思わず噛みしめた歯がギリッと鳴った。
“逃げ”を唯一絶対の武器にしているダイタクヤマトは戦う
そうさせてしまったのは、オレの完全なミスだ。
(こんなこと、二度とさせないと誓ったはずなのに……)
無謀な出走は絶対にさせない。
それがオレが過去に犯した致命的なミスから得た教訓であり、その犠牲になってしまった彼女のためにも繰り返すことは絶対にしないと誓ったはずのことだった。
だから世間から“
少なくともオレの中ではそうだった。
有馬記念後のダイユウサクだって不調は知っていたが、原因不明のそれさえなければ、あの時の輝きが戻れば勝てると信じていたからこそ送り出していたんだ。
(クソッ……オレ自身が《
何度も“奇跡の勝ち”を体験したせいで、自分で気付かない内に驕り高ぶっていたんだ。
勝利を貪欲に狙い入念に準備して挑み、それでも掴めないのがGⅠ勝利という栄光だというのに。
オラシオンが居なくなってから結果を出せなくなったのも、彼女自身の強さで勝てているのを勘違いしたオレの
「でもトレーナー、ヤマちゃんは前の方で頑張ってる。まだ諦めていないよ」
──そんなオレの後悔をよそに、レースは進んでいく。
短距離レースは距離はもちろん短い時間での勝負でもある。
ゆえに展開も早い。
コーナーを過ぎればあとは最後の直線を残すのみだった。
そんな終盤でも、ダイタクヤマトは位置を下げることなく前の方で走っていた。
(この背中から、離れるわけにはッ!!)
前にいるウマ娘こそ1200の
この距離においてもっとも信頼できる指針が目の前にある以上、それを追いかけない理由がない。
そして引き離されてしまえば、待っているのは敗北。
(彼女の前に出なければ勝ちはないのですから!)
短距離レースで、ゴール直前に彼女の足が極端に鈍るとは思えません。
もしもそうなったら、同じペースで走っている自分もそうなってしまう可能性が高い。
「だからッ! なんとしてもッ!! 食らいついていくッ!!」
彼女の背後に位置したのは、なにもペースの目標にするだけじゃない。
真後ろに付くことで風除けにして自分の負担を減らす。そうして最後に抜く余力を残す──
『──スリップストリームって呼ばれてる。車のレースからヒトのマラソンまで幅広く昔っから使われてる古典的な手だけど、それだけ有効ってワケよ』
トレーニングの最中にそれをロンマンガン先輩から教わりました。
手法として知っていたものの前走者に近づかなければ意味はなく、そのために接触の危険性があること、それを意識して前走者が使ってくるフェイント等の揺さぶりも教えてくれました。
でも──
(揺さぶりは、無い)
細かい加減速や左右の進路等で後続に負担をかけることができますが、もちろんそれをやれば自分自身の足が鈍るのです。
するまでもないと歯牙にもかけられていないのか、それともそれをする余裕がないのか……
(それを私は後者と思い込む!)
そうでなければ私の心が負けかねません。
隙あらば仕掛ける──そう思っていた私でしたが、その横を一人のウマ娘が下がっていくのが見えました。
それは──
「ダーリング殿……ッ」
今まで先頭を切っていたメジロダーリングが、一杯一杯になってペースを落とした姿でした。
下がってきた彼女がチラッとこちらを見て、一瞬だけ目が合いました
(もしも私が前に出られていたら──)
ダーリング殿と先頭を争っていたら、違っていたレース展開になっていたかもしれないという考えが頭をよぎります。
そうすればダーリング殿は後ろにいたアグネスワールドが加える
──などと考えたのを、まるで読まれたかのようでした。
「なッ!?」
前にいたアグネスワールドが、隙をつくように加速したのです。
それは完全に油断でした。
私の意識が離れたのをまるで見ていたかのようなタイミングで──彼女がフッと不敵な笑みを浮かべたようにさえ思えました。
そして、次の瞬間……まるで堰をきったかのように、疲労感が一気に襲いかかってきたのです。
(こんな……スタミナが、切れたというのですか!?)
いえ、切れてしまったのはスタミナではなく私の心
グンと離れたアグネスワールドさんの背中に「追いつけない」と思い知らされてしまったのです。
(ここ、まで……)
心が折れ、沈んでいく私の闘志──
(…………沈む?)
ふと、その単語が引っかかる。
そうだ……沈むわけにはいかないんです。
簡単に、沈むわけには──私は、そうトレーナー殿と約束したのです。
(揺らぐことなく、目標に向かって突き進む戦艦の心を持つ──)
だからこそ心を沈ませるわけには……いきませんッ!!
歯を食いしばり、顔を上げる。
遠ざかっていくアグネスワールドの背中。
それでも私は、負けない。
気持ちで負けるわけにはいかないんですッ!!
どうにか食らいついて行こうと死力を振りしぼろうとする。
(重い……)
上がらない脚。
それでも私は上げて、その脚で地を蹴る。
前へ。
ひたすらに前へ。
息が切れ、顎が上がろうとするのをどうにか抑える。
それでも──そうしている間にも、その背中は遠ざかろうとする。
そして背後からは多くの足音が迫る。
(イヤだ! 沈みたくありません!!)
私の意識は前よりも後ろへと向いてしまう。
迫る足音たち。
それにどうにか抗おうとした、その瞬間──
「ッ!?」
──私の横を“緑”の風が駆け抜けていったのでした。
◆解説◆
【絶体絶命!! 地獄の
・今回の元ネタは『宇宙戦艦ヤマト』の第12話、「絶体絶命!! オリオンの願い星、地獄星」から。
・ダイタクヤマトの話もそろそろ佳境に入り、絶体絶命な状況も残り少ないと思って採用。
・そういえば第三章は30話くらいで終わらせたいという計画を立てていたような気がしますが、今回こそ本当にそれくらいになりそうです。
【キングヘイロー】
・言わずと知れた公式ウマ娘。
・初期実装組の一人であり、最初はその育成が目標レースの距離が多岐にわたるせいで初心者には難しいと言われていました。
・というかここでわざわざ解説する必要が無いほどに有名ですが……モデルは1995年4月28日生まれの鹿毛の牡馬。
・両親が世界的名馬で関係者の期待を一身に受け、重賞でもいい成績を残すもののGⅠ制覇をなかなかできませんでした。
・そして最強世代と言われた同期たちが引退する中、高松宮記念に挑みます。
・今回のモデルになっている2000年の高松宮記念の前走はダートGⅠのフェブラリーステークスにまで出走しています。そこまでしてGⅠを取らせたいという関係者の熱意を感じます。
・なおそのレースは初のダートで、砂を被るのを嫌がって動かずに残念な結果に……
・引退後は種牡馬としても優秀な産駒を輩出し、中でも有名なのは公式ウマ娘にもなっているカワカミプリンセスですね。
・ところで作中に公式ウマ娘の名前とか姿が登場したのはこの章でもありましたが、対戦するレースシーンで登場するのは久しぶりですね。
・本編ではレッツゴーターキンの阪神大賞典でメジロパーマーやナイスネイチャと走った以来ですかね?
・もちろんその後の間章ではギャロップダイナがシンボリルドルフと走ってますけど。