──あのレースの直後から、オレは謝罪に追われていた。
まさかあんなことになるなんて、という思いで一杯だった。
確かに、彼女の実力不足は分かっていた。
だからこそ、一度レースで負けを経験させ、自分の実力を理解させた上で奮起させようと思った。
が──彼女は、「そんな小さなレースでデビューなんてイヤ」と言った。
そして言った。
「クラシックのトライアルなら……未勝利でも出られるでも出られるわよね?」
その通りだった。
当時のルール上、それが認められてしまう。ジュニアとクラシックに限って言えば、トライアルレースには出走できてしまうのだ。
たとえ未勝利どころか未出走だろうと、だ。
それに気が付いた彼女に言われ──オレは、躊躇った。
(出せるはずがない。普通のメイクデビュー戦や未勝利戦でも勝てそうにないから、今までデビューさせてなかったんだぞ。それをいきなり重賞だなんて……)
反対しようとした。さすがに無理だ、と。
だが……
「それができないなら、
愕然とした。
最初の担当したウマ娘が、勝利どころかデビューさせることさえできずに終わる?
そんなこと──耐えられなかった。
(第二の“彼女”を……国民的アイドルウマ娘を再び誕生させるんだ! そのためには……)
オレは、弥生賞への出走を登録した。
だが、その後は普通の精神状態ではいられなかった。
彼女が重賞で通じないことなんて分かり切っている。
でも──マスコミやファンは「重賞に未勝利ウマ娘が出走してる」「遅れてきた大物か!?」「初勝利が重賞制覇になるかも……」「いやいや、2着で出走権得て、未勝利で皐月賞制覇だろ」等々、さまざまに言っていたが、その言葉がオレの心を深く抉る。
(そんなこと、できるはずがない)
それを一番分かっているのが、オレ自身だったからだ。
そして結果は案の定──ぶっちぎりの最下位。
スタートしてからあっという間において行かれ、文字通りのレベルの差を見せつけた。
トップから22秒9遅れ──
その走る姿は観客を唖然とさせ、失笑を生み──暖かい拍手の中、彼女はゴールしたのだった。
だが、オレはその姿にどこかホッとした。
ゴール前に悩んでいた重荷が、結果はどうあれなくなったのだから。
──もちろんその後は大変だった。
実力の劣るウマ娘を出走させたことで、URAの諮問委員会から呼び出されるほどだった。
それを庇ってくれたのは──“先生”だった。
「ルール上、問題は無いはずでは?」
クラシックのトライアルには出走できることになっている。
問題があるとするなら、それは出走できてしまうルールの方だ。
そう言って、オレの師はオレを庇ってくれたんだ。
諮問委員会も、それを突かれては反論できず──オレは、お咎め無しになった。
ただし……庇ってくれた“先生”は、引退した。
あの人なりのケジメの付け方だったんだろう。
そのせいで、東条先輩にも迷惑をかけてしまった。
それら──いや、それ以上のゴタゴタがどうにか落ち着くのに多大な時間と労力を要した。
そうして……あのレースから数日後。
オレは、気を取り直して、アイツのトレーニングを再開しようとした。
彼女は自分の実力を知ったはず。
他のレベルの高さ──しかも最高峰のレベルを知ったはず。
鼻っ柱を叩き折られた今の彼女なら、オレの指導にも従ってくれるはずだ。
──そう思っていたのだが、
「……あの
「え?」
いつまで経ってもやってこないことに業を煮やしたオレが、学園の彼女の教室へと向かい、そこにいたウマ娘に「どこにいったか、知らないか?」と訊いたところ、そんな答えが返ってきた。
しかし……それだけじゃあなかった。
オレがその言葉に驚いていると、そのウマ娘は怪訝そうにオレを見て──
「あの、ひょっとして……アンタ、パーシィのトレーナー?」
「え? ああ、はい。そうですけど……」
オレがそう答えるや、放課後になっても未だに残っていたウマ娘達のまとう空気が、一変した。
まるで、睨みつけるように見てくるウマ娘がいた。
対照的に、怯えるような目を向けてくるウマ娘もいた。
ゴミを見るように、軽蔑した目を向けてくるウマ娘が一番多かった。
いったいなにが起こったのか──オレにはまったく理解できなかった。
戸惑うオレに向かって、一人の──オレを睨みつけていたウマ娘が近づいてくる。
「オイ、
そう言いながら放たれた、全力の前蹴りを腹に食らってオレは教室外へと吹っ飛ばされ、廊下の壁へと激突する。
叩きつけられ、背中を
「な、なにを……」
「お前がパーシィにやったこと、全部聞いてんだからな? ただで帰れると思ってんじゃねえぞ!!」
さらに浴びせられる強烈な蹴り。
身を守ろうと出した腕に痛みが走る。
反論することも、詳しい事情を訊く余力さえも許されず、さらに蹴りを入れられる。
──騒ぎを聞きつけた、理事長秘書が駆けつけてくるまで、オレはサンドバックのようにされていた。
「──アイツは、逃げたんや」
タマモクロスは吐き捨てるようにそう言ったわ。
普段は面倒見がよく気っ風のいい先輩なだけに、嫌悪感を丸出しにして言うその姿は本当に珍しかった。
「あのレースの三日後には、アイツは引退届を出しとった」
「え……?」
さすがに呆気にとられる。
えぇ……? やめたの? そんな反則じみたことをしたくせに。
ホント、いったいなにが目的だったのよ。
「それだけやない。あのアホ、去り際に乾井トレーナーの悪口、有ること無いこと言いふらして、それでいなくなったんや!! あのレースに出たのはトレーナーに強要されたってな。さらには、あのトレーナーに乱暴された、なんてことまで──」
「なッ……」
タマモクロスの言葉にアタシは絶句する。
「そ、そんなわけないわよ! だって、福島のとき……」
アタシと初めて会って、助けてくれた日……あの人は宿泊費が一部屋分しかないからって、高速道路にも乗れないバイクで福島から府中へ帰ったのよ? それも一晩中かけて。
そのことを話すと、タマモクロスは──
「もちろんわかっとる。全部、あの女の狂言や。我が身可愛さでトレーナーを悪者に仕立てたんや。おかげで彼は……」
未出走のウマ娘を重賞に出走させたことは、どうにか決着が付いた。
担当のトレーナーが新人であり経験浅く未熟であることや、ルールが未整備であった負い目もあって、厳重注意という処分で済んでいた。
だが──こうなってくると、話は違う。
再び、責任を問われることになった乾井トレーナー。
「けど、決定的な証拠はない。そもそも本当にあったのかを裏付けるようなものもなかったんや。おまけに同僚のトレーナー達も、そないなことするわけないって庇って──特にあの、東条トレーナーが、な」
それで思い出す。
そういえば、あの諮問委員会のとき──《カストル》のトレーナーにアタシとトレーナーの関係を邪推してきて、前にも教え子に手を出したような話をしてたけど、このことだったんだ。
《リギル》の東条トレーナーが、相手を引かせるほどに猛抗議してたし。
「結局、自称被害者のあのウマ娘も、話を聞こうにも雲隠れしてもうてどこにいったんだかサッパリ分からん。その結果、この件に関してはウヤムヤになった」
そのことにホッとするアタシ。
だけど……
「しかしそれも、却って乾井トレーナーには良くなかったんや」
「疑惑は晴れたんでしょ? 良くないわけ……」
「晴れとらんわ。言ったやろ、ウヤムヤになったって。話したヤツが出てきて『スマン、ウソやったわ』って言ったんならともかく、そんな結末やから白か黒かも分からんグレーになってしもうたんや」
「あ、そうか。疑惑が晴れたワケじゃないから……」
「せや。当時は、アイツの話を鵜呑みにしたウマ娘達も多くてな。中には怒りにまかせてボコボコにしてもうたヤツもおったらしい」
「そんな……」
「どうにか理事長秘書が助けたらしいけど……」
んん?
ひょっとして、トレーナーがたづなさんをやたら気にしているのって、まさかそれがきっかけなの?
「まぁ、そんな経緯で、ウマ娘の間であのトレーナーは“教え子に手を出して、無理矢理に無謀なレースに出走させて学園から追い出した”って、後ろ指さされることになったんや」
「ッ……」
アタシの脳裏に、今まで彼と会ってからの光景がフラッシュバックした。
ウマ娘の誰からもトレーニングの勧誘を断られ、担当がいなかったのは、それが原因だったんだ。
事情をよく知らない
原因のウマ娘がいなくなった後、アタシ達以降の世代からも残っていたウワサのせいでよく思われてなくて……
「おかげであのトレーナー、一時期は精神的に参ってしもうてな。しばらく休んだんやけど、それが『休んでいるのは謹慎しているせい』『やっぱりウワサは本当なんだ』って……もう、なにをやってもそれに結びつけられてまう始末や」
学園サイドからすると、もはやお手上げだったみたい。
結論として「ここ、中央トレセン学園にいる間もはやどうしようもない。ここは地方のトレセン学園に移籍して、噂とは無縁の場所でなら再起も可能だろう」と判断したらしいわ。
やがて地方からの要望があり、それに応じようとしたら──
(それでアタシのところに、きたってワケね……)
アタシと出会うまでの彼の話を聞かされて──少し離れた場所でそのウマ娘と話をしている様子の彼を陰から見る。
そんな彼に、あのウマ娘は今更なにをしにきたっていうのよ。
「パーシング……」
オレは、そのウマ娘を呆然と見つめることしかできなかった。
相変わらず長い栗毛に、縦に入った白斑が美しい。
学園を、
そんな彼女はジッとオレを見つめ──
「随分と他人行儀な呼び方ね。昔みたいに、パーシィでいいのに」
そう言って蠱惑的な笑みを浮かべてウィンクをしてきた。
あざとい。
だが──それがきわめて普通に、そして違和感なく自然にできてしまう。それがパーシングというウマ娘だった。
「……パーシング。なんで今さら、トレセン学園に来たんだ」
だからこそ、オレは昔の呼び方では呼ばず、“パーシング”という呼び方にこだわる。
もしもう一度、彼女をそう呼んでしまったら、同じ過ちを再び繰り返す──そんな根拠のない警戒心が働いたからだ。
「今、言わなかったかしら? あなたに会いに来たのよ」
「……それこそ“今さら”だ。あの日、なにも言わずに勝手にいなくなったのはお前の方だろう」
「そうね。そのことに関しては、あなたには謝りたいと思っていたわ。それが今日、ここにきた理由の一つでもあるし──」
パーシングは、スッと一歩前に踏み出してきた。
それに対してオレは──思わず半歩、後ずさる。
(くッ……)
そこでどうにか踏みとどまる。
とにかくオレは、このウマ娘が苦手だった。
ドン底に落としてくれた相手なんだから当然だ。
だが──かといって怒りをぶつけられる相手でもないのだ。
負い目があるために……
「あのときはごめんなさい。あんな騒ぎになって、もう学園にはいられないと思ったから……相談も無しに、あなたには悪いとは思ったけど……でも、引退するしかなかったのよ。さすがに──」
さらに彼女はオレの方へと歩みを進める。
足が後ろへと動きかけるのを、どうにか制する。
「──ッ なら、なんであんなことをしてくれたんだ。オレに……乱暴されただなんて」
「それもごめんなさい……あのときの私、精神的に追いつめられていたのね。だからクラスメートにやめる理由を問いつめられて、軽いパニックになってしまったみたいなの。気がついたらその場を取り繕うために、つい……」
心底申し訳なさそうに言って、頭を下げるパーシング。
一方で、オレの腹の中は「つい、だと……」と、煮えくり返った。
その狂言のせいで、オレがどれだけ苦労する羽目になったか……
「でも、トレーナーも悪いのよ」
「え……?」
「私を──あんな勝ち目のない重賞に出走させたんだから」
一瞬まで申し訳なさそうにしていた彼女の目は、すでにオレを責めるような目で見ていた。
その視線がオレの胸に刺さり──ジクジクと痛み出す。
「それは……」
「あなたにはあの結果がわかっていた。違う?」
さらにズイッと距離を詰めたパーシングの目が、じっとオレの目を見つめていた。
いつの間にか笑みは完全に消えている。
その瞳は、完全にオレに罪を追求し、そして断罪する鋭いものへとなっていたのだ。
それに対してオレは──
「………………」
──なにも言い返せなかった。
その通りだったからだ。
彼女の実力を知り、そして重賞である弥生賞のレベルを知っていたオレには、あの結果が予見できていた。
オレの目は、彼女の目に圧されて雄弁に自白し──役目を果たした彼女の瞳はその圧を弱める。
そして──
「私とトレーナー契約結ぶときに『一緒に重賞を制しよう』って約束したのに……私とはできなかったその約束を、別のオンナと果たしたってワケ?」
「なッ!?」
「知らないとでも思った? あなたもしっかり、表彰式に映っていたじゃない」
オレが驚愕していると、彼女はニンマリと笑みを浮かべ、オレへ顔を寄せる。
「き・ん・ぱ・い、よ……おめでとう、重賞制覇」
「く……」
背筋に冷たいものが流れる。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、オレは動けず、言葉の一つも返せなかった。
「あのウマ娘……なんて言ったかしらね。ダイなんとか……ちょっとイモっぽいけど、才能あるんでしょうねぇ。なにしろ重賞で競って、勝てるくらいなんだからぁ」
自虐的な乾いた笑みを浮かべる彼女。
そして一転し、再度オレに顔を寄せる。
「あんなタイムオーバーした、私と違って、ね……」
今まででもっともオレの顔に近づいた彼女の鋭い目は──まるで喉元にナイフを突きつけられているようだった。
なにも言い返せない。
いったい、なにを言えばいいのか……オレが迷っていたそのとき──
「ふざけんじゃあないわよッ!!」
突然、横から響きわたった大声に、オレとパーシングは呆気にとられながらそちらを見た。
そこには──
「ちょ、待ちいや、タユウ……」
踏み出ていかんとする隣のウマ娘を必死に止めようとしている、長髪葦毛のウマ娘と──
「黙って聞いてれば、随分好き勝手なことを言ってくれるじゃないの!!」
それを引きずるように茂みから飛び出してきた、憤然としている長髪鹿毛のウマ娘がいた。
その飛び出してきた方こそ──
「だ、ダイユウサク……」
オレが指導するウマ娘だった。
「ふざけんじゃあないわよッ!!」
タマモクロスと一緒に隠れて、トレーナーと彼の旧教え子を見ていたアタシだったけど、我慢の限界を迎えてそこを飛び出したわ。
そうしてズカズカと歩み寄りながら、大声で言う。
「黙って聞いてれば、随分好き勝手なことを言ってくれるじゃないの!!」
タマモクロスがアタシの肩をつかんで、必死に止めようとしてるけど、関係ないわ。
もう完全に頭に来たんだから。
「……誰?」
訝しむような視線を無遠慮に向けてきたその
「さっきアンタが自分で言ったでしょ! 金杯を制覇した、“ダイなんとか”さんよ!!」
まったく、表彰式を見たんじゃないの?
そこで表彰されたアタシを見忘れてるなんて、あまりにもふざけた話!
だ・れ・が、表彰式の主役だったと思ってるのよ!?
「ああ、あのときの……」
アタシの剣幕でやっと思い出したのか、「なるほどね」なんて言いながら笑みを見せる。
か~、イラッとするわね。その“余裕あります”と言わんばかりの態度。本当に頭にくるわ。
「なんなの、アンタ! 学園にわざわざ入ってきて……トレーナーに皮肉を言うだけのために、こんなところまで来たの?」
「この人に文句? そんなこと無いわ。お世話になったお礼を言いにきただけよ。それと──」
そのウマ娘は、余裕を見せながらアタシにスッと顔を寄せてきた。
「OGとして、後輩への忠告……かしら?」
「なによ?」
「あなた……この人を随分と信頼しているみたいだけど、そのうち痛い目を見るわよ。私みたいに」
「アンタみたいに?」
「ええ。勝ち目のないレースに出させられて無茶やらされて……そうして、ポイって捨てられるの」
そう言うとさも楽しげに「ウフフフ……」と笑みを浮かべる。
……いったい、なにが面白いってのよ、ホントに。
アタシが不快そうに眉を寄せると、彼女はおもちゃを見つけた子供みたいに歓喜の表情を浮かべたわ。
「私と違って、才能溢れるウマ娘なんだから大事になさいよ。この人につぶされないように──」
「才能あふれる? アタシが? ──ッ」
思わず吹き出しそうになっちゃったわよ。
そうして嘲りの視線を向けてあげると──彼女は訝しがるようにこっちを見てきた。
へぇ、やっぱり……この
「アタシなんかが才能あふれるわけないでしょ。自分の才能のなさに何回嘆いたか、わからないわよ」
アタシの周りにはそれこそ才能あふれるウマ娘ばかりだったもの。
オグリキャップ、メジロアルダン、スーパークリーク、サクラチヨノオー、それにコスモドリーム……みんな、重賞で活躍していたもの。
そんな彼女たちに比べたら、アタシなんて──悲しくなってくるわよ。
アタシが同世代のウマ娘達に思いを馳せていると、目の前の彼女──たしか、パーシングとか言ったっけ──は余裕たっぷりという仮面をかなぐり捨てて、怒りの表情を露わにする。
「才能がないですって? 重賞を制したあんたには分かるわけがないわ。22秒ものタイムオーバーをさせられた私の屈辱が……」
「分かるわよ!!」
アタシはキッパリと言ってやった。
「アンタはその屈辱には向かい合わず、ただ逃げただけじゃない! そんなヤツが、偉そうに語るな!!」
「なッ……」
アタシに言われ、図星をつかれたのか一瞬だけ狼狽した様子を見せた彼女。
直後、睨みつけてきて勢いよく口を開く。
「あんたになにが分かるって言うのよ! あんたみたいな、順風満帆の道を進んでるウマ娘に、私の気持ちなんてわかるわけ──」
「順風満帆? どこがよ!?」
これにはさすがにアタシもカチンと来た。
彼女、他人をいらだたせる才能だけは、ウマ娘の中でもトップクラスなんじゃないの?
頭にきていたアタシは、怒鳴るように言った。
「アタシのデビュー戦は、13秒のタイムオーバーよ!!」
「え……」
「オマケに、次は7秒のタイムオーバー! 足せば20秒で、アンタのとそう変わらないわよ!!」
まったく……なんでアタシが自分の恥をこんなところでさらさないといけないのよ!
あ~、まったくホントに、ハラが立つ!!
「そんな……あなたが? 本当に?」
「こんなウソをつくメリットがアタシにあると思ってる? アタシのことをちょっと調べればすぐに分かるわよ、こんなこと」
唖然としている彼女をにらみつつ、言ってやったわ。
でも、そんな失敗自慢が目的じゃないのよ!
「才能がないと言い訳をして、自分の実力とは向き合わずにそうやって逃げた……アタシだって逃げたかったわよ。あのときは心が弱ってたし、あのままだったらそのまま辞めてたわ。だからアンタの気持ちがわからない訳じゃないわ。でも……」
アタシは、彼女の傍にいた、一人の男性を見る。
「その人に……トレーナーに勧誘されたのよ。トレーナーをやらせてくれって。アタシに才能があったかどうかなんて、正直わからないわ。でも間違いないのはこんなアタシをここまで育ててくれたトレーナーの腕と、アタシのトレーナーに自らなったこの人の目が優れていたってことよ」
視線をパーシングってウマ娘に戻す。
「アンタは、そのトレーナーに見いだしてもらって、そのトレーニングを受けていたんでしょう? 彼を信じられなくて逃げ出したってことじゃないの! そんなアンタが彼を責める権利なんてないわよ!!」
言い放ち、アタシは彼女をビシッと指さす。
「それだけじゃない。自分だけが夢をあきらめるのが、トレーナーが残るのが面白くなったから、妙な噂流して居場所を奪って──本当に最低だわ」
「ち、違……」
アタシの指摘に動揺するパーシング。
当てずっぽうだったけど、図星だったみたいね。
「……いいわ。宣言してあげる。今年中に、GⅠとってやろうじゃないの!」
「「「──はい?」」」
驚くパーシング。ふん、間の抜けた顔で唖然としているわ。
その表情でモヤモヤしていたアタシの心が、少しだけスッとする。
……その横でトレーナーが同じような顔をして、それにアタシの後ろからも声が聞こえてきたような気もしたけど。
「GⅠレースで優勝してあげるって言ってるの!! それでその人の目が、正しかったことを証明してあげるわ! そうすれば、途中であきらめて逃げた、それに優秀なトレーナーを巻き込もうとした愚かさが少しは理解できるでしょう!?」
アタシがビシッと言ってやったら、彼女は戸惑うように言ってきたわ。
「へ、へぇ……でも、いいの? そんな宣言して。できなければ恥をかくだけよ」
「いらない心配よ。アタシがGⅠを勝てばいいんだから。そのときには……アンタには土下座してトレーナーに謝ってもらうわ! 愚かだったワタシを許してください、ってね」
負け惜しみのように言う彼女に、アタシは胸を張り、見下ろすように言ってやる。
途端、彼女の表情が歪む。
「ふ~ん、そこまで言って……もしもできなかったら、どうするつもり?」
「ええ。なんでもやってやろうじゃないの。アンタが望むこと、なんだろうとね」
「へぇ……じゃあ、できなかったら年末で引退して……」
アタシにスッと近づき、耳元で囁くように言った。
「……そのままセクシー女優にでも転身してもらいましょうか」
「へ……?」
せくしーじょゆう?
なによ、それ。
アタシがピンと来てない様子を見て、パーシングはクスクスと悪戯っぽい笑みを浮かべ、アタシの耳元でそれを説明した。
──は?
「ななななななな──ッ」
な、なによそれ!!
ボンッと顔が熱くなるのが分かるわ。顔も真っ赤になってるでしょうね。
思わず、この場で唯一の異性であるトレーナーをチラッと見てしまうけど──話が聞こえてなかったらしく、アタシと彼女を不思議そうな、そして不安そうな顔で見ている。
「もちろんその売り上げはわたしが全部もらう、と。可哀想だから生活費くらいは残してあげるわ」
「じょ、冗談じゃないわ。こんな話──達成できなければ、その……セクシー女優……になれ、だなんて!」
「「ええっ!?」」
話を聞いてさすがに愕然とするトレーナーとタマモクロス。
「あら、逃げるの? いいわよ。自信がないのなら、それを
今度は彼女が挑発的な笑みを浮かべてこっちを睥睨してきた。
は? 逃げる?
なんでアタシが下手にならないといけないのよ!
アタシは──絶対に、間違ってない!!
「そんなわけないでしょ!! いいわ、その条件で受けてやるわよ!」
だからアタシは、キッパリと言ってやったわ。
即座に、他の二人が声をあげる。
「バカ! お前──」
「タユウ!? アホなこと言うな!!」
「部外者は黙ってて!! こんなの、アタシがGⅠ勝てばいいだけよ! それに……」
そう言ってアタシは勝ち気な笑みを浮かべ──トレーナーを見た。
「アンタなら──取らせてくれるんでしょ?」
「お前……」
自分自信の力を信用しているわけじゃない。
アタシが信用しているこの人が、信用しているアタシの力を信用する。
いつか言われたその言葉を思い出して、彼を見つめる。
──そのとき、「ギリッ」と歯同士が擦り合わされるような音がした。
音がした方へと振り向きかけると──パーシングというウマ娘の声が響く。
「じゃあ、その条件で決まりね」
うつむき加減だった彼女は、
「約束、忘れないようにね。いい感じで、そこに証人もいたことだし──天皇賞を初めて春秋制覇したウマ娘なら、公平さも間違いないでしょうし」
「って、ウチか!? そんなわけのわからんことに巻き込むな!! 証人になんてならへんで!!」
さすがに抗議するタマモクロス。
しかし、パーシングはそれを無視して去っていく。
「あなたのGⅠ制覇、楽しみに待っているけど……なるべく早い方がいいんじゃないかしら? 年末になって、まるで夏休みの宿題が終わっていない学生みたいに慌てる、なんてことにならないようにね」
アタシ達に背を向けると、彼女はそう言い残して立ち去った。
その背中が、建物の影に消え──アタシは大きく息を吐いた。
「はぁ……」
ホントに、頭に来た。
その怒りで煮えくり返った頭の中が、急速に冷めていく。
そして──
「タユウ……アンタ、アホやな。それも超ド級の、ド阿呆や!」
「なんてことを……」
アウトかセーフかで言えば、間違いなくアウトな約束に、見ればタマモクロスは呆れた様子でジト目を向け、トレーナーは大きくため息をついてる。
え? あんなの、感情にまかせた、その場限りの口約束でしょ?
内容だってあんな冗談じみた──
「どっからどう見てもマジだったで?」
「今さら誤魔化すのは難しいだろ。あれだけ威勢よく啖呵切って……」
──暗い表情になる二人を見て、アタシはようやく突きつけられた現実を思い知らされる。
「えっと……ど、どどどどうしよう?」
「ま、とりあえず足の爪が生えんと、どうしようもないんとちゃうか?」
愕然とするアタシに対して、タマモクロスは投げやりな調子で苦笑気味に笑う。
GⅠをいくつも制した彼女には、その目標達成が言うほどやさしいものではないのが分かってるんでしょうし。
「ま、こんなところでの与太話や。いざとなったら『スマン』って頭下げれば済む話やろ」
「う……」
たしかにそうかもしれないけど……
口ごもるアタシを、トレーナーが優しげな目で見てきた。
「でも、謝りたくないんだろ?」
「当然よ!!」
反射的に口をついて出た言葉に彼は、嬉しそうに笑みを浮かべ──
「ああ、そう言うと思っていた。春は絶望的だが……秋のGⅠ、絶対に取りに行くぞ」
「…………ありがと」
──こうしてアタシは、GⅠ制覇を目指すことになった。
アイツに、トレーナーに土下座して謝らせるために。
──そんなアタシ達を見つめている人影がいたなんて、テンパったアタシに気がつけるはずもなかった。
「クロ! こんなところにいたんだ……」
私は後ろから声をかけられて振り返りました。
そこには──
「
小さい頃の愛称で私を呼んだ彼は、私を見つけてホッとしたようでした。
「いつもの場所──三女神の像のところにいると思っていたからね。ちょっとだけ探したよ。なにかあったんじゃないかって」
「すみません。心配かけてしまって……」
「謝らないでよ。現にこうして簡単に見つけたわけだし、問題無し。うん……」
思わず頭を下げると、彼は苦笑しました。
本当に、純朴で昔のままといった雰囲気の彼。
「でも、どうしてこんなところに?」
周囲を見渡す彼につられて見てみると、周囲には植えられた木くらいしかなくて
……確かに疑問に思うのも無理はありません。
「ちょっと人が争っている声がしたものですから……」
「えッ!?」
彼は再び周囲を見渡します。先ほどよりも少し鋭い視線を向けて──
「あの、大丈夫です。もう話はついてお互いに去ってしまいましたから」
「なんだ。そうだったんだ……」
ホッとする彼。
私のことを心配してくれる彼に──その言い争いを見ている間に思ったことを伝えようと思いました。
「ねぇ、渡海くん……例のチームの件なんだけど、私、入りたいところが見つかったんだけど……」
「それって《リギル》かい?」
私はハッキリと首を横に振りました。
それで彼は少しだけ驚いて、困惑しているようにも見えました。
私の入りたいチーム、それは──
◆解説◆
【乾井
・元ネタは『涼宮ハルヒの憂鬱』から。
・乾井トレーナーの下の名前は
・そんなわけで名前の元ネタは『オーバーマン・キングゲイナー』のもう一人の主人公、「ゲイン・ビジョウ」から。
・その異名である「黒いサザンクロス」が由縁。トレーナーに「黒い」噂があるのと、一等星アクルックスは「
・……え? 名前が最初と違う? 気のせい気のせい。修正済みだし。
・前は「よしたけ」だったんですが、言葉の響きで「ま」で始まる名前の方が好みだったので「まさたけ」に変わりました。
【トライアルなら……未勝利でも出られる】
・もちろん、通常の重賞は未勝利では出走できません。
・しかし、2歳(現在での数え方)重賞と春クラシックのトライアル競走には未勝利馬でも出走できるという規定があります。
・あの事件が起こったのは、そもそもこの規定があったせいなわけで……
・でもシンデレラグレイとか見ていると、地方から中央に移籍した競走馬が中央で未勝利やら未出走扱いでトライアルレースに出られなくなるでしょうし、挑戦できる条件を厳しくしすぎて門を狭めすぎると、クラシックレース等が盛り上がらなくなってしまうというのがあるのでしょうね。
・なお。さすがに出走馬がフルゲートを超えれば、当然に除外されます。
・しかし──ヘヴィータンク事件の時の弥生賞の出走は10頭。出走できてしまいました。
【暖かい拍手の中、彼女はゴール】
・さすがに、これは……近所の運動会じゃないんだから、可哀想だわ。
・確かに自分から言い出したから自業自得とはいえ、こんな事態を招いたのはトレーナーも悪いな、と思ってしまいます。
・これで彼女のプライドは、完全に砕け散りました。
・それで後の行動の動機になった……のかもしれませんね。
・ちなみにモデルになったヘヴィータンク事件の際も、ゴールした際には温かい拍手が起こったそうな。
【ボコボコにしてもうたヤツ】
・回想シーンにあったところですね。
・さすがにやりすぎ、とは思いますが……
・でもそのウマ娘にしてみれば、「トレーナーから、性的な乱暴を受けた上に勝ち目のないレースに出走させ、退学に追い込まれた」という話を完全に信じ込んでいるわけで
・そんな悪徳トレーナーが目の前にノコノコとやってきたんですから、そうなるのも無理はないかと……
・正直、その後もよくトレーナーやっていられるなぁ、と思います。
・まぁ、助けたのもたづなさんだったので、そこでフォローがあった、ということで。
・この件で、トレーナーの今までの行動が二つ理由づけられています。
・一つはもちろん、彼の理想がたづなさんであること。ウマ娘のハイセイコーにあこがれていたはずの彼の理想がたづなさんなのは、ボコられたところを物理的に助けられたのと、その後にメンタルも助けてもらったため。
・もう一つはことあるごとに、ダイユウサクに「オレの理想はたづなさんだ」と言い続けていたこと。
・これはパーシングの時の失敗から学び、「オレはお前のことを女性として見ていない」とアピールし続けているためです。
【アンタのとそう変わらない】
・実はこのシーン、書いた人の勘違いが含まれていたシーンでした。
・元ネタのレースでは「20秒差」と思い込んでいて「ああ、足したら一緒になるじゃん!」と思い込んでネタにしたのですが……
・よく調べてみたら、20秒差なのは先着の9位との差。すでに本文中にもあったように、トップとは22.9秒差でした。
・しかし……パーシングもやたらと「22秒のタイムオーバー」をアピールしてるけど、どっちかと言えば“約23秒”だよなぁ。
・近い0.1秒の方じゃなくて、0.9秒も切り捨てて主張してるのは……一応、プライドなんでしょうね。
【セクシー女優】
・え? これだけで18禁になるとか、無いですよね?
・そうならないように、精一杯オブラートに包んだ結果のこの単語ですから。
・元は、某二世タレントがそっち方面への転身するという騒動の際に、テレビのワイドショー等で、昼間のお茶の間にどうにか流せるよう、どうにか誤魔化した表現として使っていたのを聞いたのが最初のような気もしますが……
・もちろんこんな条件は、パーシングは本気ではありませんでした。ここまで言えばビビッて困るだろう、引き下がるだろう、という思惑だったのです。
※第一章第5部──掴め! 栄光の重賞制覇編──は、これにて終了。
・重賞制覇は少し前に終わっていたんですが……その後のGⅠ制覇への動機づけが終わっていなかったので、ここまで伸びました。
・忘れていたわけじゃなくて、切り辛かったんですよね。「ここ」ってポイントが無くて。
・オグリの引退有有馬だと、重賞制覇前だし、金杯直後だとその後が中途半端にあくので。
・さて、次の第6部は……いよいよラストです。
・あのレースに向かって、突き進んでいくダイユウサク。そして共に出走し、競ったライバルたちも続々と年末に向けて進んでいきます。