もう明け方に近い時間──
12月前とはいえ、この時期になれば夜から朝にかけては冷え込む。
そのため吐く息は白く──疲れた私がついたため息も、白くその跡を残していた。
(まったく……イヤになるわね)
この仕事が、楽しいと思ったことはない。
好きでもない人に媚びを売って、お酌して、そして──イヤらしい目で見られて……
遠慮なく体に触れてくるのは、嫌悪感さえ抱く。それが好みからかけ離れた中年のハゲ親父ならなおさらよ。
もちろん、大人しくお酒を飲んで、楽しい話をしてくれる客もいるけどね。
自分の夢を楽しげに語ったり──
『オレの夢は、皆に愛され、応援されるウマ娘を世に送り出すことだ。トゥインクルリーズを知らいような人でもそのウマ娘の名前は知っている、それくらいにみんなに愛されるウマ娘を──』
「──ッ」
私の脳裏に浮かんだのは、この仕事を始めるよりももっともっと前の記憶。
まだ私が輝いていたころ──ううん、輝く可能性があったころの話よ。
あの人は競走ウマ娘だった当時の私のトレーナーになって──私が夢を尋ねたときに目を輝かせてそう言っていたわ。
だから私もそうなろうと……一生懸命に私のためを思い、考え、努力してトレーニングを組んでくれる彼の気持ちに応えようとした。
その姿に心惹かれた彼のために。
でも──彼の夢は、私には重すぎた。
彼のトレーニニングを受けるようになってしばらくして──学園内で他のウマ娘と競った。
そこで現実を突きつけられたのよ。
有名な親を持ったり、また才能に目を付けられて早くからもてはやされているようなウマ娘……ではない、学園でも中堅クラスの普通のウマ娘達。彼女たちと競ってさえ私は目立った成績を残せなかった。
(私は、ごく平凡なウマ娘でしかなかった……)
“国民的アイドルウマ娘”という大きすぎる彼の目標を、私では達成できない。
その崩しようがない事実を突きつけられて、私は完全に怖じ気付いた。
彼の指導が熱心になればなるほど、劣等感にさいなまれ、私の心は萎縮して消極的になっていく。
(もしもデビューしたら、彼をガッカリさせる……)
そう考えたら、とてもメイクデビュー戦なんてできなかった。
だからこそ──負けて当然のレースでのデビューを、無茶と承知でワガママを言った。
そして心のどこかで彼に止めて欲しかった。だって……私が負ける姿を彼に見せたくなかったから。
(でも──)
私はデビューしてしまった。その無謀なレースで。
当然の大後着。私の本当の実力が彼に知られてしまった。
(あの人は絶対に、失望する──)
もしも夢を達成できないなら彼はどうする……私の次に担当する、別のウマ娘と“それ”を目指すだろう。
それを私は耐えられなかった。
それならいっそ、その夢を壊して──
「──よ。久しぶり、だな」
「え……?」
思い浮かべていた彼の、リアルな声に私は少なからず驚いて──尻尾をピンと立てていた。
気が付けば、場所は私のアパートのすぐ前にきていた。
ジャンパー姿で少し寒そうにした彼が、軽く片手を挙げて、こっちを見ている。
かつて私が中央トレセン学園にいたときの担当トレーナー。その彼が立っていた。
もう会うはずもなく──今の私の姿を一番見られたくない相手。
「──ッ、アンタいったい、どうして……」
「春にトレセン学園にきたとき、受付で住所書いただろ、パーシング?」
彼は苦笑を浮かべて私の疑問に答えた。
確かに私は、今年の春にかつて所属したことのある中央トレセン学園に行った。
「ひょっとしたらウソを書いているかもしれない、とは思ったが……あのころのオレは担当がケガしてて暇があったからな。一応は確認していたんだよ」
苦笑が少しだけ得意げなものになる。そんな表情も、私にとっては懐かしかった。
学園を、競走界を逃げるように去ったこんな私だけど、それでも一度は志した道だもの。トゥインクルシリーズへの興味は持ち続けていたわ。
そんな私が今年の初めのころに見たのは、京都の金杯を制したウマ娘が満面の笑みで表彰を受け──その傍らで笑顔を浮かべている彼の姿だった。
(正直、驚いたわ……)
それは嫉妬だった。
私以外の誰かと彼がその道を進むのを──許せなかった。
だから私は彼の夢を壊そうとした。
風の噂で、彼が担当を持てずに薫っているというのを聞いて、心のどこかでホッとしていたのに。
……心の別のどこかが痛んだけど。
一時の心の満足のために背負った罪悪感。
それがあのニュースで救われもしたけど……同時に嫉妬という
──彼の成功を遠くから喜びたい。
──その成功を壊したい。
相反する感情の中で葛藤して──つい私は二度と行くまいと心に決めていた中央トレセン学園に行ってしまった。
門前払いされる、と思っていたのに「OGで、お世話になったトレーナーに挨拶がしたい」と言ったら意外とすんなり通れてしまった。
敷地内で思い出の場所を巡り──我に返って、「私みたいのがここにいたらいけない」と思って帰ろうとした矢先……出会ってしまった。
そして──彼の担当のウマ娘と、あんな約束をすることになってしまった。
「……疲れているのは分かるが、ちょっと話せないか?」
彼は真剣な面もちで「頼む」と言ってきた。
その彼の雰囲気を見て、私は断れなかった。
オレはパーシングとともにファミレスに入った。
金がないとかそういうわけじゃないぞ。こんな早朝に落ち着いて座って話ができるのは24時間営業のファミレスくらしかなかったからだ。
やってきた店員を見てオレはパーシングに「何か食うか?」と尋ねたが、彼女は首を横に振った。
ドリンクバーだけを頼むのに心が痛み、オレは軽く摘めるものを頼み──そしてパーシングと向き合う。
改めて「久しぶりだな」という挨拶を言ったが、彼女は返してこなかった。
「……驚いたな」
彼女の姿を見て、オレは思わずつぶやいてしまった。
それを聞きとがめ、不機嫌そうだった彼女は余計に眉をひそめてしまう。
「なに? 私のことを笑いにきたわけ? どうしてもGⅠを勝てないからって──」
「違う。オレはお前の住所は知っていたが、仕事までは知らなかった」
昨日の夜の、まだ早い時間にパーシングのアパートを訪ねたが、不在だった。
すぐに仕事を終えて帰ってくるだろうと待っていたのだが……まさか深夜どころか早朝と言った方がいい時間に帰ってくるとは、完全に予想外だったが。
帽子を目深に被って顔を隠していたが、その様子ですぐにわかった。
(なにしろ担当だったんだからな。間違えるはずない……)
そんな彼女の帰宅時間や派手めの化粧から、彼女が何の仕事をしているのかを予想するのも容易だった。
「呆れた。じゃあ、こんな時間まで私の家を見張っていたってこと?」
「どうしても、話したいことがあったからな」
オレが答えると、パーシングは深くため息を付いた。
「アンタが暇人なのは分かったけど、結局なにがしたいわけよ? 人の住所調べてまで……」
「
パーシングは、正月の金杯の結果を見てトレセン学園にきている。
ましてダイユウサクとの賭けもある。だからトゥインクルシリーズの結果はチェックしているだろうし、さっきの会話からもそれは明らかだ。
そして、もしも勝てなければ……間違いなくダイユウサクが精神的に追い詰められていくのが分かっていたからこそ、彼女と接触できる準備だけはしていた。
「賢明ね。それくらいの慎重さが、私の時にあったらよかったのに……」
その皮肉に、オレは言葉を返せなかった。
いくら現実を見せるためだったとしても、彼女の心を傷つけるようなレースを選ぶべきではなく、強固に反対して止めるべきだったからな。
だからオレは──無言でテーブルに手を付き、額をも付けんばかりに頭を下げて、そこで停止した。
「……なに? あのときのこと、今謝ろうっていうの?」
「それも、ある。すまなかった……」
呆れた顔で睥睨してくるパーシング。
しかしどんな表情をされようと、今日のオレは退くわけにはいかない。
「それと、お願いがある」
「お願い?」
「ああ……」
オレはさらに頭を下げ──テーブルに額を完全に付けた。
「頼む。あのときのダイユウサクとの約束……あれを、反故にしてくれ」
「ダイユウサク……? ああ、アンタの担当しているウマ娘だっけ?」
「そうだ。今年中にアイツがGⅠをとれなかったらっていうあの約束を──」
「イヤよ」
パーシングは食い気味にキッパリと言い放った。
…………。
正直、こうもあっさり、見事なまでに完全に断られるとは予想していなかったんだが……
「どうしてだ? あんな約束は──」
「あれは、あの小生意気なウマ娘が言い出したことでしょう? 勝てなかったらアタシの言うことをなんでも聞くって……あの小娘がGⅠを、トゥインクルシリーズをナメていただけじゃない」
「それは……」
パーシングの指摘は的を得ていた。
あんな大口をたたいておいて、秋ではまったく結果を出せていないんだから言い訳できない。
オープンクラスになって三連勝し、重賞も制覇したし、次のレースも惜しかった。まさに絶好調だった。
図に乗っていた、と指摘されても仕方がない。
「重賞をナメて痛い目を見た私が、なんで同じことをしてるあの娘を許さないといけないの? 同じ目に遭わせて──」
「──すまなかった」
オレはもう一度、彼女に謝った。
早朝のファミレスに少し大きめの声が響く。数少ない客の視線がこちらへ向くのが分かった。
でも──オレはそれでも頭を下げたままの姿勢で止まっていた。
「あのときのオレは……完全に間違えていた」
「あのとき?」
「ああ。練習に身が入らなくなり、デビューさえしていなかったお前を無理にデビューさせてトゥインクルシリーズに引っ張り出したのは……最大の過ちだった」
「……なによ、今さら。あれは……」
「オレは、負けさせるつもりでレースに出させようとしちまった。そんなのはトレーナーが一番、やったらいけないことなのに……」
「あ、あれは私が──」
「負けて楽しい競技者なんていない。そして楽しくなければ……続けるモチベーションは上がらないよな」
ましてそれが、デビュー戦でプライドを粉々に砕かれたのでは、なおさらだ。
オレはもう一度「申し訳なかった」と謝った。
その姿を見て……パーシングは驚き、そして戸惑っている様子だった。
「……謝ったって、もうあの頃には戻れない。だから、そんな謝罪は無意味よ」
「意味なら……ある」
オレは頭を下げたまま、パーシングの言葉に答えた。
「今、オレが担当しているアイツは残り何レース走れるかわからない……だからこそ、アイツには余計なことを抱えて走らせたくはないんだ。余計なことを考えずに、ただ純粋にレースのことだけを考えて、走ることを楽しんで欲しいんだ」
「私ができなかった、それを?」
「そのとおりだ」
再度、頭をグッと深く下げてテーブルに付ける。これが彼女を傷つけることは百も承知だが──それでも頼まないわけにはいかなかった。
そして案の定、パーシングは呆れたように睥睨する。
「そんなの、アンタの自己満足でしょ? よく知りもしないウマ娘とアンタのそれに、どうして付き合わないといけないわけ?」
その言葉に──オレは、ゆっくりと顔を上げた。
オレの真剣な眼差しに、パーシングは気圧されたようで、顔を少し引く。
「お前とオレの因縁に、アイツを巻き込むな」
「そんなの、あの娘が勝手に入ってきただけでしょう? それに……もし私が約束を反故にして、どんな対価が得られるっていうのよ?」
そう言ったパーシングに対しオレは──おもむろに上着の胸についたバッジを外してテーブルの、パーシングの前の位置にそれを置いた。
「トレーナー、バッジ……?」
それを見てパーシングは驚き、うめくように呟く。
「いったい、どういうつもり?」
「お前の人生そのものだった競走に対する対価は、他の見ず知らずのウマ娘の競走生命なんかではなく……オレの人生であるべきだろ?」
「な……」
オレは真剣な目でパーシングを正面から見据える。
ひどく驚いた様子の彼女の視線は、オレの顔と目の前に置かれたバッジの間を揺れ動いていた。
それも無理はない。
このバッジを目指して、数多くの関係者が毎年試験に挑むも、その狭き門に阻まれて一人も合格者が出ない年もあるほど。
かく言うオレも、死にものぐるいの努力でこれを手にした。今までのオレの人生そのものといってもいい。
だから──オレに賭けられるものは、これしかなかった。
「ダイユウサクとの賭けはオレが引き継ぐ。もしもアイツが今年中にGⅠを取れなかったら……オレは、このバッジを外す」
「そ、そんなの、私にはなんのメリットも──」
「お前が目障りなのは、オレなんだろ? お前が諦めたのにオレがまだトレーナーやってるのが気にくわない。だからお前は金杯の結果を見てトレセン学園にやってきた──」
その指摘に対してパーシングは言いよどみ、何も答えなかった。だからこそ、それが正解である何よりの証拠に、オレには思えた。
「お前が夢を諦めたように、オレも夢を諦める。ただし……アイツのことだけは見届けさせてくれ。その証拠にこれを──お前に預ける」
オレは再度、「頼む」と言って頭を下げた。
それに対しパーシングは心底面倒そうに頭を掻き──ため息混じりに「わかったわ」と答えた。
そしてオレが差し出した
「ま、どっちでもいいけど……アンタの顔を立ててあげるわ。去り際にアンタにかけた迷惑の借りもあるし」
「パーシング……」
「でも、それだけよ。もしも負けたら……アンタはトレーナーを辞める。約束が守られなかったら、今回の件もひっくるめて、有ること無いこと週刊誌にぶちまけてやるわ」
「心配するな。お前との約束を、これ以上は破らないさ」
オレが言うと「ふん……」と鼻を鳴らして彼女は店の出口へと踵を返す。
そして「つまらない話につきあったんだから、払いはアンタが持ちなさいよ」と言い残し、去っていった。
オレは……大きく息を吐く。
これで、いい。
これでアイツは、余計なことを気にしないで走ることができるようになるはず。
そしてもちろん、オレはパーシングと交わした、代わりの賭けのことをアイツに話すつもりはない。
……そんなオレが、パーシングが去りながら「そんなだから、あの女から奪ってやりたくなるのよ。アンタを……」と呟いていたことなど、気付くはずもなかった。
「トレーナー、体調崩したんだって」
「え? それって……大丈夫なの?」
チーム部屋で聞いた
あのトレーナーが体調を崩すなんて……
「なんだか夜中に寒さ対策を怠ったまま外出してたみたいよ」
「まったく、大事な時期なのに……たるんでるんじゃないの?」
アタシが大きくため息を付いて、「仕方ない。見舞いにでも……」と思っていると──
「あ、トレーナーからは大事な時期だから
「ハァ? まったく自意識過剰もいいところね。こんな時期にそんなことしている暇なんてないんだから、いらない心配よ」
今年のGⅠも残すところあと一戦走れるかどうか、といったところよ。アタシはそれに勝たないといけないんだから。
「来ても出る気もないし、そんな暇あったら寝て治すから絶対に来るな。いいか、絶対に来るなよ? 絶対だぞ……って電話で言ってたけど、コレって本当は来て欲しいのかな、やっぱり」
「うっさいし、ウザい。頼まれたって絶対に行かないわよ、こんなの」
アタシはため息混じりに答えた。
「トレーナーからは、今まで通りの距離の練習を続けるように、って指示が出てたからね。ボクがキッチリ面倒を見るよ」
そう言ってコン助は笑顔で親指を立てる。
そっか。やっぱり……短距離か。
アタシがこっそりため息を付くと、コン助はそれを見逃さなかった。
「あとはもう、スプリンターズステークスしかないからね」
「言われなくても分かってるわよ」
アタシは改めて指摘されて、少しイライラしながらぶっきらぼうに答えた。
「打倒ダイイチルビー! 打倒ケイエスミラクル! 打倒ダイタクヘリオスッ!! アイツらに勝って、G1とってやるわよ!!」
晩秋のトレセン学園に、アタシのやけっぱちな声が響きわたった。
──このときのアタシは、コン助ともども勘違いしていることにまだ気付いてなかった。
◆解説◆
【約束──】
・前回の「決意──」に対するタイトル。
・ちなみに「大承允」の「
【住所書いた】
・意外と律儀なパーシング。
・身分証明書との整合性を気にしたともとれそうですが……
・確かに乾井トレーナーに関してヒドいウソをつきましたが、無考えにウソが出てくるような嘘つきではないので、ここで嘘を書こうとは思わなかったのです。
【仕事】
・トゥインクルシリーズで活躍できなかったパーシングは水商売──キャバクラ嬢をしています。
・“外見がよかった”ので人気はあるようですが、「走りたい」というウマ娘の本能的欲求を果たせずに鬱屈としているようです。
・デビューと引退の期間が短いという点では、メヒコギガンテも同じでしたが、彼女の場合は地道な長年の努力を理事長が見ていたので、引退後の仕事も手配してもらえたのですが……
・逃げるように飛び出したパーシングにはそれを求めることは不可能でした。
・結果を残せずに引退する他の多くのウマ娘も同じでしょうが、裕福な家の娘も多いようなので、そういう子たちは心配ないでしょう。
・貧しい家庭の中には、体を売るような娘も少なくないでしょうし、文字通り社会の“食いものにされる”ようなウマ娘もいたかもしれません。
【
・ヤングジャンプ52号に掲載のシンデレラグレイ第62Rでそれが描かれています。
・ミニーザレディ曰く、「T大行くような人でも合格は難しいらしい」そうなので。
・ということは、アニメやシングレ、ゲームで出てくるトレーナーはすべて頭がいいわけで……
・ゲームで出てくる名前有りトレーナーは桐生院と理事長代理なので、この二人は合格しそうです。
・シングレのトレーナーは中央にいけなかった
・やっぱり全員合格してそうだなぁ。
・六平さんやヤエノムテキトレ、奈瀬パパといった年齢が上のトレーナーは戦後の未整備なころにトレーナー資格を得ていそうな年代ですけどね。
・アニメは……東条ハナさんは普通に難なく合格してるイメージ。《カノープス》の南坂トレーナーも困り顔をしながらさらっと合格しそう。
・アニメの主人公ともいうべきスピカのトレーナーは、メチャクチャ勉強して苦労して合格したイメージですかね。
・謎なのは……ブルボン担当の黒沼トレーナー。あの格好で試験受けてそう。
・本作では後から知った設定なのでまったく意識していませんでしたが……地方に
・やったことを考えれば仕方ないですけど。
【体調を崩すなんて……】
・まぁ、たしかにダイユサクは乾井トレーナーが丈夫なのをいいことに、気にせず掴みかかったり、鍋のフタを顔面に投げつけたり、いろいろやってますからね。
・病気になったり、怪我したりするのを想像できなかったのかもしれません。