彼女は窓からやってくる。(旧題:異世界から帰ってきたら、窓から入ってきた魔女と青春ラブコメが始まった。) 作:さちはら一紗
明るい夜だった。
雲間の月は大きく、ほんの少しだけ満月に届かない。
今朝は雨だったから自転車は持ってきていない。だから間隔を寄せる必要もなく、俺たちは人ひとり分の間を開けて無言で歩く。
夜だからもういいかと諦めたのか、咲耶は眼帯を付け直さなかった。おかげで今夜は横顔がよく見えた。視線は、合わない。
こうして夜道を並んで歩いていると、現世に戻ったばかりの時のことを思い出す。俺がうっかり周囲に異世界のことを口走ってしまった時のことだ。病院に監禁されそうになったから仕方なく脱走し、咲耶に電話をかけたことがある。『何かあるといけないから』と電話番号をあらかじめ教えられていたのだ。不機嫌そうに、けれど速攻で飛んできた彼女は、
『ありえないわ。まったく! どうしてそんな初歩的なミスをできるのかしら? あなたひとりが自滅する分にには構わないけど、わたしに迷惑はかけないでよね! ……この貸しは、高くつくわよ!』などと、散々罵倒しながら魔法で事態収集をしてくれた。その借りはまだ、返せていない。
その一件の際も二人で延々と夜道を歩いたのだが。あの時はまだ彼女も刺々しく、道行きは無言でも耐えられた。それで十分な関係だったから。
でも、今は違う。
「咲耶、あのさ」
俺は、意を決して呼び止める。
「……そろそろ喋っていいか?」
無言に耐えられなかった。限界、無理、クソ気不味い。
咲耶は、目を丸くして。弾けるように笑い出した。
「ふふ、あはは。何かと思えば、そんなこと! ……はー、おかしい」
「何が」
「だって真面目な顔して、そんな情けない声出すんだもの。あなたって顔には出ないけど、声には出るのね」
ぐ、と言葉を詰まらせる。目元を擦りながら、咲耶はからかうように言う。
「ふふ、そんなに気まずかった?」
「いやもう、手汗がすごい」
片手だけでよかった。
隣を歩く彼女は、俺の顔を覗き込むようにして、嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、ええ。お喋りしましょう。わたしも、丁度……そうしたい気分だったの」
たわいもない話をした。
今日あったなんでもないようなことを。
大半は善良な同級生の話であり、不思議な同輩の話だった。バイトを見つけた経緯とか、二人と親しくなった経緯とかだ。
それで結論は「あの子たち、やっぱり変よね?」で落ち着いて。丁度その時、俺の携帯に芽々から大量の無意味なスタンプメッセージが届いてことに気付いて、顔を見合わせて笑った。
確かに『死蔵スタンプ送りまくってやりますよ』とは言ってたけど、本当にやるのかよ。あんなもん見せた後だっていうのに。逆にめちゃくちゃいいやつだと思った。
そして今度は明日の話をする。
「明日の味噌汁の具は何がいいか」と訊けば、咲耶は「お味噌汁に何を入れるのかよくわからない」と答えて、俺もそもそも冷蔵庫の中が空だったことを思い出したので「とりあえず明日の放課後は買い物に行こう」と約束をした。
返すように「明日のお夕飯は何にしましょう」と訊かれたから、カレーの次に覚える料理は何がいいだろうと考えていたら「あ、唐揚げ食べたい」と咲耶が言い出して「いきなり揚げ物は無茶じゃないか?」と返せば「唐揚げを嫌がるなんて男子高校生の自覚が足りない」と怒られた。
そうやって。
ひとつひとつ足元を確認するように。意識的に『普通の会話』を重ねていく。現世だけで話題は十分事欠かない。だから余計なことを思い出す暇はないのだ。
暗い道を街灯が少しずつ照らしている。咲耶のワンピースの裾がすぐ横でひらひらと揺れる。いつの間にか俺たちの間合いは縮んでいた。隣を歩く彼女の背筋はぴんと伸びて、足取りは軽く表情は柔らかく声は弾んでいる。そのことに、安堵する。
そうして緩やかな坂の登りながら。なんでもない会話の延長戦を続けていく。
「そういえば飛鳥、もうすぐ追試じゃなかった?」
うわ、現世もイヤなことあった。
「ノート、貸してくれたおかげでなんとかなりそうだ。助かってる」
「別に、もう直接教えるくらいはしてあげるわよ」
咲耶は苦笑する。ほんの数日前に『教えてあげる義理はないけど』と言ったことを思い出したのだろう。咲耶から渡されたノート類は本来、自分のために作られたものだと思う。要は、相当な労力を費やした自習の跡だった。
「咲耶ってさ、昔は完璧な優等生って印象だったけど。本当は努力家だよな」
「努力というか。わたし、単に要領が悪いのよ。真面目にコツコツやってようやく中の上なんだもの。やんなっちゃう」
明るく自嘲する。
「昔は正直、高嶺の花なんて噂される度に胃痛がしてたわ。なんでもそつなくできますって顔だけしてたの。雰囲気だけのはったりよ」
器用すぎて不器用なんだよな。
「ほら、わたしって。見た目しか取り柄がないから?」
「おまえは性格もいいよ」
「うぁ……急に、褒めるな! ていうか、性格がよかったら……」
「よかったら、何?」
「……初めから、あんたに嘘なんて。つかずに済んでたわ」
面倒なロールを演じてばかりの彼女は確かに、言い換えれば『嘘吐き』かもしれない。
「その辺はまぁ。俺がどうこう言うことじゃないな」
「そうね。あなたもいい性格してるもの」
いい性格。言葉は同じなのに意味が逆だった。おかしいな。
「それにしても。試験の科目の話、わたしは英語が一番苦戦したんだけど」
確かに普通、言葉は二年も使わないと忘れるものだろう。
「なんなら国語もだめになってたもの。でもあんたはその辺、割と点数取ってなかった? あれ、どうやったの?」
「ああ、うん……」と言葉を濁す。
「これ、
咲耶は、沈痛に額を押さえた。
「あー、ごめん。今のなし。間違えたわ……」
その反応に、なんだかおかしくなって笑いが漏れる。
「なによう」
「いや、なんでも」
……そうか、彼女も。『正解』を探しながら喋っていたのか。
「咲耶が気にしないなら別にいいんだ。話すよ」
「……そ」
何か納得いかなさそうに、唇を尖らせた。
「ん、ほら。召還されて
咲耶はそれを聞いて、眉を顰めた。
「待遇が違うわ。わたしはあっちの言葉、自力で覚えたんだけど。それ……脳味噌弄られてない? 大丈夫?」
「うわ、魔女の発想だ。こわ……」
「で、それがどうしたのよ」
「それが、わかるのは異世界語だけだと思ったらさ、
咲耶は天を仰いだ。
「チート引き継ぎじゃない! ずるいわ、わたしも欲しかった! つまり、アレとかコレとか原書で読めるってことよね、いーーなーー」
「チートって。ま、このくらいの土産はあっていいだろ」
「そうね! あーあ、わたしも何か貰っておけばよかったなぁ」
その言葉で、ふと。今が聞き時だと思う。
「……そういやおまえ、あの体質は直ったか」
「ええ」
さらりと答えた咲耶は腕を伸ばして、形の良い手を広げて俺に見せる。
「
「はは、身長で張り合うとか小学生かよ。……昔は咲耶より少しだけ低かったんだっけ」
「そうよ。知らない間に大きくなっちゃって、生意気」
多分そのことを昔の俺は気にしていたと思うけど。目線の高さが同じじゃなくなったのは少し、残念かもしれない。
「というか、そもそも。あなたどうして学校に戻ったの? いえ他意はなくて。ただ……高校生活に未練があるようには、見えないし」
確かに別の選択肢ならいくらでもあった。というよりは、そもそも学校に戻っている場合じゃなかったというのが正しい。家更地になってるし。でもそうしなかったのは、何故かというと。
「咲耶、こっちに帰ってきた時に『学校に戻ろうかな』みたいなこと、言ってただろ」
「……それだけ?」
「それ以外にも色々あるけど」
『じゃあ俺も戻るか』で、他の選択を全部消したのは本当だ。
咲耶は、両目を瞬いて。
「あなたって、もしかして……わたしに甘いの?」
「そうだよ。ようやく気付いたか。おまえ以外が窓から入って来たら問答無用で殺虫剤かけてるわ」
「あはは。野蛮だ!」
髪をなびかせて、彼女は高らかに笑う。ああ、今の表情。写真に残せたらよかったのに、と自然に考えて。俺もアイツも両方バカだな、と思った。
そして咲耶は、神妙に。
「ねぇ。飛鳥は、この先どうするの。高校を卒業したら」
将来の話を。明日よりも、ずっと先の話を切り出した。
「そうだな。とりあえず働いて、余裕ができたら進学する。堅実にやっていけたら、あとはなんでもいいや」
現世は割合ちゃんとしているので、野垂れ死ぬことはそうないだろう。
「咲耶は?」
「わたしは……大学には行くかな。向いてそうな学問って、何があるかしら?」
「哲学」
「あは、難しそう」
彼女は、二、三歩。先を行く。
「あーあ、わたし。頭よくないからなぁ。どうしよう。全然思いつかないのよね」
「昔は何になりたかったとか、ないのか」
地に足つかない不安定な足取りで、黒のワンピースを翻し、くるりと振り返る。
「素敵なお嫁さん」
幼げに、彼女は笑って。
「今どき、甘い考えで笑えるでしょ」
「笑わねーよ」
──だってそれは、多分。潰えた夢の話だ。
「別に、なんでもいいんじゃないか。やりたいことをやればいい」
「そうね。全部やれば、いいか」
「そうだよ。これからの人生は……長いし」
自分で言って自分で驚いた。そうか、あと半世紀も続くのか人生。気が遠くなるな。
ひと気のない静かな道を、彼女は後ろ向きのまま四、五歩と進む。
「ねえ、あなたは昔、何をやりたかったの?」
咲耶の問いにほんの数秒、思い出そうと試みて。
「忘れた」
「……そっか」
後ろ歩きで、俺の目の前を歩いていた彼女は立ち止まる。
「ね」
後ろの街灯が彼女に逆光を浴びせる。
表情が、暗くて、よく見えない。
「もしも。わたしがまた──」
真っ暗な顔で、彼女は低く、問いかける。
「──悪い魔女になったら、どうする?」
……これは、さっきまでと地続きの将来の話だ。そしてその答えを決して、間違えてはいけない。
迷わずに、答える。
「その時は、」
「──ちゃんと、倒しに行ってやる」
六、七歩と。小さく遠ざかっていく。
街灯の真下へと入った、彼女は。光に照らされてしっとりと微笑んだ。
「わたし。あなたの、そういうところが……嫌いよ」
それは『嫌い』なんて言うには、あまりにも柔らかすぎる表情で。
「知ってる」
多分、俺も似たような顔をしていると思った。
──大丈夫。これはいつもの、ただの軽口の延長線上だ。たとえ、大丈夫じゃなかったとしても、今ここに積み上げた日常を壊さないことだけが果たすべきことで、そのための力はまだここにある。
だから。恐れることなど何もない。
拳を握りしめて、アスファルトを踏みしめる。咲耶との間に空いた距離を一息に詰める。
「ほら、さっさと帰ろうぜ」
咲耶は、少し驚いたような顔をして。ふっと表情を緩めた。
「あ、待って。遠回りしてコンビニ寄ってもいい?」
「いいけど。何買うんだ」
「決まってるでしょ。今夜は、長くなるんだから」
咲耶はにんまりと赤い唇を歪める。
「わたしはなにせ極悪なので、深夜にポテチとか買っちゃうのです。ついでに、言い訳が効かないほど庶民舌なので、コーラだって買っちゃうの」
なるほど、それは確かに。
「世が世なら大罪だな」
「でしょ?」
やはり。
今夜は、眠れないらしかった。