彼女は窓からやってくる。(旧題:異世界から帰ってきたら、窓から入ってきた魔女と青春ラブコメが始まった。)   作:さちはら一紗

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第十一話 うるさい心臓。

 わたしたちが家に帰り着く頃には、それまで抱いていた躊躇いや怯えというものはすっかりと箱に仕舞われていた。

 飛鳥は切り替えるのが上手で呼吸の仕方をよく知っている人だと思う。何を考えているのかわからないし、というか多分あまり何も考えてないんだろうけど。わたしは今のあなたのそういうところが、好き、かもしれない。 

 好意、それはもちろん適切な友愛の範疇で。

 

 ただし例の一件で、お互い目が冴えきってしまっていることには変わりなかった。それがいつのまにか、「どうせ眠れないんだから、遊ぶか」という空気に変わっていたのだけど。

 その気になった後で二人とも、明日の課題が終わっていなかったことに気が付いた。

 身分を明確に思い出す。遊んでばかりいられないのが学生のつらいところだ。終わるまで平日深夜の宴はお預けだった。悲しい。

 

 

 そして今、そろそろ日付も変わろうという頃。場所はわたしの家のリビング。テーブルで、向かい合って課題をやっていたわけだけど。

 きりよく終わったところでわたしはペンを置き、顔を上げる。

 先に課題を終えていた飛鳥が目の前で寝落ちしていた。

 目、冴えてるんじゃなかったの。

 

 彼はわたしの部屋に来る前に一旦自室に戻ってから来ているので、私服に着替えてるし、多分もうシャワーも浴びている。

 静かな部屋、響く寝息に耳を澄ませる。眠れそうになくても眠ってしまうほど疲れてるのかしら、とか考えて。いやそもそもこいつ、隙あらば寝る癖があるだけだった、と思い出した。休み時間、大体寝ている。友達ができないのも当然だ。

 物音を立てないようにそっと椅子を引いて立ち上がる。わたしの身体能力はほとんど人間並みだけど、足音を立てないくらいのことはできる。毛布をかけたいけれど、少しでも触れると起こしてしまうだろう。そうっと彼に近付き、顔を覗き込む。

 お行儀が悪い振る舞いだけど、これについては、わたしの領域(いえ)で眠ってしまった飛鳥が悪い。ので『寝顔を覗き見る』なんてはしたない行為も今夜に限っては許される、と思う。

 けれど、やはりというか。寝顔はあまり穏やかではなかった。

 うっすらと気が重くなる。

 飛鳥は夜が遅くて朝が早い。長時間眠るということに、身体がまだ慣れていないのだろう。食事を取るのも下手なら眠るのも下手なんて、人間としてどうかしている。

 ……眠らなくても平気なはずなのに、一度眠ってしまうと朝に弱すぎるわたしも、大概だけど。

 

 ちらりと彼の腕を見やる。五月も終わりの部屋の中だというのに、上着を着たままだった。その不自然は、わたしに腕のことを意識させまいとしているような気がして、逆に少し腹が立った。

 異世界(むこう)で再会した時には既に義手だったので、詳しい経緯は知らない。聞かなくても大体わかる。生身で竜なんかと戦っていたのだ、腕の一本や二本は千切れもするだろう。

 お互いが向こうで経験したことについては「知らないままでいよう」と合意が取れていた。

 軽口以上には触れないし、探らない。あいつは笑えない話に価値はないと思っているし、わたしもすべてを知ることが正しいとは思わない。

 見て見ぬ振りと素知らぬ顔と鈍感さ。それは、上手に生きるための最低限のスキルだ。特にわたしのような、面倒な女にとっては。

 自分が面倒くさいことをわかっていて直せないのが心底面倒くさいと思う。自己嫌悪で夜が明けそう。

 

 それに──本当にすべてを知ってしまえば。わたしは、何をしでかすかわからなかった。

 だから聞かない。絶対に。

 

 記憶の中、差し出された彼の手のひらに残る、細やかな傷の数を思い出す。

 ──本当はあなたを脅かすものすべてを許したくはないのだ。

 わたしは、あなたにそれほどの恩がある。

 たとえばの話。もしも、あなたの家がなくなっていた原因が、理不尽な悪意による放火だったとしたら。わたしは迷いなく、それを行った人間に火を放ちに行っただろう。

 わたしの倫理は所詮その程度でしかない。

 もちろんこれはただの喩え話。更地の真相はごくありふれた金銭事情だと聞いている。現実はうっすらと世知辛いだけで、明確な悪意や敵意が突き刺さる、なんてことはない。

 なんだかんだで現世は治安が良すぎるのだ。目の前の敵を倒して全部終わりだったら話は簡単で、わたし好みなのに──という、一連の物騒な考えを振り払う。

 

 わたしは、わたしの自制心や理性というものが弱いことを重々承知しているし、自分の陰湿さや浅はかさに身を委ねたくはなかった。

 ……たとえ。わたしの性質がどうしようもなく〝悪〟だとしても。

 わたしが本当に望むままに振舞えば。何もかもを今すぐに解決できるとしても。

 それをしないことが、恩と友誼に報いるということだと思うから。

 

 そしてわたしは、わざと彼の右腕側に立つ。

 その結果何が起こるかを、自分自身に突きつけるように。自らの立ち位置と自分が何者であるのかを確かめるように。

 

 その意味は、効果は、すぐに現れた。

 じわりと肌が粟立つ。背に寒気が走る。喉元に刃物を突きつけられているような、ひりついた錯覚。憎悪と、恐怖と、嫌悪感。

 その理由は、単純なことだ。異世界(むこう)の聖剣には、『魔女殺し』の文脈(いみ)が乗っている。

 ──わたしが、彼を嫌悪してしまう理由だ。

 

 つい先程、中の剣が起動したせいか。いつもなら、うっすらとした威圧感のみで耐えられるのに。今夜はずっと強くそれらを感じる。これ以上は近寄れない、と頭の中で警笛が鳴る。「殺される」と血が騒ぐ。心臓が、うるさい。 

 

 ──今のあなたは、どうしたって魔女(わたし)の〝天敵〟だった。

 

 唇を噛む。心臓を握り潰すように、胸を押さえる。天敵、相性──だから、なんだというの。

 それでも引き留めた。今はまだ、側にいてと。選んだのだ。

 

 ──わたしの選択が、魔女(おまえ)の本能より安いだなんてこと。あってたまるものか。

 わたしは。一歩を詰める。触れそうなほどに彼に近付く。うるさく鳴る心臓に『黙れ』と。唇だけを動かして、呪詛を吐く。そうすれば。

 わたしの心臓は、ぴたりと。鳴るのを止め。完璧に静寂が訪れた。

 

 これでもう、わたしの心音が、あなたを起こす心配はなく。

 怖いものは、ひとつもないのだ。

 

 

 

 もぞり、と飛鳥が微動したのを見て。ふと我に帰る。

 

 ──いや、何をやっているんだ、わたしは。

 

 自分が無意識に大きく笑みを浮かべていたことに気が付いて。わたしは苦々しく唇を引き結んだ。

 ……今のは、ない。いくらうるさいからって心臓を止めるのは正気じゃない。溜息を深々と吐きたいのを堪え、頭を押さえる。

 頭蓋に突き刺さるような異物(つの)が、もうないことを確かめる。

 いまだ起きない彼を横目に、リビングを出て、少し重い扉をゆっくりと閉める。

 

「……お風呂入ってこよ」

 

 そう、実のところわたしは入りそびれてたのだ。ぎりぎりまで昨晩散らかした部屋の片付けをしていたら時間がなくなっていた。

 わたしは魔女なので、普通の人間と同じくらいに汗をかいたりとか、化粧が崩れたりとかはない、ないはずだけど。……飛鳥に近付いた時に石鹸の匂いがして、わたしだけまだだったのが急に恥ずかしくなってしまった。

 

 顔を覆う。心臓、うるさかった理由の半分は、そっちだと思う。

 あ、なんか。懐かしいようないい匂いがするな……って無意識に、必要以上に吸い込んでしまった。

 いや、その、か、嗅いでない。嗅いでないから、それは、踏み止まったから。

 でも心臓を止めて危機感を消しとばした途端に、鮮明に蘇ってくる、石鹸の匂いが、なんかもう、なんか! うわ、うわー……って……!

  いや別に、それが何ってわけじゃないのだけど! 何ってなに⁉︎

 

 廊下の冷たい空気を吸って吐いて吐いて、さっきまでの何かを振り払う。

 大丈夫、全然、別に動揺なんてしていない。あくまで石鹸が好ましいものだっただけで、彼がどうとかは、その、小指の爪の端っこのささくれほども関係がないのだから。

 

 ……ないのだから!

 

 

 

     ◇

 

 

 

 目を覚ますと、向かいの椅子に咲耶がいなかった。

 二十分ほどの記憶の空白を確認して、どうやら自分が眠っていたらしいと理解する。そしてしばらく待っていたのだが……咲耶はいつまでも戻ってくる気配がなかった。

 

 居間はシンとしていて、人の気配というものをうまく感じ取れない。

 この家は全体的に静かすぎるのだ。多分、壁や扉やガラスがどれも分厚い。咲耶の住むマンションはどうやら、防音性が非常に高いようだった。静かすぎると落ち着かない気持ちにさせられる。それには、今夜の「経緯」も関係していると思う。

 

『今夜、一緒にいて』と彼女は言った。その理由を俺はしっかりと理解している。

 端的に言ってしまえば、互いの身を案じているのだ。

 異世界(むこう)聖剣(モノ)を起こしてしまったせいか、少し調子がおかしかった。

 脳の回路が切り替わったような、血流が乱れたような、存在がズレたような……なんというか「異世界酔い」とでもいうべき違和感があった。

 目が冴えてしまった原因だ。いや、それはそれとしてさっき寝てたけどあれはまた別。寝れる時に寝ておく癖が抜けないだけだ。

 

 とにかく、「揺れ戻し」を食らったような感覚があって、それについては多分、彼女も同じだと思う。

 だから側で様子見したほうがいい。何かあるかもしれないから、目を離さないほうがいい。

 ──その警戒心が、互いに備わる〝機能〟や〝本能〟に由来するものだとしても。それを〝心配〟と言い換えるくらいの欺瞞は、許されていいはずだ。

 

 以上が、彼女が自分を引き留めた理由であることを重々に承知している。そしてそれは「理解者として協力し合う」という友人の定義には反していない。論理的な判断だ。

 ……だから、つまり。「深夜のど真ん中に女友達の家にいる」という、状況の不健全さとか考えてはいけないのである。

 いや、まあ……俺ん家に呼ぶよりマシだろ……っていうか、狭いし……テレビもないし……。

 健全な関係でいたい。絶対に。

 

 あの気不味い帰り道の状況から、一応は取り繕って調子を戻し、「たかだか夜通し遊ぶだけ」みたいな空気を作ることに成功したが。

 経緯の事情が事情であることに変わりはない。

 だから──こうして急にいなくなられると不安にもなるというもので。落ち着かなくて部屋をうろついていると、居間(リビング)から見える台所に、エプロンが不自然な置かれ方をしているのを見つける。

 トマトのように赤いエプロンは、昨日、カレーを作る時に彼女が身に付けていたものだ。

 

 ──よく見ると赤い布地には、昨日はなかった黒い染みが浮かび上がっていた。

 

「あいつ……」

 

 溜息を吐いた。

 

「……探すか」

 

 一応、「どの部屋も好きに入っていい」とは事前に言われているのだ。

 ……いや、なんで? 心許しすぎじゃない? 無防備か? あれだろうか。アイツが窓から俺の部屋に不躾に入ってくる分、自分も部屋を明け渡すことで「公平性」を作ろうとしているのだろうか。 

 なるほど、バランスを取るのは大事だ、と一応は納得しておく。

 

 

 

 居間を出て廊下に出ると扉の数に目眩がした。家賃を考えて少しクラッとする。うちの何倍だろうか。にしても扉が全部同じ見た目なのは視認性が悪すぎるだろ、と思う。廊下が一本だから迷う余地はないが、まったく部屋がわからない。

 とりあえず、居間を出て真正面の扉を開けることにする。コンコンと叩くが返事はない。ノック音からしてやはり扉は分厚かった。

 ガチャリと開けると狭い部屋には本棚がいくつも並んでいた。

 すごい、書庫だ。あいつセンスいいな。

 

 一番近くの本棚の背表紙を流し見する。分厚い本が棚を占めており、ファンタジーっぽいものが多いような気がした。

 俺も昔はそれなりに本を読む方だったはずだがファンタジーには明るくない。昨今の「異世界」の概念を把握したのは、こっちに帰ってきてからのことだった。

 元々知っていたら、もう少し向こうでうまく立ち回れただろうか、とか考えないこともないが。現代知識が役に立つ文明レベルではなかったから無理な気もする。……聖剣の見た目、近未来だし。

 この部屋に咲耶はいないようなので、入らずに扉を閉めた。

 

 そのまま隣の部屋の扉を叩く。やはり返事はない。なんとなく、人がいるような気はするのだが。

 

「咲耶? 開けるぞ」

 

 ガチャリ。とドアを開けた瞬間。

 ブォォォ……と機械音が溢れ出す。

 その部屋は洗面室だった。大きな音の正体はドライヤーだ。随分と出力が強い。

 鏡の前で、咲耶が濡れた長い髪を乾かしていた。

 

 ──下着姿で。

 

 ピシリ、と固まる。

 ……なるほど。扉の防音性が高すぎて俺はドライヤーの音が聞こえず、咲耶は大きすぎるドライヤー音でノックが聞こえなかったのか。と一周回って冷静に分析を弾き出す勝手な脳味噌。

 その一瞬の間に、咲耶が驚きの表情を鏡に写す。

 

「……ふぇぁっ⁉︎」

 

 ドライヤーを止め、ばっと勢いよく彼女は振り向く。

 回転によってかかる遠心力。濡れた髪から飛び散る滴。下から上に重力に逆らい、揺れる大きな胸。揺れの衝撃に、ぱつんと弾けるようにして。

 

 下着の、留め金(ホック)が外れた。

 繊細なレースの布地がずり落ちる。

 

「〜〜っっ‼︎⁉︎」

 

 驚愕の表情が一瞬にして赤面に転じた。

 弛んで溢れ出す中身を彼女が両手で押さえたのと──俺が壊れそうな勢いでドアを閉めたのは、同時だった。

 

 ドアを閉める音が静かな廊下に割れそうなほど響く。その向こうで微かにドライヤーが床に落ちる音がした。

 状況のみを把握していた脳味噌に遅れて、「やらかした」という感情と、「やばい」という感想が追いついてくる。

 

「…………腹切る前に土下座するか」

 

 

 

 廊下で待つことしばらく。恐る恐ると、再度ドアが開く。

 

「……見た?」

 

 か細い咲耶の声に、平身低頭の姿勢で返答。

 

「弁解のしようもなく」

「ああ、うん。目、いいものね……」

 

 沈黙の隙に先程の傷ひとつない綺麗な肢体が脳裏で蘇ったので、廊下に額をめり込ませる。死ね俺。

 

「とりあえず、その綺麗すぎる土下座はやめて。顔、上げて……?」

 

 指示に従い、正座で彼女を見上げた。咲耶は扉の隙間から顔を見せている。しっとりと濡れた髪がまだ肌に張り付いていた。

 

「その、ノック音、微妙に聞こえた気がしたし……事故、だし……怒ってないから……全然、謝らなくていいから……」

 

 ぷしゅぷしゅと赤く茹で上がりながら、彼女はそう言っているが。

 俺は目を逸らして、問いかける。

 

「あの、咲耶さん。……なんで、まだ、下着姿のままなんですかね」

 

 扉の隙間から身体が半分見えてんだけど。咲耶はばつが悪そうに、言った。

 

「いつものくせで……服、用意するの忘れたわ」

「ばっっっかじゃねえの⁉︎」

 

 いやおまえ魔法でモノ持ってこれるだろ思い付けバカ‼︎

 

 

 

 

 ひとまず居間に戻り、咲耶が服を着てくるのを待つ。

 戻ってきた彼女は、柔らかい布地の薄手のワンピースを着ていた。ネグリジェとでも言うのだろうか。問題なのは、薄手の白い布地が彼女の身体のシルエットを柔らかく浮かび上がらせているということ。一見すると清純そうなデザインだからこそ、布地越しに透けて見える手足が、生身よりも心臓に悪いということだった。

 

 普段、咲耶の制服の着こなしは堅い。私服も、彼女が好んで着る服は綺麗さを引き立てるような、大人っぽい硬さを感じさせるものが多い。だから、余計に。部屋着の白いワンピースの装甲の薄さというか、ちょっと刃物が刺さったら全部破けてしまいそうな柔らかさが、あまりにも無防備に感じてしまう。

 

 もっとなんかアホみたいなTシャツとか着てこいよ。蛍光色のジャージとか着ろ。そんな可愛い服を着るな。クソが。

 いっそ下着の方が防御力が高かったんじゃないか? 服着た方がむしろアレって──アレとは何かは言わないが──本当にどうかしているし、どうかしているのは多分、柔らかなワンピースの向こう側というか中身が焼き付いて離れない自分の脳味噌だ。

 

「ねえ飛鳥。……距離、おかしくない?」

「おかしくないですね」

 

 薄着の咲耶から距離を取る。なんだか空気が甘いというか、謎の息苦しさがあって、風呂上りの火照った彼女の顔がどことなく艶めかしい。絶対に近付きたくない。

 だが咲耶は俺に構わず、距離を詰めようとする。

 

「あの、今から謝罪会見するんで、ちょっと近づかな……近づくなつってんだろ! なんでにじり寄ってくるんだよ⁉︎ なんだてめえ⁉︎ 帰れよ‼︎」

「ここわたしの家なんだけど⁉︎」

「ほんとだ、クソが! 俺が帰ります‼︎」

 

 咲耶は慌てたように、縋り付く目をする。

 

「か、帰らないでよ……今夜一緒にいてくれるって、言ったじゃない……」

「う、ぐっ……!」

 

 しおらしく言われて動揺してしまったから、後ろの壁に背中がぶつかった。しまった。もう逃げられない。

 するりと衣擦れの音を立てて彼女が、至近距離に。

 

「……別に、気にしなくてもいいのに」

 花のような、甘い匂いがして──呼吸を止めた。

 咲耶は潤んだ瞳で、こちらを見上げる。

 

「自分で言うのもなんだけど……結構いい身体していると思うの。人様に見せて恥ずかしいようなものでは、ないつもり」

 

 確かにそれには、異論がない。雪のように白い肌はよく手入れされていただろうことが想像できる。背が高く安定した骨格が伺い知れるにも関わらず、華奢と形容するほど細い印象。けれど胸部(むね)や大腿部(ふともも)の肉付きはよく、適切な筋肉量がそれらを保っていることが見て取れた。あそこまでくると一種、芸術品のようだった。

 ……くそ、一瞬しか見てないのにめちゃくちゃしっかり覚えているんだが。どうしようこれ。上記の感想の六割は「戦闘経験に由来する人体観察の話」ということで容赦されないだろうか。されない。咲耶が許しても俺自身が許さない。

 

 すすす、と、咲耶の指先が、布越しに自らの腹部を撫でる。

 

 

「それにあなたになら……見せても、いいわよ?」

 

 

 変な声が出るかと思った。チリチリとひりつくような緊張と、視界が明滅するような動揺。ガチガチと頭の中のブレーカーを落として、理性の出力を上げる。

 熱を帯びた唇が、甘やかに囁いた。

 

「だって。あなたには、もっと奥まで……」

 

 

「──内臓(なか)まで、見られているんだもの」

 

 

 そして咲耶は、花も恥じらうように頬を押さえ、顔を背けた。

 

 ……もっと奥。ああ、うん……。物理的に、か。

 急速に脳が冷える。

 確かに、なんか見たことある気がする。異世界でね。つやつやとしたピンク色の、ね。おまえの腹にあいた穴から、ぽろりと──。

 

「いや最っっ悪だなおまえ‼︎」

 

 全力で叫んだ。

 

「えっ」

「なんでそっちの方が裸見られたより恥ずかしい、みたいな顔してるんだよ! おかしいだろ‼︎」

 

 咲耶は心外、というように声を上げる。

 

「はぁ? あんただって、裸見られるより傷見られる方が恥ずかしくない⁈ それと同じじゃない! だから今更……は、裸見られたくらいでとやかく言ったりは、しませんから!」

「それはそうかもしれない確かに……じゃねぇ! 全然違う! 急にグロいこと言うなって話だろうが‼︎ めちゃくちゃ怖いわ! あととやかくは言え‼︎」

「怖い……? え、なんで? 治ったのに? はらわた、ちゃんと収まってるわよ?」

 

 小首を傾げて純粋に疑問を口にする咲耶に、頭を抱えた。

 あああ……酷い異世界ボケだ。久々に目の当たりにした。倫理観おかしいんだよこいつ。

 壁際でしゃがみ込む。

 

「咲耶……」

「えと、はい」

「俺は、おまえの、そういうところがちょっと嫌いだ」

「ご、ごめんなさい……⁇」

 

 恨めしさはまったく伝わっている気がしなかった。

 

 

 

 ひとまず包囲から抜け出して、ひと通りの各式ばった謝罪を一方的に捲し立てた後。

 

「とりあえず、俺は責任を取ります」

「え、うん……えっ、責任⁉︎」

「……記憶、消してくれないか」

「あ、そういう意味……ね。びっくりした」

 

 脳味噌弄らせるのは心底嫌だけどな。咲耶はなんだか呆れたように、へらりと笑う。

 

「別に、いいって言ってるのに。もう、生真面目なんだから」

「いや、してくれ。してくれなかったら、俺は記憶が飛ぶまで自分の頭を殴る」

「……え? なんで?」

「なんでも」

 

 咲耶は黙り込んで、俯く。

 

「…………そう、そんなに? そんなに見苦しかった?」

「いや、論点はそこじゃないから」

 

 おまえが美人なのは絶対的真理だから。

 

「そういう話ではないのでつべこべ言わず、消してくれ。っていうか、消せ、マジで」

 

 顔を上げた咲耶は、ゆっくりと右目に手を当てて、

 

「ああ……うん、冗談でもなんでもないのね。そう、本気……そうなの……」

 

 

「じゃあどこが問題だったって言うのよばっっかやろぉぉ‼︎」

「死んでも言わねえよボケェェ‼︎」

 

 

 キッとこちらを睨みつける赤い右眼が光ったのを直視して、意識はそこで飛んだ。

 

 

 

 

 ──数分後。

 

「はーあ。これでいいんでしょ。これで満足なんでしょ」

 

 俺はきっちり、洗面室の扉を開けて以降の映像記憶が思い出せなくなっている、というか、記憶に『鍵』がかかっていることを確認。

 

「ありがとう。本当に。感謝してもし尽くせない」

「いやなんでそこで本気の謝意示してるのよ。意味わかんないわ。ひとりだけなんかすっきりした顔しやがってこのやろ……」

 

 けっ、と今にも悪態を吐きそうな荒んだ顔で、咲耶はソファの上で膝を組む。

 

「咲耶、話があるんだけど」

「なに? まだなんかあるの」

 

 じっとりと俺を見上げる咲耶に、言う。

 

「正座」

「え?」

「正座しろやァ‼︎」

「なんでわたしが怒られてるのー⁉︎」

 

 言いたいことなら山ほどある。

 

「まず、どこの馬の骨ともしれない男を家に上げてる間に風呂とかどういう了見で⁉︎」

「あんたは馬の骨じゃないわよ! 友達じゃん!」

「だとしてもだよ! 社会常識の話をしてるんだ!」

「だからあんたが常識語っても意味ないんだってばー! ていうかこれ逆ギレじゃない⁉︎」

「俺は謝ったし反省したからいいんだよ! 次こんなことがあったら俺は腹を切るからなマジで! 油断するなよ‼︎」

「自分を人質にするほど⁉︎ え、わたし⁉︎ これ本当にわたしが悪いの⁉︎」

「そうだよ‼︎」

「そ、そうなんだ⁉ あれぇ⁉︎」

 

 俺がやらかしたのと別の問題だ。それはそれ、これはこれとして。咲耶が根本的に無防備で隙だらけなのは致命的に悪い。さっきのあの挙動が、本当に悪い。……という話をしたいのだが、直接的な言葉を使うわけにもいかず。どうやら、咲耶には一切響いていないようだった。

 なんでこいつはこうなんだ……と頭を抱えていると。いつの間にか咲耶は俺の視界から消えていて、いそいそとポテトチップスとコーラを用意していた。

 

「何してんの」

「え、だって。この話はもう終わりでしょう?」

 

 言いたいことはまだあるが。

 

「まだ、寝ないわよね?」

 

 渋々と頷く。寝れないね。見たものは忘れたけど完全に目が冴えたからね。

 

 咲耶は棚から取り出したゲーム機のコントローラーを持ち、こちらを上目遣いで見る。

 

 

「……しよ?」

 

 

 共に取り出したゲームソフトのパッケージは、開いていなかった。複数人用のゲームは一緒に遊ぶ友達がおらず開封されることがなかったのだろう。うわっ、いたわしい。

 あまりのいたわしさに返事ができずにいると、彼女は不安そうに小首を傾げた。

 

「あそばないの……?」

 

 ……そういや、彼女の素顔を見るのは初めてだった。いつもよりも幼げで、部屋着のせいでふんわりとした印象で、忌憚なく言ってしまうと──かわいい。

 ……心臓、ちょっと黙れ。

 

「ああもう! するよ! クソッ、絶対にボコボコにしてやる」

 

 咲耶はぱっと目を輝かせた。

 

「勝負ね! ええ、負けないわ!」

 

 もう何もわかってない。本当に、この女は。なんにもわかっていないのだが……まあ、咲耶が楽しそうだからいいか、と思った。

 

 やはり、俺は結構、こいつに甘いと思う。

 

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