彼女は窓からやってくる。(旧題:異世界から帰ってきたら、窓から入ってきた魔女と青春ラブコメが始まった。) 作:さちはら一紗
これは、昔の話──昔の俺が、どういう人間だったのか、という話であり。
文月咲耶をどう思っていたのかという、かつての話だ。
……そして今の俺が〝何〟なのかという話であり。
彼女が俺にとって〝何だったのか〟という答えだ。
思うに、かつての俺というのは、随分と恵まれたやつだった。
人生に何ひとつ躓いた覚えがない。本当に覚えていないだけかもしれないが、挫折の感覚すらも残っていないから、実際に経験がなかったのだと思う。
両親が亡くなったのは物心つかない内だったから、あまり感じるところはなく。育ててくれた祖母も、あまり長生きはしなかったが。破天荒な祖母は死に様がアホだったので、悲しむどころではなかった。なんだよ、海水浴で崖から勢いよくダイブしてうっかり溺死って。無理すんなよババア。泣くに泣けねえ。
ともかくとして。劣等感や渇望とは無縁の十六年。不自由は何ひとつなく、望みの大半は叶ってきた。
だから、本当に。陽南飛鳥は普通のやつで、普通に、幸せなやつだったのだ。
一方で、同級生だった文月という少女については。真逆とはいかないまでも、俺とは違う人間だと思っていた。
普通ではなく「特別」の側。皆が振り向くほどの美人で、資産家のご令嬢で、婚約者がいて、人気者。雲の上の噂話ばかりを持っていた彼女は、誰も彼もに好かれていた。
でも俺は正直文月のことが苦手だった。なんだか嘘くさい笑い方をする子だったからだ。
──当時の文月には隙なんてなく、彼女の演技は完璧だった。ただ、その完璧さに、俺が違和感を覚えていたというだけの話だが──気にかかって。いつの間にか彼女を目で追うようになっていた。
だから文化祭の当日。文月が忽然といなくなったことに気付けたのだ。探している途中で、文月が誰もいない教室に入っていくのを見つけて。俺は大体を理解した。察しがいいのが唯一の取り柄だった。「ココアでも差し入れるか」と考えたのは自然な流れだった。
それは気遣いというより、正直下心だ。昔の俺は人好きで、同時に少し打算的だった。誰にでも、なんとなくぼんやりと「いいやつ」だと思われたかったのだ。
けれど。自販機でココアとコーヒーを買って戻り、教室の扉を開けた時。ひとりぼっちの、文月を見つけて。いつも周りの好意を受けて微笑んでいるはずの彼女がとても寂しそうに見えて──心臓が、軋んだ。
だからその時にはもう、この行いは打算の善意ではなく、俺がそうしたいからそうするのだという話になっていたのだと思う。
ほの明るくて薄暗い、空っぽの教室。祭りの喧騒は遠く、空気はしっとりと重い。
その窓際で、文月はカーテンに埋もれるようにして座っていた。
「……陽南君?」
入ってきた俺を驚いた顔で見た文月に、缶を二つ見せる。ココアと、ブラックコーヒー。
「文月は、どっちがいい」
窓辺にカフェオレの缶が置いてあることに気付いたのは、その時になってからだ。二杯目を差し入れてどうする、と自分の明後日の気遣いに苦虫を噛んだ。
文月は、少し迷って、
「コーヒーを、いただいても?」
「実はコーヒー飲めなかったから、助かる」
「飲めないのにどうして買ったの?」
「間違えたんだよ。ココアを押そうとして、隣のブラックを押したんだ」
その日の俺はたまたま、度が少し合っていない眼鏡をかけていたのだ。
「それじゃあ、陽南君は。わたしがココアを選んでいたら、どうしてたのよ」
「…………がんばって、飲もうと思ってた」
文月は、ぱちぱちと目を瞬いて、
「あはっ、なにそれ。そんな思い詰めた顔で言うこと?」
くすくすと軽やかに笑ったのだ。嘘の気配などカケラもない、綻ぶような、笑い方。
「ふふっ、おかしいの」
眼鏡の度が合っていなくて、彼女の顔をくっきりと見ることはできなかったけど。それでも、その日の笑顔が。
今まで見た彼女の表情の中で、一番綺麗だと思った。
「ありがと。陽南君て……いいひとね」
〝いい人〟なんて。誰に言われても同じだと思っていた、なのに。彼女に言われるのは、違ったのだ。
──心臓がまた、妙な軋み方をした
察しは、良い方だった。だから初めての体験の正体にも当然のように気付いた。
──ああ、なるほど。もしかしてこれが、いわゆる。恋、というやつか。と。
そして……困った。だって、叶うはずがない。文月咲耶には婚約者がいる。好意を伝えたとしても困らせてしまうだけだ。
この問いの
正解を、探して。程なく結論に辿り着く。
──この感情を、隠し通すことだと。
昔から、要領がいい方だった。というか、昔はそうだった。場の雰囲気を読むことは苦ではなく、いつだってうっすらと正解を引ける。人間関係に苦心したことはない。普通なりに小器用なヤツが、陽南飛鳥という人間だった。……今の俺にはちっともできなくなってしまったが。
だから、自分が文月咲耶に惚れてしまったと気付いた時に「正解」もわかってしまった。
「何も言わない」が正解だ、と。
微塵も好意をお首に出さず、ただの同級生として関係を終える。それがかつての俺がした選択だった。
──文月を、困らせないために。
別に、平気だ。初恋が即時に失恋になったことくらい。夕暮れの教室でたわいもない話をして、たった一度、嘘のない笑みを見た。それだけの関係だ。だから、そんなことは綺麗に忘れられる──はずだった。
はずだったのだ。
異世界で──あの、天上よりも遠い場所で。
両の瞳に暗い闇を湛えた彼女と、再会するまでは。
異世界の人間がまず俺にしたことは精神に干渉することだった。悪意を以って頭を弄ったわけじゃない。
そうするしか、なかったのだ。
何故ならばあの世界で敵が行使していた〝呪い〟というのは直に精神に効く。今さっき、咲耶が自らの呪いの反動で狂気に落ちたように。認識の改変とはそういうものだ。
だから脳味噌を弄ったのは必然。壊されないためには、事前に壊しておくしかなかったというだけの話だ。
──剥離した自我と、意識の断絶の二年。脳裏に刻まれているのは血と刃、戦うことを強いる声。
頼れる仲間もいなければ、守る価値を感じるものもなく、異世界の記憶はすべて戦場のそれ。
そこに悲しみはなく。そこに苦しみはなく。ただ、過ぎ去った情景が朧げにあるだけだ。
心に傷など残していない。
異世界の人類を恨んでいないし恨みたくはない。彼らは彼らで、世界を救うために到底考えも及ばないほどの犠牲を払い続けてきたし、俺はその〝なりふり構わなさ〟に敬意を払ってすらいる。
勝ち残るために手段を選ぶのは馬鹿のすることだ。あいつらはすごい。
時折思い出したように自分を取り戻すこともあったから、異世界での記憶はそれなりに残っている。
だからその時に、俺は何も恨まないと決めていた。
──聖剣を使えば使うほど、記憶も自我も曖昧になって。二年も経てば、自分の名前すら思い出せなくなっていた。それでも、かつて俺だった
その、はずだったのだ。
──最後の戦場で、彼女と、再会を果たすまでは。
『……陽南、君?』
目の前にいるのが文月だと理解したその時に。
──昔の感情が、吹き上がった。
解除される現世の「記憶」のロック、それは紛れもなく強い光のようで。
次に取り戻したのは、言いようの知れない怒りの「感情」だった。
『……こんなところで、なにしてんだよ』
おまえは、現世でしあわせに生きてるはずじゃなかったのかよ。
──ふざけるな。
怒り方を、思い出した。
思い出したままに、
既に
それを「文月咲耶についての記憶」から逆算して再構成した「自我」で上書きする。
使命に「機能」に全力で逆らって、叫んだのだ。
『帰ろう。帰りたいって言え。帰るんだよ!』
『俺と、おまえで!』
『──今からすべて、終わらせて‼︎』
そして俺たちは手を組んで、ついでのように魔王をぶった斬って、こちらを逃すまいとする人類を振り切って、現世に帰ってきたのだ。
……当時の俺はまだ、ほとんど怒り以外の感情を取り戻せていなかったけれど。意外と、人間のフリはなんとかなるものだった。ちょっと変なキレ癖がついてしまった上に向こうでの彼女との会話がすべて険悪になってしまったことは、悪かったと思っている。
でも、勝ったのだ。ちゃんと勝って、自我を押し通したのだ。
だから俺はあの世界に憂いも未練も、ひとつだって残しちゃいない。
確かに終わった。終わらせた。その認識が、自覚がある。
今更「普通に生きる」なんて厚顔な目標を掲げることに、なんの躊躇も恥じらいもなかった。
だって、ほら。結構がんばっただろ、俺。ついでとは言えちゃんと魔王倒したんだぜ?
なんだかんだと言って、クソ異世界に義理は果たしてやったんだから。その上で咲耶まで助けたんだ。絶対褒められていい、誰かに。誰も褒めなくても俺が自分で褒めるからいい。空から三百万降ってこないかな。学費にする。
……いや、義理っていうか。聖剣はパクったのは悪いと思ってるけど。外せないし。
こっそり帰ろうとしたら、めちゃくちゃ異世界人に追いかけられたの、絶対に聖剣パクったせいだよな。
あとは魔女生かすのもいけなかったらしい。
知らんわ。知るかボケ。勝手に呼び出したのはテメェらだ。今度はこっちが好き勝手にやって、何が悪い。
──ここが、この場所こそが、完全無欠のハッピーエンドだ。そうだろう?
……そう思って、現世に帰ってきたのだ。
だというのに、待ち受けていたのは「帰る家すらない」という現実だった。
いや、もう。噴飯。
◇
深夜。病院を抜け出して、辿り着いた先の更地。
その時の俺は二年の間にすっかりと錆び付いた感情を無理矢理に駆動させている状態で。感情の出力がわかっていなかった。
俺は、ひとしきり笑って、笑った後に、途方に暮れた。
だって、そうだろ。かろうじて覚えていた
ならば。
……何を持って、自分の存在を証明すればいいのやら。
一度、異世界で自我がゼロになっていたことに変わりはなかった。取り戻した彼女への感情と、僅かな記憶。それを由来に再生した「自分」が不確かな存在であることは、わかっていた。その「記憶」すら、じくじくと自分を責める。
──誰だよテメェ。
──知らねぇよ。
──とっくに終わってんだよ、
まっさらになった地面が、そう言っているように聞こえた。
……もう、笑うしかないのに、笑い疲れてしまった。
「飛鳥」
呼びかけに、ゆっくりと振り返る。いつの間にか、咲耶は近くの自販機で飲み物を買っていたらしい。差し出された二本の缶。
「どっちがいいか、選びなさい」
「ココアと……何、おしるこ? なんだその組み合わせ」
咲耶はしかめっ面のまま、目を逸らした。
「…………見間違えたのよ」
「いやおまえ視力いいじゃん」
咲耶は時々、絶望的にどんくさかった。
「るっさい! あんただって、ココアとコーヒー間違えたことあるくせに‼︎」
──それは、あの日の教室での出来事だった。
「…………覚えていたのか」
「な、何よ。忘れるわけないじゃない」
うろたえる彼女を前に、立ち尽くす。
──ああ、アレは本当に、あったことだったんだ。
俺を知っているのが、
記憶の真実性が保証されたことが。
それをよすがにする不安定な自我が、少しだけ地に足ついたことが。
何よりも、彼女が、覚えていてくれたことが。
──どれだけ、救いだったか、なんて。
きっと、俺以外の誰にもわかりはしない。
「……いや、でも汁粉はねーわ。どうやったら見間違うんだよ。全然ちがうだろ。節穴か?」
「うぅ……!」
節穴の自覚はあるらしく、悔しそうに呻きながら俺にココアを渡そうとする。
「いいよ。寄越せよそっち。おまえは、甘すぎるのは苦手そうだから」
咲耶から小豆色の缶を奪い取る。意地っ張りな彼女はそれを奪い返そうとするから。さっさと開けて口をつけてしまう。そのまま、道端にしゃがみ込んだ。
「はは……なんだこれ。バカの甘さだろ」
「どうしたのよ」
「いや……味がするなって」
「当たり前でしょ」
違うよ咲耶。そんなこともずっと、当たり前じゃなかったんだ。
「…………寒いな、今日」
「今まで気付かなかったの? 本当、ばかね」
違うんだ。おまえがくれたものが、あまりに温かかったから。今、気付けたんだ。
──あの時は、まだ。それを伝えるための言葉も。そう伝えることが許される関係も。俺たちの間には、なかったのだ。
本当に。こちらに戻ってきてから、与えられてばかりだった。それに報いる方法に、悩み続けるくらいには。
とっくに、救われていたのだ。そして救われた後に、恐ろしくなった。
俺は所詮、陽南飛鳥の〝成れの果て〟だ。「正しくない人間」だ。
──たとえ彼女が昔の俺を、好きだったとしても。こんな
窓から入ってくるんだよ、なんか。こっちの気も知らず。わけがわからん。
そんなのだからこっちの葛藤とか全部なし崩しになってしまった。
なし崩しになってキレてるうちに、なんか大丈夫な気がしてきた。
意外と大丈夫じゃないか? 自我。俺は結構人生が上手いし、なんとかなるだろ。そんな気がする。
いちいち悩んで考えて、というのは性に合わなかったのだ。往生際は、見極めなければならない。
突き放しても──それでも、咲耶は俺に会いに来てくれたのだから。こちらも、誠意を返すべきだ。
いい加減に向き合う覚悟を決めて。
俺は、彼女に手を差し出して。
ここからもう一度。
初恋も敵対も全部、まっさらにして友達から、正しい関係を積み上げていこうと決めたのが。
ほんの八日前の屋上での、出来事だった。