彼女は窓からやってくる。(旧題:異世界から帰ってきたら、窓から入ってきた魔女と青春ラブコメが始まった。) 作:さちはら一紗
並んで歩きながら海へと向かう。
天気は八割の曇り。時刻は夕方。水平線の西ではどろっとした灰色の雲を、夕陽の橙や茜が鮮やかに染めている。〝逢魔が時〟という言葉が脳裏に浮かぶような、まだらの空だった。
海岸には俺たちの他には誰もいない。まだ梅雨入り前だし、時間も時間だ。
砂浜に降りた咲耶はハイヒールを脱いで、裸足で六月の海に飛び込んだ。
「冷たい!」
「そりゃあな」
「飛鳥は?」
「俺はいいや。寒そうだし」
ぱしゃぱしゃと波を踏む咲耶の隣。俺は砂浜の波打ち際ギリギリを歩く。頑丈が取り柄の靴は多少波を踏んでも濡れない。
咲耶は片手では靴をストラップから吊り下げ、片手ではスカートを摘み上げている。裸足になった咲耶は急に背が低くなって、視線の高さがもう合わない。隔てる波の先の彼女が、ずっと遠くになったような気がする。
「海がちゃんと青いわ! 帰ってきたって感じする」
「そうだな」と相槌を打つ。あの異世界は、空も赤ければ海も赤かった。
俺はスマホを取り出した。カメラのスクロールには今日撮った写真が馬鹿みたいに溜まっている。
「咲耶、こっち向いてくれ」
画面越し、カメラの枠の中央で彼女は振り返る。強い潮風が吹いてスカートが膨らむ。カーテンのような幾重の薄い布地が、夕陽を透かす。風に流れる髪の隙間から覗く、無邪気な笑顔。瞬間、シャッターを切る。
「撮れた?」
「……ああ、うん」
最近のカメラが高性能でよかった。でもどんなカメラでも、この景色を切り取れはしないだろう。写真は一枚だけで諦めて、しかと両目に焼き付ける。
「やっぱり海はいいな。来てよかった」
咲耶は、ぱしゃりと波を踏む。
「わたしも。こっちの海はまだ好きで安心したわ。見飽きていたのよね、赤い海」
「魔王城、海の上だったもんな。カリオストロ城みたいに」
「……? ああ、わたしはモン・サン・ミッシェルだなって思ってた」
「修道院じゃんそれ」
「あは、悪の巣窟になぞらえるのは失礼か」
俺は、ざくりと砂浜を歩く。
「城砦に堀は大事だけどさ、周りが海じゃ堀が深いどころの話じゃないんだよなー」
「ええ、
「でも
「そりゃあ。
「
「
「はは。我ながらどうやったんだか。多分今は無理だ」
「ほんと、無茶やってたわねわたしたち」
なんとなく昔話の最中は、お互い顔を見れない。隣にいるのが、
「今思うとわたしが負けたのって必然よね。……あんたと違って、実戦経験なんてほとんどなかったもの」
「ああ魔女の役目って本来、後方支援だっけ?」
「そう、お城に引き籠もって竜に強化魔法をかけ続けるだけの、簡単なお仕事」
「数度とはいえ、よく前線に出てこれたな」
本来、〝魔女〟は戦う力を持たないと聞いていたので、俺も驚いたものだ。
彼女はどこか、自嘲するように言う。
「……わたし、あの世界で一番悪い魔女だったのに。人殺しの経験すらないんだわ」
「……誰も殺さなかったなら、別におまえは悪くないだろ」
「は? 何それ。わたしにだって
「その矜恃はよくわかんねえよ」
「あんただって勇者のプライドとか……」
「無いね!」
「無いの!?」
たまに俺と彼女は思考や価値観が噛み合わないと感じる。
特に敵だった頃の話をする時は、強く。
「ねえ! もしも戻ることになったら、あの世界! 滅ぼしても、いーい?」
潮風と波音にかき消されないように、彼女が声を張り上げる。
夕陽を流れる雲が覆い隠す。彼女の頬に暗い影が落ちる。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳。片目が、赤く瞬いた。
「駄目」
「なんで?」
「世界を滅ぼせるような
「……そっか。ならしょうがない。言うことを聞いてあげます」
あっさりと引き下がった。多分冗談だったんだろう。
だが──もしかして。彼女はまだ、あの世界を滅ぼしたいと思っているのだろうか?
「なぁ。おまえはさ、──なんで魔女になったんだ?」
振り返った彼女はあきれたように笑った。
「それ、聞く? あまり気持ちのいい話じゃないわよ」
「……いや。言いたくないなら、いいや」
「うん、ごめんね。……でもひとつだけ、あなたに言っておくわ」
海の向こう、ライトアップし始めた橋の明かりが瞬く。輝きを背負って、真っ直ぐに、凛とした声で。彼女は宣言する。
「──たとえ魔女になっても、わたしはわたしよ。あなたが文月って呼んでくれていた時から、その名前になるずっと前から。わたしはきっと、何も変わっていないわ」
俺は頷く。
「ああ、わかってるよ」
「──おまえが、昔からバカだってことは」
「…………は?」
咲耶はひくり、と頬を引き攣らせた。
「バカって言った?」
「言った」
「このっ、風邪引けクソ野郎っ!!」
「うわっ水飛ばすな! つめたっ!?」
水面を蹴る白い脚が弾く水滴を避ける。
「そういうところが! バカなんだよ! バーーカ!!」
「意味わかんない!! わたし今、結構大事なこと言ったでしょ!?」
いや、なんか真面目な話しててムカついたから。つい。
咲耶がやけくそのようにもう一度、水を蹴ろうと足を振りかぶる。
──その時。
少し、大きな波が来た。
「わっ、きゃ……!」
咲耶は押し寄せた波と不安定な砂に足をとられて、ぐらりとバランスを崩す。
「危ない!」
俺は濡れるも構わず海に踏み入り、手を伸ばし──けれど。彼女は、俺の手を取るのを躊躇した。反射的に差し出してしまったのが右──剣で出来た手の方だったからだ。
彼女は俺の右側を絶対に歩かない。たとえ包帯越しでも近付けばひりつき、直に触れれば肌が焼ける代物だ。今日だってずっと、互いの距離には気を遣っていた。
躊躇は当たり前。──
わずか一瞬。伸ばした手が届くことはなく、すり抜ける。
時間が止まったような錯覚の後。盛大に、水飛沫が上がって。
咲耶は波間に落っこちた。
慌てて砂浜に引っ張り上げる。今度はちゃんと左手で。
「……その、悪い!」
「だ、大丈夫。わたしが勝手に転けただけだし」
違う。どう考えたって、今のは。
ずぶ濡れの咲耶は「くちっ」と小さくくしゃみをする。スカートは透けて足に張り付き、いやに艶めかしい。あられもなく濡れた胸元には、下着がくっきりと浮かび上がっていた。
まずいまずい、とりあえず俺の上着を着せるか、ああでも買ってもらったものをいきなり海水で濡らしては駄目だ、と朝に着てきた方のパーカーを紙袋から引っ張り出して、咲耶にぶん投げる。
しかしどうする。このまま帰るわけにはいかない。
丁度携帯が震える。通知は芽々からだった。あいつはよく、くだらない写真を送ってくる。『見て見てひーくん! カエルの死体! もずのはやにえ!』とか。小学生男子か?
だが、丁度いい。俺はそのまま、芽々に電話をかける。自分で知恵が足りないなら、誰かに相談すればいいだけの話だ。
『わっびっくりしました。今日デートじゃないんです?』
「なんで知ってんだよ」
『サァヤのデート服、選ぶの付き合ったので』
「ありがとう芽々」
めちゃくちゃかわいかったです。さっき俺が台無しにしたけどなぁ! クソッ!
『それで、何かあったんです?』
話が早くて助かる。かくかくしかじかを説明し、知恵を仰ぐ。芽々は『なるほど』と電波越しに相槌を打って。
『確かお二人って、十八歳ですよね?』
「そうだけど?」
沈黙。
『…………ラブホ行けば?』
…………。
「ふ、ざっけんなよ寧々坂ァ! 高校生だっつってんだろ!?」
『いや留年じゃん。てかバレな……』
ブチッと通話を切る。最悪だ、俺の周りの女はどいつもこいつも品性がない!
「クソが!!」
「……え、何? どしたの。何キレてるの?」
だが、咲耶をびしょ濡れのままにしておけないのも確かである。……仕方がない。
「おい咲耶。風呂、行くぞ」
「…………へっ!?」
◇
さいわい目的地はすぐだった。建物の明かりの前で、咲耶は言う。
「ねえ、ここって……」
「──銭湯だよ」
「なんで??」
「は? 風呂つったら銭湯だろ何言ってんの?」
「でも電話口でホテルって聞こえて……」
「は? ホテ、何? そんな日本語ねえよ。辞書引いた?」
「すっごい無理がある誤魔化しね? ……いや、あんた銭湯入れないじゃん」
「だからおまえひとりで入れよ」
「じゃあホテルで良くない?」
「うるせえ!! いいから
「あんたテンションおかしいんですけど!?」
こっちはもうヤケなんだよ!!
そして俺は銭湯の外で、咲耶が風呂を上がってくるのを待っていた。
何故わざわざ外かというと頭を冷やすためだ。
なんか火照ってるし。あー、くそ。絶対寧々坂のせいだ。(しばらく芽々って呼んでやらない)
日はもうすっかりと暮れていた。海辺なので潮風が強い。近くの水道で洗った足元が冷えて、くしゃみが出る。
「お待たせ」
思ったよりもずっと早く咲耶は戻ってきた。急いで乾かしたのだろう髪はほのかに濡れたまま、くるりと団子に纏められている。晒された首筋に、余った髪が張り付いている。
ちなみに、濡れた服はどうしたかというと。下着は丁度買ったのがあったが、着替えは魔法でも持ってこれなかった。実は俺たちの住む町を出ると、何故か咲耶はあまり魔法が使えなくなるのだ。
だから着替えには、俺が今朝着てきたTシャツを貸したわけだが。
「その……変じゃない……?」
咲耶は素顔を恥じらうように手で隠し、こちらを伺う。
どう見たってサイズはぶかぶかだった。なだらかに身体のラインを覆い隠しているのが、かえって肢体の華奢さを強調する。背丈は十センチしか変わらないのに、体格は、差がこんなにも出るのかと驚く。
……女の子なんだな。
いや、知ってたけど。下手に露出が高いよりも、なんだか意識してしまう。
「……いえ、確実に変よ。あんたの服が変だから」
「そんなことはないさ。無人駅は変じゃない。おまえもよく似合ってる」
「褒められて屈辱なんだけど??」
咲耶は「うぅ」とか細く呻いて、覆った手の隙間からこちらを見る。
「……あなたには一番出来のいいわたしだけを見てほしいのに」
……こいつ。
溜息を飲み込んだ。
「いや、おまえは何着ても似合うし」
「ええ?」
「普段からジャージとか着てろ」
「喧嘩売ってんの!?」
「は? ジャージめっちゃいいだろうが」
「わからないわ!」
わかれ。もう少し心臓に優しそうな、露出の低いラフな格好をしろ。
今みたいな。
……と思ったら、脚が丸見えなことに今気づいた。 Tシャツをワンピースみたいに被っているせいで、裾からはすらりと長い足が伸びている。
建物の明かりにの元、湯上りの
丈にゆとりはあるし、俺がさっきまで着てた薄手のコートも貸しているから、別に中身は見えないのだが。それはそれとして、大丈夫か……? 下履いてないの、本当に大丈夫かこれ……。
「あ、買った下着見る?」
「見ない!!」
シャツめくるな!
「……すんっ」
「嗅ぐなコラ!!」
なんで嗅いだ!?
「ふふ、飛鳥の匂いがする」
「ハァ??」
クソッ、こんなことなら朝に山とか行くんじゃなかった!
◇
「にしても。デートの終着点が銭湯とは世話ないな」
苦笑する。
「ふふ、本当に。ごめんなさいね。……でも、わたしは楽しかったわ」
「ん。俺もだ」
夜空には雨雲が立ち込めている。
「雨が降る前に帰るか」
「ええ、駅まで歩きましょう」
「そういや、デートは勝負だなんだって言ったけどさ。勝利条件はなんだったんだ?」
「ええと、相手を楽しませたら勝ちで、楽しんだら……あれ? 勝ち?」
「決めてなかったのかよ。おまえ、時々すげー適当だよね」
「ま、まあ。両方勝ちってことで、ね?」
「はいはい。……いや、おまえ本当に勝つ気あった?」
咲耶はぎくっとした。
……なるほど? 勝負だのなんだのは照れ隠しだったらしい。
咲耶は実はそこまでアホじゃない。嘘と演技が時々、明後日なだけだ。
……なんだよ、ったく。面倒くさいやつだよな。
まあでも。その面倒くささに気付いている俺が、先回りすればいいだけの話だ。
道には他に、誰もいなかった。海にかかる橋と街灯と車のライトが照る、ほの明かるい道で立ち止まる。
隣の咲耶がつられて止まり、こちらを不思議そうに見る。
「ほら」
左手を、差し出した。今日、ずっと俺の手を見られていたのには気付いている。
「おまえが嫌じゃなければ、だけど」
物理的距離をはかりかねた一日だったから、予防線を張らずにはいられなかった。……格好悪いな、俺。
咲耶は、ふっと微笑んで俺の目を見て。
「嫌なわけ、ないじゃない。……あなたに触れたいとずっと思ってる」
囁くように答えて。おそるおそる、と細い右手を重ね合わせる。崩れそうに柔らかい彼女の手を握り返した。
「体温、高いわね」
「おまえはひんやりしてる」
別に、触れたことくらい何度もあるはずなのに。ただ普通に、手を繋ぐ。それだけのことが……とても特別な気がした。
同じ歩幅で歩き出す。
「次のデートはもっと上手くやるよ」
「わたしも、あなたをもっと楽しませてみせるわ。でも……」
言い淀む。多分、同じことを考えている。
──次は、一体いつになるんだろう。
思い出す。そもそも、このデートの主旨が〝前哨戦〟であることを。
あーあ、戻りたくねーなー異世界。
……いっそ向こうから、来てくれないだろうか?
早く全部、上手くいけばいいのに。
……いや。上手くやるんだったな。俺が。
握った手の感触を、確かめる。
「次はさ! 多分もっと夏だから。もう一度、海行こうぜ。リベンジだ」
「飛鳥、泳げるの? 腕、沈まない?」
「カナヅチになろうとも俺は海が好きだ。問題ない」
「ええー?」
「知っているか、咲耶。海の家で食べるカップ麺は世界一美味い」
咲耶は軽く、鼻で笑う。
「あんたも大概、ジャンクじゃない」
「ちげえよ。俺は情趣を大事にしてんの」
「それはわかんないけど」
「笹木や芽々も誘ってさ、行こうぜ。浜辺で水鉄砲とかいいじゃないか。風情がある」
「え、そう?」
「銃火器は刀の次くらいに浪漫だ」
「あんたって……時々、男の子よねなんか。なんかばか」
「は? カッコいいだろ。何故わからん……」
「いいわ。その約束、してあげる」
「海行こう」
「うん」
「夏になったら」
「うん」
「絶対だ」
「うん」
指切りよりも硬く、手を繋いで。
「ね、飛鳥」
囁くように名前を呼ばれる。街灯の下、視線はすぐ近く。
「もし、向こうに戻ることになったとしても……ひとりで行っちゃダメだからね」
真っ直ぐにこちらを見つめる両目。きゅ、と強く握り返された手は、離さない、と言われているような気がした。
ふっ、と笑いが漏れる。
「バレたか」
「バレたか!?」
「冗談だよ」
「……本当に?」
「何故、信用がない?」
「──約束。置いていかないでね」
「──ああ、約束だ」
空は暗雲立ち込め、夜の海は真っ黒。
でも、悪くない。
どうせ、すぐに夏は来る。