彼女は窓からやってくる。(旧題:異世界から帰ってきたら、窓から入ってきた魔女と青春ラブコメが始まった。) 作:さちはら一紗
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『おとなしく寝てなさいよ!』と言い残し、ひとりで学校に行った、その放課後。
わたしは自分の家には帰らず、そのままあいつの部屋に行く。鍵は貰ってないので不法侵入だけど、それも慣れたことだ。
──いっそもう、わたしと一緒に住めばいいんじゃない? どうかしら、名案だと思うのだけど。
「寝てる、か……」
部屋の様子をうかがってほっと息を吐き、適当に買い込んだ差し入れを置く。わたしが入ってきても起きないなんて、珍しい。
わたしは枕元に座り、あいつの顔を覗き込む。髪を整えていないせいか、珍しく深く眠っているせいか、いつもより幼く見えた。昨日ずっと年上に思えたのが嘘みたいだ。
きゅう、と心臓が鳴いた。唇が熱を持ち出す。
前にも似たようなことがあったけど、どうやらわたしは彼の寝顔を見るとキスをしたくなるらしい。……本当に、はしたない性分だ。
──今ならバレない。バレないわ。バレないかなぁ。
でも、たとえバレたとしても。怒られたりしないでしょう?
……ならいいんじゃない? 我慢しなくても──ええ、そうよね。
規則正しい寝息は、犯行が完璧に済むことを保証する。ごくりと生唾を飲み込んだ。
──どこにキスを落とそうか?
額は駄目だ。傷がある。瞳は駄目だ。澱んでる。唇は駄目だ。それは『恋人』の領分だ。
ならば頬? でもそれは……唇よりも恥ずかしい気がする。
わたしは唇へのキスは幼い頃から見慣れている。趣味の映画や恋人の多かった母親で、だ。そのせいか、そこまで羞恥することのほどでもない気がする。所詮キスなんてお芝居みたいなものじゃない?
でも頬へのそれは、なんだか他の場所とは違うように思う。外国では挨拶程度、親愛の意味だとしても。逆に特別、わたしにとっては〝純粋な愛情表現〟という感じがするのだ。
それは必要や欲望の介在しない、親しみと、慈しみ、混じり気のない愛情の印。
それを……唇よりも殊更に、無警戒な場所になんて……。
──そんなはしたないこと、できっこない!
はっと我に返る。いつの間に顔を寄せたのか、間近にあいつの寝顔があって、勢いよくのけぞった。
……いや、そもそもなんでキスしようとしてるんだわたしは!
しません。しないったら。するわけがないでしょ。
顔を覆って溜息を吐く。息で唇の熱を冷ます。
──あれ? もしかしてわたし今……ちょっと
◇
目が覚めると、視界一杯に咲耶の顔があった。
「うわっ!?」
近い!!
「あ、起きた?」
「……おまえ、何してんの?」
襲われるところだったのだろうか? なにせ人が寝ている時にやることなんて、寝首を掻く一択である。怖い。
「安心して。何もしてないから。ちょっと寝顔を一時間くらい見てただけよ」
「それはそれで怖いな!?」
おかしい。いつもならあまり近くに咲耶がいると、目が覚めるはずなのだが。……そんなに深く眠っていたのだろうか?
「熱下がったみたいね」
「え? ああ、うん」
そう言われてようやく思い出す。風邪引いてたなそういや。
半端に寝ぼけたまま、おぼろげな今朝の記憶をひとつひとつ確かめ──。
…………。
「……俺、すごいこと口走ってたね?」
「うん。反省しなさいね」
やばい、顔が見れん。体調が傾くと理性がどっかに飛んでいくらしい。
逃げるように立ち上がる。
「ありがとう! もう大丈夫だって! だからほら、帰れ! うつるぞ!」
「わたし風邪ひかないし」
「バカだから?」
「あらぁ、吠えるわね! 元気そうで何よりだわ!」
口が滑った。
咲耶はむすっと不貞腐れる。
「ちょっと心配した」
「ごめん」
「お茶でも淹れるわ。待ってて」
そう言って、当たり前のように咲耶はウチの台所に立った。その光景に、なんだか不思議な気分になる。……咲耶が俺の家に、いる。
別に珍しいものでもない。毎朝来ている。だが、何かいつもとは違うのだ。
そう、逆だった。いつもは咲耶は客として俺の部屋にくるわけだ。当然俺が茶を淹れる側。だけど今は、俺が目が覚めたときからから部屋に咲耶がいて、当たり前のように薬缶に火をかけている。その光景はなんだか……嫁っぽいというか──いや、これまだ頭茹ってるな!?
ものすごく馬鹿なことを考えてしまった。顔でも洗ってくるか。
と考えて気付く。
一時間もだらしのない寝顔を見られていた……それは、ものすごい恥ではないだろうか?
慌てて身支度を整えた。着替えも死角で済ます。
あまりその、どうしようもない姿は見られたくないのだ。特に咲耶には。
いやもう晒したけど。これ以上は流石に意地というものがあった。
◇
「復調に半日もかかるなんて不覚だ……」
「ま、風邪を引くなんて最近人間らしくなったんじゃない? 五点加点ってことで」
想像を絶する採点の甘さだった。風邪引いて加点なんてあり得ないだろ。
……まあ
雨は穏やかに降り続いている。この部屋は窓が大きいので、雨でも部屋は充分明るかった。電気を点けるまでもない。咲耶は卓袱台に頬杖をついて、ふふ、と笑う。
「それに、たまには弱るのも悪くないわ。今なら勝てそう」
「だからなんだよその血の気」
にしても、ただの風邪にしてはおかしかったような気がする。あそこまでぼんやりとするものだっただろうか?
考えごとをしながら湯呑みの茶を啜る。
「ま、わたしのせいで風邪を引かせたようなものだから。責任は取るわ」
「責任?」
咲耶は正座してぽんぽんと膝を叩く。
「どうぞ?」
「……何が??」
「膝枕だけど。見たらわかるでしょ?」
「なにを言ってるの?」と首を傾げる咲耶。
なるほど、と頷いて。俺は空になった湯呑みを卓袱台に打ち付けた。
「わっかんねえよ!! 『何言ってんの』はこっちのセリフだ! 脈絡がなさすぎる!」
咲耶はきょとんとして、「つまりね」と説明を始める。
「あなたが弱っている今が勝ち時でしょ?」
「そうだね」
「でも病み上がりに喧嘩を売るのははしたないわ」
「確かにな」
「だから、精神的優位を取ることで勝つべきよね」
「何言ってんの?」
咲耶は大真面目な顔で言う。
「つまり。お詫びを兼ねつつ
完璧な論理だと主張する満面。瞳は得意げに輝いていた。
……なるほどな。甘やかす、はちっともわからないが。膝枕というのは精神的優位を取るのに合理的だ。無防備に首を晒すわけだから、その体勢を取らせた時点で『いつでも寝首を掻ける』
「いやおかしいだろ!」
筋が通ってるわけないだろ!
「膝枕はイヤ?」
「違う!!」
立ち上がった俺を、咲耶は見上げて首を傾げる。……まさかこの女、本気でわからないのか?
咲耶は座り込んだまま、何かを考えるように俯いて。
厚い胸部装甲を、ふに、と自らの手のひらで持ち上げた。
「……やっぱり、胸の方がいい?」
白いブラウスの山は、装甲などと言って誤魔化せないほど柔らかにたわんだ。
「は?」
マジでなに言ってんのこいつ?
「だってあなた、見てるじゃない。普段から、わたしの胸」
沈黙する。眉間を揉んだ。
「いやっ、それは……好きな子の胸は、見るだろうが!!!」
六畳間がシンとした。嘘だ。雨音はなんかいい感じに窓を打っている。侘び寂びだなぁと現実逃避するが、長くは持たない。
「…………すみません」
正座した。
駄目だ、今日。病み上がりで理性が効いてないから口が滑る。あんな最低な告白あるかよ。言い訳としても見苦しい。死ね俺。
「い、いいの! わたしも……その……似たようなもの、だから!」
なにが? 咲耶も俺の胸を見ているということか? 怖。男の胸を見て何が楽しいんだ……。いや、妙な暴露したからそれは見るか。俺でも見るわ。
……死ぬか〜!
「ちょっと恥ずかしいけど、別にそういう目で見られても……」
妙な気まずさに支配された空気の中。咲耶は少し目を背けて、か細い声を出す。
うっすら頬を染めて、見上げる。
「──あなたになら……いいわよ?」
一から十まで何を言ってるのかわからなかった。
困惑している間に、咲耶はするりと制服のリボンを解き、ぷちぷちとボタンを開け始める。白い、餅のような肌が柔らかに晒される。目の前の光景の意味がわからなすぎてガン見した。
「いや、よくねえよ!!」
我に返る。
「嫁入り前の娘が肌を晒すなこの、バカ!!」
「どうして? いずれあなたに嫁入りするのに?」
「急に何言ってんだ!!?」
「あ、婿の方が良かった?」
「ちげえよ! 全部違う! ……な、なんでおまえ! そんなことを! こんな状況で言うんだよ大馬鹿が!!」
最低だ! 咲耶には情趣がわからない。こいつはいっつも大事な話を微妙なところでする! 論理も頭も品性も貞操観念も全部おかしい!
ボタンを全部外そうとしていた咲耶の腕を咄嗟に掴む。
「とりあえず、脱ぐな!!」
「きゃっ」
そのまま勢い余って、重心は彼女の後ろへ。畳の上にもつれるように倒れ込む。身体の接触だけはぎりぎりで回避した。だがその距離はほとんどゼロと言ってよく、重なり合う視線と無言の間がじっとりと重かった。
雨脚が強くなる。日が暮れて、部屋の中が暗くなる。
探り合うように見つめる。
「……いつかもあったなこの構図」
ずっと物騒で余裕のない喧嘩ばかりしてきたから、組み伏せるくらいは別に、初めてではない。
だが、見える景色が違う。潤んだ瞳に、ブラウスの合間から溢れるレースと、ほのかに赤い張り詰めた柔肌は、けして彼女の戦装束たるドレスの時とは、大気越しに伝わる温度が違う。
そして──普段の言い合いで済ますにも、少し喧嘩を売られすぎていた。
「……退かないの?」
頬を赤らめながらも、彼女は挑発的に口角を上げる。精神的優位を取ると宣言した通り、ここで引くつもりはないらしい。買い文句で返す。
「退いて欲しいなら退けって言えよ」
咲耶は何も言わなかった。
……こいつ。
危機感がないのか。舐められているのか。わかっていないのか。それともわかっていてやっているのか。
正解が、わからない。
……難しく考えるのはやめだ。あえて勝ち負けだけを考える。
ここで挑発に乗ってまんまと胸を揉んでみろ。それは確実に負けだ。据え膳を食わないことより、大人しく食うと舐められている方が恥なのだ。俺は痴女には屈しない。
勝負の勝ち方はシンプルだ。相手の思惑通りに運ばせないこと。不意を打ち、意表を突くこと、予想を裏切ること。たかが恋愛だって、やるべきことは同じだ。
──恋人未満で、どこまでが許される?
──どうせ将来的に付き合うならば、いいんじゃないか?
膝に、胸に、触れていいと彼女は言う。感情の確認、合意はとっくに済んでいるのだ。
──最終的に責任を取るならば、今、唇に触れて何がいけない?
いけない理由なんて、ないだろう。
掴んだ手を離す。咲耶は逃げなかった。
顔を近づける。咲耶は目蓋を閉じた。
合意の返答と解釈。
だから、彼女の唇に、触れようとしたその手前で。
「…………あっ」
数ミリ先の唇から小さな吐息が漏れた。
訝しんだその瞬間。
咲耶は目を見開いて。
「──ごめんなさいっ!!」
ゴンッ! と強い衝撃が脳を揺らした。
触れたのは唇ではなく額同士、つまり。
──全力で、頭突きされた。
「痛っっで!!?」
「っぅ〜〜!」
全力の頭突きに二人して畳で悶絶する。
今、絶対割れた! 絶対脳味噌真っ二つに割れた!
「おまえ、いきなり何を……!!」
ていうかこの威力、咲耶の方は額割れてないか!? 大丈夫かよ……。
チカチカする視界の中で、隣を伺う。咲耶は酸欠の真っ赤な金魚みたいな顔で、血の滲む額そっちのけに両頬を押さえていた。
「あ、あああ、あ……、わ、わた、わたし、なんてことを……っ」
その様子に、ようやく冷静になる。よく考えてみれば──さっきの自分は、最低だったのでは?
「悪い、その、さっきのは!」
「違うのっ!!」
謝罪を振り切って、咲耶は立ち上がる。
「……ごめんなさい!! 近付かないで!!」
そう叫んで、彼女はそのまま窓から逃げ帰った。
「…………」
流石に追えない。俺は保冷剤を取りに行って、そのまま冷凍庫に頭を突っ込んだ。頭がよく冷える。
──冷静に考えて、付き合ってもいないのに接吻なんぞ許されるわけがなかろうに。
「……よし。切腹するか」