彼女は窓からやってくる。(旧題:異世界から帰ってきたら、窓から入ってきた魔女と青春ラブコメが始まった。) 作:さちはら一紗
病室から出て、寧々坂芽々はぐんっと大きく伸びをした。
「あーー、肩凝った! 病院って辛気臭くてボケ倒さないとやってらんねーです」
……と、叫べるなら叫んでいただろう。
だが芽々は時と場合を弁える人間なので、病院で大きな声を出したりしない。
ところ構わずイチャつきだす年上二人とは違うのである。
日曜昼間の病院はどこか異界の空気だ。
物怖じしない芽々とて、馴染みのない場所に遠慮も気後れもする。
──非日常の真っ最中だったあの金曜日よりも。芽々にとってはこの日曜日の方が、ずっと息苦しい。
そのまま逃げるようにスタスタと歩いて、売店に向かう。
「マコ、帰りますよー」
「え、おれまだ会ってないんだけど」
幼馴染の慎には売店で待ってもらっていた。
なにせ経緯が経緯なので、何も知らない幼馴染には飛鳥との話を聞かせるわけにはいかなかったのだ。
魔王の洗脳こそ生まれもった耐性により回避したが、芽々がその意図に従ったことに変わりない。
嘘と誤魔化しと演技のこの一ヶ月分の精算をしなければならなかった。
──感じる友誼は本物だったから。
そのために面会に一番乗りをし、付き合わせた慎は諸々の話(というか反省会)が終わってから呼ぼうと思っていたのだが。
「咲耶さんが来てしまいましたからね。こーゆーのは二人きりにした方がいいのです。噛まれますよ」
「噛まれ……? わかった」
病院から出ると異様な日差しが目を刺した。
芽々は「ひぇー」と目を瞬いた。
色素の薄い目には少し眩ぎる青空だった。
梅雨も明けた。六月ももう終わる。
(一ヶ月、あっという間でしたね……)
病院の前を行き交うタクシーが止むのを待ちながら、芽々は眼鏡を外す。
裸眼になった途端、黒いタクシーは道路をゴロゴロと転がるダンゴムシに変わった。
いつも通りの幻覚だ。相変わらず自分に見える世界はイカれてる。
(……でももう、本物のファンタジーは見えない)
普段は出ていない咲耶の角が見えることも、包帯を透かして飛鳥の義手が見えることも、窓の向こうに遠い世界の魔法使いの姿を認めることもない。
眼鏡をかけ直す。正しい現実を見直す。
ダンゴムシはタクシーに戻り、緑地に白のナンバープレートにはメルヘンのかけらもない地名と番号が並んでいる。
それでいい。所詮現実は、そんなものだ。
道路は空いた。
けれど横断歩道を渡ることもなく、芽々は立ち止まったまま呟く。
「……もうちょっとやれると思ったんですよ、芽々は」
不本意な危うい状況に置かれたことに辟易としたのは嘘ではない。
けれどそれ以上に、正直、ワクワクしていたのだ。
──だって、自分だけが世界の真実を知っていて。
──自分だけがその敵を欺こうと裏で画策している。
ひとりきりの戦争に、浮き立つ気持ちがなかったといえば、嘘だ。
「うわ厄、マジ無理」とか言いながらも心のどこかで、寧々坂芽々はずっとそんな日を待ち焦がれていた。
──これから楽しくなるのかもしれないと、本気で思った。
理性と相反して心は強く、降って湧いた非日常に期待した。
だから。
「もっとうまく、全部、ちゃんとやれると思ってたんです」
眩しい空にピストル型の指を突き上げる。
眼鏡をずらせば、空には竜の幻覚なんていくらでも見れるだろう。寧々坂芽々の眼球はそういうふうにできている。
──けれど芽々に、それを撃ち落とすことは叶わない。
わかっていたつもりなのだ、頭では。
〝ろくな話じゃない〟なんてことは。
芽々はずっと本気だったし、ずっと真剣だった。
だけど。
(咲耶さん、
芽々は何も、わかっていなかったのだろう。
「いやになる」
隣の幼馴染は何も言わなかった。
◇◆
横断歩道が渡れるようになるのを待ちながら、慎は陽南にメッセージを打つ。
『来たけど会わずに帰るね』
『ウケる』
返信は即、ただし雑。別にウケないけどな、と思った。
まあやりとりはいつもこんなものだ。お互いただの友人に過ぎない。
だから慎は『橋から落ちた』と聞いた時も「大変だな」と他人事のように思った。
いや、絶対何かあったんだろうけど。具体的に何があったのかは知らないし、聞いていない。友人関係に必要なのは適度な距離感だと思う。
とはいえそれなりに仲が良いので、普段、陽南はぽつぽつと嘘か本当かわからないような話を聞かせてくれる。
「カレー粉って見た目土なのに美味いからすごいよな。知ってるか、土って不味いんだぞ」とか。馬鹿じゃないの?
いや武勇伝を聞かせろよ、と言うと「えぇ……」と渋りながらも、クソデカい蜥蜴がクソデカい、という話をしてくれる。
陽南飛鳥はとにかく話が雑である。
でも。それだけで慎は充分「隣に非日常の住人がいる」という非日常感を味わっていたし、普通のやつである自分にはその程度が妥当だろう、と思っていた。
だから深く踏み込むことは、絶対にない。
ないのだけど。
──今回の件は、その中心に幼馴染がいたことにだけは、気付いている。
「……もうちょっとやれると思ったんですよ、芽々は」
呟く芽々の横顔を見る。
隣同士で幼馴染で
昔から妙に聡くて、どこを見ているのかわからなくて、ふわふわとしていて、けれど年を経るごとに地に足ついて、人と関わるようになった幼馴染。その変遷をずっと慎は兄や弟であるように見てきたし、当たり前のように同じ時間を過ごしてきた。
──特別な感情を、言葉にする機会もないまま。
「もっとうまく、全部、ちゃんとやれると思ってたんです」
肩の高さにある、真剣な横顔を上から覗き見る。
背の低く、幼い顔立ちは昔と何も変わらない。けれど。
自分にできることを、何をすべきだったのかを、どうすれば正解だったのかを、考え続けている芽々の憂鬱な横顔を見て。
「いやになる」
慎はかける言葉が見つからなかった。
じり、と日差しが、染めて痛んだ頭のてっぺんを焼く。
慎の日常と壁一枚を隔てて存在する非日常は、どこまで行っても他人事だ。
あの路地裏での夜、芽々と共に彼らの秘密を目の当たりにした時から理解していた。
それが、自分とはなんら関わりのない、遠い世界の出来事であることを。憧れようとも自分にできるのは精々、普通の友人の顔だけだと。
それは芽々も同じであるはずだった。同じだと……思っていたのだ。
なのに。
──もしかして幼馴染は、
──見ている世界が、違うんじゃないだろうか。
そんな不安に襲われた。
隣にいる存在を、ひどく不確かに感じ始める。
(……いつまで、このままでいられるんだろう)
──このままで、いいのだろうか?
「あ」と芽々は、メッセージの届いたスマホを取り出す。
先までの憂鬱げな表情はどこへやら、瞳をきらきらと輝かせてこちらを仰ぎ見る。
「マコ、おじいちゃんが今年のかき氷試作するって! これは帰って試食会ですね!」
とん、と芽々は一歩先に踏み出した。
「はやく帰りましょー!」
振り返って、大きく手を振る幼馴染に。
「うん、そうだね」と生返事をひとつ。
慎は追いかける。
『待って』とは、言えなかった。
──そして夏は来る。来てしまう。