彼女は窓からやってくる。(旧題:異世界から帰ってきたら、窓から入ってきた魔女と青春ラブコメが始まった。) 作:さちはら一紗
──何かを守り、救うために命を使うことは正しいことだろうか?
正直に言おう。
自己犠牲なんてクソ食らえだ。他人のために身を差し出すなんて正気じゃない。
慎重に堅実に、生きて、長生きして、畳の上で死ぬ。それ以上にいい人生なんてあるだろうか? いいや、ない。
それが
「陽南」という致命的に無鉄砲な家系に生まれ育った反動だ。人が呆気なく死ぬことを知っていて、自分がそうはなりたくなかった。
平穏凡庸安定志向。器用にそれなりに上手く立ち回って、そこそこの幸せさえ手に入れられればいい。
俺は、「普通の人生」が欲しかった。
けれどやはり。
──何かを守り、救うために命を使うことは
そうでなければ俺を守って死んだ両親が間違っていることになる。
そうでなければ見知らぬ子供を救って死んだ祖母が間違っていることになる。
死者の冒涜は、絶対に許されない。
だから。
『どうか世界をお救いください』
異世界に召喚され、そう
答えた。
『俺でいいのなら』
迷いは、少しもなかった。
たとえそれが自分の願いと相反するものだとしても。
それが「正しい」と信じたから。
『正しく生きなさい』と祖母は言った。
『正しく生きるってのはね、死ぬ時に笑えることさ』
俺は、笑えない人生を選ぶのはごめんだった。
──教えは死んだ人間のものであるほど重い。
◆
一夜が明けて、わたしが目を覚ましたのは良い匂いがしたからだ。
こんがりと焼けるトーストとお味噌汁。この半年に身に染みた、朝の匂い。異世界にはない、この世界で最も素晴らしいものの一つ。
「ん、んぅ……」
ソファの上でのたうつように寝返りを打った。
「おまえさあ、ソファで寝るなよ」
飛んでくるのはあきれたおはようの代わりのお小言。
「そろそろ起きると思ったよ。おはよう」
半分身を起こす。ふわふわと寝ぼけ眼で曖昧な返事と挨拶を返して、わたしは二度三度と目を擦った。
飛鳥がテーブルで頬杖をついてこちらを見ていた。少しやつれていて、絆創膏が目立っているけれど、あいかわらずTシャツはくそばかで、わたしに意地の悪い顔で笑いかけている。
──まるで昨日、何もなかったかのように。
跳ね起きた。
わたし今昨日のこと全部思い出した。
寝惚けている場合じゃない。
ずり落ちた毛布を蹴っ飛ばして飛鳥に詰め寄る。
「大丈夫なの!? ていうか大丈夫じゃないでしょ!?」
テーブルに並んでいるのは
──な、何、呑気に朝ご飯作ってるのこいつ!!?
「昨日、自分がどうなったか覚えてないの!?」
「覚えてる覚えてる。おもくそゲロ吐いて、帰ってきてそのままぶっ倒れた」
「合ってる! けど!」
言い方ッ!!
「まじごめんね」
「軽すぎる……!」
目に焼き付いているのは、そんな、軽い光景じゃない。
──血と吐瀉物の臭い。真っ暗の中、芋虫みたいに縮まる背中。
思い出すだけで背筋が寒くなる。頭が真っ白になって、涙が溢れそうになる。わたしは何もできず立ち尽くしているだけだった。何かとても、悪いことが起こっているのだと思った。
なのに。なのに!
「いやぁ今世紀で一番ダサかったな昨日の俺」
なのに穏やかな朝の光景が、朝食のいい匂いが、あまりにへらへらと笑う目の前のこいつが! わたしを強引に日常に引き戻して──力が抜けそうになる。
「心配かけて悪かった。急に昔のこと思い出してさ、情報量で悪酔しただけだ」
──それだけなものか。
「俺さぁ、めっちゃ酔いやすいんだよね。船とか酒とか人混みとか」
──それだけな気がしてきた。
「大丈夫だよ。飯さえ食ったら治る」
目を見る。
──やっぱり、そんなわけない。
ひりつくような違和感があった。違和感は、テーブルから発せられていた。
規則正しく並べられたお皿。こんがりと焼き上がったトースト。お気に入りのジャムに、湯気の立つお味噌汁。そして飲み物の用意だけがまだ。
完璧な朝の用意だ。このまま学校に行けてしまう。夏休みだけど。
……そう、夏休みなのだ。几帳面を基本とするわたしたちでも休日は堕落を極める。変な時間に起きて適当に朝ご飯なのか昼ご飯なのかわからないものを食べたりする。
まして今は非常事態で、規則正しい生活なんてものにかかずらっている場合ではない。
目の前の光景は
このやり口はよく知っている。
それは、かつてのわたしと同じ手口じゃない?
ねえ飛鳥。うまいこと平気なフリをしたつもりでしょうけど。
年季が違うわ。わたしにそれを仕掛けるのは無謀というものよ。
でも。
追求は吐き出さず、飲み込んだ。
「……コーヒー淹れてくる」
身支度をして、使い慣れた揃いのマグカップを下ろして、インスタントのコーヒーを作る。
追求をしようと思えばできたけど、やめた。
何事もなかったことにしたいなら、取り繕ったそれを無理矢理剥がすことはしない。
──できない。
いつか、わたしたちの関係を定義したことがある。
友達になり、それ以上になり、それでもわたしたちの関係の本質は何も変わってはいない。
良き隣人、良き理解者。定義とルールと気遣いと不文律で成り立つ、
傷に触れてはいけない、だけど目を背けてもいけない。予防線を蜘蛛の巣のように張り巡らして、許される範囲で冗談を言い合う。今更隠し事はしないと表向きは言い張るけれど、聞かれなければ答えないし、本当に言いたくないことは言わない。
友達であっても、恋人ではない。
──わたしたちの関係はその実、五月のあの夜から一歩も踏み出せてはいなかった。
キスはしても付き合ってない。
一緒に住んでも結婚してない。
抱きしめたって愛してるなんて言えない。
どれだけわたしが好意をぶつけても、あいつが応えることはない。
つまるところ今のわたしの定義は「都合のいい女」なのだ。実際、わたしはそれでいいと思っているし、自ら都合のいい女でいたいと願っている。
都合がいいっていうのはつまり、嘘に騙されてあげる甲斐性くらいはあるということだ。
……なんか、癖で難しいことを考えてしまったけど。
要は信じたってこと。
八割強がりっぽい雰囲気がするけど。飛鳥が大丈夫だと言うのなら本当に大丈夫ということにしてあげなくもない。
ま、実際軽口を叩く元気はあるようだし? わたしに気を回す余裕だってあって、何よりちゃんとご飯を食べる気がある。
えらい。もう人間として百点あげちゃう。満点は千点です。
あいかわらず素直に弱みを見せないのはどうかと思うけど!
煩悶と葛藤はコーヒーをぐるぐる回していたら溶けて消えた。
「お待たせ」
食卓に戻り、マグカップを渡す。
朝ご飯にしよう。物騒な話はそれからだ。
「あれ。わたし、飛鳥の分に砂糖入れたかしら?」
考えごとをしながら作っていたせいで、いまいち記憶があやふやだった。
わたしは砂糖なしのブラック派、飛鳥は砂糖多めのブラック派、両方ミルクは入れない主義だ。見た目に違いはわからない。
飛鳥は半笑いでマグカップを置く。
「どうりで変だと思ったよ」
そのままテーブルの砂糖瓶から四つ、真っ黒な液体の中へ。
ぽちゃん、と連続で落ちる音を聞く。
「相変わらず歯が溶けそう」
「美味いぞ」
そして溶かしたコーヒーに、飛鳥が再び口をつけるのを見て。
その時。
わたしは──思い出してしまった。
立ち上がる。椅子が倒れる音がした。
「あんた、大丈夫じゃないでしょ」
「何が?」
「そのコーヒー、
思い出したのだ。
──わたしはちゃんと、キッチンで砂糖を入れていたことを。
飛鳥は無感動に、ごとりとマグカップを置いた。
「大丈夫だ」
──そんなわけない!!
叫ぼうとした。
「……そういうことにしてくれ。頼む」
立ち上がったままでは俯いた顔が見えない。
だけど掠れた声が、もう全部、言ってる。
「〜〜〜〜っ!!!」
わたしは何も言えなくなった。
……下手くそ。もっとうまく、演じなさいよ。
胃の底がくるくる唸っているのはお腹が空いたせいなんかじゃなくて、今すぐすべてをめちゃくちゃにしてしまいたくなった。
その衝動のまま、飛鳥のコーヒーを奪う。
「あ、おい!」
口をつける。じゃりとした感覚が喉を刺す。
砂糖八つ分の甘さは溶けきってさえいない。
まるで毒みたいだと思った。
──甘い、甘ったるくて、反吐が出る!
……本当に、最悪な味。
飲み干した。
唖然とした飛鳥の眼前に、空っぽのマグカップを静かに叩きつける。
「あなたがそのつもりなら、いいわ」
わたしは都合のいい女なので。頼みを断ることなどできやしない。
わたしはあなたの魔女なので。願いを聞くことしかできないのだ。
「
大丈夫。こんなものはただのいつもどおりの奈落だ。
──だから、お願い。
壊れるな世界。
◆
「ひどい顔だね」
──数日後。
夜明け前。かつて飛鳥の部屋だった牢獄で。いつも通りに尋問に来たわたしを見て、
「その様子だと戦果は芳しくないようだ」
どうやらこちらの状況は割れているらしい。
その通り、あれから数日が経過した今も聖女を捕まえられないでいる。
わたしの呪いで存在を現世に固定化されたから、異世界に帰れない代わりに現世で自由に動けるようになったのだ。
この数日、吸血鬼みたいな昼夜逆転で聖女を探していた。人目のこともあるが、幽霊としてこちらに居る聖女も魔女であるわたしも夜が領分だ。
聖女は逃げに徹してる。勝てない戦はそもそもしない、奇襲にしか興味がない。聖女の戦い方は彼に似ている。
多少の魔法は聖剣で無効化されるし、やりにくいったらありはしない。しかもこちらは殺しては駄目とくる! 向こうはこっちを殺す気なのに!
時間経過で不利になるのはこちら側だ。『いつも通り』を演じる限界は刻一刻と刻まれている。
──早く終わらせないと。
終わらせて、それで……
こちらの旗色を見破って、魔王は嘯く。
「どうだい? やっぱりボクと契約して世界を滅ぼそうよ……」
「うるさい」
剣でざっくりと殺ると魔王は取れた首で「うわー」と棒読みの断末魔を上げた。聖剣以外では殺せないとはいえ痛覚はきちんとあるはずなのに、けろりとしている。役立つ情報を吐く気配もない。
何よりも忌々しいのは。魔王が未だに芽々の顔をしているということだ。
感性が人外に寄ってしまっているわたしでも、流石に良心の呵責はある。
友達と同じ顔の相手を傷つけるなんて、ほんといや。人を殺すんじゃないから脳に悪くないとしても、心臓にすごく悪い。
痛む胸をしかめ面で押さえる。
「六十点。殺し方に遠慮があるね。斬り口が汚いよ」
「採点するなクソ師匠」
殺し方とかどうでもいいじゃない殺せたら。
魔王は鎖に繋がれたまま器用に落ちた首を拾い、不満げに戻した。
「
斜めにずれた首でにっこりと微笑む、その目を見て。
思い出す。
──
──違和感がくっきりと輪郭を帯び始める。
いえ、そもそも。
「あいつ、なんで殺しちゃダメって知ってるの……?」
呪いに詳しくないはずの勇者が。魔女ですら知らなかったことを。
──嫌な連想が繋がる。
「……帰る」
踵を返した。
聞かなくちゃいけないことが出来た。
背後から甘言が聞こえる。
「いってらっしゃい魔女。手遅れにならないように足掻くといい。──次にここに来るときは、教えてあげよう。君の知りたいことを」
◆
急いで窓を開ける。
部屋に入ると朝焼けの薄明るいキッチンの中に、ぼんやりと壁にもたれかかる飛鳥がいた。
開いた窓から戻ってきたわたしを見て、飛鳥はくつくつと笑った。
「変な感じだな。今更おまえが窓から入ってくるのを見るのは」
「……まだ起きてたの」
先に休んで、って言ったのに。
目の下の隈が絶望的に濃くなっていることと、笑いの沸点がおかしくなっていること以外はいつも通りの様相で、
魔法で眠らせてあげられたらよかったけど、あれは呪いなので乱用すると脳に悪い。使ったのはこの前の一度きりだ。
「また膝枕でもしましょうか」
「あれ割と寝にくいぞ」
「じゃあ抱き枕」
「何を?」
「わたしを」
「それで寝れるやつはもう勇者だろ」
「あんたじゃん」
「俺だわ……」
中身のない、脳が回ってない会話を淡々と回す。このまま軽口で全部うやむやにしてしまえたらいいのにな、と。さっき決めたばかりの覚悟が鈍る。
躊躇っている間にポットから電子音がした。お湯が沸いて、マグカップに注がれる。コーヒーの香りがし出す。安っぽいインスタントの、馴染んだ朝の匂いにわたしの心は落ち着いて。
落ち着いたから気付けた。
──これは眠りを殺す匂いだと。
今、昼夜は逆転している。朝という眠るべき時間に、コーヒーを飲む理由は眠ってはいけないから。
わたしは切り出す。軽口を装って、声が震えないように。
「ねえ、覚えてる? いつか、『もしも
それはわたしたちがようやく友人になった五月の屋上でのことだった。
「あったなそんなこと」
甘くも苦くもないだろうコーヒーを啜って、飛鳥は相槌を打つ。
いつか、彼は言ったのだ。
『その時は。おまえがあの世界をめちゃくちゃにするのを隣で大人しく見ていたよ』
「意外だったわ。あなたって正しさに厳しいと思ってた」
「そこまでじゃない。俺がほんとに正しかったらおまえと一緒に住んでない」
「そうね。あんた意外と誘惑に弱い」
「分かっててやってるのかよ」
? あっさり『おかえり』に釣られたことだけど。
「そういえばあの時も……あなたの答えは似ていたわ」
六月の夕方の海でのことだ。
『もしも異世界に戻ることになったら滅ぼしてもいいか』とわたしは聞いた。
彼は言った。
『戻れなくなる。だから、駄目だ』
「あなたは一度もわたしに間違っているとは言わなかった。……間違っているから駄目とは、言わなかったわ」
だから。かつて『分かり合えない』と思い込んでいたわたしたちは、互いに歩み寄れたのだ。
あの時、頭ごなしに『間違っている』と言われなかったから、わたしは言うことを聞こうと思えたのだ。
そういうところが多分好きだった。
そういう中庸の取り方に、わたしは「陽南飛鳥」らしさを感じていた。
でも、もしも。否定しなかったのではなく。
『おまえは間違ってる』って、『それは駄目だ』って、言えなかったのだとしたら?
「あなた、本当は。
──わたしたちは最初から、分かり合っていたんじゃないの?
ガシャン、と耳をつんざく音がした。
床にはコーヒーが溢れている。揃いで買ったマグカップが無残に割れていた。
手を滑らせた、飛鳥の顔を見る。
「まさか。そんなわけないじゃないか」
……嘘吐き。
笑って誤魔化そうとするのは悪い癖だ。
本当に悪い。
だって、笑えてない。
──歪んだその顔は、泣き顔にしか見えない。
頭の血管が弾けた。
「なんて顔をしてるの」
マグカップの破片を裸足で踏みつける。黒い水溜りに血が混じる。 止める声は無視した。
ちっとも痛くなかった。でも目尻に滲んだ熱いものは痛みのせいだということにして欲しかった。
胸ぐらを掴む。
ずっと、言いたかった。
わたしたちの関係が最悪に拗れていた、情趣もクソッタレもない最終決戦の時からずっと。
『泣くなら胸くらいは、貸してあげる』って。
抱きしめて、背をさするくらいはやってあげるって。
あの時! あの世界で! そう、言ったじゃない!
──いつまで強がっているつもりなの!?
「泣くなら、ちゃんと泣きなさいよ!!」
だけど彼は、胸ぐらを掴まれたまま。
ひどい顔のまま、ぽつりと零す。
「……どうやるんだっけ」
ああそっか。
こいつは泣かないんじゃなくて。
──とっくに、泣けないんだ。
『もう、いいか。全部』
頭の中で悪い魔女が囁く。
うるさい。黙って。
けれど頭の中の声は止まらない。
『全部終わりにしてしまいましょうよ、この手で』
だってわたしはもう。
世界が壊れる音を聞いている。
◆
わたしはひとりで牢に戻る。朝でも真っ暗な部屋の中で、待ち構えていた魔王は言う。
「おかえり魔女」
「おまえにおかえりなんて死んでも言われたくない」
「彼はどうした?」
「眠らせて置いてきたわ。寝不足引き摺り回して聖女の捜索とかやってらんないもの。うっかり殺されるでしょ。正直足手纏い。
──ここから先はわたしひとりでいい」
問いかける。
「ねえ
目の前にはすべてを知るだろう千年を生きる魔法使い。
すべてを知っていて黙っていただろう、人でなしの師。
囚われの身であるにもかかわらず、傲岸不遜に笑みを浮かべる魔王。
「
わたしは覚悟を決めた。
土足で過去に踏み入る、覚悟を。