彼女は窓からやってくる。(旧題:異世界から帰ってきたら、窓から入ってきた魔女と青春ラブコメが始まった。) 作:さちはら一紗
──勇者選定の儀から数日が経った。
白い部屋は病室に似て無機質で冷たい。
「時間です。お加減はいかがですか。準備はできましたか」
「ああ」
聖女は彼を目にし、僅かに驚く。
召喚した時とはまるで別人だった。
背丈が数日で随分と伸びている。実年齢よりも二、三ほど年を重ねたように見えた。
服装は旧時代の軍服を転用したそれだ。鎧の類はないに等しい。竜の前では鉄の硬さなど無意味だ。ならば軽い、守護を織り込んだ布でいい。
目の色には青が混じり始めていた。元の黒色と混ざり合って色彩は濁っているが、聖女と同じ目だ。
聖剣の使い手はもう彼なのだと思い知る。
──自分ではなく。
聖剣を見る。
青味ががった刃の色。使用者によって形を変えるその剣は、無骨な大剣に変わっていた。
「その腕は……」
「ああ、聖剣の一部が腕になっているらしいな。ちゃんと動くぞ」
そのまま真剣な顔で腕を弄り始める。
「何してるのですか?」
「クソッ仕込み銃ないのかよ」
「ないんですか。私はありますけど」
「は、サイコガンじゃん!? 羨ましい……」
羨ましいんだ。
異文化わからない。
──千切れた腕を繋げようとはした。
だが如何な回復術をかけても腐り落ちてしまったのだ。
原因は呪いだ。
あの儀式の際に、
この世界では、莫大な感情はすぐに呪いに転じる。それを自在に操ることは人には難しく、大抵は自滅する。彼もまたその例に漏れなかっただけの話だ。
……それにしてはあまりに、陽気すぎやしないだろうか?
まるで別人のようだと思った。
───あの時『滅んでしまえ』と呪った、その声を聖女は覚えている。
訝しみながら問う。
「貴方の使命を理解していますか」
「『魔女』ってのを殺せばいいんだろ。サクッと終わらせる」
聖女は思い出す。召喚したばかりの頃、彼が言ったことを。
『やるよ勇者。終わったら家に帰してくれるんだろ?』
「……終わらせても貴方を元の世界へ帰すことはできません」
帰還の術式を組むには人類の技術では足りない。竜の魔術系統を合わせれば可能だろうが、魔王を倒さなければ手に入れることはできない。魔王を倒すことは勇者でも不可能だ。
「……別に、もう帰る気はないけどな」
ごくあっさりと彼は言った。
「ま、ついでだ。終わったら魔王もぶっ飛ばすか!」
なんの、憂いもなく。笑って。
──その様子に、恐怖のような何かを覚えた。
感情はないけど。
「ごめんなさい……」
謝罪は口をついて出た。
──私が失敗作でさえなければ。
「私に、勇者の資格があれば。あんな儀式を取る必要はなかった」
彼は無感動に視線を聖女にやり、不可解そうに問う。
「……おまえは何を謝っているんだ?」
(……そういうことですか)
聖剣の精神汚染は既に始まっていた。真っ先に削られたのは
その記憶があれば、自分で自分を呪ってしまう。それでは回復術が効かない。それでは死ぬ。
聖剣の精神制御は確かに機能していた。──使い手をこれ以上壊さないために。
「行こうぜ。時間がないんだろ。……準備はとっくにできてるさ」
彼の目を見る。その青は濁っている。
たとえ笑っていたとしても。その目に光は、ずっと無い。
(私が、失敗作でさえなければ)
──始めから壊れている勇者など造らずに済んだのに。
その不完全を、口惜しいと思った。
聖女は人間だ。けれど人形として造られ、育てられた。使命だけが絶対だった。
だからわからない。論理で理解しても、感情で理解することはない。
善も悪も、心も。
旅立ちは、空にまだ星が残る夜明け前だった。
都を出た彼らを見送る者は誰一人としていない。
この世界の人間は、そも知らない。世界が滅びかかっていることなど。生まれてから死ぬまで機械の都から一歩も出ることはないのだから。
人間は世界が滅びるという絶望に耐えられず、絶望すれば自らを呪って破滅する。あまりにも弱過ぎる彼らの目と耳を塞ぐ以外に、守る方法はないからだ。
その都には安寧だけがあった。
人は何も知らない。魔王のことも。勇者のことも。
──世界が滅びることを知り、勇者候補に志願し、死んだ彼ら以外は。
聖女は振り返る。
生まれ育った場所を最後に目に収める。
中心には白亜の塔。その塔から空に巡らされた結界が、かろうじて人を守り続けている。いつか苦しまずに死ぬその日まで。
真っ白な都は墓標そのものだった。それでもこの墓標を守ることだけが少女の生まれた意味で、存在する意味だった。
(生きて帰ることは、ないのでしょう)
前に向き直る。
「そういやおまえ、名前はなんていうんだ」
こちらを見下ろして問う視線に、かしずくように答える。
「聖女とお呼びください。或いは十三号と」
「それ、名前じゃないだろ」
「……
「へえ。どんな」
聖女は勇者から目を逸らした。
「とうに滅びました」
目の前に広がるのは枯れた大地だ。草木の影も形もなく、ひび割れた灰色だけが続く。
夜明けの空には竜の影。鳥も虫もそこにはなく、瞬く星の神話すら失われて久しい。
世界は滅びに瀕していた。どうしようもなく。
だから、世界を救う、そのために払う犠牲に痛める心など──。
心など、ない。
◇◇
そして今。聖女は知らない世界の夜の町を彷徨っていた。
(──寒い)
悪寒の理由は自らが霊体となっているせいだろうか。それとも魔女にかけられた呪いのせいだろうか。
わからないまま勇者の、いや、今はもう勇者ではない彼の居場所を探す。痕跡は魔術で巧妙に隠されておりどこにいるのかわからない。
心までは彷徨わないよう、己の使命を確かめる。
『聖剣を取り返せ』
使命の意味を解体すると、それは「可能ならば魔女も殺せ」ということであり、「帰還を優先せよ」ということであり、「帰還ができない状況ならば奪い返されないよう逃亡せよ」ということだ。
──『勇者を殺せ』などとは、一度足りとも命じられていなかった。
(それでも、私は……)
時刻は午後九時。熱帯夜の町はまだ眠らない。
現世に縛られる代わりに〝居場所の制約〟が解除された今、少女が彷徨い辿り着いたのは明るい繁華街だった。
道端には星々よりも明るく灯る光。店頭からは絶え間なく流れ出る音楽。人々は行き交い、言葉を交わし、笑みを交わしている。
その光景が、あまりにも……寒くて。蹲る。
目に映る光景はすべて、聖女の知らないものだった。
──それであって、ずっと昔から知っていたような気を起こさせるものだった。
未だに口に残る、
「キミ、そんなところで彷徨ってどうしたの?」
不意に声をかけられて、聖女は顔を上げた。
黒髪のサイドテールに泣き黒子、中性的かつ蠱惑的な少女が、屈んでこちらを見下ろしている。
実体の存在する聖剣も術で隠しているのに、どうして。
「僕は
黒髪の少女は片目をつぶって、懐から塩の瓶を取り出す。
「──とりあえず一発除霊いっとく?」
聖女は慌てて転移した。
「あっ逃げた」
「瑠璃! 待たせて悪かったな。……どうした?」
「ん〜ん。なんでもないよ兄貴」
光から逃れるように暗い道へ、聖女は逃げていく。
──この景色を昔から知っていた気がする、そんなわけがない。
知らない。あんなに眩しい景色も。まさか人間が自分に助けを差し伸べようとする、なんてことも。
この世界のことを知っていたつもりで。何もわかっていなかった。
聖女は足を止める。
涙などは流れない。そんな機能はとうの昔に削った。
なのに。
──寒いのだ。
あの頃からずっと。
◇◇
──出立から一ヶ月が経った。
始まりの使命は『世界を救うこと』だった。
それは自分にはできないと、上書きされた。
次の使命は『勇者を
彼が決して道半ばで死ぬことがないように、生かし続ける。そうして世界を救う勇者を救えば、この手で成し遂げられなかった使命もまた果たせる。
それが聖女の行動原理であり、そこになんの疑問も抱いていない。
抱いていない、はずだったのに。
──どうしてこんなことになっているのだろう。
聖女は地面を見ていた。正確には、地面に這いつくばる勇者をだ。
「何をしているのですか」
「土食ってる」
「はい?」
「いや、飯不味いじゃん。味しないし。でも竜は食えない、鳥も虫もいない。となったら──土、食うだろ」
「わかりません」
聖女は、気が遠くなるのを感じた。
「とりあえず、吐いて下さい。土」
お腹殴った。
「オエ……」
土は再び大地に還った。
(わかりません……)
初めから壊れていることは、わかっていたのだが。
勇者はよくわからない壊れ方をしていた。
──三ヶ月が経った。
「勇者。貴方の戦い方は目に余ります。零れた内臓集めるのも大変なんですよ」
「待てグロい話はするな。聞きたくない」
「貴方の話です。貴方の。聞いているのですか勇者」
「あー聞かん! なんも覚えてない!!」
「あと肩書きで呼ぶのやめてくれ。嫌いだ」
「わかりません。それ以外に貴方の役割はありません」
「名前で呼べよー……」
「敵陣で真名を呼ぶことは推奨されません」
「ていうかさ。俺の名前──なんだっけ?」
記憶と自我の消去は止まらなかった。
──半年が経った。
「アスカ、アスカ……勇者」
「なんだよ」
「いえ。今日は随分と表情筋が動いていますね」
「そうか? 鏡見てないからわからん」
「それに……随分と、よく。喋ります」
「ああ、意識がはっきりしているんだ。
「……三日振りです」
「どうりで知らない傷が増えてると思った」
回復術は問題なく機能しているはずなのに、傷跡はどうしても消えなかった。
「よし、今日は土食べるか」
「食べないでください」
──一年が経った。
「なぁ聖女! とうとう土の味もしなくなった! どうしような。俺は『不味い』も忘れるわけだ! クソッタレ!」
聖女は無言で瓶を取り出す。
「何これ」
「旧時代の醸造酒です。申請しました。味がしなくとも酔うことはできます。土よりマシです」
「いや、俺の世界では二十になるまで飲めないんだけど。……まあいいか。俺、いくつだったか覚えてないし!」
「一気飲みやめて下さい」
「オエ……」
「ずっと吐いてますね、貴方。ずっと吐いてる」
それからの夜のことを聖女はよく覚えている。
酒精に任せ夜が明けるまで、彼が話をしたことを。
それは元の世界での話だった。
亡くなった家族、大切だった友人、好きだった少女の話。
──彼らの名前は既に抜け落ちていたが。
故郷の暮らし、傾倒した趣味、夢だった将来の話。
──つまりは彼のすべてだった。
「何故、教えてくれるのですか」
「覚えてるうちに話そうと思ったんだよ。俺は忘れるからさ。代わりにおまえが覚えてろ」
彼は、陽気に笑って、言う。
「一生覚えてろ、一生。俺が好きだった世界のことを」
それは呪詛だとわかっていた。
それが恨み言だと知っていた。
だから聖女は忘れなかった。
何ひとつ。
──一年と半年が経った。
記憶は消えた。
自我は消えた。
彼はもう、語りかけることも笑うこともなくなった。
──一年と半年と、十二日。
魔王城に辿り着く。
その天に、魔女を見る。
「あり得ません……魔女に、戦う力などないはずです」
顔も見えない彼女を前に彼が笑ったのを、その目に光が灯るのを、聖女は見た。
その理由は今も、わからない。
◇◆
──記憶を再生するほどに寒さは増す。
その寒さの正体を、本当はもう知っている。
(だから私は……)
空には月がぽっかりと穴のように浮かんでいる。
星の名はいくつも知っていて、けれどどれがそうであるのか、聖女にはわからない。
「見つけた」
顔を上げる。道の向こうから、やってくる影がある。
魔女だけが、一人そこにいた。
暗く、静まりかえった道にコツリ、と足音が響いた。
丈を短くしたドレスの裾、編んだ髪の一束が揺れる。
「あんたたちが何をやったのかなんて。知ったところで今更どうでもいいわ。要はあいつが壊れたのは記憶のせいで、都合よく記憶を封じる
爛々と赤く光る目が。赤く染まる剣の切っ先が。
「……なんだ、やるべきことは変わってないじゃない。初めから」
鋭く、向けられる。
「聖剣返せ。クソ聖女」