彼女は窓からやってくる。(旧題:異世界から帰ってきたら、窓から入ってきた魔女と青春ラブコメが始まった。)   作:さちはら一紗

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第十七話 ある日人生に隕石が落ちてきて。

 

 窓が好きだ。

 窓はいい。外が見える。たとえ狭苦しい部屋の中であっても、この場所が異世界などではないことを確かに教えてくれる。

 

 五月の深夜だった。

 この頃の俺は『陽南飛鳥』をやることにようやく慣れてきた頃で──いや、今思えば相当に人間ができていなかった頃だ。戻る記憶もまだ僅か、自分が自分である確信すらもなく、漫然と日々をやり過ごしていた。

 

 午前零時。開け放った窓のもと、卓袱台にノートを広げる。

 眠れない夜はいつも限界まで勉強する。現世の知識は散々に抜け落ちているが、昔の自分はそれなりに勉強が好きだったらしい。趣味嗜好は変わっていないので、勉強は苦ではない。

 特に数学はいい。理解できないところがいい。感情が介在しないところがいい。明確な答えがあるところがいい。解いている間は意識が沈んでいくのもいい。余計なことを考えずに済むことが、最高にいい。

 だから。たとえ現世に帰ってそうそうに追試を食らったがため、これっぽっちもわからない問題の数々に頭を抱えていたとしても。それはけっして、悪くない時間で……。

 

 嘘だ(・・)

 

『二年前に中断された続きの人生』をやると言った。『現代社会で清く正しく生きていく』と言った。

 

 嘘ではない。

 嘘ではないが、本心でもなかった。

 どう考えたってそうするのが正しいだろう? それ以外にやるべきことなんてないじゃないか。

 だが所詮は正しいだけの理屈であり、人間に戻るとは「理屈では動けなくなること」だった。

 

 ──なんのためにこんなことをしている?

 

 夜更の魔力が脳の隙間に入り込み、鬱屈を囁く。

 

 ──今更、やりたいこともないのに?

 

 畳の上に積まれた、社会科の教科書を見やる。かつてはあれが好きだった。そんな記憶がおぼろげにある。

 将来の夢は思い出せないが、もしかしたら社会科の教師だったのかもしれないと思って。無いな、と目を閉じる。

 趣味嗜好は変わっていないと言った。少し(・・)嘘だ(・・)

 昔は平気だったはずのものが苦手になった。味の薄い料理。血の出る映画。それから人間(・・)

 歴史は嫌いだ。人が死ぬ。倫理も駄目だ。人の善悪を論じすぎる。

 人の紡いだ歴史なんてろくでもないものばかりだ。善悪の価値なんて最早どうだって構わない。

 真に善いものなんて天体や自然の法則、人の意の介在しない絶対真理くらいだろう。

 もう一つ、好きだった教科の本を手に取る。地球科学。絶滅した生物の名前を叩き込んでると安心した。

 

 どうせ滅ぶ。

 どうせいつか、皆滅ぶ。

 

 

 

 ……いつの間にか意識が飛んでいた。

 問題集は少しも進まないまま、時間だけが無為に過ぎた午前三時。風が、ぶわりと薄いカーテンを膨らませる。

 赤い光の粒子が、弾けて消えた。踵を鳴らす、着地音。

 ベランダに彼女(・・)の気配がする。

 

「ご機嫌よう、飛鳥(あすか)。いい夜ね」

 

 文月咲耶が、綻んだ花のように微笑みを浮かべて。俺の窓を侵略する。

 ノートに鉛筆を力一杯突き立てて、芯をばきりと折った。

 彼女は最悪な魔女で宿敵で、深夜に喧嘩を売りにくる傍迷惑な隣人で、だから俺はおまえに会いたくなどないのだという顔をして、立ち上がる。

 

「帰れ」

 

 全部嘘だ(・・・・)

 君が好きだ。

 

 本当は。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ──夢を見ている。

 

 ある日突然俺の人生に隕石が落ちてきて。けれどその隕石は隕石にしては小さすぎて、大事なものを全部めちゃくちゃに壊してなお、俺の人生そのものを終わらせてはくれなかった。

 

 異世界で出会った少女がいた。

 儀式の起こるそのずっと前。そいつは召喚されたばかりの俺の部屋に、突然忍び込んできた勇者候補だった。

 勇者選定の儀式のその日、これから何が起こるのかを知って。この世界を守るため、昨日と変わらぬ明日を手に入れるために志願した、高潔な少女は俺に言った。

 

『あたしは世界のために死ねる。でもキミは、違うでしょう?』

 

『──だから守るよ』

 

 そう言って。少女(そいつ)は俺を庇って死んだ。呆気なく。

 彼女を貫いた刃が俺の額を掠めた。かつて両親に守られて出来た傷を上書きするように。

 赤く染まった視界の中で。

 

 ──人は、本当に笑って死ぬのだな。

 

 と他人事のように思った。

 

 

 異世界で出会った少年がいた。

 俺の部屋に忍び込む際に少女に踏み台にされていたそいつは、世界の真実を知るため、救われた先の世界で夢を叶えるために勇者に志願した。

 勇者選定の儀式のその日。苛烈な少年だった、そいつは言った。

 

『世界を救うのは俺だ。それを、他の誰にも渡してたまるものか』

 

『──だからおまえが死ね』

 

 そう言って、少女から剣を引き抜き、最後に俺に剣を向けた。

 俺はというと、この後に及んで理解が及んでいなかった。けれども額を押さえていた手が、血に濡れているのを見たその時。強烈に思った。

 死にたく(・・・・)ない(・・)。と。

 

 殺されそうになったその瞬間、無我夢中に剣を振るったことだけは覚えている。

 気が付いた時にはすべてが終わっていた。

 少年(そいつ)の剣は俺の腕を切り飛ばし、けれど切り飛ばされるその前に俺の剣は届いていた。千切れた腕は剣を握ったまま、少年(そいつ)の首の半ばに刺さっていた。

 足元に倒れる身体と、転がる自分の腕を茫然と眺める。

 死顔は笑ってなどいなかった。それを見てようやく、理解した。

 

 ──もう、笑って死ねないのだと。

 

 血と、死と、すえた胃液の臭いの中で。人生が滅茶苦茶に壊れる音を聞いた、気がした。

 

 

 だが。そのまま黙って壊れることなど許されるはずもなく。

 

『どうか世界をお救いください。勇者様』

 

 生きたかったはずの誰かを殺してまで、死にたくなかった。その強欲には責がある。

 彼らの祈りを踏みにじってまで、生き残ったのならば。

 俺が(・・)世界を(・・・)救わねば(・・・・)ならない(・・・・)

 

「知らねえよ。勝手に巻き込んだのはてめえらだ。

 おかしいだろ。こんなの。俺だって昨日と変わらない明日が欲しかったよ。俺だってちゃんと夢があったよ。

 何故それが、踏み躙られなければならない。謂れはないはずだ。

 なあ! 勝手にやってろ、巻き込むな、とっとと滅んじまえよ!!」

 

 俺は勇者だから、滅べなんて言っちゃいけない。世界を救う以外の機能は勇者にはいらない。そんなことを言う自我は要らないんだ。

 だから(・・・)忘れた(・・・)

 

 

 けれど罪の意識は、忘れたとして根底に染み付いて消えなかった。

 たとえ何を忘れても人間の根幹は揺らがない。根幹に食い込んだ教えは、けして消えることがないのだ。

 

『正しく生きろ。笑って死ね』

 

 ──教えは呪いに転じる。

 

『正しく生きろ。さもなくば死ね』

 

 ──正しく生きたいのならば。あの時に死ぬべきだった。

 

『死んではいけません。世界を救うまで』

 

 ──けれどもう死ぬことも叶わない。

 

 日に日に自分が消えていく中で、いつしかひとつの願いを抱くようになった。

 忘れたい、ではない。死にたい、でもない。何を忘れても消えない、正真正銘の願いを。

 更地にもなりきれなかった俺の人生の上に、いつか抱いた恨み言が結実する。

 

 ひとつ願いが叶うのならば、どうか。

 明日(・・)隕石が(・・・)降って(・・・)くれ(・・)と。

 

 人生におけるどんな幸運も不運も、可能性が低いという意味では同じだ。因果は応報されず、天秤は釣り合わず、神仏はけして人に微笑まない。

 わかってはいた。だけど、次こそは幸運(・・)が訪れたっていいじゃないか。異世界召喚なんて天文学的確率の最悪に見合う何かが、落ちてきたって。

 

 ──だから。

 

 どうか明日こそ隕石降ってくれ。このまま人生の全部を木っ端微塵にしてくれ。

 今度こそ更地に()して、世界を壊して、何もかもをなかったことにして、無慈悲にすべてを終わらせる。そんな圧倒的で、絶対的な、破壊の象徴が。

 そんな最悪(こううん)が、あの頃の俺は欲しくてたまらなかった。

 

 

 ──そして旅の果て、魔女に出会う。

 眼前には赤い海の上に建つ堅牢な魔王城。茜に焼けた空を埋め尽くすのは、夥しい数の竜。その天元(ちゅうしん)に。彼女はいた。

 魔女が手をかざす。彼女の命に従って、星が堕ちるように竜が降ってくる。

 恐れ知らずに真っ直ぐに、こちらを見据えて圧倒的で、絶対的な破壊を、世界にもたらすために。

 もうとっくに何も感じなくなっていたはずなのに、その姿に、歓喜した。

 

 ──ああ、彼女こそが。待ち望んだ隕石(ほし)なのだ、と。

 

 願いは(・・・)天に(・・)聞き届け(・・・・)られた(・・・)

 

 

 勇者(じぶん)の機能を忘れたわけではない。使命の放棄はできない。

 戦いに手は抜かない。けれどいずれこの剣が届く魔女が、自分より強いことを願ったし、そして自分が負けることを祈った。

 ──そうすれば。義理は果たした上で、別に何かを裏切ったわけでもなくて、かろうじての正しさを守ったままで。

『ああ仕方ないよな。負けたら死ぬからしょうがない』って諸共に滅べるじゃないか。

 

 ──その希望に満足して、今度こそ陽南飛鳥の自我は綺麗に掻き消えた。

 はずだった。

 

 けれどまさか。

 隕石の正体は文月咲耶で、負けることも終わることも許されず、あろうことか新しい自我で上塗りされて、都合の悪いことだけを綺麗さっぱりと忘れたままに、いつの間にか現世に帰ってくることになるとは夢にも思わなかった。

 

「夢だけどさ、ここ」

 

 自嘲混じりに呟く。

 夢の中に時間の感覚はない。走馬灯のように異世界での二年の記憶を追体験し、その終着点に辿り着く。

 瓦礫だらけの魔王城。天井はぶち壊され、竜の死体は炭と消えた、空っぽの玉座の間。

見覚えがあるようで無いようなこの光景を、俺は割れた眼鏡(・・)越し(・・)に眺める。

 

「どれだけ生き汚いんだよ俺。往生際が悪過ぎて死にたくなる……」

 

 答える者はいないはずの夢の中。声が聞こえた。

 

「そうね、あなたって。不死身のわたしよりよっぽどだわ」

 

 振り返ると魔女が──いや、文月咲耶がいた。

 角はなく、ドレスではなく、魔女の姿ではない。

 この場は異世界の夢だというのに彼女は現世のようなワンピース姿で。彼女の亜麻色の髪は、何故か短く切り揃えられていた。

 直感する。目の前の(・・・・)彼女は(・・・)本物だと(・・・・)

 

「なんで、君が」

 

 ──文月(・・)がここにいる?

 

 彼女は得意げに胸に手を当てて言う。

 

「あら、言ってなかった? わたし、魔女だから夢くらい弄れるのよ。気合いで」

 

 そして彼女は、静かに微笑んだ。

 

「遅くなってごめんなさい。

 ──救いに来たわ。陽南君(・・・)

 

 

 

 ◇

 

 

 

 崩れた魔王城の玉座の間。壊れた天井から夜空が覗く。城の高さも相まって、天は近かった。空も海も赤い異世界でも、星の輝きだけはよく似ていた。

 彼女はこちらを見て、哀れむように眉を下げる。

 

「その姿……やっぱりあなたの時も止まっていたのね」

 

 この自分の見た目は、おそらく選定の儀の頃のものだろう。おそらくと言うのは、姿がちぐはぐでもあるからだ。

 背は低いままなのに、服は勇者時代のそれ。儀式の後のように眼鏡は割れているのに、何事もなく両腕がある。視力は悪いままなのに、磨かれた床に映る自分の目は青い。

 後退る。彼女に見られたくはなかった。こんな自分も、こんな過去も。

 

「安心して、あなたの記憶は見てないから。思考も読んでない。わたしはただ、話をしに来たの」

 

 情けなくも安堵した。彼女は穏やかに告げる。

 

「いつかと同じ話を。今度は正気のわたし(・・・・・・)と、本当のあなた(・・・・・・)で」

 

 彼女の言う『いつか』が、何のことなのか察しがつかなかった。

 外見の時系列の混線に現れているように、俺自身の中身(・・)は現世で生きた十六年と、おぼろげな異世界の二年で出来ていた。

 ──文月咲耶と再会して以降、現世に帰ってきての半年間の記憶はあるが実感がない(・・・・・)

 だから彼女の言葉の意味を直ぐには察せず、けれどその、狂気的なまでに真っ直ぐな瞳と。

 

 

「──ここに簡単な結末があるの」

 

 

 いつかと同じ問いに、ようやく思い出した。 

 今の俺にはあまりに遠い五月のこと。彼女に差し伸べられた手を『そんなものはいらない』と、あの時の自分(あいつ)は跳ね除けたことを。

 

「あなたを救いに来たわ。もう異世界なんて思い出さなくてもいい。呪われた腕なんて取り返さなくていい。わたしが、あなたを脅かす何もかもから守ってあげる。あなたを苛む何もかもを滅ぼしてあげる」

 

 彼女は俺の手を柔らかく取って、吐息がかかるほど近く囁く。

 

「だから安心して、弱くなって、駄目になっていいよ。わたしがなんだってしてあげる」

 

 

「──あなたの願いを、叶えてあげるから」

 

 

 手を握られているはずなのに、夢の中だからだろうか、感覚は伝わらなかった。

 甘やかな彼女の微笑みは、どろりと包み込むように重たい。温かな沼に沈められていくように抗えない。

 ──委ねてしまえば楽になれると、理解(わか)ってしまった。

 

 本当は、もう何も考えたくないんだずっと。人生とか善悪とか、もう何も。

 袋小路から抜け出す気力なんて本当は、二年前のあの日に尽きていた。

 ……もう、いいか。

 ぐらぐらと脳が揺れるまま、頷こうとした。

 その、瞬間。

 

「──何やってんだテメェァア!!!!」

 

 突然横から爆走してきた何者かに思いっきり蹴り飛ばされ、俺は死んだ。

 ──享年十六と二年の人生だった。

 

 

 ……いや、夢の中だから死ぬもクソもねえわ。

 瓦礫に頭から突っ込んだが痛くも痒くもなく、夢なので都合良く瓦礫ごと消えていた。

だが蹴られた際の死ぬかと思った衝撃だけはあるもので、目を回しながら見上げると、そこには。

 

 

「──そのままおっ死ねクソがッッ!!!」

 

 

 親指で首掻き切って悪態を吐く、ブチギレた()が居た。

 場違いのジャージ姿──完全に現在(いま)の姿の俺だ。

 何故か俺(でかい方)が俺(主観)にメンチを切っている。

 困惑した。

 文月もまた隣で目をぱちくりと瞬いている。おろおろと俺×2を交互に見やる彼女に、自分(そいつ)は言う。

 

咲耶(・・)、ちょっと向こう行っててくれるか」

 

 彼女は、はっと何かに気付いて。「あーはいはい、そゆことね」と肩を竦め、光になって消えた。

 

 

「よし」

 

 いや、何もよくないんだけど。

 立ち上がる。

 

「なんで俺がもう一人いるんだよ……」

「あ? そりゃ、俺とおまえで人格別だからに決まってるだろうが」

 

 そうか、こいつは『文月咲耶を認識した後に再構成された自我』で、この半年をやっていた俺か。

 だが半年間の記憶はこちらにもある。現世に戻ってからは次第に『陽南飛鳥(こちらのオレ)』の記憶も蘇りつつあったはず。おそらく完全に別人格ではなく、実際は混ざり合っていたんだろう。

 何故か今は、キッパリ分かれているようだが。

 

「こっちの俺は過去の記憶に呑まれずに済んだからな。さっきまでどうにか目を覚ませないかと出口を探してたんだ」

 

 そいつは「いや寝てる場合じゃねえんだよ、咲耶を一人にすると何しでかすか分からないんだぞ……」と呻く。

 

「そしたら案の定、咲耶が昔の俺(おまえ)を誑かし始めて、ダッシュで戻ってきたわけだが……」

 

 そして俺は、俺に掴みかかる。

 

「なーに勝手に洗脳許可して堕落しようとしてんだよ!?! うだうだ腐って寝こけやがって、まだやらかすつもりか!! ええ!?」

 

 ……どこからでもキレるなこの俺。納豆のタレか?

 

「あとおまえの心の声聞こえてるからな、俺には!」

 

 クソッ、同一存在不便。でも聞こえてるなら声出さなくていいか、同一存在便利……。

 内心で悪態を吐く気力はあれど、胸倉を掴まれて抵抗する気力はなかった。その様子を、そいつは更に不愉快そうに舐めつける。

 

「今更、昔のこと思い出したくらいで何折れてやがる……たかが(・・・)この程度(・・・・)の過去で!!!」

 

 だが。その物言いに。

 脳味噌が沸いた。

 ──たかが、だと……? これが、たかが?

 これまで生きてきた過去も、これから手にするはずだった未来も壊されて、自分の存在定義に必要だった『正しさ』も、取り返しのつかない『間違い』の上に塗りつぶされて、

 失ったものを数えるには片手では足りなくて、数えるための指すら足りないのに、たかが(・・・)

 それを、誰よりも分かってるはずの自分(おまえ)に言われたくはない!!

 だが、そいつは。

 

知る(・・)かよ(・・)

 

 俺の胸倉を離し、自分事をまるでゴミのように切って捨てた。

 そいつは言う。

 

「この俺の自我は『勇者』としての使命と文月咲耶への感情で出来ている。世界を救う義理は果たした今、優先事項は咲耶のことだけだ」

 

 ──つまり。

 

 

「『()』は咲耶と(・・・・)イチャつく(・・・・・)ことしか(・・・・)考えてない(・・・・・)

 

 

 そいつは、なんのてらいもなく、言い切った。

 

 俺は奥歯を噛み締める。

 ──ああ、それだ。『陽南飛鳥』はそれが一番許せない。

 この半年間の記憶を、まるで他人事のように思い返す。

 友達も朝食も、デートもキスも、おかえりも抱きしめることも眠れない夜に隣にいることも、おまえごときには許されない贅沢だ。

 呻きが漏れる。

 

「……何を、のうのうと生きてやがる。何、普通に青春なんて謳歌してやがる。俺は、間違えたんだ……今更忘れて幸せになろうだなんて許されるわけないだろう……!!」

 

 激昂を、しかし。そいつは冷淡に見つめ返す。

 

「だぁれが、てめぇが幸せになれっつった。俺は咲耶さえ幸せならいいんだよ。おまえが今ここで腐ると確率が下がる。咲耶が幸せになる確率が」

 

 ──それは……。

 そしてそいつは、急に相好を崩した。

 

「ていうかさ、咲耶のショートカットめっちゃ可愛くないか?」

 

 ……急に何?

 

「いいよな健康的で。らしくはないけどあえて良い。わかるだろ俺。俺ならわかるはずだ。後で褒めといて」

 

 …………この、色ボケイキリクソ野郎!

 叫んだ。

 

「今この流れでする話かよ!! なんなんだよ! 自分で褒めろよ!!!」

 

 認めたくねえ、こんなのが俺の別人格などと!

 だがそいつは眉を下げ、微苦笑する。

 

 

「それは無理だ。

 ──俺は多分、いなくなるからさ」

 

 

 あまりに軽々しく、消失を予言した。

 

「いなくなるってのは正確には違うか? 別に消えるわけじゃない、俺とおまえは既に現実じゃ混ざってるからな。

 だが割合の問題だ。『勇者(オレ)』の自我よりも、『陽南飛鳥(そっちのオレ)』の自我の方が重い。おまえが記憶を完全に思い出したのなら──こっちはもう要らない、だろ?」

 

 そうだ、目の前の俺は文月咲耶に再会した時、空っぽを埋めて無理矢理動くために作られた、仮の人格だった。

 だが記憶は決定的に戻った。本来の俺が、ここにいる。となればもう──目の前の俺は、溶けて混ざって消えて、もう戻れない。

 

 

「だから後は、おまえが(・・・・)やるしか(・・・・)ないんだ(・・・・)

 

 

 憂いなどひとつもないように。その両目は強く俺を見ていた。

 

「どう答えるべきか、なんて。本当はわかってるだろ? この人格はおまえが望んだ『都合のいい俺』だ。勇者だろうが、咲耶(あいつ)の何だろうが、おまえと俺は本質的に変わらない」

 

 揺るがないそいつは。

 

「大丈夫だよ。(おまえ)は強い」

 

 嘘吐きなほどに場当たりで。

 

「とりあえず格好つけておけ。後は、未来の(おまえ)がなんとかするさ」

 

 破滅的なほどに楽観主義で。

 

 ──ああ、そうだ。

 俺は、(おまえ)のことが心底嫌いで。だけどどうしようもなく、おまえは俺自身なんだ。

 

 

 

 瞬きをすると、目の前にいたはずのそいつはもう消えていた。

 度が合わない(・・・・・・)眼鏡越しに、自分の姿を見下ろす。服は勇者時代のそれ、右腕の感覚は消えていた。

 

「──答えは用意できた?」

 

 いつの間にか隣には咲耶(・・)が戻ってきている。背が低くなった、と印象を受け、俺の背が伸びただけだと気がついた。

 

「……ああ」

 

 割れた眼鏡を外して、握り潰した。破片は掌に刺さることなく、灰になって消えた。

『願いを叶えてあげる』と彼女は言った。甘美な誘いだ。望めば本当になんだってしてくれるだろう。俺は彼女の甘さをとっくに骨身に思い知っている。実はいつも結構、抵抗するのもギリギリだ。

 だけど。どんなに救いを提示されたって、初めから選ぶ余地なんてないんだ。

『そんなものはいらない』とかつての俺が言った。たとえそれが違う自我の言葉だったとしても、それは紛れもなく俺の選択で、その誓いをなかったことにはできない。

 だから。

 

まだ(・・)やるよ(・・・)

 

『──そうだ、それでいい』

 

 どこかから声が、聞こえた気がした。

 

「……うん」

 

 彼女は、目を閉じ静かに頷き。

 

 

あなた(・・・)ならそう言ってくれるって、信じてた」

 

 

 ぞっとするほど綺麗な笑みを、浮かべて言った。

 

 

 瞳が赤く輝き、赤い唇が弧に歪む。花弁のように光の粒子が舞い、彼女の姿を塗り替える。

 気付けば衣装は鮮烈なドレスに切り替わり、ここに聖剣はないはずなのに、頭には捻じ曲がった赤い角が生えていた。

 肩口の上、短くなった髪が風にたなびく。

 そして魔女は、高らかに宣言した(となえた)

 

 

「それじゃあ、全部(・・)更地に(・・・)しましょうか(・・・・・・)!」

 

 

 人差し指を高く天上に突き上げる。

 夜空には名も失った星々が燦然と輝く。

 その、空に。燃える炎のように鮮やかに尾を引いて。いくつもの星が、降ってくる。

 

 この世界を粉々に打ち砕くほどに大きな、隕石(ほし)が。

 頭上に、迫る。

 

 唖然とする俺に、彼女は不適に無敵に悪戯に、嘲笑うように慈しんで笑って。

 

サプライズ(・・・・・)隕石理論よ(・・・・・)。あんたの悪夢を終わらせるには、いい演出じゃない?」

 

 びしりと指を突きつける。

 

 

零落(おと)してあげるわ、何もかも!!」

 

 

 

 ──そしてようやく、夢は醒める。

 

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