五等分の京都ぐるぐる日記   作:鹿クンが見ている!

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春風一号

 京都駅烏丸口から下界へと出ると、真っ先に眼前の景色に見るのが、京都タワーの屹立するその堂々たる様だ。

 

 京都タワー。京都に建っている塔なのだからと、小学校の頃の俺は、古めかしい五重塔的なものを想像していたが、その実が案外近代的な建築でがっかりしたものだ。がっかりしてる間に隠し撮り疑惑をかけられたから散々だった。

 

 その隠し撮り疑惑を弁明してくれたあの子に出会ったのが、今見上げている大階段だった。長い下り階段が終わると、在来線のホーム入り口と合流し、そのまま下界へ出る。

 

 京都タワーは世界一高い無鉄骨建築として広く認知されている。途中までは純白の塔がそのままにゅうっと伸びていくシンプルなデザインなのだが、それがいきなり展望台部分でポコっと楕円を描いているので何やらレトロ・フューチャーを思わせる。展望台部分を経由するとまた細く伸びていき、終いには百三十一メートルの高さにて空の青に吸い込まれて消えていく。

 

 タワーの足元にはつらつらとバス停の軒が並んでいる。ここから洛中各所に散らばる観光地に至るためのバスが出発するのだ。

 

 俺は駅前に待たせていた友人の姿を探した。大学時代の友人である。いや、急ではあるが、「友人などではない」と前言を撤回する。はたから見ると友人のようにも見えてしまうのだろうが、それは俺にとってはなはだ不本意であった。俺自身も性格がいいとはお世辞にもいうことはできないだろうが、そいつとつるむのが愉快だというほど落ちぶれてもいない。むしろ奴隷のようにこき使い、明日には捨ててやっても構わない、それくらいに俺はそいつのことを忌々しく思っている。しかし彼はどこ吹く風で、俺に執拗に付きまとい友達気取りをする。

 

 そんな奴を無理に引き離そうとしても仕方のないことなので、今日俺は引っ越しの荷ほどきを手伝わせるべく、そいつを俺のこれから住まう下宿に連れて行くことにした。

 

 俺の契約した下宿は左京区の下鴨泉川町にあるので、下鴨神社の近辺まで至る観光バスを用いて移動する。そいつの姿を見つけようと、バス停をキョロキョロと見回した。

 

 バス停の軒下には様々な人がいる。若い男女の群れや、目つきの鋭い生粋の京都人らしい老人たち。和服に身を包んだ落語家的雰囲気をたずさえた者や、集団観光ツアーに参加しているのだろう多種多様な肌をひしめかせている外国人たち。

 その中に一際目立つ端正な顔立ちをした男性が、洒落たハットをかぶって澄まし顔をしていた。俺の探していた顔だった。探していたのにもかかわらず、いざ見つけてしまうと「ちっ」と舌打ちしてしまうのは、やはり俺が彼のことを嫌いだからであろう。

 

 彼も、俺が不愉快そうに舌打ちするのに気付いたようで、俺の姿を見るなり、その端正な澄まし顔を醜く歪めてしわくちゃの皺を作り出した。どうやら笑ってるらしかった。整った顔立ちが急に妖怪のそれに変貌したので、地元住民やら観光客やらのバスを待っていた皆さまがギョッとした。

 

「おぉーい! こっちですよぉ」

 

 こちらに向かって、嬉しそうに手を振りやがる。

 

 やめろ。てめえの友人か何かに思われたらどうする。

 

 そいつこそが、不本意ながらも俺の友人という関係にあたる男であった。名前は敷間太一郎といった。俺は彼のことをもっぱら苗字で「シキマ」と呼ぶ。

 

 俺とシキマ、その他善良な住民を乗せたバスが出発した。乗客の客層は下鴨神社の参拝客、あるいは高校、予備校を卒業したばかりの新大学生といったところだろうか。

 バスは駅前のビル街を進んでいく。背後の京都タワーがだんだんと小さくなり、街の景色の一部に同化する。バスは塩小路通りをゆったりと折れて、交わった河原町通りを北上していった。

 

 隣でシキマの野郎が何やらベラベラ喋っているが、適当に聞き流す。「自分から手伝いに呼び出しておいてあんまりな仕打ちだ」と非難する者もいるだろうが、これくらいの扱いが奴にはちょうどいい。不本意にも大学入学からの四年間と院生時代の二年を共に過ごしてきた俺が言うのだから安心していい。

 

 院生の二年目で就職するというのは色々半端だと自分でも思う。そもそもそんな訳の分からない時期に就職するのなら大学卒業の時点で就職すりゃいいと附言する同回生もいたが、俺は大学教員になりたかった。大学教員になるためには大学院に四年は在籍しなくてはならないが、俺は己が秀才的頭脳をむやみやたらに酷使しすぐに博士号を取った。

 何故なら家計的な心配があったからだ。高校時代に貯めた中野家家庭教師のバイト分の金があったが、それはあくまでも我が家の借金をマイナスからゼロに戻し、少しお釣りをもたらした程度だ。だからこそ、だらだらと大学院に在籍し、我が家の心許なさすぎる家計を圧迫するわけにはいかなかった。迅速に就職して安定した収入を実家に入れる必要があった。

 一年半という短期間にて取得した博士号と、その才の証明たりうる論文をこれ見よがしにヒラヒラさせていると、今年の正月頃に教授から声がかかった。

 

「素晴らしい! 君は天才だ、我が研究室の誇りだ。来年からは西の最高学府にて助手をするといい。僕のマブダチが君を欲しいと言ってる」

 

 有無を言わさぬ勢いであった。俺の研究室の担当だった教授は年末の忘年会にて、知り合いの大学教授と、俺の論文をつまみに酒を飲んでいたとのことだった。論文や学術書をつまみに酒を飲む変態的会合に俺の卒論が持ち出されていたという事実は俺にやや身震いさせたが、それでも気に入ってもらえたのなら結果オーライであった。

 

 そういうわけで大学教授の助手の内定をもらい、早急に就職して金を実家に入れたかった俺としては文句なしのホクホク顔だったのだが、気に喰わない点が二つあった。

 

 一つは内定をもらったのが、京都の大学のものであったということ。

 

 もう一つは、俺と共に助手の内定をもらったのが、今隣に座っているこの唾棄すべき友人、シキマであったということだ。この金魚のフン野郎は大学、大学院だけでは飽きたらず、社会人になってからも俺に付き纏うという。「終わらぬ悪夢とはこういう事をいうのだな」と、俺はどうしようもなく残酷な白き真実に戦慄した。

 

 流れる京の街並みを眺めて、「ここ修学旅行で通ったよな」だとか、「そういやこの店、あの子と一緒に入った気がすんな」だとか、ぼーっとしたノスタルジックな気分に浸る。けれどもそのノスタルジーも、今日からは日常の風景の一部になるのだと考えると不思議な心地がした。

 

 そういう情緒的な思索に耽っていると、突如シキマが俺の視界に顔を滑り込ませてきた。どうやらさっきまで適当に受け答えしていたのが、いつの間にか途切れていて完全に無視していたらしかった。それを不満に思ったのだろう。

 

「何ぼーっと外なんか見てなはりますのん」

 

 修学旅行的な感覚で浮かれているのだろうか、シキマは不自然な京言葉で質問してきた。ちなみに彼は生まれも育ちも、俺の住んでいた街と同じである。

 

「いい脚してる女の子でも歩いてたんですか?」

 

「情緒もクソったれもないこと言うんじゃねえ」

 

 そう反論するが、だからといって過去の思い出に耽ってぼんやりしていただなんて女々しいことは死んでも言えない。

 

「またまた、強がっちゃって! おおかた、あなたも『職場にはどんな娘がいるんだろうなぁ』だとか『学生に手ェだしたら犯罪なのか?』だなんて、そんなこと考えてたんでしょう。分かりますよ、僕にも」

 

「お前と一緒にするな」

 

「いいえ、一緒でしょう。我ら男性は代々螺旋的に引き継がれしDNAに刻み込まれた色濃き獣欲に身を任せるのみです。我々繁殖期真っ盛りのオスに一体他に何をすることがありましょうか。あなたのように紳士ぶっている人だって底が知れています。いや、あなただけじゃない。世の紳士淑女の皆さま方は生物としてどこか不自然です。僕が王様になったらフリーハグ・フリーイチャイチャなキングダムを建てます」

 

「この色魔が!」

 

「シキマというのは僕の苗字ですが何か?」

 

 シキマは先ほどまで淡々と動かしていただけの表情筋を不自然に歪ませて醜く笑った。

 彼は澄ましていればなかなかの色男であるのにもかかわらず、皮肉なことに笑うのがすこぶる苦手だった。というよりかは、笑うという筋肉を生来持ち合わせていないのだろう。

 

「……もういい」

 

 再び車窓へと向きを変えて、変態的性欲に論破されかけた自身の不甲斐ない精神を休ませようとした。外の景色は春真っ盛りの賀茂川であった。隣のシキマの薄汚れた精神をピカピカに浄化させてしまいそうなほどに清らかな流れだったが、彼は一筋縄ではいかないだろう。

 バスは葵橋を渡っていき、我が下宿に着くのはそろそろかなと思った。

 

 

 

 ◯

 

 

 

 名は体は表すという言葉がある。名前とは親が子に「このような人間になって欲しい」と計算して与えるものなのだから、その子がその名前の由来通りの性格になるのは当然のことだろう、といったものである。

 

 しかしこれがもし名前ではなく苗字、すなわち姓の方であったら?

 

 俺は昔、そう考えたことがあった。

 

 姓とは先祖代々受け継がれる、いわゆる一族の誇りといったところだ。しかし、その姓により己が人格を決定づけられると考えたらそれはにわかに恐ろしい話となる。名前をつけることによって「このように育って欲しい」と願うのは親の勝手だが、苗字によってそれを願われ決定づけられるとしたら、それはもはや一族に掛けられた呪いである。

 その最たる例こそがシキマであった。

 彼はその「敷間」という苗字の音の響きに一致するが如くの「色魔」であった。シキマは底抜けの女好きであった。

 

 そして、彼の変態的性欲がその呪われし苗字に由来するものだとしたら、彼の両親や祖父祖母、彼と同じ「敷間」の姓を冠する遍く人間は一人の例外もなく色魔であるのが道理だが、どうやらそういうわけでもないらしい。

 

「両親も兄弟も、我が家の人間はつまらないです。体裁ばかり気にします」

 

 シキマは昔そう言っていた。俺は「それが普通の人間なんだよ。親に申し訳ないと思え」と説教してやった。

 

 大学時代のシキマとの唾棄すべき青春を思い出すにつけ、俺は怒りと侮蔑の気持ちにプルプル震える。

 

 前述した通り彼は元来女好きだったので、大学に入ったばかりの頃、麗しき同年代の女子たちが一花咲かせようと無理をして開放的になってるのに乗じて、彼はそのわずかに残されたゴマ粒のような理性を捻り潰した。遠慮することなく理性のブレーキをぶっ壊した後のシキマを止めることのできる者は誰もいなかった。

 彼は夜ごとに飲み屋街に出かけては、むくむくと膨れる汚らわしい妄念を腹の中で育てながら、何らかの猥褻なハプニングを期待して、桃色遊戯三昧を楽しんでいた。

 

 しかし、そこまでであればまだ許せた。俺は確かに高校時代までは恋愛などくだらないと切り捨ててきてはいたが、あの五つ子との経験を通じて恋愛、というよりも人付き合い全体の大切さを理解してきたつもりだ。例えシキマが、ふしだらな女とのふしだらな邂逅を望むふしだらな男であったとしても、まだ許せた。俺の数少ない友人たちの中でもかなり序列は低いが、ギリギリ友人の射程範囲内だった。

 

 許せなくなったのは、夜の町で俺の知り得ぬイロイロをその頭の中に叩き込んだシキマが、カップルの仲睦まじく歩む恋路に立ちはだかり、女方を我が物にせんとちょっかいを出し始めてからだった。

 彼は事もあろうに、赤の他人の彼女を口説き落とし、えいしょこらしょと掻っ攫っていくことに言いしれぬ喜びを感じる極悪人にへと転じてしまったのだ。その辺りから俺はシキマとの付き合いを終わらせることにしようとした。終わらせることができたか否かは別としてだが。

 一番最初に彼が同じ学部に在籍する友人のうちの一人から女を奪うと、その悪名は放たれた矢のような速度で瞬く間に大学構内へと広まった。しかし彼は反省するそぶりもなく、いっそ自身の悪名を轟かせまくろうとでも言いたげな勢いで、乙女簒奪の工作活動に精を出した。

 

 彼は憎たらしいことに、澄ましていれば顔立ちだけは良いといえる。学業もろくにしないくせに、研究室では俺が首席であるのは当然として、それに次ぐ次席にまで迫る実力があった。さらに夜の町で身につけてきたという妖術的トークスキルによって完全武装し、向かう所敵なしの色男となっていた。

 彼はその小賢しい悪知恵を働かせ、恋愛的策謀を練りに練り上げ、何の罪もない男からいとも簡単に女性を奪ってきた。さながら彼は、大学構内に張り巡らされた赤い糸を絡めて絡めて絡め取る悪魔であった。

 

 東に恋する乙女あれば行って「あんな甲斐性なしヤメトケ!」と自分を選ぶよう説得し、西に妄想する男あれば行って「あんたなんかにそんな薔薇色のキャンパスライフが送れるはずないでしょう」と心を挫き、南で修羅場の炎が上がっていれば、消火活動ついでにさりげなく乙女を連れ去り、北では常に恋愛無用論を説いて恋人探しに血眼になっている屈強な男どもの戦意を削いだ。

 

 縦横無尽の悪名高き大活躍であった。

 そういう強引でハングリーな略奪魂が時に女どもの心を奪うという。

 

 付き合いの長い俺から言わせてもらうと、いくらシキマの顔立ちが整っているとはいえ、その顔色はインスタント食品ばかり食べているためか病的に青白いし、言葉の端々からはその内側に隠しきれない色欲の鱗片が見え隠れしていた。そういうよくよく見ると欠陥だらけの男に、どうして彼女らは今の相方を捨ててまでなびくのかが、はなはだ疑問だった。馬鹿だと思った。俺の高校時代の教え子五人ですらここまで馬鹿じゃない。

 

 そもそも遊ばれていると分かっているのにどうして彼の虜になるのか、というのが最大の疑問であった。しかしそれこそがシキマが女を惹きつける最大の理由であるらしい。

 

 シキマ曰く、大学入りたてほやほやの背伸びしたがりな女学生は、いわゆるアブナイ火遊びにいたく憧れているらしい。そこで、大学構内において誰もが知っている危なっかしい色男は、そういう過激な刺激を望む女生徒には格好の相手なのだという。

 

「僕は女の子と遊びをしたくて、彼女らはちょっとアブナイ経験をしてみたくて夜の街に出かける。win-winな関係ですわ」

 

 そう言って彼は、他人から奪った女を何の執着もなく手放しては、それに付随して高じるさらなる悪名に釣られてやって来た年端もいかぬ女性と一夜を過ごすことに大学生活の大半を費やした。

 

 恋愛的策謀を飽くことなく張り巡らせ、大して好きでもない女性を奪い、不特定多数の女と取っ替え引っ換え寝るその悪魔的所業は、まさに色魔であった。

 

 つまりシキマは彼が彼であるゆえに色魔である、そう言う他なかった。苗字も親も周囲の環境も、全ての要因は関係ない。

 彼の変態悪魔的所業が彼を色魔たらしめた。

 ゆえに俺を含む同回生及び、先輩後輩、教授、清掃員に至るまで彼と同じ大学に通う全ての人間が侮蔑の意味を込めて「シキマ」と呼んだ。しかしそれは彼と同じ苗字であるあだ名だったので、彼はさして傷ついた風でもないし、そもそもシキマと呼ぶ意味を懇切丁寧に教えてやったとしても図太い彼はやはり気にしないだろう。

 

「婿にでも入ったらどうだ、お前」

 

 バスを降りた俺は町の路地に入って、隣を歩くシキマに言った。

 

「婿。そりゃまたどうして」

 

「その敷間の姓を捨てろと言ってるんだ。苗字が変わりゃお前を『色魔』たらしめる敷間じゃなくなって女遊びも落ち着くだろう」

 

 我ながら阿呆な事を言ってると思った。姓を変えたからといって性格まで変わるわけあるまい。

 

「あんた阿呆ですか」

 

「しかし、それくらいしか打開策が見つからん。二週間前まで院生だったが俺たちも、もういい大人なんだぜ。いい加減そんな地に足のつかないようなことはやめたらどうだ」

 

「まあ確かに、やすやすと婿に入って女の尻に敷かれるような甲斐性なしになったときにゃあ僕は色魔を名乗れんでしょうなあ」

 

 シキマはしみじみ言った。

 

 東には高野川がゆったりと流れ、西には下鴨神社境内の糺の森が南北に伸びている。耳を澄ませば、川のせせらぐ水音、森の木の葉がわさわさ揺れる音が聞こえてきそうなほどに静閑な住宅街であった。街の喧騒からは程遠い。

 

 古い家並みを抜けるべくしてさらに狭い裏路地に入ると、両側から迫る古めかしい塀が延々と続いている。ときおり塀の上から樹木がとびだしてトンネルのように昼の青空をさえぎるものだから何だか秘密の抜け道じみている。

 

「おい、本当にこっちであってるのか」

 

「僕は送られた荷物の整理をするべくして、あなたの下宿に三日も通っているのですよ。近道くらい知ってます」

 

 シキマは俺と違って一週間早く京都に越してきた。だから俺は契約した下宿の鍵を大家から受け取るようにあらかじめうながし、送った荷物の整理をするよう彼に頼んでいた。

 

 塀の上にふてぶてしくうずくまって「にゃー」と鳴く黒猫がこちらをにらんだ。こういう非現実じみた裏路地を妖怪のように不気味な笑顔を浮かべるシキマに連れられて歩いていると、何だか自分がファンタジー小説の主人公にでもなったかのような気分だったが、やがて裏路地を抜けた真っ正面で待ち構えていたのは、俺の契約した下宿「下鴨幽水荘」であった。

 

「しかしまあ、よくもこんなボロ屋借りる気になりましたね」

 

 見るなりシキマが小馬鹿にした。

 

「僕だったら一日もいられない。あんたの頼みだから、かろうじて荷ほどきくらいは手伝ってやりますが」

 

「うるさい。俺は実家の家計を圧迫できないんだよ。お前みたいなボンボンには分からんだろうがな」

 

 彼の小馬鹿にするように下鴨幽水荘は俺の実家のボロアパートなど比較にならないほどのオンボロぶりだった。今にも倒壊してしまいそうな木造二階建ては初めて訪れた俺やシキマをドキドキハラハラさせ、しばらくの間建物の中に入るのを渋らせた。ひょっとすると俺たちが幽水荘に体重を預けたが最後、臨界点を突破してガラガラと崩れてしまうのでないか、「百人乗ってもダイジョーブ」の百一人目になってしまうのではないか、などという懸念があったからだ。

 

「あなた、先に入ってくださいよ」

 

「鍵を持っているのだからお前が先に行け」

 

「じゃあ鍵は家主に預けます。はいよ」

 

「あぁ、てめぇ! この野郎」

 

 鍵を預けられた俺は先に入らざるを得ない。それも当たり前だ。シキマは俺に手伝わされているだけなのだから、その気になればいつでもほっぽりだして逃げることができる。

 

 満を持して下宿内に潜入したはいいものの、眼前に展開される圧倒的混沌に俺たちは吸い込まれそうになった。

 

 正面玄関から入ると中は真昼であるのにもかかわらず闇だった。どうやら今時、入居者が勝手に電気をつけたり消したりする自律的システムらしい。外からキジバトの鳴く「キョーキョー」という音が聞こえてその異様な不気味さに拍車をかける。耐えきれず備え付けられた電気スイッチをつけた。電気をつけると、先ほどまでぼんやりと見えていた横の木の箱が下駄箱であると確認できたので、スリッパに履き替えた。下駄箱には先住民が残していったボロ靴がいたずらに履き捨てられてあり、ほとんど腐りかけている。履き捨てられたゲタの中で何かがモゾモゾ蠢いているようだったので、シキマがはてと思って覗くと中からベンジョコオロギが飛び出してきた。シキマは「きゃあ」と女々しい悲鳴をあげて先に進んだ。

 

 続く廊下には冬まで使っていたのだろう電気ストーブや、諦めのいい学生によって投げ出された小難しげな学術書、招かれざる客まで招いてしまいそうなほどに存在感のある大きな招き猫、壊れたビニール傘、だるま、たわし、その他諸々の生活感溢れる物品や生活において果たして必要なのかと懸念される物品とが清濁併せ呑んで乱雑に放置されていた。

 

 ほとんど足の踏み場のない無秩序な廊下を進んでいくと、何やら一箇所だけ物品やゴミの放置されていない、割りかし綺麗なスペースがあった。百三号室の部屋の前だった。その部屋の住人は、せめて自身の部屋の前だけでもと、きちんと清掃を欠かさないのだろう。感心だと一瞬思ったが本来はそれが当然なのだと思い直す。早くも幽水荘の混沌に呑まれかけ、先に続く生活に一抹の不安を感じた。

 

 俺の部屋はその隣の百四号室だった。部屋の前には何やら桐箪笥が放置されていたので、よいしょとシキマと二人でどかしてから鍵を開けた。湿った畳の匂いがした。

 

 中の四畳半には俺が先に届けておいた日用品、寝具、家具などが乱雑に置かれていたが、割りかしは片付けられていた。

 

「お前にしちゃよく仕事してるじゃねぇか」

 

 意外に思ってそう言った。適当なシキマのことだから、俺の頼みなんか口先でハイハイ済ませておいて、すぐほっぽりだすと予想していたからだ。

 

「そりゃあ他ならぬあなた様の頼みですもの。この敷間太一郎、例え火の中水の中、腐りかけの下宿の中! 馬車馬のように身体をヒィヒィ言わしてでも働きますぜ」

 

 しかし、その割には彼はさして苦労しているように見えなかった。むしろ何かしてやったりといった風情が漂っていた。

 

「俺はお前のことだから、こんな面倒ごと無視して、また夜遊びばっかしてると思ってたぜ」

 

「あはは」

 

 シキマが乾いたように笑った。怪しいと思った。否定も肯定もせずにごまかして、後から調べてみるととんでもない事をしでかしているというのが、大学時代からの彼の常であった。

 

 蛍光灯にぶら下がったボロ切れのようなヒモを引っ張る。すると「チカカ」とやる気なさげな音をひっそりたててから、狭い部屋に灯りを投げかけた。蛍光灯の明かりが灯って薄暗かった部屋の様子が判然と見渡せるようになると、何か物足りないような気がした。その物足りなさは、きっとシキマが真面目に荷物の片付けをして、然るべき場所に物品をきちんと収めてくれた証拠であるのだろうが、それにしては何か、送達物の品々がすっきりしすぎている。

 

「そんな難しい顔してないで、はよ片しちゃいましょうや。あんた今日は大学にも顔出すんでしょう」

 

「うるさい。黙ってろ」

 

 シキマを一蹴して、しばらく考え込んだ。

 

 何だ、この妙なすっきり感。

 狭い四畳半の部屋にこれだけ荷物を送ったのに圧迫感が足りないような気がする。シキマが如何にデッドスペースを作らず隙間なく荷物をはめ込む事のできる、いわば整理整頓の達人であったとしてもこれはあまりにすっきりしすぎている。そもそも奴のような性根の腐った人間が掃除上手なわけがない。部屋は心の鏡だという。俺は未だにシキマの自室というものを見たことはないが、奴の捻くれた内面が投影された不潔な空間に違いあるまい。

 

 考えているうちに俺はようやく「送った物品が減っている!」という考えに至った。白々しい顔をしているシキマを見ていると、もはや嫌な予感しかしなかった。

 

「おい、シキマ」

 

「はい、何でしょう」

 

「何だか俺の荷物が少ないと思わないか」

 

「えぇ。言われてみれば、そうですね。少ないです」

 

「……お前何か知ってるだろ。てかお前がどうにかしたんだろ、俺の荷物どこやった!」

 

 ズイと顔を近づける。しばらくは気圧される事なくシキマは白々しく青白い病人のようなツラをキープして平静を装う事を努力していたが、やがて諦めるようにこう言った。

 

「売っぱらっちゃいました。古道具屋で、もしくは古本屋で」

 

「ふっざけんなよ、てめえ!」

 

 予想できていた答えであったが、予想通り過ぎて俺は声を荒げた。首根っこを掴んでやるべくブンブン腕を振り回したが、シキマは化け猫のようにすばしこくかわしながらこう言った。

 

「恋の戦には軍資金が必要なのです!」

 

「てめぇ金持ちのボンボンだろーが。そんくらい親にせびりゃいいだろ!」

 

「だいたいあなた、いくら親友だからって僕をタダ働きさせるだなんて酷過ぎますよ。これはバイト代です」

 

「だからといって、わざわざド貧乏の俺から生活必需品を奪って夜の町に繰り出すための足しにする必要はないだろうが。言えばバイト代だって渋々払ったぜ、多分」

 

「嘘つき。僕が嫌いなあんたの事だからそんな律儀な事するはずないでしょう」

 

「当然だ!」

 

 そういったやり取りを交わしながら、狭い四畳半で鬼ごっこをした。やがてシキマはわずかな隙間を縫って鬼たる俺の両腕をかいくぐり、ボロボロの扉にほぼ突進する勢いで逃げ出して、この鬼ごっこに終止符を打った。

 

「そもそもこんな狭い部屋にあんな多い荷物全部入りません。だったら僕が売っぱらって夜遊びに使ってあげた方がよっぽど建設的でしょう?」

 

 そう言い残してシキマは下宿から出て行ったようだった。

 

 彼が踏みしめる事によって廊下がミシミシ悲鳴をあげるのを聞きながら、俺は息も絶え絶えだった。体力の無さは高校の頃から相変わらずだ。

 

 俺は、売り払われてしまった学術書参考書の全書と必須家具の三分の一に対しての鎮魂を祈った。

 確かに、彼の言う通りこの狭い部屋にはあの膨大な量の荷物全ては入りきらなかっただろう。

 しかし、だ。

 

「売る……に、しても……はぁ、はぁ……金はせめて俺にやるべきだろ」

 

 けれども、そういう血も涙もない冷徹な決断力もまた、彼を色魔たらしめる由来であると俺は思い出した。血も涙も、奴の中に流れる情けの一切合切は全て変態的性欲の前に霧散無消する。

 

 よく考えりゃ分かる事だった。そりゃそうだ。あの性格の捻じ曲がった偏屈妖怪がタダで働くはずがない。契約を迫る悪魔のように何か大切なものを卑しく欲しがるに決まっているのだ。

 

「今日も負けた」と俺は思った。

 勉強において負けず嫌いだった俺は、こういうくだらない駆け引きにおいても負けず嫌いであった。

 だからこそ、しつこくちょっかいを出してくるシキマと何やかんやの付き合いがあるのだ。それが奴のような最低の色魔と縁を断ち切り難い最大の理由であった。

 

 

 

 ◯

 

 

 

 一人下宿に残された俺はしばらくの間うんうん頑張って荷ほどきをしたり、シキマによって売りさばかれた物品の補充に近所の商店まで出かけたりしていた。しかし元々シキマと二人ですすめるはずだった作業を一人でやるというこの状況は、中々精神的に苦しかった。

 もしさっき俺が怒鳴り散らさずにシキマを下宿に留めておけばもっと作業は楽に進んだのだろうか、などという弱々しいことを考えてしまう。だからこそ甘ったれた根性に鞭打ち、逆にあんな野郎の顔を見ないで済んでせいせいしたと自分に言い聞かせた。

 

 しかし荷物を解けども解けども延々と作業は終わる事なく、この狭い四畳半に如何に全ての家具をぎゅうぎゅう詰め込むかという幾何学的計算に耽るのにもさすがにヘトヘトであった。

 このままいたずらに時間を浪費し、作業を続けても効率は悪いように思われた。そこで俺は夕方頃に予定していた、研究室への挨拶の予定を今ここに繰り上げる事にした。

 決して終わらぬ作業から目を背けるための現実逃避ではない。これは作業効率を高めるための戦略的現実逃避である。

 

 

 大学に向かうべく下宿を出た。

 高野川を渡ってそのまま御蔭通りを直進し、突き当たった東大路通りを南下するとキャンパスがある。北口から侵入したキャンパス内を囲う木々はピンク色の花びらを付けていて、なんなら構内でも十分花見ができそうなほどの見事な咲きぶりだ。

 

 研究室に入ると春らしい装いに身を包んだ学生たちが「こんにちは」と気さくなあいさつをしてくれた。「若ぇな」とほっこり息をついてしまうが、こんな俺もつい二週間前までは学生だった。オヤジくさい事は言ってられない。

 研究室の奥に教授がいると言うので案内してもらうと、なぜか奥の部屋は座敷になっており、そこに小難しそうな顔をした初老の男が座っていた。その人こそが、俺がこれから助手としてつかせてもらう教授だった。教授は新撰組めいた和服を着ていた。互いにあいさつを済ませると、俺は故郷の土産菓子を渡し、教授は文机に置いてあった新渡戸稲造著の「武士道」をお返しにくれた。

 

「いいのですか、いただいて」

 

「他に何冊もある。持ってきたまえ、上杉謙信君」

 

「謙信じゃないです。風太郎です」

 

 教授はぐいぐいと本を押し付けた。読んでこいという事だろう。地元の大学にいるうちから聞かされていた事ではあるが、本当に変わり者なんだなと思った。

 

 あらかたの典型的な世間話を終えると、そろそろ教授は学生たちの前で話をしたいといった様子だったので、今日のところは引き上げることにした。

 慣れない正座で彼の話を聞いていたから、脚をつらぬよう慎重に腰をあげてから立ち上がった。詰まった血流が再び流れ出して、脚が痺れる。

 

 去り際、教授は構内の食堂で昼食を食べていくようにうながしてくれたので俺はそれに従うことにした。

 

 

 構内には俺の地元の大学と違って、数多もの飲食店があったので俺はしばし迷った。中にはイタリア料理店もあったが、持ち前の貧乏舌の事を考慮すると何だかもったいない気持ちになり、俺はけっきょく生協の安い食堂に入った。

 

 昼過ぎではあったが、それなりに客足がありそこそこの繁盛といった様子だった。女生徒に囲まれながらサバの味噌煮を食べるモテモテなオジさま教授やら、研究室にて徹夜二日目といった風貌の眼鏡学生たちが勉学の事などすっかり忘れ、リラックスして食事をとっている。ならば俺も今は四畳半に残してきたまだ解かれてない荷物の事などは忘れて気ままに食を楽しもうと思った。

 片付けが難航したら最悪シキマを引っ張り出せばいい。そう思ったが、俺はシキマの野郎がどこに下宿をとったのか知らない。彼は大学の頃からそうだったのだが、自分からベタベタひっついてくるくせに秘密主義のようなところがあった。

 

 今度会ったら絶対に聞き出してやると臍を固めながら列についた。列はそこそこ並んでいて、厨房の奥のおばさん達も忙しそうに立ち回っていた。これはしばらく時間がかかると思い、俺は先ほど教授からいただいた「武士道」の著書を開いた。昔読んだ気もするがその時の俺には少し難しくてあまり内容は理解していなかった。

 

「もし的外れな感想喋ったらあの教授にドヤされんのかな」

 

 そんな事を考えながら立ち読みを続けた。

 すると、ふいに「行儀が悪いですよ」と声が聞こえた気がしたが、気のせいだ。この大学に俺の知り合いは一人もいない。シキマが同僚だが彼の声はもっと忌々しいムカつく声だ。

 

「行儀が悪いですよ」

 

 俺は昔の事を思い出す。

 高二の頃、そう言って俺が自身の答案用紙をながら見して飯を食っていたのを説教する女がいた。

 

 当時は初対面なのによくもまぁ、こんなズケズケと踏み込んでこれるなと感心したものだ。俺はそれに対して、二宮金次郎を引き合いに出した訳の分からぬ言い訳をして意地になっていた。まさか彼女が次の日から家庭教師としてみていかなくてはならないという五つ子のうちの一人だとは思わなかったからだ。

 かなり妙な縁だと思われた。きっとそんな稀有な邂逅は二度とないだろう。

 

「行儀、悪いです」

 

 だからさっきから繰り返し繰り返し聞こえてくる声も気のせいに違いない。幻聴に違いない。妙に現実味があるけれども気のせいだ。

 

 その声はあの大喰らいの末っ子の声を少し大人びさせたような雰囲気を醸し出していたが、現実な訳がない。

 俺は無視を決め込むぞ。一度目は新幹線内で、二度目は大学の学食で。二回も幻を見るだなんて俺、疲れてるな。

 

「ねえ、さっきから言ってるんです。行儀悪いですよ。立ち読みだなんて」

 

 ちょうどこの幻聴と同じように、初対面の割にずけずけ言ってくるのなんてあいつくらいだ。だが、あいつは今試される大地北海道にて、自身の食欲の限界を試しているはず。

 だからこんなのは幻聴だ。あいつがこの世に二人もいてたまるか。

 

「何で無視するの! 上杉君」

 

 いよいよ具体的に個人名まで出してきやがった!

 

 背後で空気を震わせる呼びかけと息遣いは、だんだんとその現実味を確かなものとしていく。

 気づけば服の裾を引っ張られてるような感触すらあった。俺、マジで疲れてるだろ。

 

 それなら俺も腹を括るしかねえ。

 どうせこれは幻聴だから振り向いたならドロンなんだろうが、いつまでも綿飴みてぇにふわふわした曖昧なものに惑わせられる訳にはいかない。

 

 あいつらとの高校生活一年半は確かに大切だった。あの子との京都での出会いが俺を変えてくれた。夢のような時間だった。

 

 けれども、それは過ぎた話だ。京都の子の正体は結局確証を得られず終いだった。あの三人の思いにも答えてあげることができず、逃げたようなものだ。

 

 俺はあの時、卒業したら自分なんかは忘れてそれぞれの道を歩めと、そう言った。

 

 それなのに俺だけが思いを断ち切れずに、過去の幻覚まで見てしまうありさまだ。そんなんじゃあいつらに申し訳が立たない。

 

 俺は自分を必要だと慕ってくれたあいつらがいた頃の、甘ったるく幸せだった思い出を風で切るように、後ろを振り返った。

 

 すると、そこには一人の女性が立っていた。今度は幻などではなかった。

 

「あーやっぱり! 上杉君じゃないですか! 何でさっきから無視してたのですか。私、人違いかと思って恥ずかしかったんですからね」

 

 そう言って頰を膨らませる。その女は春らしいピンクのチュニックを着ていた。赤みがかった長髪がくるんくるんと独特のくせ毛を作ってるのはいいが、てっぺんから生えるアホ毛が何とも間の抜けた可愛らしさで、左右対称に二つ付けられた星のヘアアクセサリにはセンスのかけらも感じられない。

 

 俺はその容姿が高校時代に教えていた五つ子のうちの末っ子、中野五月のそれに酷似していることに気がついた。

 

 いや、まるでもう五月である。五月と瓜二つである。いっそ五月である。むしろ五月である。というか五月本人である。

 

「よう、久しぶり」

 

 なぜここにいる? なぜこんなにもタイミングよく出会う? とりあえず諸々の疑問は頭の隅にぎゅうと押し込んで、俺は極めて平静を装ってあいさつをした。

 

 

 

 ◯

 

 

 

 諸々の疑問を頭の隅にぎゅうと押し込んで、極めて平静を装って挨拶をした青年、上杉風太郎の高校時代についてここに記します。

 

 彼は高校時代、自身の家計の経済事情を憂慮して、とある五つ子姉妹たちの家庭教師というアルバイトをしていました。そして、その五つ子の末っ子というのが他でもないこの私、中野五月というわけでして、私は彼の助けがあって無事高校を卒業できたのでした。彼には感謝してもしきれません。何せ、私たち五つ子は五人全員が落第点という、未曾有のおバカ姉妹だったのですから。彼なくして私たちが高校卒業を果たすという快挙を成し遂げることはなかったでしょう。

 

 大げさな話に聞こえるかもしれませんが、これは本当のことなのです。嘘のような本当の話です。ノーフィクションです。

 世の中の人々の殆どは漫画「ドラえもん」の主人公、「のび太くん」の事を漫画雑誌の上に成り立つ、いわゆる創造物的馬鹿と解釈しているかもしれませんが、私たち姉妹にとって彼ほどゾッとする親近感を覚えるキャラクターはいませんでした。

 もしも上杉君に会っていなかったのなら、私たち姉妹は馬鹿な上に数だけは多い五つ子という、何だか「のび太くん」と「おそ松くん」を足して二で割ったような、フィクションじみた創造物的五姉妹へと変貌していた事でしょう。「おそ松さん」ならぬ「中野さん」です。ゴロが悪いしキャッチーじゃないし、そもそも一人足りないので流行らなそうです。

 

 そういうわけで、上杉君には感謝してもしきれないのです。繰り返し繰り返し、何度でもそう思います。

 

 そんな大切な存在こそが彼であるというのに、高校卒業以来、私たちは思うところがあって上杉君と会うのを控えていました。もはや連絡すら取り合っていなかったのでほとんど絶縁状態といっても過言じゃありません。

 

 ですからいつものように食堂へと入り、列の最後尾に彼の後ろ姿が見えたとき、私はひどく驚きました。あんまり驚いたものなので思わず「あッ」と素っ頓狂な声をあげてしまいましたが、上杉君には聞こえていなかったようです。代わりに向けられたのは、食堂で和やかに談笑をしていた人々からの好奇の目線だけでしたので、何も問題はありません。恥ずかしくて顔をトマトみたいに真っ赤にしてしまいましたが、何も問題はありません。

 私は彼に向かって歩を進めます。彼との距離が近づくにつれて、彼がここにいるという幻じみた事象がいよいよ現実味を帯びていきました。霧が払われていくように、私の中にある彼との思い出の輪郭がくっきりとしていきます。足を一歩一歩進めていくのに合わせてトクン、トクンと、心の臓が小さく跳ねるのが分かりました。

 

 やがて彼の背後に立つと私は、興奮と緊張とでごちゃまぜになった熱い感情を何とかやっつけて、身体の熱を冷ましました。そしてしばらくの間、どのように話しかけようかと思案していると、彼は何やら懐から本を取り出したようです。チラリと覗いてみると、何の因果があってかは分かりませんが、彼は新渡戸稲造著の「武士道」をペラペラとめくっていたのです。そういえば、経済学の研究室に新渡戸稲造博士を愛してやまない教授がいたような、いなかったような。

 それはともかくとして、並んでいる待ち時間でさえ本を開いてお勉強だなんて。勉強熱心云々の前に行儀が悪いです。

 

 するとどうやら、思ったことがそのまま口に出ていたようで。

 

「行儀が悪いですよ」

 

 そう自然と声に出ていました。

 

 しかし彼は私の声だと気付いていなかったようで、ピクリとも反応しません。その後も再三呼びかけたのですが、彼は一向に反応してくれませんでした。

 

 ひょっとすると久しぶりすぎて私の声を忘れちゃった? あるいは私の声色があの頃よりちょっぴり大人びていて分からなかった?

 

 いやいや、まさか。例えそうだとしても私と上杉君の仲です。あそこまで深く関わっておいて、私の声が分からないだなんて、そんな事あり得ません。高校時代の彼は確かにゲンキンで薄情だったし、おおよそ出来た人間であったとはいえませんが、かといってそこまで浅い付き合いをしてきたつもりはありませんでした。

 

 私はついに「何で無視するの!」と言って彼の服の裾を引っ張りました。

 

 瞬間、「もしかしたら、この人は上杉君じゃないのでは?」という考えがよぎって、顔が再び熱くなりました。人違いかもしれません。もしそうだとしたら、何て恥ずかしい。

 

「穴がなくてもムリヤリこじ開けて入りたい!」

 

 そういうヘンテコな言葉遊びをしながら、一人で赤面しました。

 

 しかし、それは結局ただの杞憂だったようで。やや時間が空いてから、彼が振り返りました。こちらに向けられたその顔はまさしく上杉君のものでした。

 

 やっぱり、上杉君じゃないですか。私は何度呼びかけてもなかなかこちらを振り返ってくれなかった彼を責めてから頰を膨らませました。すると彼は不思議そうな顔をしながら、私の顔をジロジロと見回したのち、たった一言こう告げました。

 

「よう、久しぶり」

 

 冷め過ぎにも程があります。

 

 私はこんなにもドキドキして、こんなにも顔を赤らめて、ようやく平静を保ってから話しかけたというのに、この人は……。

 

「全く呆れた人!」

 

 そう心の中で呟き、切ないため息をつくのでした。

 教え子との感動の再会であるというのにもかかわらず、彼は驚嘆の声の一つも出さずに、「よう、久しぶり」だなんて。まるで風邪で一週間寝込んでた同級生とたまたま町で出くわしたみたいなあいさつです。

 

 けれども、確かに彼らしいといえば彼らしいのです。相も変わらず他人に興味がないみたいな仏頂面も、食堂の待ち時間でさえ勉学に励むその様も。高校を卒業して以来、何も変わってない。

 

 私は思わず「ふふっ」と笑ってしまいました。

 

 確かに彼を知らない赤の他人から見ると「愛想の悪い何だか不気味な奴」というのが上杉君の第一印象でしょうが、それでも私はそんな彼の振る舞いを見て呆れつつもクスリと笑ってしまいます。

 

 呆れて見下げるべき愚質をどこか嫌いになり切れないでいるのは、そんな彼の隠れた美質も知っているからです。

 その美質の隠れっぷりたるや、ジャングルの奥地に眠る美しい財宝の如くでしたので、それを見出すのにはかなりの時間を要しました。日々の何気ない日常や、定期試験、様々な学校行事を経て、長い時間をかけて私は彼の美質に気付いたのです。

 

 偉そうだけど、それは彼の努力の積み重ねによる自信の表れで。デリカシーなんて皆無だけど優しくて。距離を取るのが下手だけど、傷付くことを恐れずに寄り添ってくれて。

 

 そんな彼の美質が一度理解できてしまうと、私は彼の事がどうしようもなく魅力的に思えてしまうのでした。

 

 とどのつまり、高校時代の私は彼に惚れていたのです。そして彼を好きだというその気持ちに気付くのにもまた、長い時間を要しましたが、だからこそ、この気持ちが本物だという確信が持てました。あの頃の、私が恋していた頃の彼が今ここにいてくれて、それが嬉しいのです。

 

 だからこんな、ぶっきらぼうな受け答えをされてもクスリと笑ってしまうのです。

 だからこんな、嬉しいような呆れたような、アンバランスな情緒を抱いてしまうのです。

 

 恋は盲目とはよく言ったものです。こんな人を好きになるだなんて、どうかしています。けれどもこのどうどうと溢れる感情には抗えるはずもなくて、私は彼に恋していたと認めざるを得ないのでした。

 

 やがて列が進んでいき、上杉君は少し思案してから厨房に呼びかけました。

 

「焼き肉定食、一つ」

 

 私は目の前の彼に向かって「『焼き肉抜き』ではないのですね」とからかってみせました。

 

「いつの話だよ。それで得して食えてたのは、あの食堂だけだ」

 

 彼は振り返らずにそう言います。

 

「分かってますよ。けれども何だか物足りなく思っちゃって」

 

「焼き肉定食、焼き肉抜きで」……それが高校時代の食堂での、上杉君のお決まりのフレーズでした。

 

 私たちの通っていた高校の食堂はトッピングによって値段が加算していくシステムでした。そのため二百円のライスを頼むよりも、四百円の焼肉定食から二百円の焼肉皿を引くことによって、同じ値段でライスにお新香が追加されてお得だ……というのが彼のささやかな節約術でした。

 ささやか過ぎていささか泣けてきます。それくらいに当時の彼の家は貧乏なのでした。

 

「つーか、俺も今はそこまで金には困ってない。どこかの五つ子さんたちのおかげでな」

 

「どういたしまして。とはいえ、本当に感謝しなくてはいけないのは私たちなのですが」

 

 よかった、と私は胸をなでおろしました。少なくとも昼食に素直に焼肉定食を頼めるくらいには裕福になっていたようです。

 

 厨房の受け渡し口から、おばちゃんの暖かい声とともに、冷めた焼肉定食が出てきました。上杉君はトレイを受け取ってからこちらを振り返ります。そして、私の顔をまるで幽霊でも見たような表情で眺めるのでした。「本当に今、俺の目の前にいるのは中野五月なのか」と言わんばかりの表情で。

 

 殿方が女性をこんなにもまじまじと見るのは不躾ですし、私も照れてしまいます。彼のデリカシーの程度は高校時代と同じで、相も変わらず低いものと思われました。けれども確かに、彼とは高校卒業以来、一度も連絡を取り合っていませんでしたので、そんな表情を浮かべてしまうのも無理からぬ話だと納得はできます。私や、私の四人の姉について聞きたいことがあるのでしょう。

 

 私は受け渡し口から自身のトレイを受け取り、彼とともに窓際の席に着きました。私が頼んだのは海老天うどんでしたので、彼の焼肉定食のトレイに向かい合わせると、彼と初めて出会ったあの日の様子がこの一角にだけ再現されました。

 

「また海老天かよ」

 

「たまたまですよ」

 

「太るぞ」

 

「今はちゃんと気をつけてますよ。それより上杉君だって相変わらず焼肉定食じゃないですか」

 

「焼肉あり、だ。いい加減昔の話を蒸し返すのはやめろ」

 

「ふふっ。私たちも月日を経てささやかながら変わっていったということですね」

 

「そうだな」

 

 彼はそう言って窓の外に目をやります。歩道脇に植え付けられた樹木には桜の花が咲いていて、すっかりお花見シーズンといった風情でした。

 

「お前、何でここにいるんだ」

 

 彼は桜並木に目を向けたまま聞きました。突拍子もない、けれども核心を突くような質問です。

 

 高校を卒業すると、私は教師になるという夢を叶えるべくして教育学部のある北海道の大学に進学したのです。そんな私がなぜ、この大学にいるのか。それが彼は気になっているのでしょう。

 

「何でって、編入したんですよ。二回生が終わった時点で北海道から京都へ越してきたんです」

 

「するとお前は、えーと……?」

 

「学生ですよ」

 

「学生、か」

 

 呟いた後に彼は「あっ……」と納得して、気まずそうにどんぶりの中身をかきこみました。彼が気まずそうにしている理由は十中八九、私が就職に失敗していると思ったからでしょう。

 その通りです。私は二十四歳です。今年の五月五日を以ってして二十五になります。四回生の頃に教員試験を受けて失敗、さらに続く二年もまた無念な結果となりました。つまりは三回落ちてます。

 

「今は院生をやってます。といっても当然、就職できるまでの逃げ口上ですが。今年こそは受かればいいんですけどね、教員試験」

 

「おう、頑張れよ」

 

 そう言って彼はやはり気まずそうです。確かに気持ちは分かりますけど、なぜ上杉君がそこまでモジモジする必要があるのでしょう。いつまでも就職できないぐうたら院生を続けて不甲斐ないのはこの私なのに、どうして彼がそこまで気に病む必要があるのでしょう。何だかこっちが気の毒になってしまい、私は話題を変えました。

 

「上杉君こそ、何でこの街にいるのですか。お仕事ですか?」

 

「ああ、ここの教授の助手につけてもらうことになった」

 

「ええ! するとゆくゆくは教授じゃないですか、すごい! 上杉教授!」

 

 しかも、この歳で大学の職員という事はおそらく博士号もすぐに取ったのでしょう。改めてすごい人から勉強を教わってたんだなあ、と感心します。感心すると同時に、彼に教えを請う事を意地になって拒否していた頃の頑固な自分に唾を吐きたい気持ちになります。

 私が一人で興奮してキャッキャとはしゃいでいると、上杉君は「気が早ぇって」と苦笑いしました。

 

「それよりも、だ。何で編入なんかしたんだ」

 

 再び話を巻き戻されました。彼は気まずそうに尋ねながらも、あくまで私のことを心配してくれているようです。その気遣いが嬉しい反面、私はあまりその理由を彼に知られたくありませんでした。

 

「その理由が知りたい」

 

「えーと……何というか、その」

 

 私はウェーブのかかった長髪を反対側にクルクルもてあそびながら目を伏せて、彼のじっと見つめてくる目線から逃げます。

 

「まあ、私にも思い悩む時期があったんですよ。それが理由です。今はもう、忘れてしまいましたが。本当、何だったんでしょうね」

 

 この受け答えは、ごまかしでした。その悩み事はもちろん今でも覚えています。当時の私はそれにひどく悩まされたものです。その悩みに追い回された云々の健闘の結果として私は今、京都にいるのです。

 しかし、もう解決した悩みでした。今にして思えば、何だかちっぽけで下らない悩みで、さらにそれは上杉君がきっかけのものでしたので、いざ彼を目の前に喋るとなると恥ずかしいのです。恥ずかしくて、とてもじゃないけど打ち明けられません。

 

「ふーん、覚えてねぇのか。そんなもんかね」

 

「そんなもんですよ」

 

 そんな私の心情を知ってか知らないでか、これ以上は問い詰めないでくれました。

 

「しかしお前、よく入れたな。一応ここ西の最高学府だぜ」

 

 上杉君のおかげですよ。この大学に入れたのも、今こうして偶然出会えたのも、全部。あなたのおかげです。……なんて言いたかったのですが、そういう可愛い事を言うのは何だかとても小っ恥ずかしいことなので、私は言葉を飲み込んで別の台詞を吐きました。

 

「私もやればできるというわけですよ。教え子の成長は嬉しいでしょう」

 

「まあな」

 

 前髪をいじってそう答えました。それは彼の照れている証拠でした。彼はバツが悪かったり、恥ずかしかったりすると、決まってそのしぐさを私たちに見せるのでした。そういう分かりやすい癖を、彼は気付いてか気付いていないでか、無防備にさらけ出すのでした。

 不器用で分かりづらいけれど、彼は一生懸命私たちに寄り添ってくれたのです。不器用な彼の分かりづらい心遣いのシグナルが、前髪をいじるこのしぐさでした。仏頂面で何を考えているのか分からないのに、その心の内は他人が思った以上にフワフワした優しさで満ち満ちているのです。何ていじらしい。

 

 あぁ、可愛いな。優しいな。やっぱり好きだな。

 

 自身の気持ちを確かめるように、心の中で呟きました。

 

 この温かな、相手を愛おしく思う気持ちが芽生えたのはおそらく高校の頃でしょうか。好きになった瞬間や好きになった理由など、具体的なことを聞かれると困ってしまいますが、ともかく高校の頃です。いつのまにやら恋慕の萌芽が芽生えていたのでしょう。恋心とは得てしてそういうものだといいます。

 確かに高校生だった頃の私は彼に恋をしていたのです。しかしその気持ちに自身で気付くことができたかと聞かれると話は別で、私はこの感情の正体が分からないままで高校を卒業したのです。自身の感情すら満足に把握しきれていなかったのです。

 

 それのみならず私は他の姉妹たちが彼に好意を抱いていたことにさえも、気付くのが遅れていたのです。特に三女の上杉君に対する、天をも焼くほどのお熱っぷりは他の姉妹を分け隔てなく黒焦げにしたといいます。しかしそんな露骨な感情にさえ当時の私は気付かず、三女から放たれる恋慕の熱を背に受けて、ただ一心不乱に美味しいカステラをもぐもぐしていたそうです。我ながら鈍感にもほどがあります。

 

 そんな私ですから当然、自身の恋心などというふわふわした曖昧な感情なんて捉えられるわけがなかったのでした。

 上杉君への恋心に気付いたのは、彼と会えなくなった後……すなわち、大学へと進学してからの話です。そして彼が私たち五姉妹をまとめて振ったのは、高校三年の秋の終わり頃の事でした。

 

 つまり私は彼の事が好きだと自覚するよりも先に、彼に振られたのでした。恋が始まるよりも先に、恋が終わっていたのでした。

「このおバカちゃん!」と罵る人々もいるでしょう。無論、私もそう思います。

 

 その高三の秋の終わり頃というのは、高校生的な感覚でいえばちょうど学園祭が終わったあたりでした。早い者であれば推薦入学を希望する大学へと受験に向かい、遅い者であってもそろそろ完璧に進路を固めなくてはならないという、そんな時期です。上杉君という家庭教師の優秀さを補って有り余るほどのおバカさを遺憾なく発揮していた私たちは、当然のように後者でした。推薦など夢のまた夢なのでした。

 

 彼が私たちを振ったのは、私たち姉妹が自身の将来と、ついでに恋路の進路を如何せんとまごまごしていた、そんなある日の事でした。

 

 その日の勉強会は図書室で行われていました。図書室のある三階の高さまで伸びた樹木が赤く燃えた葉をことごとく枯らしていて、もの寂しく冬の訪れを告げる風情があった事を覚えています。

 これから残酷な告白をするというのにもかかわらず私たちの家庭教師は、いつも通りにつつがなく勉強会を進めていきました。いや、嵐の前の静けさとでもいうべきでしょうか。

 ムードメイカーの四女が勉強会の始めを喚起し、黙々と問題に取り組む合間、身の丈に合わない大学を希望した私に上杉君が手を焼き、その水面下で密かに上三人の姉たちが恋愛的策謀を張り巡らせて牽制し合う、そんないつも通りの勉強会でした。

 

 話は唐突でした。突拍子もありませんでした。勉強会が終わり、筆記用具や参考書、お尻を痛めないためのクッションを鞄の中に取り込み部屋を出ようとすると、彼が私たちを呼び止めました。

 

「すまん。ちょっと、いいか」

 

 彼はまるで手のかかる五人の妹を持つ兄のように、いつも私たちの後ろから一歩引いて歩いていましたので、呼び止められた私たちが彼の方を振り返る形になりました。

 

「どうしたんですかー、上杉さん。早く帰んないと日が暮れちゃいますよ」

 

 四女が大きく手を振ります。

 

「大事な話がある」

 

「なになに? デートの約束でも取り付けてくれるの? でも皆の前でだなんて、フー君ったら大胆ね」

 

 これから何を告げられるのか、そんなことを知るよしもない次女が笑いかけました。しかし、その冗談まじりの言葉は彼に苦い笑みを浮かばせただけで軽く受け流され、次女は「つまんないの」と膨れ面をしました。

 上杉君がこちらに向かってきます。その顔が普段より一層際立って真面目なものとなっていましたので、私も姉四人も、本当の本当に大事な話なのだとすぐに悟りました。

 大事な話とは一体なんだろうと私は考えました。彼と私たち姉妹の間にある重要な問題……それは私たちの低空飛行もはなはだしい成績であり、彼の家庭教師としての首をいつでも落とす事のできる私たちの父の存在です。そしてこの二つの事実は、「同級生同士が家庭教師と教え子」という奇妙な関係をいつでも壊すことのできる事案でした。

 

 私たちの成績があまりにも振るわなければ、父が上杉君の能力に見切りをつけて別の家庭教師を雇うこともあるでしょう。あるいは私たちのおバカ加減に上杉君本人が見切りをつけて家庭教師を辞退するか。後者の上杉君が匙を投げるという可能性はほぼ考えられませんでしたが、ともかく、いつまでもこの辛くとも楽しい勉強会の場が設けられているとは限らないのでした。

 

 けれども彼が次に口にした「大事な話」とは実に意外なものでした。いえ、確かに大事といえばそれはもちろん一大事な事柄であったのですが、だからといってその事をここで告げるのは、明らかに場違いでした。このタイミングで言わなくてもいい事を言って、私たちの関係を悪化させる事は目に見えて明らかでした。

 

 それでも彼は言いました。図書室と廊下のちょうど境い目に立ち、彼はまず始めにこう呼びかけました。

 

「一花、二乃、三玖」

 

 その三人は当時彼に好意を抱いていて、しかもその感情を彼にさらけ出した事のある三人でした。呼ばれて姉三人は上杉君をじっと見つめます。

 

 おそらく彼女たちは悟ったのでしょう。これから彼が自分の答えを出すのだ、と。

 名前を呼ばれただけでしたが、彼女たちは上杉君の真剣な面持ちと、呼ばれた三人の共通点から、それを理解したようでした。鈍チンの私にだって分かりました。

 

 三人の顔は緊張、期待、不安、興奮……さまざまな感情を一緒くたにした赤色で染められていました。きっと今から自分たち三人の中から一人が選ばれ、そして残った二人が振られるのだな、と。おおよそそんな事を考えていたのでしょう。

 

 けれども彼は……。

 

「お前たちは俺を好きだと言ってくれたな。けれども、すまん。俺はそのうちのどの気持ちにも答えられそうにない」

 

 そう言って、彼の主観としては三人の、そして後に判明する客観的事実からいえば五人の好意を袖にしたのでした。

 

「お前らのうちの誰かと付き合う気はない」

 

 そう冷たく、突き放すように言い切ったのです。迷いのない目でした。決断を済ませた後の目でした。こうなるともう、頑固な彼は言った事を決して曲げる事はないだろうと、彼と似た者同士で同じく頑固な私は思いました。そんな事は分かっているけれど、納得はできず、煮だった気持ちでいることを自覚しました。

 

 どうして、上杉君。どうして?

 

「うそ」

 

 虚ろな目をした三女が誰に喋るでもなく呟きました。これは言葉というよりも、信じたくないという気持ちが自然に唇からこぼれ落ちているといった感じがしました。

 

 窓から差し込んだ夕陽を背負い、橙色の逆光の中にいる彼は黒々と見えました。黒々としている上に、先ほどの発言も合わせて考えると、まるで上杉君が上杉君でない別の誰かのように思えました。私たちお得意の変装じゃありませんが、上杉君のふりをした誰かが私たちを騙すためにそう言っているのではないかとさえ思えました。それほどまでに受け入れがたい、聞きたくなかった言葉だったのでしょう。けれども夕陽の熱から逃れるように廊下に出たその少年はやはり、先ほどまで私たちに勉強を教えてくれていた上杉君で、私たちはその事実を受け止めざるを得ません。

 

「どうして私たちじゃだめなの……?」

 

 沈黙のすえ最初に口を開いたのは、物事を切り出す勢いに定評のある次女でした。彼女は私の口の中で言葉になり切れずにぐずぐずしている感情を一言一句同じく、そのまま代弁してくれました。

 

「別にお前たちがどうというわけじゃない。俺本人の問題だ。俺本人が好きだとか、付き合うだとか。そういう気分になれねぇんだよ。ただそれだけの理由だ。

 本当はお前らの進路が決定するまで答えは出さない方がいいと思っていた。けれども最近のお前らは俺のせいで勉学に全力を注げていないように見える。そういうモヤモヤとした、煮え切らない期間がずっと続いて何も為し得ないのなら、いっそ今打ち明けてスッキリさせた方がいいと思った。以上だ」

 

「スッキリしたかったのはアンタの方じゃないの?」

 

 次女が睨みました。その目付きはまるで、彼を好きになる前の、彼を拒絶していた頃の彼女に戻ってしまったかのようでした。

 

「上杉さん、正直に話してください。例えどんな答えを出したって、私たちは上杉さんを軽蔑したりなんてしませんから。そう決めていました。

 だから自分の気持ちに嘘だなんてつかないでください」

 

 と、自分の気持ちに何一つ正直でない四女が熱心に訴えます。こんな事を言っていますが、彼女もまた上杉君に惚れていたのです。それも一番最初に彼に恋をしたのが彼女なのでした。

 

 小学六年の頃の修学旅行、彼女は幼き日の上杉君と出会い、そしてある約束をしたのでした。その時、少なくとも四女は彼に恋をしました。初恋です。

 この思い出の全てを知っているのは、事情を話してもらった末っ子の私と、当事者である四女だけです。上杉君もこの思い出を覚えてはいましたが、肝心の約束の女の子の事は何一つ知らないのでした。そもそも名前くらい聞いておけって話ですが過去の彼を責めたとしても無益な事この上ありません。

 

 けれども、もしも彼がその女の子の事を四女だと知っていたのなら。ひょっとすると彼女は上杉君と結ばれていたのかもしれません。他の姉妹が彼の良さを知る前に。

 

 そうだというにもかかわらず、彼女は自分が約束の女の子だという事は打ち明けませんでした。それは、とある事情があり姉妹に負い目を感じる彼女の「自分だけが特別であってはいけない」という決意の表れでした。

 

 自分の気持ちをひた隠し、誰のことを選んだのかと彼女は彼に問い詰めます。

 

「上杉さん、自分の心に正直になってください。答えは別に今じゃなくても、焦らなくても、いいですから」

 

 しかし何度問いただしても、漬物石のように頑固な意思を誇示する上杉君がピクリとも動くはずはなく。

 

「だから俺はだれも好きじゃないと、そう言っているんだ。今答えを出しても後に引き延ばしても、何も変わる事はない」

 

 そう言って毅然とした態度をとりました。いえ、今にして思うと装っているだけです。

 

「……嘘つき」

 

 その罵倒は上杉君の受け答えに対してのものだったのでしょうか。それとも打ち明けられずにいる自分の心に対して?

 おそらく両方でしょう。四女は悔しそうに目を伏せ、まつ毛に涙を浮かべました。

 

 長女はその間、ずっと沈黙を保っていました。その顔は、選ばれなかったということで悲しみに暮れているというより、気まずそうでした。妹たちに悪いことをしたと、そんな事を考えているような顔でした。

 いくら姉とはいえ彼女の心情を一から十まで把握する事はできませんが、おそらく修学旅行の時の自身の行動に対する負い目があったのだと予想します。

 

「もういいわよ、四葉。帰りましょ」

 

「待ってよ二乃! 二乃は本当にこれでいいの?」

 

 意外にもあっさり引き下がった次女を、四女が焦って呼び止めます。しかしそれでも次女はコツコツと足音を鳴らして止めなかったので、それに引きずられるみたいに四女はついて行くしかありませんでした。私はその様子を見て「あなたこそ本当にいいのですか?」と、彼女の心情を思い胸を締めつけられる心地になりましたが、それもやはり言葉に出すことはできませんでした。

 

 やがて落ち込んでほとんどこの世の終わりを迎えるみたいになっている三女の背中を、「ほら、行くよ」と長女がこれもまた暗い顔で叩き、二人の後に続いて薄暗い廊下を歩いて行きました。

 

 私は彼の元から去っていく姉たちを尻目にその場に立ち止まり、せめて彼に何か、彼の振る舞いを罵倒するような台詞を吐いてやりたい気持ちでいっぱいでした。しかし云々と色々考えているうちに冷静になり、目の前の彼から目を背ける事しかできませんでした。

 

 どうしてこんな男に姉たちは惚れてしまったのだろう。どうかしてる。

 

 そう考えると同時に彼の心中も察しました。

 彼だって好きでこんな半端な事をしたのではありません。彼はきっと、自分が誰かを選ぶことによって選ばれなかった、他の姉妹を見るのが辛かったのでしょう。自分が決定的に誰か一人を選ぶことによって、私たちの姉妹仲が引き裂かれる事を危惧したのでしょう。

 

 確かに私たち姉妹は「例え誰が選ばれようとも憎まずに祝福する」と心に決めていましたが、そんなのは実際に事が終わった後でなくては分かりません。気持ちとは変わりやすく、おまけに理不尽極まりないものですから、彼がこの恋物語に決定的な結末をもたらすことによって、私たちの絆が引き裂かれる事態になるということもまた考えられたのですその可能性を考慮すると、彼のとった行動は当然の感情の帰結といえるでしょう。

 

 彼は私たちのうちの、誰か特定の一人に惹かれる以前に、私たち姉妹の持つ強い絆に惹かれていました。

 

 そんな私たちが何よりも愛おしかったらしいのです。私たちがいがみ合うような事は極力避けたかったのです。それは彼の優しさであると同時に、弱さでもありました。

 

 そんな彼の気持ちが痛いほど分かってしまいました。

 

 上杉君を責めることなんて、私にはできない。

 そう考えるのは、私一人だけが彼に惚れていない傍観者……いえ、正確には惚れていることに気付いてすらいない呑気娘だったからでしょう。

 

 ともかくこの時点ではまだ振られたという気に全然なっていなかった私は、ひどく落ち込んでいるだろう姉たちをどうにか励まそうと心に決め、上杉君に軽く会釈をしました。

 

「お前ら、また明日な」

 

 上杉君はそう言ってひとまずの別れの挨拶を告げ、私たちとは反対の方向を歩いて行きました。

 

 この「また明日会おう」という意味の挨拶は、四人の姉をほとんど絶望させたことでしょう。

 

 そうです。彼女たちが振られたからといって、明日もまた彼と同じように勉強を教えてもらうことには何ら変わりはありません。明日起きて目が覚めたら、また同じように学校に行き、授業を受け、美味しい学食を食べ、そしてまた上杉君と接することになるのです。

 

 自分は振られたのに、どのような顔をして彼と話せばいいのだろう。落ち込んだ感情のままでいるのか。それとも吹っ切れたふりをして笑顔で彼と接すればいいのか。分からない。気遣いの下手な彼は、あくまで家庭教師として、毅然とした態度で接してくるのだろうか。

 

 そんな彼と……大好きなのにもう思いを受け取ってはくれない彼と、卒業まで一緒に過ごさなくてはいけない。果たして自分は狂わないでいられるだろうか。

 

 と、憶測混じりに彼女たちの心情を想像してみましたが、あながち間違いではないし、大げさな事は何もないはずです。

 

 明日の頑張る活力を、彼に恋する希望によって得ていた姉たちはいっそ次の日なんて来て欲しくないと思ったことでしょう。明日からはもう頑張れっこない、と。

 

 自分が振られても世界は続く。寝床で眠れぬ夜を過ごしても、明日が当たり前のようにやって来て、その次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、そのまた次の日も……!

 

 続きに続く、当たり前の日常。しかし今まで当たり前のように恋をしていた日常は、もう明日にはなくなっているのです。

 

 そんな姉たちの希望のない日常を私が下手くそに励まし、上杉君はその秀才ぶりを遺憾なく発揮して私たちを指導し、明日、明日、また明日と続く次の日を積み重ね、私たちは何とか卒業に漕ぎ着きました。

 誰も落第せず、しかも全員が第一志望の学校に進学することになりました。志望した学校は、「自分の進みたい道に進もう」という姉妹の総意により、意図せずともバラバラでしたが、ともかく彼の指導のおかげで私たちはそれぞれの進路をとれたのです。

 

 

 彼は私たちを振った日の去り際、こう言い残しました。

 

「卒業したらもう、俺のことなんかは忘れろ。俺なんかは忘れて、新しい道を進め」

 

 私はその言葉が自身の胸の内で反芻し、止んでくれないことに気付きました。

 

「俺がこれからお前らにしてやれる事は、その新しい道を切り拓くための手助けだけだ。俺の役目はそれでいいし、けっこう幸せだ」

 

 廊下の暗がりに溶けるように去っていく彼の姿が、遠く、遠く、どこまでも遠くに行ってしまうように錯覚しました。そんな事はないのに。明日が来れば、また彼に会えるというのに。

 その時の私は振られたわけでもないのに、その去り際の言葉を妙に切なく思ってしまったのでした。それが不思議でたまりませんでした。

 

 今にして思えばそれも当然です。いくら気付いていないとはいえ、私は確実に彼に恋をしていたのだから。頭の悪い私では名前の付けようのない感情が切なく唸り、それを不思議に思っていたのです。おバカにもほどがありますよね。

 

 

 かくして姉たちは、恋する乙女の明日を彼の鋭い言葉によってプツリと断たれ、私もまた恋路が始まらぬままにその行く末を見失ったのでした。私が彼に好意を抱いていた事に気付くには、さらにここから一年の時を要します。

 

 

 

 ◯

 

 

 

 目の前で幸福そうに太麺をちゅるちゅるすすっている五月を見て俺はややぼーっとした。卒業式の日以来顔を合わせていない、声も聞いていない女子がここにいる。いや、今となってはもう一端の女性である。

 俺はしばし過去の自身の残酷な振る舞いを振り返り、何となく彼女と顔が合わせづらくなった。けれども彼女はそんな俺の気負いなんて気にするそぶりもせず、「どうかしましたか?」と顔を覗き込んでくる。俺が「別に」と返すと、彼女は微笑んで、また美味しそうに昼食を再開した。

 

 その様子を見ていると、少なくとも五月は、俺が彼女の姉三人を袖にしたあの日の振る舞いはもう気にしてないのではないかと思えた。そうでなくては、こんな幸福そうな顔をして飯は食わない。そう思うと少し気が楽になった。

 けれども、それは単に五月が俺に好意を抱いていなかったからの話である。彼女の四人の姉があの日のことをどのように受け止め、どのように今を生きているのか。それはまた別の話なのである。そして五月はきっと、卒業後の姉たちの様子も知っているのだろう。それを考えるとやはり、心に再び陰りができた。

 

「上杉君。やっぱり何か考えているでしょう」

 

 五月は再び曇った俺の心中を機敏に察知した。どうやらおっちょこちょいで自分の事に手一杯だった高校の頃とは違い、人を気にかける大人の余裕というものが出てきたようだ。もっとも就職街道の路頭に迷った崖っぷち院生という状況は客観的に見ると余裕がないように思えるが、それを口に出すのは無粋というものだ。

 

「分かるのか」

 

 俺が苦笑いして確認すると、彼女は「ええ。分かりますよ」と返した。

 

「おおかた、姉たちのことでしょう。彼女たちが立ち直れているか心配なんですよね、あなたは」

 

「寸分違わず正解だ」

 

「こんなダメ学生でも一応教職を目指してる身ですから。人の気持ちに寄り添うことは昔より意識するようになりました」

 

 五月は照れくさそうに笑った。聞くと今はアルバイトとして家庭教師をしているらしい。いつの日だったか俺は、彼女が家庭教師のバイトをしたいと提案したのを聞いて冷たく却下したが、この様子だと生徒にも慕われていることだろう。彼女の少し抜けている性格は歳下の生徒にも馴染みやすいものであろうと勝手に想像した。

 

 俺も高校時代の一年半は、ほとんど家庭教師としての時間に費やしてきた。そのため、人に物事を教えるに際して一番大切な事とは、生徒の心に寄り添うことなのだと、この心身を通じてヒシヒシと痛感していた。

 

 こいつらのマンションに通い始めた最初の頃はただ闇雲に、機械的に何度も何度も繰り返し知識を与えていけば、嫌でも定着していくだろうと考えていたが実際は違った。

 何度教えても興味を持たない。だから、何度教えてもできない。

 

 なぜできないのか。それを知るためには生徒がなぜその科目が苦手なのかを知らなくてはならない。苦手な原因を見つけ出していかなくてはならない。しかしそればかりを繰り返していても苦痛である。教える側も教えられる側も、次第にモチベーションが下がっていく。

 

 それならば次は生徒が好きな科目も知り、それを伸ばしていかなくてはならない。一種の気分転換として取り入れる事により、モチベーションをまた持ち上げるのだ。

 

「好きこそものの上手なれ」ということわざ通り、得意なものとは基本、生徒の興味の対象であることが常である。

 

 そして、「なぜそれが好きなのか」と問う事は、それはもはや生徒と教師という関係以前に、心を通わせ合う対等な友人関係なのである。好きなアーティストの有名な曲を同じイヤホンで聞いたり、映画を一緒に見て感想を共有したりする事と同義なのだ。けれども、とある戦国武将のマイナー極まりない逸話を調べるのには流石に骨が折れた。

 

 ともかく教師が生徒の心から好きな事について興味を持つという事は、教える側の性質上としてどうしても付随してくる高圧的な雰囲気を緩和するのだろう。共感し、心を寄り添わせる事によって初めて円滑な関係が築かれる。

 

 だから俺はまず、生徒たる彼女たちが如何なる人間であるかを知ろうとする努力から始めた。決して上手くはなかっただろうが、彼女たちの心に寄り添っていこうとした。その過程の内において彼女たちに好意を抱かれたのは、自尊も謙遜の気持ちもなく言って全くの予想外であった。

 当時の俺はゲンキンな話、金のためだけにアイツらの心に寄り添ったと言っても過言ではない。

 

 情より金を。愛より金を。

 

 ゲンキンだが、現金は大事である。我々貧乏人にとっては切実な話である。この社会経済を循環する血液たる金を得る事だけが、当時の俺の全てであった。

 

 しかし情もまた、人が人らしく生きていく以上必要な血液である。

 

 俺が彼女たちに与えたのが機械的な知識であるとしたら、彼女たちが俺に与えてくれたのは人が感情の生物足り得るための愛や情であろう。彼女たちもまた、俺の足りない部分を補ってくれた教師であった。

 

 そんな彼女たちに、いつの間にか惹かれている自分がいた。俺の知らなかった、あるいは忘れていたものを与えてくれた彼女たちにすがるような自分がいた。もちろん、俺はそんな気持ちを悟られぬよう慎重に自分の心の整理をしてきた。もとい、ごまかしてきた。

 俺はあくまでアイツらの家庭教師である。他の男女の関係とは全く性質の異なる、特殊な関係である。「同級生同士が教師と生徒」という奇妙な関係を彼女たちの父親が用意してくれたからこそ、俺たちは出会えたのだ。

 

 彼女たちを正しい道に導く事。それが俺の家庭教師としての役目であった。例え俺の中にどんなに特別な気持ちが芽生えようとも、その事実に変わりはない。家庭教師として雇われたからこそ、俺は彼女たちに出会えたのだ。

 

 だからこそ、靴ひものようにたやすく男女の関係として結ばれる事など、あってはならなかった。

 あの中から誰か一人だなんて、選べるわけがなかった。俺が決定的に選ぶことによって、彼女たち姉妹の絆がバラバラになる可能性が一分一厘でもあると考えたら、そんな残酷な事は決してできなかったのだ。

 

「後悔はしてない。あの日の、俺が出した答えに」

 

 真っ直ぐに五月の瞳を捉えて言った。言葉の通りだ。俺は今でも、あの日の選択は最適解だと思っている。

 

「上杉君らしいですね、ちょっと高慢なくらいに自分に自信がある性格。変わってないで安心しました」

 

「意地の悪いことを言うな」

 

「褒めてるんですよ、純粋に」

 

 確かに、今五月の発した言葉には皮肉の意なんて込められていないように思えた。

 彼女こそ、良くも悪くも気持ちが分かりやすいという点に関してはあの頃から変わってない。

 

「後悔はしてないが、たまにお前たちの事は思い出す」

 

 

 本当は弱くていつも心細いくせに、それをひた隠しにして大人ぶってみせる長女の仮面の笑顔を。

 

 自分の感情に素直で、清々しいくらいに裏表のない次女のバッサリとした物言いを。

 

 陰気の淵に沈んでいた三女が俺に見せてくれた、新しい世界に勇気を持って飛び込む、その成長していく様を。

 

 最初から最後まで天真爛漫で、他人のためなら自分が損する事すら厭わない、少し行き過ぎてるくらいの四女の献身的な振る舞いを。

 

 要領が悪くて意地っ張りという頑固を煮詰めた性格であるかのような五月が、それでもむくつけに努力しまくって手に入れた合格通知に涙を浮かべて述べた、感謝の言葉を。

 

 

「……ほんのたまにだが、思い出す」

 

 ほんのたまに、だなんて。差し障りのない表現を使って嘘をつく。本当は彼女たちのことをしばしば思い返して、色々な心配をしていた。

 

 五月は「えへへ。何だか照れちゃいますね」と冗談ぽく呟き、やはり幸福そうに海老天を尻尾からかじった。

 

「尻尾なんか食うな」

 

「海老の尻尾にはキチンがぎゅうぎゅうに詰まっていて消化を良くするんですよ。すなわち私たち女子の味方! 

 家が貧乏だった頃は『残したらもったいない』と、母によく食べさせられていたものです」

 

「うちは家庭菜園の肥料にしていたな」

 

 そもそも海老天だなんてなかなか食う機会もなかったが。あまり馴染みのなかった上に、海老の尻尾が某害虫の羽と同じ成分だと知った時は、まだ子供の時分であったためか「気持ちワリッ!」と箸でピッと放り投げ、親父の雷鳴の如く音高いゲンコツを落とされた。今にして思えば、成分が同じだからといって何だと言うのか。貧乏のくせに貴重な栄養源を放棄するなど、高慢極まりない。しかし、いまだに何となく海老の尻尾は食う気にはならない。子供の繊細な精神に知りたくもなかったトリビアを叩き込まれた衝撃と、頭皮に受けた激痛とが負の相乗効果を生み出し、幼少よりの潜在的恐怖心を呼び起こすためだろう。

 

 だからといって今彼女の目の前で、海老の尻尾にまつわるおぞましい秘密を吐露する気も毛頭ない。デリカシーがないにもほどがある。

 もっともそんなつまらない事で彼女の溢れんばかりの食欲が失せるなどあり得ないだろうが、できれば知りたくない、そして知る必要のないことをわざわざ知らせる必要はないだろう。知らなくてはならないことはいずれ知ることになるし、知らないで済むのならそれが一番良い。

 

 何より、彼女の食事を不快な話題によって不幸なものにしたくない。俺は久し振りに彼女と昼を共にし、その事を思い出した。

 

 彼女は昔から食事の際は普段の馬鹿真面目な態度を少し緩めて、心から食事を楽しむことを良しとしていた。なぜ彼女の気を休める機会が食事の時間なのか。その理由は分からないし、そもそも好きな物事に理由を求める必要など毛頭ないが、飯を食っている時の彼女は、「この時間こそが至福のとき」とばかりに、とにかく恍惚として顔をとろけさせるのだ。

 

 可愛いな、と思った。ぼんやりとチャンネルを回して、ふと動物番組の和やか映像特集が目に飛び込んだとき抱く感想に似ている。実に、実に愛すべき表情である。

 

 決して積極的な意味ではないが、今ここで出会ったのが五月でよかったと思った。

 仮にもし今ここで出会ったのが俺に好意を寄せてくれていたあの三人のうちの誰かであったのなら……。そうであったのなら、俺は果たして今のように自分らしく、彼女たちを振ったことを堂々と「後悔はしていない」と告げられただろうか。情けないことにあまり自信は持てない。

 

 幾年も経ったのだ。彼女たちもさすがに過去の事は過去の事として水に流しただろう。「彼女たちがいまだ、俺のせいで前に進めていない」など、自意識過剰もはなはだしいのかもしれない。

 

 本当なら俺が自意識過剰くんというだけで事が済めば一番良いのかもしれないが、そうでない可能性も多少なりある。その可能性を捨てきれない限り、やはり彼女たちとは会うには、ある程度心を鍛錬する必要があるだろうと考える。

 ともかく今目の前にいるのは五月である。だからよかった。心からそう思う。

 

 彼女たちが、それぞれの選んだ土地で何をしているのか。どのように過ごしているのか。仕事は何をしているのか。そして何より、幸せになってくれているか。

 

 気になることは五月からそこはかとなく聞き出せればいい。俺が彼女たちに会う必要はない。第一、どのツラをさげて彼女たちの前に姿を現わすのか。

 

 そう思っていると、目の前の五月は実に現実味のない提案をした。以降のやり取りは、俺にとって驚愕の連続である。

 

「上杉君」

 

「何だ」

 

「もしも姉たちのことが気になるなら、会って話してみたらどうですか」

 

「お前らだってもう色々と忙しいだろうし、都合が合うとは思えん。それに一番ここから離れてるのは……盛岡に越した四葉か? 交通費も馬鹿にならねぇ。悪いだろ、それだけの理由で集まってもらうのは」

 

「いえ、そんな事ないですよ」

 

「そんな事あるだろ」

 

「だって皆、ここに住んでますし」

 

「え」

 

「とは言っても一花は女優業で東京にいますし、私たちも同じ市内とはいえどもさすがに別々の場所に住んでますがね。

 そういえば上杉君はどこに居所をとったのですか?」

 

「下鴨泉川町にあるボロ屋敷だ」

 

「ボロ屋敷。もしかしたら下鴨幽水荘ですか」

 

「え」

 

「もしもそこでしたら、私も住んでますよ。奇遇ですね」

 

「え」

 

「それはともかくとして、こうなれば話は早いですね。せっかくこうして同じ市内にいるのですから、皆で集まりましょう。一花は仕事が忙しそうでこっちに来れないでしょうが……それはまたの機会という事で。時期的にお花見なんてどうでしょうか」

 

「え」

 

「そういえば上杉君の誕生日も四月に入ってすぐでしたね。それじゃあ、あなたの誕生日会兼お花見ということで」

 

「え」

 

「楽しくなりますね、上杉君」

 

 こちらが突然の告白の嵐に殴りつけられているのを意に介さず、彼女はテキパキと計画を立て、にこやかに笑った。そういう笑みを浮かべられると、こちらも「あはは」と口角を歪ながらも上げざるを得ない。

 

 あっけにとられていると、五月は瞬く間に海老天うどんをちゅるるんと平らげ、「では、私はそろそろ家庭教師のアルバイトがありますので」と春風のように食堂を後にした。この春休み期間中、平日から熱心に勉学に取り組む高三の女子高生の面倒をみてくるそうだ。

 

 五月が俺と同じ下宿をとっている。

 

 長女以外の姉妹が全員、この街に住んでいる。

 

 そして、五月は彼女たちと俺を引き合わせるための場を設けると言う。

 

 衝撃の告白を立て続けに受けた俺は、春一番の強風にもみくちゃにされたように、何が何だか分からぬ状況であった。

 その花見会は三週間後、俺の誕生日である四月十五日の金曜日に行われる。場所は高野川と賀茂川の合流地点、通称「鴨川デルタ」の周辺。他の姉妹たちとの都合もついて、長女以外の四人が参加するそうだ。

 金曜の仕事帰りということで、どうやら夜桜の趣になるらしい。

 

 

 

 ◯

 

 

 

 それから時間が経つのは早かった。彼女たちに如何なるツラをさげて再会すべきかという悩みは、不定期に来襲し俺の思考をかき乱した。その度、考えてもどうにもない思案に囚われる無益な時間を過ごしたことに気付き、自身の不甲斐なさに苛立った。苛立って髪をクシャクシャする。そうしてまた時をいたずらに浪費する。

 

 世の中には、悩んで悩んで悩み抜いたすえ、よくよく考えてみれば案外どうでもよい悩みだったという事が多々あるし、悩んでも解決しないから余計煩悶するという事もまた多々ある。いずれ、そこまで心配する事なかれ。死なない限り、全ては成るがままに成るものである。

 

 けれどもそれは今まで自身が客観の立場であったからの理論で、いざ自身が対峙するとなると「綺麗事を!」と怒号したなる。世の中、主観の立場に立ったこともないくせにあれこれ論理を展開することほど、説得力のないことはない。それと同じ理由で俺は物語文をあまり好まない。いや、好かないというよりむしろ、少なくとも自分には書けないだろうという一種の尊敬の念である。作者である彼女に登場人物の彼の気持ちが本当に分かるのか、作者である彼に登場人物の彼女の気持ちが分かるのか、はなはだ疑問である。作者が脳内に二重人格を飼っていて、彼らが代わる代わる執筆しているのなら、その時は認めようと思う。

 

 あれこれ屁理屈を述べたが、つまり俺は人の感情に疎い。確かに高校時代の俺は、彼女たちの心にできるだけ寄り添っていこうと紛いなりにもやってきたつもりだ。しかしだからといって、彼女たちの気持ちが全て分かったなど、そんな高慢な事はとてもじゃないが言えない。

 

 他人の感情とは全て憶測でしかない。特にそれが自身に向けられた感情であればなおさらだ。自尊、謙遜、誤解、嘘、さまざまな思惑がからまり合った結果、湾曲した解釈をしてしまうのだろう。

 

 俺にもう少し対人経験があり、全てをなあなあにしてお茶を濁す事のできる男であったのなら、少なくともこんな拗れた関係にはならなかっただろう。全てを丸く収めるふわふわの愛を用いて、四方に角を立てることはなかっただろう。

 

 そんな俺に今の彼女たちが何を考えているかなど当然分かるはずもなく、金曜の花見を迎えるに際して俺にできるのは、ただひたすらに己の心胆を練る事のみであった。彼女たちとはこれから、この街で共に暮らすことになるのだろう。そうすれば、学生の頃と同じようにとはいかないだろうが、当然会う機会もある。彼女たちは俺にとって大切な存在である。人付き合いの少ない俺ではあるが、この絆は大切にしていきたいと思う。

 

 そのためには心胆を練る必要がある。如何に辛辣な事を言われても受け止める懐の広さを。関係の拗れる直前の、嵐の前の静けさとでもいうべき不気味な静寂を感じ取る察しの良さを。そもそも自身がトラブルの元とならないようにするための言葉選びの技巧を。俺は身につけなくてはならない。

 

 しかしそういった、いわゆるデキる兄貴分的性質を身につけるにしては、この三週間はあまりに忙しすぎた。怒涛の三週間である。新年度になり、あの「武士道」の著書を押し付けてきた教授の助教として、同僚のシキマと共に本格的に働き始めると、彼の元についた後悔の念は瞬く間に最大瞬間風速を記録した。

 

 もちろん仕事は忠実にこなす。それが俺の給与の対価足り得る労働であるからだ。

 しかし教授は経済学の第一人者であるはずなのに、なぜかそれに全く縁もゆかりもない武士道についてしか語らない。それは学生に向けても同様であったので、俺は何も知らずに彼の講義を受けるはめになった学生たちを気の毒に思った。しかし、前列に座る何名かの学生たちは喰らい付くように教授の話を聞いてる。どうやら、教授が如何なる人物であるか知っていて講義予定を組んでいる彼のファンらしい。いや、教授の言葉をまるで神の御言葉とばかりに一字一句足りとも聞き漏らしてはならぬとガリガリ筆を走らせるその様は、ファンの枠を飛び越えて信者であった。

 教授はただ己が職権を濫用し自身の好きな事を語っているだけだが、その堂々たる様にはカリスマ性があった。シキマは感心して「ああいう人に、僕はなりたい」と頷いた。「なってたまるか」と、俺は返した。

 

 おまけに教授は人使いが荒かった。仕事の用事、私的な用事問わず俺とシキマをこき使い、洛中を走り回らせた。そのせいで、まだこの街に越して間もないというのにそこらの転勤族よりかは京の入り組む町並みに詳しくなってしまった。

 

 職権濫用である。公私混同である。俺は抗議したが、全ての主張は教授の「若いうちの苦労は買ってでもしなさい」という正論といえば正論な反論によって無力化された。おそらく仕事の用事よりも、教授の私的願望を叶えるために東西奔走した回数の方が多いだろう。出鼻から、果たして自分は何のためにここにいるのだろうと憤慨した。しかしこれもまた世の中というものなので、押し黙ったままに教授の言うことを聞いた。

 おかげで忍耐力の強度が数十度は上がったが気がするが、その鬱憤はどこかで晴らさなければならない。教授から「贔屓にしてる古道具屋があるので、物品を引き取りに行って欲しい」と頼まれた俺とシキマは、行き先の一乗寺界隈を歩きながら不平不満をぶうぶうと虚空に浮かべては消したりした。

 交通費及び飲食費は全て教授が出してくれたので、シキマは汗水その他諸々の汁を垂らしながらもどこか楽しげであった。金だけはあるのだ。このように程よく気晴らしはさせてくれるので、結果として俺の精神的強度はプラスマイナスのゼロで依然として変わらない。

 

 五月とは意外にも会う機会が少なかった。彼女は教育学部の院生ということであまり大学では顔を合わせる機会がなかったという事もあるし、同じ下宿をとってるとはいっても、家庭教師のアルバイトに生活の比重を置いていて忙しそうだったため、せいぜい平日に会うのは朝か夜くらいのものだった。休日になれば俺は教授のお使いをしなくてはならない。

 そういう事で、あまり姉妹の現状を聞き出す事も、己が心胆を練る事もままならず、普段通りぶっきらぼうで気遣い下手の男として花見に望まなくてはならなかった。

 

 

「何をニヤついてますのん」

 

 金曜の仕事終わり、大学構内の歩道を歩くさなか、橙色の陽光を受けたシキマに指摘を受けた。桃色の花弁が肩に舞い降りると、彼はそれをピッと払った。可愛らしい桜の桃色も、シキマの身体に付着することによって、何だか猥褻な意味の桃色に思えた。

 

「ニヤついてない」

 

 毅然として言った。俺は彼女たちと再会するにつけ、どのように接するべきかという悩みには囚われど、ニヤつく余裕などさらさらない。しかし、別に彼女たちと会うのが嫌だというわけでもないので、もしかしたら微笑みくらいは浮かべていたかもしれないと思い直した。

 

「卑猥な顔してましたよ」と、卑猥な笑みを浮かべたシキマが言った。少なくとも彼より下衆な顔をできる自信はない。もしも俺の顔にシキマよりもっと汚らしい何かを感じると指摘されたのなら、その時は遠慮なく整形なり何なりする覚悟である。

 

「女の子と会うんでしょう」

 

 シキマが図星を突いた。

 

「あなたも興味がないみたいな素振りしておきながら隅に置けませんねえ。どんな子? 芸能人で言えば誰似? おっぱいは大きい? 小さい?」

 

 芸能人でいえば某有名女優「中野一花」に似ている。胸は大きい。しかし俺は彼と違って、公共の場にて猥褻談義にふける破廉恥者ではないので無視をした。

 ここは学校である。学問の道を極めることに余念のない清く正しい学生たちの集う最高学府である。このような桃色談義に花を咲かせる者が居ていいはずがないと思いつつ周囲を見回すと、道行く学生たちはどいつもこいつも春という季節のもたらす根拠なき夢希望に盲目的になり、飲み屋に向かわんとする浮かれトンチキばかりであった。確かに春というのは始まりと希望の季節である。そしてひょっとするとこの俺も、あいつらにに再会することに不安と期待の間を揺れ動き、浮かれているのではなかろうか。期待とは無論、彼女たちが過去の桎梏を振り切りそれぞれの幸せを掴んでいてほしいという意味の期待である。

 

「絶対に付いてくるなよ」

 

 キャンパス中央にそびえ立つ時計台前にて別れる間際、シキマに忠告をした。

 

「あなたの行くところだなんて知りませんよ。誰もあなたの恋路の邪魔だなんてしませんって」

 

「てめえ、よくも抜け抜けと」

 

 彼は今宵も浮かれトンチキの若者が集まる夜の町に出向き、その桃色の脳内に浮かべた破廉恥極まりない計画を遂行すべくして意気込んでいるのだろう。シキマはくつくつと、おかしくておかしくてたまらないといった様子である。

 

「それにこれは俺の恋路とは関係ない」

 

 踵を返し「また明日」の挨拶も告げずに歩いて行く。

 一旦下宿に戻ったのち五月と共に会場まで赴く予定であった。

 

「本当かなあ。怪しいなあ」

 

 背後でぼそりと呟かれた彼の台詞が、悪魔の予言であるかのように思われた。

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