鴨川は京都の東寄りを北から南へと流れる一級河川である。洛北の山々より流れ来たりし賀茂川と高野川とが合流し、鴨川となる。京都の人々はその二つの川に挟まれた逆三角形の領域を鴨川デルタと呼ぶ。
地理的な意味で厳密に言えば
職場から戻った俺は下宿にて一服してから五月のアルバイトが終わって帰ってくるのを待ち、そのまま彼女と共に今宵の花見会兼俺の誕生日会の会場である鴨川デルタへと向かった。他の姉妹たちももうすぐここに来るという。
俺は河原の土手にレジャーシートを引いた。シートが春風に吹かれてフワリと浮きそうになるのを、買ってきた缶ビールの入ったビニール袋を重しにして押さえた。夕食は次女と三女が作ってくると五月から聞いていたので買ってきてない。高校卒業後は栄養科のある大学に進学した二人のこさえたお花見弁当だ。
それを想像しただけで普段から質素倹約を心がけている俺はパブロフの犬のごとき有様で、まだ料理が出ていないのにもかかわらず、口内に期待の念のこもった唾液がダダ漏れてはやまなかった。会うのが気まずいとはいえ、普段ならまず食うことのできない手間のかかった逸品の料理を目前に控えて貧乏人は素直であった。貧乏舌ではあるけれども、昔より多少は改善されたはずだ。
シートに腰を下ろして前方に目をやると賀茂川が流れている。そのさらに向こうでは、宵の世界に浸かりつつある如意ヶ嶽が、藍色の中にぼんやりとその輪郭を隠し始めている。
賀茂川が高野川と合体して鴨川になる直前の浅瀬に飛び石が等間隔で配置されており、それはデルタの突端まで続いていた。
賀茂川を跨ぐ飛び石を跳ねて行き来し、楽しげに遊ぶ子供たちの作り出す牧歌的な景色の中に一人、大の女性がそれらに混じってキャッキャと人目も気にせずはしゃいでいる。ピョンピョン跳ねて石から石へと一つずつ移動するたび、チャームポイントの赤みがかったアホ毛がピョンピョン揺れる。五月はやがてデルタの突端にまでたどり着き、河原側にいる俺に向かって手を振った。
「おーい、上杉くーん」
子供みたいにこちらに笑いかけてくる二十四歳女性に向かって苦笑いで手を振り返す。全く、あいつは年相応という言葉を知らんのか。
気付けば、俺たちと同じく河原で花見をするのだと思われる学生連中が生暖かい目でそのやり取りを見守っていた。それどころかまだ十歳にも満たないような子供すら、五月の嬉しそうな顔をぽかんと見ていた。そんな子供の手を引いていそいそとその場を立ち去る母親の後ろ姿を見て、ようやく五月は羞恥心を取り戻したようだった。彼女はその柔らかそうな頰を紅潮させていき、沈みゆく赤い夕陽にも負けず劣らずな赤らみ具合を露呈した。
「早く戻ってきてお前も準備するの手伝え」
俺が呼びかけると、彼女はしずしずと飛び石を跨いでこちらに戻ってきた。
「桜、綺麗ですね」
促されて河原から土手の上を見上げると、彼女の言う通り桜の木々が道沿いに並んでいる。
「桜なんて、どこで見ても変わらんだろ」
「またあなたはそういう事を言う。どこも変わらないかもしれないけど、綺麗だということもまた変わらないでしょ?」
「まあな。綺麗だ」
「全く。最初からそう言っていればいいのに」
五月は「可愛くない人ですね」と付け加えて、しゃがみ込む。そして、レジャーシートの隅にくくり付けたペグを地面に埋め込んで固定した。
「準備といっても、やる事といえばこれくらいでしょうか? ご馳走は本職の二人に任せてしまいましたし、場所も良いところ取れましたし」
「そうだな。足りないもんあったらその都度上のコンビニで買ってくりゃいいだろ」
「二乃も三玖もたくさん作ってくるって、張り切ってましたので、足りなくなることはないと思いますが」
「どうかな。どっかの末っ子の底なし食欲にはよく驚かされたものだが」
敢えて意地の悪い笑みを浮かべてみる。
「そ、そんなにあなたを仰天させるほど食べませんよ! ……上杉君って本当アレですよね。デリカシーないですよね。知ってましたけど。嫌われたいんですか? 他の子にもそんな意地悪言うんですか?」
五月は顔を赤くして少し俯き気味になる。そして早口で俺への非難をまくし立てた。俺は何だかこのやり取りが懐かしくて、思わずまた「ククク」と邪悪な笑いがこぼれ落ちた。それに気付いた五月は非難を加速させた。
彼女は「絶対モテない」「空気読めない」「友達いない」「コミュニケーション能力ゼロ」「頭でっかち勉強星人」など、ありったけの人を傷つけるための言葉の散弾銃を乱れ打ちした。小刻みで単調で、稚拙な罵倒であったが、そのどれもがあながち間違いではなく、否定できなかったので、それらは余す事なく俺の心臓に全弾命中した。
確かに俺は高校卒業以来決してモテる部類の人間ではなかったし、空気を読むこともしなければ、シキマのような極悪人を友達として認めるくらいなら地獄の業火に焼かれる方を選ぶし、コミュニケーション能力の数値はほぼゼロの近似値を示している、頭でっかちの成れの果てとも呼ぶべき男である。
俺は苦笑いして「悪い悪い、悪かった」と彼女をなだめた。しかし、この反発っぷりから見て、やはり彼女はよく食べるのだろう。次女と三女のこしらえる料理の見積もりを、五月が易々と超えない事を俺は祈った。
そうしていると五月は落ち着いてきたようだった。
「まあ、でも万が一……万が一ですよ? 万が一食べる物が足りなくなってしまったら」
万が一だなんて言ってるが、そのように保険をかけている時点で今宵もその食欲を爆発させる気は満々なのであろう。
「その時は私が補充してくるので大丈夫です。安心してください」
「補充ってお前。どこからだよ」
「私の部屋にまだ食べてないおつまみがあります。最近は忙しくて夜に戻っても、ただ寝るためだけに戻ってたようなものでしたから。今日消費しようと思っていたのです」
五月がバイトの家庭教師で教えてやっている女子高生は勉強熱心で、夜遅くまでみてやる事も多々あるという。その女子高生は勉強熱心なのは良いが、いささか容量が悪いらしい。
五月に似てると思った。そしてそれは彼女も同感であるらしかった。しかし彼女は教えるのが面倒だというよりも、むしろ一生懸命に教えてやりたいのだと言った。親近感が湧いたのだろう。真面目な気持ちをぶつけられたら、それを真面目に受け止めてやらなくてはならない。そういう性分なのだろう。何せ彼女もまたド級のバカ真面目なのだから。
バカ真面目な家庭教師が、バカ真面目な教え子に全身全霊を尽くして指導をする。俺はそんな二人のぶつかり合う一室の様子を想像し、何だか無闇に暑苦しいと思ってしまった。仮にも麗しの女性二人が共に勉学に励んでいる部屋の様子をこのように男くさい表現で揶揄するのは自分でもノーデリカシーであるとは思うが、それでも実際にそう感じてしまうのだから仕方がない。
道理で五月の帰りが遅い日が多いと思った。
五月とこの街で初めて会った時告げられたように、彼女は俺のとった下宿と同じ下鴨幽水荘に起居している。しかも彼女の部屋は何と俺の部屋の隣の百四号室であった。そう、あの混沌極める幽水荘の廊下の中で唯一清潔を守っていたあの聖域である。
確かに、物品が散らかりまくる廊下のど真ん中であの美麗を保つ几帳面ぶりは、俺を含むものぐさな野郎どもにはとてもできるような芸当でなかった。
現に俺の部屋の前は、入居から三週間が経ち混沌に侵食されている。最初は迫り来る不法廃棄物を拾っては捨て、拾っては捨てという果敢な健闘をしてきたのだが、いつの間にやらその努力も水泡に帰した。やがて根気も無くなっていき、どんな納豆よりも粘り強いと自負する俺の負けん気も粘る事をやめた。
五月は家庭教師のバイトがある曜日、必ず夜遅くに帰ってくる。部屋の壁は薄く、五月が帰ってきて鍵をガチャリと開ける音はよく聞こえるので、俺がたまに声をかけても、帰ってきた彼女は眼鏡の奥の目をしょぼしょぼさせて「お休みなさい」と言うだけであった。俺は大抵の場合、彼女が帰ってくる時間帯は起きているのだが、それは歓迎会の飲みの帰りであったとか、シキマの下らない猥褻談義に捕まって時間を浪費して遅く帰ってきてるだけに過ぎなかった。
俺だって一応は社会人である。しかしこの状況を説明するにつけ、社会人である俺よりも学生である五月の方が忙しそうなのは明らかだ。哀れ、学生とは社会人よりも多忙極める人種であったのか。
そして、そんな疲労困憊した学生の帰ってくるのを迎えるのが、幽水荘のオンボロ四畳半であるという現実はあんまりではないだろうか。
仮にも彼女はうら若き女性である。確かによく食うが、それは意地汚い大食漢というわけではない。彼女は食うたびにその繊細な乙女心をプルプルと震わせ、それでも自身の欲望に忠実に焼きたておにぎりをもぐもぐ頬張るいじらしい女性なのだ。
俺の知る限り、幽水荘に起居する女性は彼女一人しかいない。俺はその事を改めて妙に思った。
「お前何であんなボロ宿住んでんだよ。どう考えてもあそこは女の住む所じゃないと思うが」
「そうですか? 前にも言ったような気がしますが、一応私たち小さい頃は貧乏でしたし。あなたも知っての通りなんちゃって自立ごっこをした高校の時も、やっぱり貧乏暮らししてたじゃないですか」
「しかし今は違うだろ。親父さんも相変わらずなんだろ? あの人なら馬鹿みたいに良いアパートとか用意してくれそうなもんだが」
「確かにあなたの言う通り、最初はそれに甘えてたんですど、院生になってからは用意してもらったアパートを出ました。それで幽水荘で暮らし始めたのです」
「……ああ、なるほどな」
少し考えたら分かる事だったのに、俺は今さら五月から聞いて納得をした。
彼女の夢は教師だが、四回生の頃に受けた教員試験には落ち、就職までの逃げ口上として大学院に腰を据えたのだ。
当然その分金もかかる。無論、医者をやってるあの親父さんからすればそんな出費は屁でもないだろうし、不器用ながらも義娘のことを何より大事に思っている彼は全くその出費を惜しまないであろう。だからといって五月がそれに甘んじない真面目な性格であるというのも重々承知である。
「お父さんは私の夢を応援してくれています。やりたい事があるのなら後悔がないようにしなさいと言ってくれています。けれどもだからって、いつまでもそれに甘えているわけにはいかないじゃないですか」
「お前って本当バカ真面目だよな」
自分と同じで不器用な奴の面倒みて夜遅くにクタクタになって帰ってくるのだってそうだ。共感の気持ちもあるかもしれないが、それを抜きにしても彼女を奮起させているのは真摯で真っ直ぐな心持ちゆえだ。
「金持ちは、それに見合う能力があるから金を持ってるんだ。遠慮なんてしてないで散財しろ。
金は天の回り物っていうし、その方が俺たち貧乏人も潤う」
「それとこれとは話が別です。お金を稼いでいるのは私ではなく、お父さんなのですから。それにね、上杉君。私だって昔みたいにただ不器用に真面目なだけじゃありません」
彼女はビニール袋から缶ビールを取り出し、ゆらゆらさせた。
「ちゃんと息の抜き方だって覚えたんですよ」
「おいおい」
思わず苦笑いをする。
「……どれくらい飲むんだ」
「まぁ、姉妹の中では一番飲むと思いますね」
五月は水滴のついた缶の縁を愛おしそうに指でなぞった。そして「皆んな早く来ないかなあ」と呟き、その蓋を開けるのを心待ちにしているようだった。
「意外だな」
「そうですか?」
彼女はようなバカ真面目は羽目を外し過ぎることを潔しとせず、理性のタガを緩める酒もあまり飲む事はないだろうと予想しており、だから意外だと思ったのだ。
それが長い月日を経て再開した彼女の、一番変わった点であると思った。
確かに彼女の不器用なバカ真面目ぶりは健在である。しかし、それと同時にどこか張り詰めた気がスッとほぐれたような、そんな柔らかな印象を受けたのも事実だった。別に何か特定の仕草からそれを感じ取ったわけではないけれども、何となく彼女の纏っている雰囲気が柔軟になっており、それは高校時代にはなかったものだと思った。
「崖っぷち院生の割には少し気楽そうだよな、お前」
「まあ、やれる事は一応全部やりましたから。頭が堅いと言われたのも、なるべく改善しようとしました。それでダメだったら仕方ありません。あとは、なるようにしかならないのです」
「変わったな、お前」
決して悪い意味ではなく。高校時代に彼女をみてきた一人の人間として、純粋にそう思った。
「ええ。変わりましたよ、私は」
五月は少し照れ臭そうに呟いた。
「けれども、どうしても変えることのできない根っこの部分もあるし、意外とあっさり折ることのできた部分もあります。そして、それは私の姉たちも同じです。だから上杉君、今日はそんなに怖い顔してないで、楽しんでください」
彼女はこちらを改めて見て笑った。いや、こちらというよりはどこか違う所を向いてるような気がする。確かに俺の方を向いてはいるのだが、俺を透けさせて見たさらに向こう側……だからといってそこまで遠いわけでもない。というか、俺の背後にある何かを意識してるような目線だった。
そんな五月を妙に思うと同時に、俺は背後に何か異様な熱気を帯びた気配がある事に気付いた。
そして、気付いた時にはもう遅く「うっえすぎさあーんっ!」と懐かしくも喧しい呼びかけの声が耳に飛び込んできて、俺は背後から川の土手に押し倒された。
押し倒されて背後に感じる柔らかな膨らみと、首に回された細く可愛い腕は、五姉妹のうちの背番号四番エース、すなわち四女の四葉のものであろう。
「いってて……四葉」
呻きながら俺は起き上がろうとする。
ああ、なるほど。五月の言う「変えることのできない根っこの部分」とはこのようなことをいうのかと納得した。しかし、この無駄にアクティブな、距離感のおかしい接し方は早急に変えていく必要があると思う。
四葉は「ししし」と悪戯っぽく笑いながらも、俺が起き上がろうとするのを二つの柔らかい膨らみによって押さえつけた。柔らかいながらもずっしりと上から抑えつけるその膂力は本物であった。
陸上、バスケ、サッカー、挙げ句の果てにはセパタクローといったこの世に蔓延るありとあらゆるスポーツの鍛錬によって裏打ちされたしなやかながらも強靭な彼女の筋力と、ペンを握りレポートを作成する事のみに特化した我が筋力との間には歴然とした差が開いていた。
しかし、その圧迫感は「コラ四葉!」という彼女を怒鳴りつける鋭い声によって、消失した。
「フー君があんたのおっぱいでペチャンコになっちゃうでしょうが」
これもまた、聞き覚えのある声だった。
「あはは、ごめんごめん」と四葉はその声の主に謝った。
すると今度は「二乃じゃなくてフータローに謝らないと」と、冷たく透き通る水のような声がした。
「ごめんなさい、上杉さん。久しぶりに上杉さんの背中見たら嬉しくって……つい!」
四葉はそう言いながらも少しも悪びれちゃいないように思える。
「ああ、そうだったな。お前はそういう奴だったな」
俺は腰をさすりながら四葉を諌めた二つの声の方を向いた。その二つの声はそれぞれ次女の二乃と、三女の三玖のものであった。
久しぶりに出会った彼女たちは高校時代とは少し、トレードマークとして身につけていたアクセサリが変わっていたので、しばしどちらがどちらであろうと判別に悩んだ。二乃は高校時代ツーサイドアップでまとめていた桃色の髪を後ろに一つ、黒い蝶のシュシュによってまとめていたし、三玖の方も高校時代より愛用の「オーディオテクニカ・ATH-AR3BT」のヘッドホンを掛けていなかった。どちらも上質な絹のように光った長髪を春風になびかせている。
二人は賀茂大橋たもとのカフェの側にある下り坂の斜面から降りてきている。
彼女たちがこしらえた料理が入っているのだろう重箱を袋にくるんで手に提げ、えっちらおっちらと運んできている。その重箱はかなり大きかった。しかもそれが二つ分もあり、それぞれが一つずつ運んでいる。
俺は慌てて駆け寄り、四葉もそれに付いてきた。
「大丈夫かよ。ほら、持つぜ」
二乃から重箱の包まれた手提げ袋を受け取ると、ずっしりとした負荷が両腕にかかった。思ってた以上の重みであったので、思わず「うおお」と呻いた。
「ちょっと。大丈夫なの。あんた相変わらずモヤシみたいな身体してんのに無理しないでよ」
「なめんな」
二乃は小馬鹿にしたようにクスクス笑う。そして後から「でも、ありがと」と小さく付け足した。
「私のは持ってくれないんだね、フータロー」
三玖が例の膨れ面をして拗ねたように言った。
「さすがに俺の腕力にも限界というものがある。すまん」
そしてその限界には割と早々に到達する。
「残念だったわねー、三玖」
「むう」
「三玖のは私が運ぶよ。はいはい! お疲れさま」
四葉が三玖の分を受け取ると、三玖は小さなハンドバックから取り出したペットボトルのお茶を静かに飲んで、一息ついた。頰が火照っていて、少し汗ばんでいた。どこから運んできたか知らんが、俺と同じくバイタリティの値がほぼ最底辺を示している彼女には酷な仕事であったといえよう。
そうして四人、鴨川デルタの河川敷へと降りて行く。レジャーシートの傍らで微笑ましそうな顔をした五月が俺たちを見上げていた。失われてしまった懐かしいものを取り戻して、それを愛おしく思う、そんな顔をしていた。
「久しぶりだな、お前ら」
俺が言うと、同じく坂を下る三人が笑って言葉を返した。
「はい! お久しぶりです、上杉さん」
「久しぶり、フータロー」
「相変わらずうだつのあがらない顔してるわね」
「うっせえ」
そうだ、この感じだ。俺は思い出した。五月とはちょくちょく顔を合わせていたが、この感覚はやはり彼女たちがいてのものだったのだ。
彼女ら姉妹の絆があって、そしてその中に何故か俺のような根暗な男の居場所がある。
そんな身の丈に合わない幸福な空間が、俺は好きだったのだ。おこがましいかもしれないけど、どうしようもなく好きだったのだ。
下り坂を降り、彼女らのこしらえた料理の入った重箱を置いて一息ついた。いつの間にやら空は先ほどよりも、薄暗くなってきている。そうこうして一息ついている間にも夜は近づいてくる。時間の流れる勢いはいつも一定で変わらないはずなのに、真昼よりこの時間帯の方が時間の進みをさらに意識してしまう。
負荷のかかった手をぶらぶらとほぐしていると、三玖が視界に入ってきた。
「フータロー」
呼びかけて、彼女の白い指先たちは花がその花弁を閉じていくように、俺の両手を包んだ。
「ずっと会いたかったよ」
そう言って、その包み込む指先にギュッと力を込める。けれどもそれには、執着や独占の意は含まれていないように思えた。手を握られているだけなのに、まるで慈しむように体全体を抱擁されているような気分であった。その手を握る様は、恋の焦燥に駆られて縋る乙女のそれではない。かといって艶めかしく爛熟した女の仕草でもない。ただただ、包み込まれるように落ち着く。
彼女の深い青色の瞳に、そんな優しさを見た気がした。こんな目をして微笑む奴だったか、と俺は不覚にもドキリとしてしまった。
俺としたことが、手を握られたまま意識せずに、彼女から目線を下方に逸らしてしまっていたらしい。三玖はそれを逃さず俺の顔を覗き込む。
そして彼女は「フータローはどうだったの?」と尋ねた。
「私たちと会いたかった?」
正直に言うと俺は彼女たちと再会するのが気まずいものになるだろうと思っていた。何せあれほど雑な振り方をしたのだ。あれが最適な解であったと自信を持って主張することはできるけれども、それとこれとは話が別だ。俺にもちゃんと血の通った人らしい心がある以上、彼女たちには悪いことをしたと俯き、再会するのもさっきのさっきまで気まずかった。
もちろんそれを正直に言うほどの馬鹿ではないし、実際のところいざ顔を突き合わせてみると案外高校時代のように笑い合うことができた。なので俺は「ああ。ずっと会いたかった」と白々しいことを言った。三玖の背中の向こうで五月が「白々しいことを」といった顔をしていた。
けれども三玖は「そっか、嬉しい」と満足そうに呟いて、その両手をスルリとほどいた。
黙って一連の会話を静聴していたニ乃が「あーあー、三玖。あんたいいの?」と三玖に向かって尋ねた。
「こんなお熱いことしちゃって」
「フータローだから、いいの」
三玖は澄まし顔をして返した。この時の俺は姉妹二人の短いこのやりとりの意味がいまいち分からなかった。いいのって何だ。「いいの」って。
特に三玖が今何を考えているのか、俺には分からなかった。高校の頃から不思議な奴だとは思っていたが、今はより一層分からない。言うなれば深みが増したのか。何の深みかと問われるとそれは単に人としての深みではなく、女としての底の知れなさとでも言うべきだろうか。
などと、大して女を知りもしないくせに深みのある事を言おうとしてみる。けれども俺の貧しい経験から言葉をひり出そうとすれば、そんな表現が一番合ってると思った。彼女の気持ちを探ろうとするのは、深い水底を覗こうとするのと同義であるかのように思えた。そしてその底が知れずにゾクリとした。
悟られぬよう俺は敢えて無駄に乱暴な振る舞いでドサッと草はらに腰を下ろした。
「全員揃ったんならさっさと始めようぜ。あんまり遅くまで騒ぐわけにもいかんからな」
そして心待ちにしていた手作り弁当を内包する袋の結び目に手をかけた。思えばこちらに越してきてから、身近な人物の手料理というものは一度も食べていない。
最後に真心のこもった手料理を食べたのは京都へと発った日の実家での朝食以来である。真心がこもっていたか否かは作り手たる妹のらいはのみぞ知るところではあるけれども、きっと心優しき我が妹のことだ。この愛しき兄の旅路の安全を願う万感の思いが、あの炊き込みご飯には込められていたはずだ。
見送りに来てくれた名古屋駅の改札前にて「嫌だ、らいはと離れたくない。お前も一緒に来い」と未だかつてないほどのわがままっぷりを発揮する兄を蹴り出した妹の冷たい瞳を思い出すにつけ、「もしかしたら鬱陶しがられたのかも?」と一抹の不安を覚えるが、そんなものは当然杞憂である。どうか杞憂であってくれ。いや、やはり願うまでもなく下らぬ杞憂である。何故なら俺はあの日口にした椎茸と鶏肉の旨味、お焦げの香ばしさを、今でもありありとこの舌の上に転がすことができるのだから。
らいはの作ってくれた炊き込みご飯には確かに真心がこもっていた。そうに違いないのである。
そして今目の前にある重箱の中身も、本職たるニ乃と三玖の何らかの思いがこもった手料理であることには違いないのだ。無論、愛すべき妹のそれとは比べるまでもないけれども、身近な人物の手料理とはやはり嬉しいものである。この三週間の、コンビニ飯と冷めた学食と飲み屋のお通しをグルグルと繰り返すだけの食生活を通じて、改めて実感したのだ。
えんじ色の高級そうな質感の布地が、その包まれた内側の逸品への期待値を否応なしに高めていく。
しかし高まりゆく期待は最高潮を迎える前に四葉の「ちょちょちょちょっと。待ってください」と制止を促す声によって打ち止めされた。当然、袋をほどく手も止まる。
「何だ四葉」
餌をお預けされた貧乏な犬の口調は不機嫌そのものであった。そんな理不尽極まりない受け答えをされた可哀想な四葉は、申し訳なさそうな顔でこう付け足した。
「まだ全員揃ってないじゃないですか。一人、足りてないじゃないですか」
「まさか」
俺は指折り数えた。まず一人目に五月は土手にしゃがみ込んで、俺と同じ様子でビール缶の蓋に指をかけて乾杯の瞬間を心待ちにしているし、二人目にはニ乃がその傍らで五月の欲望が溢れ出さないよう、長いまつ毛の隙間から覗く瞳で監視している。三人目には三玖がさっき俺を見つめたようないつになく落ち着いた目で、賀茂川にかかる飛び石を往復して遊ぶ子供たちを穏やかに見守っている。そして四人目の四葉は俺の目の前だ。やはり四人全員ではないか。
確かに彼女たちは五つ子で、その長女はここにいない。しかし東京で女優業をやっている彼女の都合がつかなくてこの街には来れないといった事情は、初日に出会った五月から聴取済みである。長女はこの花見会には来ない。
つまり、俺を含め全員が揃っているはずである。
俺が単純かつ噛み合わない矛盾した算数と格闘していると、やがて四葉は俺の向こう側に現れたのだろう人物に向かって「あっ、やっと来た」と、手を振り始めた。愛しい宝物を見つけたように瞳が爛々と輝く。
「おーい、こっちこっち」
俺もその人物を確認すべくして、四葉が声のかけた方向にくるりと振り返る。しかし、それらしい者は見当たらなかった。俺と彼女たちとの共通の知人ではないのだろうかと思ったが、わざわざ俺を呼んだ会合にてそんな気まずい対面を用意するとは考えにくい。
四葉が手を振る先にある、我々のいる河原より少しだけ高い段上に敷かれた細い道では様々な人々が歩いている。夕食の献立について嬉々として意見を交わす子供連れもいれば、新人歓迎コンパに遅れて乗り込んできたと思われる二十歳過ぎ頃の学生たちもいるし、ピチピチのランニングウェア姿でジョギングをする中年男性もいる。本当に色んな層の市民が行き来している。挙げ句の果てにはハンチング帽にサングラス、装束はトレンチコートといった怪しい風貌の人も歩いている。
俺は見つけて思わずギョッとした。よくよく見ると周囲の市民の皆さまもそのキャメル・ベージュの色をしたトレンチコートを避けて歩いている気がする。
それもそのはずだ。首から上の印象をぼやけさせるためのサングラスとハンチングに、いかにもなトレンチコート。「これは世にいう『露出狂』なのではないか?」という、ほぼ決めつけたような失礼な勘ぐりをした。
これは幼少の頃に閲覧したドラマや漫画による刷り込みであろうが、開放的な陽気に釣られた節度を弁えぬ阿呆どもが全国各地で乱れ咲く春先という時分と、顔の分からぬ人物の身にまとったトレンチコートというコラボレーションはやはり、典型的な露出狂のイメージを想起させた。
我が国ではいつの時代からか「トレンチコートとは変質者が全裸の上から羽織るもの」といった、この装束の生みの親である英国を憤慨したらしめる、破廉恥極まりない風潮が流布されている。
婦女子たちのにこやかに歩む微笑ましい桜並木のど真ん中に、生まれたままのあられもない姿にトレンチコートのみを羽織った男が颯爽と現れ、そして見せつけるだけ見せつけ、また颯爽と去っていく……そんな一連の「いかにも」な場面を思い浮かべた。
俺はこれまでの生涯で露出狂にもそれを想起させるような装束をまとった人物にも会ったことはないし、まさかそんないかにもな事が起きるものかと懐疑する気持ちもある。けれども逆にここまで露骨だと一周回って本当に露出狂なのではないかと思った。
そして驚くことに、よくよく見るとそのトレンチコートの人物が女性であるということに俺は気がついた。背はそこまで高くないし、胸元は男性の胸筋というにはあまりに膨らみすぎている。というか男性の胸筋と比べるなど失敬極まりないほどに豊満である。足取りもまるで、ファッションショーのステージ上をコツコツ音高くヒールを鳴らして歩くパリジェンヌのそれのようであったし、実際その様はとても優雅に思えた。
だからといって、その風貌の不気味さが帳消しになるわけではないが。いくら華麗な振る舞いをしたとてその不審者ぶりには弁護の余地もないし、むしろそのアンバランスさが彼女をさらに不審者たらしめた。おまけにブカブカなほどに大きなマクスをしているから、風邪引きあるいは花粉症が酷いのかなと思ったけれども、その割にはピンピンしていた。
何にせよ関わらぬ方がよいだろう。
そう思って今一度四葉が誰に向かって手を振っているのか確認すると、あろうことか彼女はそのトレンチコートの女性に手を振っているようであった。
「四葉早く逃げろ、自らの恥部を人目にさらす事にどうしようもない快感を得る変態の餌食になっちまうぞ!」
しかし四葉は「もー何言ってるんですか」と軽く受け流すばかりだし、他の姉妹たちも「あ、やっと来たのね」と微笑んでそのトレンチコートがこちらへと優雅に歩んでくるのを迎えた。正気かお前ら。
トレンチコートの女は無駄に上品な足取りで俺たちの元にズンズン近づいてくる。それに対応して俺は「彼女がその露出欲を露わにするのにやぶさかでない射程距離はどれくらいであろう」と、我が秀才的頭脳に搭載された超高度演算機能をすかさず起動させた。
しかし実際のところ、彼女たちはいたって正気であった。反対に俺がいかに失敬な勘ぐりをしていたかという事に気付いたのは、その直後のことである。
こちらに近づきゆくトレンチコートの女はいよいよ俺たちの目前にまで接近すると、被っていたハンチング帽をサッと脱いだ。春風が薄桃色のショートヘアをなびかせる。そしてマスクを外し、隠されていた顔貌のほぼ全てが露わになると、さすがの俺でもこの女の正体が分かった。分からないのは「この女がなぜここにいるのか」という一点のみであった。相変わらず綺麗な顔貌をしていると、平凡な感想を心の中で呟いた。
その美麗な顔を見るなり、彼女の羽織る春先の露出狂の象徴たるトレンチコートのイメージはたちまち、オードリー・ヘップバーンの着こなすような銀幕の女王の象徴へと書き換わっていった。
彼女は目元を隠す役割を果たしていたブランド物のサングラスをスチャリと頭の上に乗せ、トレンチコートを翻し、その内から春物のタイトスカートを覗かせた。決してコートの内側が生まれたままの姿だなんてことはなかった。いや、例え内側が生まれたままの姿であったとしても、彼女が「これはそーいうもんなんです」と言い張れば、彼女の熱狂的ファンたちはたちまち納得してしまう事だろう。
髪が風でなびくのをサッと手で遮り、洗練された足取りで歩んでくるその様は、まるで美容室に置いてあるファッション誌から飛び出してきたかのようであった。そう比喩しても過言でない。いや、過言でないどころか事実である。実際、彼女はファッション誌から飛び出してきたのだ。
彼女は燃える橙の夕焼けと、燃え尽きた藍色の闇夜とのグラデーションを背景にして立ち止まった。まるで夕暮れ時と夜の境い目の世界を裂いてやって来たみたいだった。そんなドラマや映画のような大袈裟な表現をしてもそれがしっくり来てしまうのはやはり、彼女の女優としての風格があってのことだろう。
「よっ、フータローくん。元気してた?」
そう軽やかに挨拶をして、見慣れた顔がはにかんだ。「見慣れた」とはいっても、それは高校時代とそれ以降で全く意味合いが異なる。
高校時代は身近な友人として、何気ない日常の中で。そして高校卒業以降は遠い天上人として、テレビの画面を通じて。いつだって彼女の顔は見慣れたものであったが、前者と後者では明らかに意味合いが違った。
「俺は元気だよ。お前こそテレビの向こう側で元気そうじゃねぇか」
「嬉しい。ちゃんと見てくれてるんだね」
「あれだけしつこく何でもかんでも番組出てりゃ、見たくなくても見らさるっての」
「あはは懐かしいな、その憎まれ口! こんなんでも私一応、今をときめく若手女優なんだけどなー」
「知ったこっちゃないね」
例えどんな立場の人間になろうと、俺にとってお前はただの大切な友人だ。
俺が冷たく突き放すのに対して、テレビの向こうの天上人は「ひどー」と、子供のような膨れ面をした。
「つーか二十四って若手か? ぎりぎりじゃね?」……と疑問に思ったが、これ以上いじめるのはさすがに俺の良心が痛むので、問い詰めないでおく。
こうして五つ子姉妹の長女かつ、若手かどうかは分からないがまあとりあえず女優の中野一花が加わって、宵の口が訪れると共に花見会が始まった。
◯
時を久しくして再開した俺たち六人は、こうして桜の満開の下でまた旧交を温めたという形になった。ヒラヒラと舞い落ちていく桜の薄桃色が、夜闇の藍色の中に綺麗に映える。花弁が風にひるがえりチラチラと夜を背景に消えたり現れたりするその様は、昼に見る桜より一層幻想的で綺麗だった。
先ほど五月に「桜だなんてどこで見ても変わらん」と悪態をついたばかりだが、じっくりと腰を据えて夜桜見物をしたのは初めてのことだったので仕方がない。こうして俺は、夜桜とはなかなかいいものではないかと易々その趣向を転換させた。そして「我ながら夜桜とは粋なことをしてるものだ」と風流に酔った。
待ちに待ち侘びた花見弁当の味はやはり格別であった。実家の味付けより少し甘い卵焼き。塩気の効いた食感のよいアスパラベーコン巻き。中身のみっちりつまったエビフライ。それらを舌の上に転がしてから喉越しを楽しみ、贅沢な旨みの幸福に浸りつつも、我が無愛想な口先からは「美味い、美味い」とやはり無愛想な感想が溢れるばかりであった。
俺だって何も好きで無愛想な口ぶりをしているわけではない。本当に美味いのだ。本当にありがたく思っているのだ。けれどもその感動は、その大小を問わずただ一律に決まったトーンでしか吐き出されない。それが我ながらもどかしい。どうも自分は思ったことを目に見える形にして上手く表現できないタチらしい。
とはいえ、この不器用極まりない性分については彼女らも先刻承知であるので、作り手たる二人はニコニコと俺の無機質じみた食べっぷりを眺めていた。彼女らは俺がありのままでいても誤解をしないでくれる、良き理解者である。二乃と三玖は「この唐揚げは私が作ったのよ」「仕切りのこっち側は全部私」などと代わる代わる主張して、やがて隠し味やら何やらを俺に説明してくれた。
けれどもその隠し味の調味料やらオイルの種類を羅列されても、俺には耳馴染みのない、何だか呪文のような単語にしか聞こえなかった。とりあえずかなり高級な品々を用いた手の込んだ弁当だということだけが把握でき、俺のような貧乏人に説明されても一生使わないような料理テクニックであると思った。我が弁当作りの一切は全て、生きるための栄養補給の観点のみに重きが置かれるのだ。オリーブオイルだの何だの、贅沢は言ってられない。それゆえに、この手の込んだ弁当には余計ありがたみを感じた。
「ていうかさー、フータロー君。さっきの酷くない?」
弁当箱を挟んで俺の対面に座る一花が苦く笑いながら不満の意を示した。
「会うなり『トレンチコート着てたから露出狂だと思った』だなんて。確かにマスクとかサングラスとかかけてたからそれっぽいけどさあ、今どきそんなステレオタイプな変態いるわけないじゃん。ていうかそんなの昔も絶対いなかったし。ドラマの中だけの話だし」
「しかしお前はドラマの人間だろ」
「フータロー君と会う時は普通の女の子に戻りたいです」
「女の子」
思わず復唱。
「女の子でしょ?」
念を押された俺はやや間を空けてから「あぁ、そうだな。女の子、ね」と力なく笑った。
「うむ、よろしい」
一花は何かの一大判決を言い渡した後の裁判長のように重々しくうなずいた。
だからというわけではないが、この前彼女が出演していた弁護士ドラマを思い出した。たまたま目についたのだ。街で偶々チラリと見かけるように知人をテレビの液晶の中に見るというのは、かなり奇妙な感覚である。奇天烈で自己中心的、だけど人間味に溢れていて弁護の腕も確かな大物弁護士に振り回される新米女弁護士……というのが彼女の役回りだった。俳優業とは様々な雰囲気を使い分けるプロフェッショナルである。その新米女弁護士は如何にも鈍臭く、それでもひたむきに努力する健気な女性であったが、果たして目の前にいる彼女はどうであろう。法律科目とは無縁でそれどころか勉学全般に疎く、試験の余剰時間を見直しにも当てず怠惰に寝て過ごす、そんな女子高生。あぁ、似ても似つかない。けれども俺の知っている一花像とは似ても似つかない役どころをこなす彼女はやはり女優として一流となったということであろう。
随分と嘘つきも板についてきた……いや、大物の女優になったものだと思うとしんみりしてしまう。あのマスクとサングラスの変装だって決して大げさなものではない。例え俺に露出狂と誤解されようとも必要不可欠な変装であったのだ。
俺と一花のやり取りを他の姉妹がクスクスと笑いながら聞いている。
「一花、露出狂」
「ククク……確かにあんた、寝て起きるといっつも全裸だものね」
「うっ」
「確かに確かに。一花、仮にも女優さんなんだからさあ、いい加減直した方がいいよ、うん。綺麗な一花がそんなだって知ったらファンの人たちビックリしちゃうよ」
「四葉まで……。ていうか『そんな』って」
俺の持参したレジャーシートはそこそこ大きめのものであったが、五つ子プラスアルファで座るとなれば多少狭かった。俺としたことが計算外だった。おかげで俺たち六人はこの狭く設けられた席に弁当を狭く囲みながらおしくらまんじゅうのように座らなくてはならなかった。温もりの四月も半ばになるというのに暑苦しいことこの上ない。
俺は土手の斜面に避難して腰を下ろし、そうして五つ子たちから少し距離をとってやり取りを見守った。一花は下の妹四人と違って普段は東京にいるのだ。どれくらい間が空いているのかは知らないが、彼女にとっても久しぶりの対面なのだろう。
缶ビール片手に見渡す夜の鴨川デルタ界隈は夢見心地であった。我々のいる側の河原も、鴨川を跨いだ三角地形の領域も、そのさらに向こうの河原も、夜桜を楽しむ花見の席でいっぱいである。きっと彼らも夢見心地なのだろう。夢見心地でなければあんなにも羽目は外せない。夢見心地だからこそ許される、そんな阿呆な事ばかりをしてるのがこの鴨川デルタの酒席の主な客層なのだ。デルタ地形の突端でタイタニックをしているカップルがいる。それを冷やかす学生たちがいる。向こうの高野川の飛び石を無茶な跳躍で飛び越えることを試み、盛大に失敗してびしょ濡れになった男子学生がいる。
まあ、夢見心地ならよかろう。大いに羽目を外し、そして翌朝大いに吐くがよい。学生のみに許された特権である。
しかし「ピュィーイッ、パンパン」と、季節外れな夏の風物詩のような音が聞こえた時にはさすがに夢も覚めた。ロケット花火だった。しかも事もあろうにそれは空に向かってではなく、デルタの中州で和気藹々とバーベキューをしている学生たちに撃ち込まれているものだった。その光の線の伸びてくる元を目で辿っていくと、どうやら出町橋下の暗がりから撃ち込まれたものらしい。出町橋は出町桝形商店街の通りから鴨川デルタの中州に掛けられている橋である。
やがて葵橋方の勢力は弾切れになったらしく、それを良いことに「いざ報復に向かわん」と中州方の連中がザバザバと賀茂川を渡っていき、合戦が始まった。まさに川中島の戦い。
俺はその合戦を見てやや呆然としていたが、やがて興が乗ってきて「いいぞー、やれやれ」と決して届かないだろうエールを両軍に送った。巻き込まれるのは御免だが、遠くで見てる分にはただの愉快な酒席の余興なのである。
高みの見物をしていると、すぐ下のレジャーシートから一花の助けを求める声が聞こえた。
「フータロー君が変な事言ったから妹たちがいじめてくるうー!」
「俺のせいかよ」
俺はお前がここに来るだなんて思ってもいなかったんだぞ。そう考えるとやはり一番の責任は……。
「五月」
「何ですか、上杉君」
五月は答えつつも、一生懸命に箸を動かすのをやめなかった。彼女は食べたいおかずを優先的にキープしておくことに余念がない、花見席の達人である。
「元はと言えばお前が『一花は女優やってるからここには忙しくて来れない』って言ったんだからな。一番驚いてるのは俺だ」
「でもその後に『映画の撮影がたまたま京都であるから、そのついでに顔を出せる』って言いませんでしたっけ、私」
「だから聞いてねえってさっき言ったろ」
「そうでしたっけ。最近やる事が多すぎて、何だかボーっとしてるんですね、きっと」
五月は呑気そうに言うと、いきなり驚いた顔をして箸を止めた。
「わわ! 見てください皆んな。合戦です、川上で合戦です」
彼女の言う合戦とは俺が先ほど高みの見物で眺めていたそれだった。俺や他の姉妹たちは先程から気づいていたというのに、どうやら今さら気づいたらしい。三玖など興奮して「川中島の戦い、川中島の戦い」と呟き無意識に戦場に足が運ばれそうになるのを四葉に止められていたというのに、五月はそんな騒ぎにも気付かず美味しい弁当に夢中だったらしい。花より団子の精神ここに極まれり。
「でも良かったね、一花。たまたま映画の撮影がこの街で。一花、忙しくてお話できる機会なんて私たちも節目節目じゃないとないもん」
四葉が春巻きを突きながら言った。
「あはは。いやー、本当たまたま! 偶然だよ。まさかフータロー君がここにいるなんてさ。ビックリしちゃった」
一花は何という事もないようにペラペラと言葉を返した。
「こんな偶然、まるで運命だね」
「さすが女優さま。演技じみたこと言うぜ」
「運命」だなんて。そんな重たい言葉を軽く言ってのける彼女の言葉に、俺もまた同じように軽いからかいの言葉で返した。
すると彼女はわざとらしく間を空けてから「こんなんでもけっこう切実なんだけどな」と呟いた。これもどうせ演技だろう。こいつはこうやって、いつも俺のことをからかってきたのだ。そんな見え透いた手に引っかかる間抜けな俺ではない。
その今回の京都での映画の撮影というのは半年ほどの期間を要するものらしい。業界の者ではないから詳しくは知らないが、撮影期間としてはかなり長い部類だろう。素人目にも分かる。
それについて疑問に思い質問したら彼女はやはり「確かにすごく長いね」と答えた。
「私も始めてだよ、こんな長い期間ロケ地にいるのなんて。でも今回の監督がさー、変わり者っていうか、偏屈な人で。絵に拘るんだよね。雨の『降り方』が気に喰わないとか言って理想の『降り方』が来るまで何十日も粘ったり」
「面倒くせー人だな」と苦い感想を心の中で吐いた。多分顔にも出てた。
それを察したのだろう一花は「まあでも、悪い人じゃないから」とその監督を庇った。
「確かに業界にも良く思ってない人は多いよ。拘るわりには興行収入も振るわないし。でもコアなファンがいるからね。ニッチ産業的な感じ」
「よく受けたな、そんな売れなさそうな映画の主演だなんて」
「私もそろそろ旬が過ぎて斜陽だしね。こういう経験も積んでおかなきゃ」
一花が謙遜するのに対して、口を挟んできたのは二乃だった。
「とか言って、どうせそのオファー受けたの、五月から『フー君が京都に来た』って聞いた後のことなんでしょ」
「な、何言ってるの二乃」
「だから私が言いたいのは、フー君がこの街に来るから会いたくてわざわざ主演のオファー受けたんでしょ、ってこと」
じっとりとした目で問い詰める二乃に続けて五月が「あ、そういえば」と何かを思い出したようだ。
「私が上杉君のこと皆んなに報告する前に一花、受けようかどうか迷ってるオファーがあるって言ってましたよね」
「い、五月ちゃん! それシーだから、シー!」
まるで小さい子供に言い聞かせるようにして慌てる一花を二乃が「やっぱりね」といったような顔でほくそ笑んだ。
「じゃなきゃそんな面倒な監督の言いなりになんてなりたくないでしょ。運命は運命でも自分で仕組んだ運命ねー」
「いいじゃない、別に。実際この街で撮る映画のオファーが来てたのは事実なんだし。あとはそれを受けるかどうか決めるのは私次第だもの。私はフータロー君と再開するという運命を自分の手でたぐり寄せたんだよ」
二乃の意見を認めた一花は開き直り、威風堂々とした笑みを浮かべ宣言した。三玖が「素敵だと思う」と茶を飲みながら静かにフォローを入れた。
つまり一花は俺と会いたいがためにわざわざ偏屈監督の製作する偏屈映画の主演を買って出たということだ。聞く限り、これが客観的事実だ。
その事実を受け止めると、たちまち俺の胸の内には毎度お馴染みの自意識過剰な妄念が湧いてきた。
それってやっぱり、そうなのか? けれども彼女ほどの綺麗な女性が? いや、しかしやはり……。
年甲斐もなくそういうしどろもどろな感情にもてあそばれていると、一花が面白がるようにこちらを見つめていた。そして「そういうわけだから」と年甲斐のある色っぽい笑みを浮かべ、クイっと一杯やった。俺もとりあえずは「そうか」と空返事をしながら、彼女に調子を合わせ三杯目の缶を空にした。
夜は刻一刻と深くなっていく。太陽の気配を忘れて、遠慮もせずに、気遣うこともなく、いっそ昼を呑み込むように、その黒色をさらに深くしていくのだ。
◯
実際に会うまではまごまごしていた上杉君でしたが、いざ顔を合わせてしまえばどうってことはなく、その相変わらずのつっけんどんぶりで私の姉四人を呆れさせつつも同時に安心させたようでした。
この花見会の間私の唇は飲食を欲するか、何らかの言葉を発するかのいずれかをしていましたので、口を休めている暇がないのでした。恐らく上杉君は私の振る舞いを見て「花より団子の精神ここに極まれり」だとか思っていたのでしょうが、私だってそれだけではありません。もちろん美味しい手作り弁当を食べ、酒の味わいを楽しむことには全力を注ぎますが、しかしだからといって夜桜の風情や夜の鴨川の和やかな景色に全くの興味がないというわけではありません。大切な四人の姉と愛しい初恋の人と共に眼前の光景の美しさを共有することを、私は何より幸福に感じているのです。ただその傍らに添える程度に、ついでとしての酒とつまみが置いていればそれだけで満足なのです。
よく食べ、よく飲み、然るのちに季節の風流を楽しむ。我流ではありますが、それもまた淑女としての嗜みなのではないでしょうか。
決して花より団子なんかではないのです。しかしやはり美味しいものは美味しいので口は止まらず、上杉君はあたかも私のことを、食べ物のことにしか興味の持てない風情を解さない女だという目で見るのです。失礼千万です。
そのように悔しながら口をもぐもぐさせている間にも時間は過ぎ、夜は深まっていくのでした。夜の黒色が深まれば深まるほどに桜の白とのコントラストを鮮やかに成していきます。ヒラリヒラリ黒色の中を無数の白の花びらが舞い降ります。そのうちの一片が偶然、私の用意した朱の盃に着水し、アルコールの小さな水たまりに波紋をつくりました。ちっぽけな盃に注がれた酒の水面に広まった波紋はすぐにその口縁へと到達し、消えていきます。「これぞ花と団子の一致なり!」と私は悦に浸り、風流と美味を同時に味わいました。
先ほどの一花の意味ありげな、演技じみた、けれどもどこか切実な「そういうわけだから」というさりげない宣言。私はそれを聞いて驚きつつも、内心では「ああ、やっぱり彼女もなのか」と冷静に受け止めている自分がいることに気がつきました。
まあ、あの美貌で、あの艶やかさで、しかも女優で引く手数多で、今まで付き合った殿方の一人もいないんですから、ねえ。
やはり、「そういうわけ」なのでしょう。
私は確信に近い想定を胸に「はあ」と皆んなには聞こえないようにため息をつき、花びらの入水した酒をちびちびと舐めました。桜の味はしませんでした。まだアルコールが足りなかったのでしょう。桜の花びらをかじった事はないので当然味なんて分かりませんが、それはきっと胸焼けするくらい甘い味なのです。
酒の席も温まり、昔どのようにやり取りを交わしていたかという感覚を取り戻した私たちはようやく落ち着き、互いの現状を報告し合っていました。
「そうか。四葉はスポーツジムのインストラクターか。やりたいことができて良かったじゃねえの」
上杉君は穏やかに笑いました。まるで子供の成功を褒めてやる父親のようだなあと思いました。あるいは久し振りに顔を合わせた姪の成長に顔を綻ばせる親戚の叔父さんです。
「ありがとうございます! それもこれも何もかも、私に勉強を教えてくれた上杉さんのおかげです」
「いや、しかしお前は専門学校志望だったからな。他の大学受験する面子に必死で四葉にはあまり時間が割けなかっただろ。そこまでお前の力にはなれなかったとな、今更ながら思うんだが」
「いえいえ、そんなことありませんよ。卒業できるかすら危うかったんですから。私こそ上杉さんに何もあげることできませんでした」
四葉はちょっぴり情けなさそうに笑います。上杉君や他の姉妹からすると彼女の笑みはいつも通りの、冗談めかしたものに見えたことでしょう。けれども彼女の過去を知っている私からすれば、それがひどく気負った、卑屈な笑みに見えました。もちろんそんな場違いなことは指摘しませんが。
四葉は高校を卒業するとスポーツ関係の職に就くための専門学校へと入学しました。先ほど上杉君が「四葉にはあまり時間を割けなかった」と申し訳なさそうに言っていたのは、受験勉強が要らない以上、卒業に必要な学力さえ身に付けさせれば取り敢えずはそれで良かったからです。他の四人は大学の進学を希望していましたので、上杉君には本当に余裕がなく、切羽詰まっていたのです。
四葉の入学した学校は、私たちの住んでいた東海の地より遥かに北上した東北地方の山々に囲まれた盆地の街、盛岡にありました。私も大学生活始めの二年間は北の大地、北海道で過ごしていましたので、年末年始に姉妹と故郷で集まった後の帰路のついでに四葉の下宿に二、三泊させてもらい、二人で一緒に観光をした事もありました。人口三十万人にも満たない小さな街ながらも通りには活気があり、しかも山の幸が美味な田舎の小都会であるというのが、その街に対する私の印象でした。
そして大学の入学から二年が経ち、私が京都の大学の編入試験に合格し、引っ越しの荷造りをしていたある日、彼女から電話がかかってきました。その報せの由は「彼女がスポーツジムのインストラクターとして雇用してもらえる事が決まり、しかもそれが京都の市内にある」といったことでした。
それに続いて短大に通っていた二乃、三玖もまた京都に就職先が決まったという由を聞きました。こうして、東京で女優業に勤しんでいる長女の一花以外がこの街に集まるという、何か因縁じみた事態へとなったのでした。
何も私たちは示し合わせてこの思い出の街に集まろうとしたわけではないのです。だからこそ余計に因縁じみていて、それ故に「なぜ彼女たちが新しい生活の場として京都を選んだのか」という質問を投げかけることはできませんでした。
しかし例え質問せずとも、四葉の動機だけは何となく推測できました。何故ならこの街が彼女にもたらした思い出とはあまりに幸福で、そしてあまりに忘れられないものであったから。しかし、それ故に彼女は夢のように素敵だったその一日の思い出に負い目を感じているのです。それでも彼女は戻ってきました。
それがどういう意味なのか分かってしまい、私はやはり押し黙ることしかできないのでした。彼女にとってこの街に戻ってくるという事は自虐であると同時に、何物にも変えがたい過去の思い出に浸る事という、矛盾した行為でした。一生癒えぬ深い傷に、甘い蜜を塗り込んでいくようなものです。
その感覚とは一体どんな風なのでしょう。染み込むようにただただ痛いのか。傷口を舌先のようにしてその甘美を味わうことができるのか。それともその両方か。私には分かりません。
ともかく、そんな生活を五年繰り返したところに突然現れたのが、四葉が過去の思い出に負い目を感じる一番の原因であるともいえる上杉君でした。
そんな彼を目の前にして、彼女は一体どんな心持ちなのでしょうか。彼がこの街に来たと姉妹たちに伝えてから三週間ほどが経ちます。四葉はその吉報を喜びつつもやはり、過去の事を打ち明ける気などさらさらないようでした。これほどまでに根深く、あの日の京都の思い出は彼女の心に根付いているのでした。しかし上杉君と心から楽しそうに話す四葉を見ると、彼女が自分の心に嘘をついて行動しているようには見えませんでした。
「そんな事ありませんって。私、今でも相変わらずおバカなんですから。私だなんて、そんな。大したことないですよ」
私が物思いに耽っている間に四葉は何か上杉君に褒められていたのでしょう。彼女はいかにも申し訳なさそうに謙遜していますが、それでもやはり胸の内からザバザバ溢れ出てやまない「上杉さんに褒められちゃった」という喜びを隠しきれていないようで、その頰をどうしようもない程だらしなく綻ばせるのでした。
「いや、お前は大した奴なんだよ。思えば一番最初に俺を受け入れてくれたのもお前だ。そういう素直な性分が一番必要だってな、社会人になって俺は思うぜ」
「えへへ、上杉さん」
「ちょ、お前、四葉」
四葉は酔いの勢いに任せたのか、隣に座る上杉君にギュッと抱きつきました。他の姉妹はギョッとして四葉を見ました。私も見ました。嫁入り前の女性が酒の入った男性に抱きつくだなんて。羨ましい……じゃなくて、彼女は少々男性に対する警戒心が薄いのではないでしょうか。例え上杉君が萎えた枯れ木のような男性であったとしてもです。彼だって一応は荒々しい獣性の一欠片くらいは持っているはずなのです。
上杉君はいきなり抱きつかれて年甲斐もなく慌てふためいていましたが、やがて私を含む女性陣の目線に気付いて、その瞳の言わんとすることを理解したようです。
上杉君は「こら四葉」と軽く小突き、彼女を引き剥がそうとしました。
「いい加減離れないか」
「上杉さんさっき褒めてくれたじゃないですか。ですので頭撫でてくれたら離れます。そうしないと離れません」
促されて上杉さんは四葉の頭を撫でました。二乃は歯ぎしりでも聞こえてくるんじゃないかというほどに歯を噛み締めその様子を見ていました。
しばらくすると四葉は先ほどの宣言通り素直に離れ、満足そうな顔をするのでした。それは別に誰に見せようとするわけでもない、彼女の感情がそのままに表れたような表情でしたが、こうもいきなりだと見ざるを得ません。「あの素で突撃していける天然性が欲しい!」と二乃が小さく呻いているのが聞こえました。
「お前本当意味分かんねえ」
上杉君が呆れて言います。
「上杉さん相変わらず細いですね。ちゃんと食べてます?」
「ほっとけよ」
無愛想な返事を受けて彼女は満更でもなさそうに笑います。その様子を見てるとやはり彼女には大切な人に嘘をつくだなんて器用な芸当ができるようには思えませんでした。
「まあ何はともあれ変わってないで安心しました。私嬉しいです」
ただ自分の気持ちをひた隠すのが上手なのです。過去の負い目よりも何よりも、まず目の前の幸福を噛み締め、それをむりやり表情の前面に押し出しているだけなのです。
だって彼女の嬉しく思っている気持ちは心の底から本当なのだから。嘘など何一つついていないのだから。
上杉君は視線の先で微笑む四葉を、困ったような、嬉しいような顔で見つめながら、杯に手をかけます。
上杉君は不思議な酔い方をする人でした。彼は元来物静かな人でしたが酒が入ってもそれは変わらず、注がれる一杯一杯を大事に揺らしながら、寡黙なままでいるのです。
私はサークルの付き合い等で、普段物静かな人がアルコールを入れた途端見違えるようなユーモラス大王と化す場面を幾度となく見てきました。普段から物静かな人というのは、日頃の鬱憤や創造性をその内に熟成させて溜め込んでいるものです。そうして彼らは与えられたアルコール摂取の機会にて、待ち侘びたと言わんばかりにその内に秘めた高濃度のユーモアを暴発させ、私を含めた酒席の有象無象たちをワッと言わせるのでした。やる時はやるという事です。
まるでその様は、隠し抜いた鋭い爪を披露する鷹の如くで、私のような不器用者のとんびは日々がむしゃらに爪を研ぎ続け、隠す余裕もなく、彼らに尊敬の念を抱く他ないのでした。
そして上杉君もまた、このように寡黙な人間の一人ですが、彼はむしろ缶を開ければ開けるほどにより一層寡黙になっていくのです。静かに、しみじみ、じっくりと。ずんと重みのある岩のようにアルコールの酒気を抱き、そのままどこまでも心地よく沈んでいくみたいに酔うのでした。
そんな上杉君を観察していると、マイペースに電気ブランを飲んでいた三玖がフワリフワリと不思議な足運びで彼の元に近づき、その傍らにちょこんと可愛く座りました。
「フータロー」
「何だよ」
「私も撫でて。四葉みたいに褒めて」
そう言って三玖は、上杉君の隣に座っていた二乃をぐいぐい押し除けて彼の隣を陣取ります。
「ちょっと、何すんのよ」
「侵略すること火の如し」
「いや、意味わかんないし」
このやり取りを見て、「そういえばうちの三玖も不思議な酔い方をするなあ」と思い出しました。良くも悪くも自分の趣味の世界を愛している三玖は、酒が入るとこのようにその世界の輪を自身の周囲に広げて他者に接する傾向があります。つまり、とことんマイペースになるのです。
時と場合にもよりますが、自身の好きな物に自信を持ち、人の目を気にせずにいられるのは基本的には良いことだと考えています。少なくとも、自尊感情が低く趣味さえ打ち明けることのできなかった中学、高校時代の彼女に比べたらこっちの方が良いに決まってます。
三玖は上杉君の傍に寄り添いながら、暖かみのある琥珀色をグラスの中に揺らしています。「酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはない」という某文豪の記した名酒の紹介通り、彼女はその舌を痺れさせ、すっかり酔っているようでした。彼女はマイペースである故、少し目を離した隙に度数が高いのをゴクゴク、一人で気持ちよくなっているということが多々あるのです。
「ほら、弁当美味しかったでしょ? だから褒めて」
そう言って三玖は上杉君が胡座をかいている上に自らの頭を差し出しました。人懐こい犬のようで可愛らしいなあと私はほっこりとした心地になるのですが、どうやら当の本人である上杉君は少々鬱陶しいようで、遠慮がちにその頭を押し返します。そういう人です。
けれども結局根負けした彼は、適当な褒め言葉を並べながら三玖の頭を撫でてやりました。
酔った上杉君は寡黙でしたが、それは何も黙々と酒を呑んでいるだけというわけではなく、私たちのこともちゃんと気にかけてくれているようです。それどころか、昼間の彼よりもかなり押しに弱いような気がします。
その証拠に、三玖に対抗して「じゃあ私を褒めなさいよ」と頭を差し出す二乃、「それなら私も」と便乗する一花、「ほら五月ちゃんも」とむりやり押し出された私の頭を、素直に撫でてくれたのです。少々困り顔でしたが、その口元は確かに微笑みの表情を浮かべていました。高校生の頃の彼なら意固地になって、絶対そんなことはあり得なかったでしょう。
そこに私は彼の心の内にある確かな優しさを見ました。普段は誰にも付け入る隙を与えんと言わんばかりの頑固で強固な鎧と、有刺鉄線のように刺々しい皮肉で武装していますが、そのほんのちょっとした隙間から元来の柔らかで優しい本性を漏らしてしまうのです。そこが可愛らしくもあります。
そして今宵は久し振りの彼女らの再会と、奨められるがままに摂取するアルコールとの相互作用により、その頑固な鎧をほとんど剥ぎ取られたようでした。
「そういえば今日、フータロー君の誕生日じゃなかった?」
酒気に浸された声帯によって皆が皆似たような声色をした姉たちが、誰となく呟きました。
「あっ。そういえば今日、四月の十五日……」
「すっかり忘れてたよー」
口々と姉たちが呟く中に「俺も忘れてたわ」と当の本人の声が混ざりました。
「あれ、伝えていませんでしたっけ? 今日は花見会兼上杉君の誕生日会だって……」
私が呑気に言うと、「聞いてない」と三玖がプスっと膨れます。確かに三玖が聞いてないと言ったらその通りなのでしょう。もし彼女に「本当に聞いてませんか?」だなんて愚問をぶつけたら、「私がこんな大事なこと聞き逃すと思う?」とコテンパンにやっつけられることでしょう。つまりは私が彼の誕生日だということを伝え忘れていたに他なりません。うっかり、うっかり。
「まあ、俺も誕生日だなんてどうでもいいがな」
上杉君は本当にどうでもよさそうに手をヒラヒラさせます。
「成人してからの誕生日だなんて単に老けていくだけだ」
「そんな事言わないでくださいよ」と四葉が言います。
「そうだよ。知ってたらプレゼント買ってきたのに。まあ、うっかりフータロー君の誕生日忘れてた私も私だけど」
「五月は覚えてたんだよね」
「はい。炊飯器をあげました。ね、上杉君?」
先日、四条通りのアーケード下を歩いていた時のことです。大通りに面した電気屋の自動ドアからしょんぼり肩を落として出てくる上杉君とばったり遭遇しました。それが酷く落ち込んで見えたので、自信に満ち満ちた彼の姿しか記憶にない私は大いに慌てました。たかが街の電気屋にて如何なる壮絶な仕打ちを受けたのでしょう。
尋ねると、どうやら悪いのは電気屋ではなく、「とある知り合いに必須家具の三分の一と学術書参考書の全書を売り払われた」など、妙なことを言うのです。
「炊飯器も売っ払われたから最初のうちはコンビニ飯で我慢してたが次第に飽きた。とりあえずは炊飯器から揃えなくちゃならん。そう思ってまずは近場の中古家電の店を尋ねたんだが、すぐ壊れるようなガラクタ掴まされた。しかも三度だ。
信用できなくなっていざ街に出てみたはいいが、新製品はどれもこれも値が張る。貧乏人に厳しい街だ、この街は」
この街や己が貧乏を恨むよりもまず先に、身勝手にも彼の所有財産を無断で売り払った知り合いを恨むべきではないかと疑問に思いましたが、敢えて言いませんでした。
気の毒ですが、売り払われざるを得なかったのでしょう。何か、こう、止むに止まれぬ諸事情があって。
そういうわけで私は、彼の誕生日の祝い品を炊飯器と決め、その日のうちに彼に贈呈したのでした。
「ところで、その家具を売っ払ったという『とある知り合い』とは?」
私が尋ねると、彼は眉をピクリと動かしただけで何も答えてはくれませんでした。どうやら余計なことを尋ねたようでした。
少し間が空いた後何事もなかったのように上杉君が話題を振り、私も敢えて気になることには触れず、二人で帰り、その日は終わりました。
「あの日は本当に助かった」
上杉君が素直に礼を言います。
「いえ。いくら何でも気の毒でしたので」
「抜け駆けとはやるね、五月ちゃん」
「抜け駆けだなんて、そんなつもりありませんって。ちょっと早くプレゼント渡しただけじゃないですか、一花」
何となく彼女から圧を感じるのは、私の過敏でしょうか。もしかしたら高校時代からこのような圧は放たれていたのかもしれませんが、当時の恋に無自覚だった私に感じ取れるわけもありません。
そして現在、それを感じ取れるようになったということは、私も彼女たちと同じ舞台に立つことになったということでしょう。
「ま、いっか。遅れちゃったけど私からも何かプレゼントするよ。欲しいの決まったら遠慮せずお姉さんに連絡しなさいな。何でもいいからね」
そう言って一花は、高校時代のようにわざとらしくお姉さんぶります。わざとらしくはありますが、余裕のある大人ぶってみるだけあって女優の財力は本物なのでしょう。
「フータロー、私も用意するから」「私もです!」と、三玖と四葉が長女に続きました。
「もちろん! 遠慮しないでいいですからね。欲しい物なんでもジャンジャン言ってください」
四葉が張り切るのに対し、上杉君は苦笑いして「無理すんなよ」と返します。
「いえいえ、遠慮なさらず」
「いいって。あんまり高値だとお返しが面倒だからな。お前らも誕生日そろそろだろ」
上杉君が冗談めかして言います。
「あはは、上杉さんったら」
そして次に続けられた発言も、流して聞くなら単なる自虐的な冗談に聞こえたことでしょう。
「それに本当ならお前ら、今更俺みたいな馬鹿野郎に構う義理なんてないんだからな」
しかし、この冗談にも聞こえる発言は恐らく本当の意味での、彼の真心を込めた自虐でした。酔いにゆらゆら揺れる黒目の中でさえぶれることのない彼の瞳が、いつの間にやら私の顔を真っ直ぐと捉えていました。
黒曜石のように綺麗な色をした、彼の真心を伝える真っ直ぐな瞳。
そして私はようやく、彼がこの花見会で本当に私たちに伝えておきたかったことについて気が付きました。
彼はこの花見会が始まる前まで、「私の姉たちが上杉君という過去の桎梏を振り切り、新しい道を歩めているか」という一点についてのみ心配していました。しかし、先ほどの一花の「そういうわけだから」という思わせぶりな発言やその他の姉妹とのやり取りを受け、「俺みたいな」などと自虐するに至ったのでしょう。
要するに未だに彼は、私たち五つ子の「恋する明日」を返してくれないつもりでいるようです。「俺みたいな馬鹿は忘れて、新しい道を選べ」など、この後に及んで思っているようです。
彼の意をいち早く汲み取った私の心が、チクリと痛むのが分かりました。恋心をようやく自覚した私の、初めての体験でした。
「……上杉さん?」
「今更、俺みたいな奴に、な」
同じセリフを二度繰り返し、自嘲します。
一瞬、静寂が訪れました。私たちの囲むレジャーシートの半径五メートルほどが周囲より一段沈んだかのようでした。このわずかな時間の隙間に、鴨川デルタ界隈の喧騒が雪崩れ込んでくるような気さえして、それが私たちの沈黙をより際立たせました。
そしてこの気まずい沈黙が一瞬で済んだのは、ニ乃の放った歯に衣着せぬ物言いがあったからでした。
「その通りね」
ニ乃は柑橘のリキュールの注がれた杯をシートの上にアンバランスに置きました。
「フー君は私たちの心をたくさん引っ掻き回してくれたわよね。そんな人に何かプレゼントしてあげる必要なんてないわよ、あんたたち」
フー君だなんて甘い呼び名とコントラストを成す辛辣な言葉たち。その発言を耳に入れて私は、各々の心の底からいよいよ、今回の花見会の本題が浮かび上がってくるのを見ました。
「私たちの真剣な想いを適当な理由つけて袖にして、卒業したら連絡さえ取れなくなって。本当に傷付いたわ」
ニ乃が己が心中を赤裸々に語るのに対して、三玖が睨みます。
「ニ乃。何もフータローは適当な理由で私たちを振ったんじゃなくて……」
そしてその反論は、この話題の中心人物の「ククク」という笑い声によって中断されました。三玖が驚き、彼の方を向きました。
「やっぱりお前は変わらねえな、ニ乃」
「あんたへの気持ちはどうかしら。変わらないままだったと思う? それとも変わった?」
敢えて、聞き返すニ乃。対して上杉君は、これもまた敢えて「良い傾向じゃねえの」と答えをぼかしました。
「お前らはどうなんだ」
思い切ったかのように、そのまま一息に続けます。
「大変なこともあるかもしれないが、まあ、毎日楽しくやってるだろ」
質問というよりも、願うように言ってるかのようでした。私たち五人がそれぞれ歩むことになった道の幸福を、願うように、確認するように言うのでした。
「もちろんよ」
ニ乃が自信満々に返します。
「私は夢だった料理人になれたし。もう少し頑張れば自分の店だって出せるわ。とても充実してる。あんたたちだって、そうでしょう?」
促されて私たちは、ほんの一瞬の間が空いてから全員がうなずきました。各々思うところはあるでしょうが、とりあえずは全員がうなずきました。
一花は華の東京で活躍する女優に。ニ乃と三玖は互いに切磋琢磨し合う料理人に。四葉はスポーツインストラクターとして人々に寄り添う仕事をしています。私はまだ教師になるという夢は達成できていませんが、毎日が充実しているとは感じるので、うなずくことができました。
「そうか、何よりだ」
上杉君は私たち姉妹を見回して、穏やかに笑いました。
「それにね、あんたは驚くと思うけど……」
ニ乃がいたずらっぽい顔でニヤニヤと、意地悪そうに三玖の顔へ目をやりました。しかし三玖は鏡写しのように横目でニ乃と目を合わせて、なんて事はなさそうです。
「意外と余裕そうね」と、彼女の心に波風一つ立てることのできなかったニ乃はちょっぴり悔しそうに笑います。
「別に隠すつもりなかったもの」
三玖は言って、すぐ隣に座る上杉君の方に身体の向きごと転換します。上杉君もまた「改まって何だ」と少々気押され気味に、すぐ隣の三玖の方へ身体ごと向き合わせました。結果、至近距離にて正座で向き合う酔った一組の男女という珍妙な図ができあがり、ヘンテコな静けさが訪れます。
その独特な静寂を一体として連続するように「あのね」と、澄んだ水のような声で三玖が切り出しました。
「私ね、付き合ってる人がいるの」
言い終わった短い文言の末尾の音は再び元の静寂へと溶けるように連続しました。
「良かった。やっと伝えられた」と三玖は頬を赤くして言いました。もっともそれが諸々の感情によるものなのか、あるいは単なる酔いのためによるものなのかは分かりません。
面白いのは、その静寂の中に一人取り残された上杉君でした。まるで漫画のように瞳を白黒させているのです。人の瞳孔とはこんなにも早く収縮するものなのかと、私はちょっぴり吹き出しました。
彼の気持ちは分かります。私も三玖から「恋人ができた」といつも通りの無感情じみた声でスピーカー越しに報告を受けた時は、驚きのあまり「本当ですか三玖!?」と何度も聞き返したものです。しかしいくら同じ質問をしても返ってくるのは「本当だよ、恋人できたの」という一律のトーンで繰り返される機械のような音の並びで、五十回は同じ問答を反復しただろう後に、ようやく信じることにしました。彼が目を白黒させるのも仕方のないことです。
「上杉君、しっかりしてください」
仕方なく私が揺さぶってやると上杉君はハッと我を取り戻しました。少しの間「うーむ」と唸ったのちに、ようやく腕を組み「そうか、それもそうか」と一人で納得しました。自己解決できたようで何よりです。
「ほーらね。やっぱ驚いた」
ニ乃が当の本人であるかのように、自慢げに言います。
「そりゃ驚くだろ……。しかしもうしっくり来た。大丈夫だ。遅いかもしれんが、おめでとう」
「ありがとう。どうしてもフータローには伝えておきたかったんだ」
三玖のその恋人というのは、これもまた意外なことに一歳下の短大の後輩でした。交際を始めたのは二年生の終わり頃、つまり専門学校でいうなら卒業間近です。詳しくは後に記されるでしょうからこの場において多くは語りませんが、三玖と彼の仲は現在も良く、結婚はしてないということのみ明らかにしておきます。
「あの三玖が、なあ」
「ふふ、上杉君。『惜しいことしたなあ』って思ってます?」
呆けている上杉君をからかうつもりで尋ねると、彼は「別に思ってねえよ」と三玖から何気なく目線を外しました。
「変なこと言うな、五月。どうして俺がそんな昔のことを後悔する必要がある?」
「それはそれで傷付くんだけど……」
「あっ……! ち、違う三玖! すまん……そういう意味じゃなくてだな!」
指摘されて、上杉君は弁明の言葉を探します。
知っていたことですが、彼は言葉選びが下手です。そのせいでいつも他者に誤解ばかりを与えて、悪化させなくていい人間関係を不必要に悪化させるということが多々あります。奇しくも私たち姉妹は、彼から放たれる誤解を波を乗り越えて惚れるに至ったわけですが、それでもやはり「この言葉選びのセンスはないなあ」と、侮蔑の目を向けざるを得ませんでした。当然、彼の隠しがちな美質を知っている私ですから、本気で軽蔑してるわけではありません。しかし、もっと上手い返し方はあったでしょうに。
もっとも三玖には現在愛し合っている恋人がいますが、初恋の人にこうもはっきりと「昔お前を振ったことなんて全然後悔してないんだぜ」だなんて言われたら少なからずとも傷付くに決まってます。例え優しい嘘であっても「逃した魚は大きかったな」なんて軽めの冗談で女の子を笑わせてほしいものです。面倒なことこの上ありませんが、女心とはそういうものです。
まあもっとも、高校生史上かつてないほど雑な振り方をした上杉君に、自身の決断を後悔するような言を今更入れられたところで「どの口がおっしゃるのか」と一喝するのがオチでしょう。
自分で言っておきながらなんですが、上杉君はどう転んでも「罪な男」という烙印を押されざるを得ないような気がします。
そんな不名誉な称号は決して受け取るまいと、上杉君は三玖に対して必死の弁明を試みている最中でした。
「思ってる! 惜しいことしたって思ってるから!」
「えっ……。それじゃあフータローまさか、私のこと取り返すつもりで……略奪愛?」
「ひ、人聞き悪いこと言うな。そこまでするつもりはないが……」
「ふーん。じゃあ、やっぱり私のことなんてどうでもいいんだ。悲しいなあ」
わざとらしく目元を手で隠し、シクシク泣くような仕草をする三玖。その様子からして、やはり彼女もそこまでは傷付いていないようでした。
上杉君もそれを察したようで、酔いによって赤くなった頬に更に朱が注がれていくのが見て取れました。
「三玖、さっきから俺のことからかって遊んでるだろ」
「バレた?」
「……ちっ。お前にここまでいいようにされる日が来るとは思わなかったぜ」
「これくらいの仕返し許してよ。本気で好きだったんだから、フータローのこと」
高校生の頃ならまず出てこなかっただろう言葉をサラリと言ってのける三玖。そんな彼女に動揺したのか、彼はごまかすかのように宙に目を向け「本当に綺麗な桜だ」と酒を仰ぎました。不自然にも程があります。今更何ですか、桜が綺麗って。
彼の気持ちを揺れ動かしたのがよっぽど嬉しかったのか、三玖は「私たちと桜、どっちが綺麗?」と追い討ちをかけます。すると上杉君は、らしくもなく「頼むからもう勘弁してくれ」と小声で呟いたので、私たち姉妹はいよいよ笑いが堪えられなくなり、五人分の笑い声が彼のシャイな心をくすぐりました。
「あはは、フータロー君は相変わらず女の子の扱いが下手っぴだねえ」
一花は言いました。私も全くもって同意見なのですが、だからといって全然進歩がないということはないと思うのです。高校時代の彼ならば、そもそも自身がノーデリカシー発言をしたことにすら気付いていません。デリカシーのない発言をしてしまったことに気付いて慌てて弁明しようとしている分、マシになった方ではないでしょうか。小さくても進歩は進歩です。それが例え尺取虫の一歩程度の進歩だとしても、彼の成長を褒め称えるべきです。
そんな世辞じみた称賛を心の中で密かに送りつけると、彼はまるでそれを本気で受け取ったかのように「こんなんでも少しは成長したつもりなんだが」と言いました。
「どこがよ」と二乃が反発します。
「高校時代から全く変わってないノーデリカシーっぷりぶら下げておいてよくそんなこと言えるわね」
「酷い言われようだな」
「だってその通りじゃない。どうせその調子じゃ、大学でも勉強漬けだったんでしょ」
「まあ、大事なことだからな」
上杉君は淡々と言葉を返します。彼の言う通り、勉学はとても大事です。きっと大学時代も一意専心学問に取り組んでいたからこそ、「大学教授の助手」という栄誉ある地位を獲得した今の彼がいるのでしょう。ただし、相変わらず人と接することについては不器用なままでした。
良くも悪くも、それは彼の現状が物語っています。
「そんなんだから彼女の一人もできないのよ」
大学時代の上杉君を知らないはずの二乃は、そうバッサリ言い切り「せっかく顔は良いのに」と付け加えました。もちろん彼女の言ったことは単なる憶測ですが、正直なところ、私もあながち間違いではないと思いました。
惚れた弱みで上杉君のことを良く思ってばかりの私ですが、よくよく考えてみると彼ほど頑固で面倒な性格の男性を好きになるだなんて、客観的には稀有なことです。数多もの言い争いや思考的対立を超えて、ようやく彼と打ち解けることができたのです。昔、四葉が「クラスの皆にも上杉さんの良さを知ってもらいたい!」とクラス委員長に彼を推薦したことがありますが、そもそもこのようなサポートを施さないとクラスメイトたちからの理解を得られない時点で面倒極まりない性格だと言えるでしょう。
しかし、彼を好きになった私たちの立場からすれば、それはそれで好都合なのです。面倒な性格だということは、裏を返せば、可愛げのかけらもない番犬に人が寄り付かないのと同じように、もうこれ以上彼に好意を向ける人物は滅多に現れないということです。
上杉君という面倒極まりない頑固者を理解できてしまう酔狂な人物は私たちくらいでしょうし、いっそ私たちだけで十分です。
私は内心、二乃と同じように、相変わらず女性の扱いが得意じゃない上杉君には彼女なんていないだろうと失礼極まりない決めつけをして、油断していました。
それ故に、少し間が空いて彼の口から放たれた「いる」という返答に対して、私はとっさに「『いる』って、何の話してたんでしたっけ?」と間の抜けた質問をしてしまいました。
何もアルコールによって酩酊していたわけではないのです。いわゆる乙女の慎みなるものを考慮すると恥ずかしいことではありますが、私はかなり酒に強い方です。しかし彼がサラッとこぼした重要発言にすっかり驚いてしまい、現実逃避的に分かり切った質問をしてしまったのです。
「だから、その……恋人云々の話だろ。いるっての、流石に。彼女くらい」
上杉君は改めて報告するのも照れくさいといった感じで、顔を伏せました。一瞬水を打ったように静かになりましたが、その沈黙はすぐさま私たち姉妹の驚嘆の声によって破られました。
「えっ、えっ、えっ。上杉君? 今なんと……?」
「聞こえてたでしょ、五月。フー君に彼女できたって」
「ぐすん。酷いよフータロー君! 私に一言の連絡もなく女の子と付き合うだなんて!」
「あの勉強モンスターの上杉さんに恋人が……ううっ、私嬉しいです! おめでとうございます」
「おめでとう、フータロー」
ワーワー云々、キャーキャー云々、ガヤガヤ云々。
女子特有の甲高い声がレジャーシートの上を行き来します。いかにも、上杉君が好まなそうな喧騒です。上杉君は苦笑いして「そんなに驚くことか?」と呟いたようでした。いくら酔って多少愉快になってるといえども、彼は少なからず不快そうでした。
しかし、それどころじゃないのです。私も、私の姉妹たちも。
故に上杉君、どうか許してください。
彼の突然の発言は私たち姉妹を大いに驚かせました。その驚愕の振れ幅は姉妹各々によって差があるでしょうが、私の場合は、彼の発言を耳に入れた瞬間の心臓の鼓動が通常の何十倍にもなってドクンと跳ね、その振動が波打ち、身体の隅々にまで伝播していくかのような衝撃でした。
二乃は信じられないと言わんばかりの表情で上杉君を質問責めにし、一花は演技なのかそうじゃないのか判然としないどこかセリフじみた言葉を投げかけ、四葉は仮面の泣き笑いで「おめでとうございます、おめでとうございます」と連呼します。心地良い酩酊を穏やかに楽しんでいる三玖以外の四人に関しては、半ば口から出任せの質問や祝福の言葉で上杉君を生き埋めにする勢いでした。
上杉君に彼女ができた。
彼の口から直接聞いたその事実を受けて、各々思うところがあったのでしょう。それがどのような情緒であれ、荒ぶる河川のように激しいものであるだろうことは容易に想像がつきました。
そしてその荒ぶる衝動を更に激しいデタラメな言葉の群集で抑え込むために、私たちは口を開いて何かを吐き出さずにはいられないのでした。言葉が飛び交う狂想の間だけは、「彼に恋人ができた」という純然たる事実にごまかすような虹色の霧がかかり、生々しい現実感から乖離できるような気がしたのです。
つまり、現実離れしてるのでした。ルール無用の夢の世界へと乱暴に投げ込まれたみたいに思えるのでした。
「そうだ、写メは? 写真見せなさいよ」
「私も見たいなー、彼女さん」
二乃と一花に促され上杉君はスマホの画像フォルダを開きました。液晶画面をスワイプさせ、適当な画像を探し始めます。私も姉妹も、ガラケーしか所持していなかった上杉君が今やハイテク機器をバッチリ使いこなしてるのを何だか奇妙に思ってしまい、マジマジとその様を眺めるのでした。
上杉君がその指先を下から上へと滑らせるたびに、私の知らない彼の記憶が視覚的に露わになって液晶画面の上を流れていきます。その流れていく様を見て私は、自身の知らない大学時代の上杉君はどんなだったのだろうと想いを馳せました。
その画像の殆どが人物ではなく景観そのものを主役とした風景写真ばかりで、ましてや自撮りなんてものも彼のフォルダ内に存在するはずもなく、彼らしいアルバムだと思われました。
やがて彼はツーっと滑りゆく画面をピタリと指先で止めました。見ると、たくさんの風景写真の数々の中に埋もれるようにして、たった一つだけ、上杉君とその彼女さんとおぼしき女性の写真がありました。その写真が他の風景を押し除けて拡大されます。
「これだな、最後に写真を撮ったのは」
「最近のはこれだけしかないのですか?」
というか、最近の写真なのに、どうしてこんなにアルバムを遡らないと見つからなかったのでしょう。普通、仲睦まじい男女なら出掛けるたびに記念写真を撮るものでしょう。まあ、この歳にもなって男性経験のない女のふんわりとしたイメージですから、そうとは一概には言えないのかもしれませんが、それでもどことなく不自然に思われました。
「あんたって本当ドライよね。ガールフレンドができても変わらないわけ? そのスタンス」
「俺も彼女も、写真はあまり好かん」
その写真は、私たちの地元にある動物園で撮られたものであると思われました。市の周辺で一番有名な動物園であり、彼と訪れたことはないものの、姉妹とはよく遊びに行った記憶があります。上杉君とその彼女さんはゲートに二人並んで写っています。通りがけのお客さんにでもシャッターを任せたのでしょう。
二人は特に変わった決めポーズをするわけでもなく、その一枚は上杉君が平凡にピースをするその反対側の腕に彼女さんが抱きついている図でした。彼女は抱きつきながらもちょっぴり恥ずかしげに頬を赤らめています。茶髪のポニーテールで小柄な女性でした。服装からはどことなく快活そうな印象を受けます。
腕にギュッとしがみ付かれた上杉君は驚いて横目で彼女の方を確認しながらも、少しバランスを崩していて、その瞬間をシャッターが捉えたようです。素直に、とてもいい写真だと思いました。その場に居合わせたわけでもないのに、その直後の二人の会話が頭に浮かぶような写真です。きっと上杉君は「いきなりビックリするだろ」なんて咎めつつも、彼女の悪気の一つもないようなあどけない「ごめんごめん」という一言に、思わず微笑んでしまうのです。
それは紛れもなく、平凡かつささやかな幸福を享受する男女の何でもない日常を切り取った一枚でした。私たち姉妹が渇望していた好きな人と結ばれるという幸福が、その一枚の写真には極平凡そうに収められているのでした。
そんなことを考えてると胸がキュッとしました。悔しくなるのです。理不尽が胸の内で暴れるのです。ごまかすように「可愛い彼女さんですね」と毒にも薬にもならないことを言いました。
「本当ですね。お似合いじゃないですか、上杉さんったら!」
「このこのー」と四葉は彼にウリウリちょっかいを出します。
「彼女さんは何してる人なの? 一緒に暮らしてるの?」
「俺はこっちに越しちまったが、彼女は地元に残って働いてる」
「えっ。それじゃあ、もしかして……」
「ああ。遠距離恋愛ってやつだな」
「……へえ、そう。遠距離……なんだ」
一花がボソリと、上杉君には聞こえないように、けれども私たち姉妹には聞こえるよう、絶妙な声の大きさで呟きました。女優たるもの、繊細な声量の調整などお手の物なのでしょう。小さく呟かれたその言葉が、何だか意味ありげな気がしてなりません。ねえ、一花。やめてくださいよ……?
「だから、その……お前たちも頑張れ」
こうして私たちはノーデリカシーの極みの如く残酷なとどめの一撃を受け、木っ端微塵に打ち破れたのでした。その気遣いのかけらもない応援は、敢えてやっている気さえします。むしろ彼にとっては、この一言を伝えたいがための今宵だったのかもしれません。何にせよ、木っ端微塵です。
「––––––哀れ、彼との再会によって再開すると思われた恋するの乙女の明日など最初から存在しないのであった。中野五月の初恋はこれにて閉幕……!」
ほんのちょっぴりだけ酔った脳が道化じみたナレーションによって、初恋の終わりを面白おかしくごまかそうとしましたが、しかし、そこに思いがけない救世主が現れたのです。
「あなたに絶賛遠恋中の恋人がいる?」
その青年はぼそりと言って、いつの間にやら上杉君の背後に立っていました。そうして彼を上から覗き込んでいるのです。上杉君は彼と目を合わせると、身体を固めました。
「親友の僕でもそれは初耳ですねえ。何で教えてくれないんです」
「シキマ」と上杉君がこぼしました。変わった苗字でしたので、それが何を指した言葉なのか、この時の私には分かりませんでした。
突如として私たちの酒席に現れた青年は、上杉君のスマホの画面に映し出された例の彼女さんとの写真を見るなり「おやあ」と不思議そうな声を漏らしました。
「懐かしい人ですね。彼女はすごく良かった。好奇心旺盛で、何でもかんでも自分のに突っ込んじゃうのが好きな女の子だった」
「てめえ!」
上杉君は狼のように吠えました。そうして憎しみの目付きで睨みます。上杉君はその男性と対峙するなり、酒気によってでろでろにふやかされていた心の鎧を一瞬の内に再構築したようでした。
睨まれながらも、彼は飄々としたままに話を続けます。
「けれども今でもなお、あなたと遠距離恋愛中? いや、それはおかしいですよ。まさか復縁したの?」
とても整った顔立ちをした男性でした。そして私は、この美青年を大学の構内にて幾度か見かけたことがあるのを思い出しました。
「ところで、気のせいでしょうか。目の前に女優の中野一花が座っているような気がするのですが、それも五人も。僕としたことが大分酔いが回ってるのかしら。幻覚かな? 何はともあれ、絶景かな」