「あなたに絶賛遠恋中の恋人がいる? それは初耳ですねえ」
ふと油断しかけると、怪鳥が飛来して古傷を嘴で突き破る。抉り出された過去の恥の記憶が思い起こされ、当時の彼に対するとてつもない憎悪が胸の内にドロリと溢れ出てくるのを感じた。
シキマが突如として俺たち六人の酒席に襲来したという緊急事態に俺は半ば苛立ちの気持ちを覚えた。しかも、よりによって、あの話題を挙げてる時に現れたのだから、間が悪いことこの上ない。
何故ここにいる。奴は今頃、夜の街にて果てのない猥褻遊戯に身を費やしているはずではなかったのか。
忌々しげに睨み付けるが、シキマはどこ吹く風である。
「お前どうしてここにいる」
尋ねると、どうやら彼は先ほどまで木屋町のバーにて巣を張り餌を待ちあぐねる蜘蛛の如く、店を訪れる女性を捕まえては節操のかけらもないナンパを繰り返していたらしい。安い飲み屋の集まる木屋町は学生連中がたむろしやすい、いわば阿呆の狂乱の渦中とでも言うべき飲み屋街である。そういう具合であるから、こちらに越してきてからのシキマは木屋町界隈を飲み歩くのが週末の過ごし方の常であった。
「けれども偶には河岸を変えるのも良いかと思いまして。思い切って足を伸ばしてここを訪ねたら、あなたを偶然見かけたというわけです」
本当に、なんて間の悪い奴。気分など変えず黙って即席の気晴らし程度の女と週末の飲み屋街を仲良く彷徨っていれば良かったのだ。
「おまけに偶然見かけたら中野一花を五人も囲って酒を呑んでやがる。これは、いかにもおかしい。色々自然の理に反しています。あなた、一体これはどういうことですか」
シキマはまるで信じられないといった様子で指摘した。彼は中野一花と似た顔が五つもある目の前の景色、そもそも何故俺のような平凡な男が大女優と向かいあわせて普通に話をしているのかということについて疑問に思っているのだろう。
中野家の姉妹を代表するつもりなのか、一花が「えっと、どちら様?」と微笑んで彼に一瞥した。
「フータロー君の友達かな?」
「やっぱり、本物だ。モノホンの中野一花ですよね」
さすがのシキマもこれには驚いたらしい。猫のように大きな目を更に見開いて、テレビの向こう側にいるはずの彼女を凝視している。
俺は止むを得ずして、シキマを紹介することにした。
「同僚の敷間太一郎だ。しかし、お前ら。気を付けろ。こいつはかなりのタチの悪い……」
タチの悪い色魔だ……と、そのように説明することによってあらかじめ彼女たちに警告を促そうとしたところ、言い切るより先にシキマが口を挟んだ。
「どうも、彼と一緒に働かせていただいています、敷間です。敷間太一郎です。彼とは大学入学して以来の親友でして……」
「親友じゃねえ」と否定をすかさず挟む。五月が「もう、上杉君ったら」とでも言いたげな呆れた目で見てくるが、これは照れ隠しでもなんでもない。確かに俺が素直な感性の持ち主でないことは充分に自覚している。それによって他者の好意を素直に受け取れないということも実によくあることだが、シキマに関していえば例外だ。奴の親友だと認識されることによって害が百あれど、利になるようなことは一つもない。
「酷いなあ。僕は傷つきました」
言葉の形とは裏腹に、なんて事もなさそうなケロっとした顔をしてやがる。「とりあえず座ってください」と四葉が快く勧めるのに乗じて、シキマはすんなりと我々の酒席に加わった。
よくもまあ、抜け抜けと俺のことを親友呼ばわりできるものだ。
敷間太一郎は色魔である。そう渾名される理由は、彼が他者の大切な恋人を嬉々として略奪するのに躊躇がない最低の男だからだ。
と、今まで他人事のように説明してきたが、実は俺自身もシキマに女を奪われた無様な被害者だったのである。
◯
俺に初めて世間一般で言うところの「ガールフレンド」なる存在ができたのは大学生活二年目の春であった。
高校生活一年半に渡る中野家家庭教師のアルバイトの完遂により上杉家の借金問題は解決したが、それでも家計的に厳しいことには変わりがなかったため、大学に入学してからもアルバイト生活の日々であった。何より、大学生活には金がかかる。日々の家計の足し、次から次に購買を促される教材の数々、人が真っ当に生きていくためにはどうしてこんなに費用がかさむのか。実に腹立たしい。
特に交友関係を維持するために金を出すのが、一番煩わしい出費であった。高校生の頃の俺であれば行きたくもない食事会のためにわざわざ金を払うことなどしなかっただろうが、五つ子との高校生活を通じて俺はその考えを改めた。集団に所属するなら最低限の人付き合いは大切である。何気なしに繋いできた縁に思いがけなく助けられる、そういう事もあろう。
アルバイト先は大学近くにある、地元では有名な某スーパーマーケットのチェーン店を選んだ。
高校時代に雇ってもらっていたケーキ屋があるが、あの店は家から大学までの通学圏内から大きく外れてしまったため、止むを得ずしてやめさせてもらった。最後の出勤日、店長が「家族と一緒にね」と馬鹿に大きいケーキを持たせてくれたので、いつにない彼の優しさに俺は危うく落涙しかけた。しかし、後になって給料明細を確認すると不自然な控除科目の記載があったので、彼に対してほんの少しでも親愛の情が沸いてしまった自分に唾をはいた。
そうして「世の中は結局金だ」と腐りかけながら訪れた次のバイト先にて出会ったのが彼女だった。俺と同い年であるものの、彼女の方はそのスーパーのアルバイトとして一年早く勤めていたので少し先輩であった。
「ご指導よろしくお願いします」と固く挨拶すると、彼女は「真面目かっ」と小さな手で俺の背中をバシンと叩いた。小柄な割にパワフルな女性だった。
最初のうちは彼女に仕事を教えてもらっていたが、存外今まで経験してきた仕事と勝手はさほど変わらなかったためすぐ慣れた。指導役たる彼女は「なんだ、案外手慣れてるじゃん」と言った。
「せっかく先輩ヅラできると思ったのに」
「まあ、ここ来る前も色々なバイト手ぇ出してたからな」
「例えば?」
「居酒屋やら寿司屋にラーメン屋、他にはイベントの会場の整備……まあ、他にも色々やってきたが、大体は裏方やら配達やらを手伝ってたな」
「あー、分かる。上杉って人と喋るの好きじゃなさそうだもんね。髪型根暗だし」
髪型が根暗ってどういうことだ。らいははこの髪型にしかカットできない。
けれども、彼女の指摘は寸分違わず図星であった。確かに俺が裏方で寿司やらケーキやらを作っていたのは何も料理人になりたいからではなく、単に人と接するのが面倒だったからだ。
「でも、それじゃあどうしてうち来たのさ。レジ打ちといえど、結構お客さんと接する機会あるよ?」
「人嫌い、直したいんだよ」
「……あはは! 面白いね、上杉って。私も応援するよ」
そう言って彼女はまた背中を叩いてきたので、俺も頭を軽く小突き返した。
我ながら「人嫌いを直したい」というこのスーパーマーケットのアルバイトを選んだ動機を素直に話せたのは意外であった。
人と接することを疎み店の奥でばかり働いてきた俺がこうして人と接する機会を作ろうとしたのは、言うまでもなく高校時代の教え子だったあの五人の影響だった。あいつらと接し合う日々の中で、「人付き合いというのも悪いものじゃない」と思い直したからこそ、今の自分がいる。
だからといって、高校時代の五つ子とのことを彼女や他の人物に他言する気はさらさらなかった。そもそも一卵性の五つ子だなんてフィクションじみた存在、話半分に聞かれても仕方がないし、あいつらとの思い出を引きずって生活していくということは、まるで彼女たちに対して示した己の答えを後悔しているかのようであると思われたからだ。
しかし、日々の生活の中で「あいつらがいれば、この日は一体どんな風だったのだろう」と考えてしまうことが多々あったというのもまた事実であった。
そんな愚かしい思いを振り切るように、俺は大学生活を充実させることに躍起になった。勉学や同級生との馬鹿なやり取り、特にこのアルバイトでの彼女との時間は俺にとってなくてはならないものへとなっていた。
彼女とは大学が同じという事もあり、意識せずとも自然と親睦を深めることができた。
バイト終わり、後ろに一つ束ねている茶髪をハラリと解く後ろ姿にドキリとした。当然それだけではないが、何気ない日常でのやり取りや仕草から、いつの間にやら彼女を意識していた。恐らく、彼女も俺を意識していた。
自意識過剰と言われるかもしれないが、彼女は分かりやすかった。初めて一緒に食事へ行ったのを境に、あれ程鬱陶しく仕掛けてきていた手のひらでバチンと俺の背中を叩くボディタッチをパタリとやめたのだ。どことなく物足りなく思った。「最近元気ないな」と尋ねても、彼女は曖昧に答えを濁すばかりであった。
そんな具合だったので調子が狂い、気まずい沈黙の多い日々が二週間ほど続いたのち、俺は生まれて初めて「好きだ」と思いの丈を人に伝えた。
彼女との気まずい日々がたまらなく苦しくて、また彼女と笑い合う日常を取り戻したいと思って、俺から話を切り出した。
我ながらもっと気の利いた場所を選ぶことはできなかったのか、その日は二人で古ぼけた映画館に行った。
繁華街の裏道にある雑居ビルの群れに埋もれた小さなシアターで流行遅れの映画を二、三本ずつ同時上映している、なんとも目立たない映画館である。
古い西部劇を鑑賞した。その映画は丸まった枯れ草の転がる荒野の飲み屋街から始まり、流浪のガンマンがむやみやたらにハールボイルドな台詞を吐き、罪人が馬の脚に括り付けられて引きずられる様子を悪徳保安官が眺めてニタニタ笑う、ウェスタンの定石を踏まえたものであった。しかし定石を踏まえすぎていたため良くも悪くも平凡、年頃の男女二人が心を通じ合わせ物語の世界に没入していくにはやや盛り上がりに欠けた。
シアターから出ると自販機で安いコーヒー缶を買った。そして無駄に座り心地のよい茶色のソファに二人腰掛け、とりとめもなく映画の感想を話し合った。
最初のうちは彼女も気を遣い、なんとか良かった点を見つけ出してこの平凡な映画を如何にして褒め称えるかということに悪戦苦闘していたようだが、やがて本音を語り出し、協議の結果この映画の出来栄えは五十点であるということで話がまとまった。
「悪いな。こんな映画を観るのに貴重な休み削らせちまって」
俺が詫びを入れると、彼女は「なんで上杉が謝るの」と笑った。
防音扉の奥からもごもごと吹き替えされた音声が聞こえる。「地獄で逢おうゼ」というイカした捨て台詞の後に爆発音が炸裂した。中では何やら壮大な冒険活劇が繰り広げられてるらしい。
「もう次の上映か。ずいぶん長いこと話してたみたいだな」
あれほど内容の薄い映画を話題にして、よくもまあこんなに話が続いたものである。
「なんかめちゃくちゃ爆発してるね」
「だな」
「いいなあ、私こっちのが観たかった」
そう言ってシアターの扉に近づこうとする。
俺が「金払ってないからダメだろ」と止めると彼女は「しってるバカ」と返した。振り向き俺の顔を見上げて笑うのが愛おしかった。
我ながら単純だと思う。この理屈が通るのなら俺は自身を見上げる遍く生き物を慈しまなくてはならない道理だ。これが世にいう「あざとい」という概念だと知ったのは別れた後のことだった。
しかし当時の俺はというと単純かつ愚鈍な、恋に恋する阿呆学生であったので、背の低い彼女がわざわざ俺の顔を見上げながら克明に好きな漫画のあらすじを語るのに対し「そんなに一生懸命見上げて首を痛めないのだろうか、疲れないのだろうか。何にせよ健気である」と本気で思っていた。
「でもさ、正直上杉とだったらどんなつまんない映画観ても面白いかも」
「そうか?」
とぼけつつも、実際のところ彼女の言葉が嬉しかった。今日鑑賞した映画が如何につまらないものであったかだとか、如何に平凡であったかだとかは、もはやどうでも良かった。どんなにつまらない映画であっても、それをつまみに彼女とだらだら話をしていればそれだけで俺は幸せだと思った。
「俺たち、付き合ったら案外楽しいかもな」
あまりにも自然に口から出た言葉だったので、言って数瞬、自分で驚いた。過去の自分を庇うつもりはないが、自然に出てしまったのだから仕方あるまい。
彼女も驚いたらしく、「え」と一言小さくこぼして俯いた。
二人とも薮から突如突き出した棒を唖然と見つめるしかなく、沈黙となった。横手の自販機がぶううんと唸る音だけが廊下に低く響いた。
しばらくすると彼女が答えを返した。
「うん、きっと楽しいよ」と俯いたまま言う彼女。表情は見えなかった。
「だよな……。ああ、きっとそうだ」
俺も彼女の顔を真っ直ぐ見つめるような度胸はなく、並んである映画のビラにどれとなく目を向け、独り言のように呟いた。
「じゃあ、どうする?」
「どうする、って」
「いや、さ、ほら。今自分で言ったじゃん上杉」
「……付き合うか?」
少し間が空いてから「うん」と短く返事が返ってきた。
上杉風太郎、一世一代の初告白はこうして無事に成功したという。「一世一代という割には何とも薄味なつまらないやり取りではないか」と学校の同級生に非難を轟々浴びせられたのは言うまでもない。
しかし世の中の大半の事象は、その日観た平凡な西部劇の如くパッとせず極めて地味なものである。淡々と過ぎゆく日常の中に何か自身の人生観を揺るがすような一大事が起きるのはごく稀なことであり、人間社会の営みとは、小さな歯車同士が地道にきこきこ廻し合い育まれていくものだ。
けれどもやはり、この世には人と人とが地道に築き上げてきた営みを意図も容易く踏み抜き、派手に縁を絡め取る者たちが一定数存在するということもまた覚えておかなければならない。
あっさりと思いを告げた俺はそれと同様、あっさりと別れを告げられた。「好きだ」と思いの丈を伝えて付き合い始めた、ちょうど一年後のことであった。
「ごめん。他に好きな人できちゃった」
いつも通り、可愛い上目遣いでそう告白された。
あざといのではない。我々男性の身長が彼女を大きく上回るという都合上、彼女が男の顔を見上げるのは仕方のないことなのだ。決してあざといのではない。
そう自分に言い聞かせ、耳から入ってきた音の並びの表す言葉の意味を必死で咀嚼しようとした。
何気ない話題を振るかのような声のトーンであるのにもかかわらず、その言葉の響きはあまりに不穏だ。
彼女の小さく可愛い焼売のような拳が開かれると、そこにはパイナップル程の大きさの凶暴な手榴弾があった……なんて、俺はそれくらいの衝撃を受けた。
しばし身を固め、思考を停止した。これ以上傷付かず場を凌ぎきるための人間の生存本能である。彼女の告白の意味くらい理解できるが、むしろその意を明らかにすることによって自身の精神を決定的に傷つけてしまうのは自明の理である。
固まって無反応な俺を見て痺れを切らしたのだろうか、「百聞は一見に如かず」とばかりにある男が俺の目の前に現れた。
「おこんにちは。どうしたんです? ただでさえ仏頂面なのにそのまま固まったら本当の仏像になっちまう」
相手を小馬鹿にした慇懃無礼なその言葉遣いの主はまさにシキマであった。
先刻の「好きな人ができた」という彼女の告白と、目の前にいる無駄に顔の整った青年の存在が掛け合わされると同時に、俺の脳内に最低最悪の解がもたらされた。
何を血迷ったのか、彼女はシキマのような最低の色魔に惑わされ、若く自由な大学生活の何割かを棒に振るつもりらしい。
「本当にごめん、風太郎。一昨日いろいろあって……付き合うことになった」
俺ともあろうものが油断していた。いくらシキマといえども、勝手に俺の「親友」を自称しているような男が、まさかその親友の女を奪おうとは夢にも思わなかったのだ。
この頃にはシキマの「色魔」としての噂は彼と同じ大学に在学する者であれば知らない者がいない程に広まっていた。雷様が地上に降りる前にへそを隠し、救急車のサイレンを聞くとすぐさま親指を隠すのと同じように、彼女持ちの男子学生たちはシキマとすれ違うたびに自らの恋人を背後に庇って隠したという。
俺も当然その例に漏れず「彼女にこのけだものと遭遇させるわけにはいかん」とほぞを固めていた。しかしシキマの下品な嗅覚はいとも簡単に彼女の匂いを嗅ぎつけ「最近できたというガールフレンドに会わせろ。会わせてくれなきゃあなたが非実在彼女と脳内でよろしくやってる、って言いふらすぞ」と俺に恐ろしい脅しをかけてきた。
止むを得ずして二、三度だけ三人で遊びに出掛けた。たった二、三度の交流で女の心を密かに撃ち抜くその早技は、妖術か魔術の類かと思われた。むしろ、こんな汚らわしき生き物が人間様であってたまるか。
彼女と育んできた日々がガラスの如く散って、降り注ぐように俺の心をずたずたにしていくのを感じた。このままだと「どうしてだ」だとか「理由を聞かせてくれ」だとか、聞いても何も解決しないようなことを衝動的に尋ねてまさしく負け犬の体を成すところであったが、涼しい顔で彼女の傍らに立つシキマを見ると、そういった女々しい思いはすぐさま引っ込んだ。
もちろん知人の男にガールフレンドを奪われたという事実は俺の自尊心をひどく傷つけたが、だからといってその忌々しき男の前で醜く吠えることなど、とてもじゃないができなかった。そんな愚行を犯した日には、俺の自尊心は再起不能となり、二度と人前に出れなくなるだろうと思いとどまったのだ。
俺とシキマとの間に決定的な確執が生まれた瞬間である。しかしシキマ自身はそんなもの気にする素振りもなく、むしろ馴れ馴れしく俺に接するから、どうやら確執を感じているのは俺だけのようであった。そして、その余裕綽々な態度がより一層俺を挑発した。
ともかく俺はこの日を境に「悪友」から「倒すべき敵」へと彼の評価を改めたのであった。
失恋の感情に浸っている暇などなかった。確かに彼女と別れてから一週間程は俺らしくもなく、安い恋愛映画の主人公の抱くようなセンチメンタルな気分に心を浸されたこともあった。しかしそれらの思いの全てはシキマへの憎悪へと昇華され、俺は畜生道の如く憤怒の日々を生きる羽目になる。
どうやら人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られて地獄に堕ちると相場が決まっているらしいので、振られた後の俺はしばしばシキマを競馬場に誘った。
なにも特別好きな競走馬が走っているわけでもないし、ましてや質素倹約を心掛けている俺のような男に、金銭を無駄に溶かす非生産的な趣味などあるわけがない。しかし奴を蹴落とすためとなれば、その程度の出費は屁でもない。
シキマのような極悪非道な恋の死神が競馬場にのこのこ近づいたが最後、柵を超えて襲いくる馬の軍勢が奴をずたずたに蹴り殺し、地獄への引導を渡すことであろう。こうして正義は成され、我々清廉潔白な学生に再び安寧の日々が戻るのだ。
そういう算段で彼を競馬場に誘うと、あっさり断られたから早速計画が破綻した。
「そんな土臭いところよりも同じ賭けなら競艇場がいいです。『どの色好きなの? ボオートレイス!』」
そう言って懐かしいニャンニャンポーズを決めるシキマが憎らしい事この上なかった。
どうやら彼は、欲望滾らせ脂汗を垂れ流す中年男性の巣窟たる競馬場よりも、競艇場の青と白を背景に際どい姿を晒すラウンドガールに興味があるらしかった。いかにも彼らしい理由である。
「ねえ、行きましょうや」
こちらから誘ったら手前、断りづらかった。
こうして俺はシキマに言われるがままにボートレース場に赴き、いろはも分からないままに舟券を購入した。結果は、大穴狙いの三級選手「黒」の単勝に全てを賭けたシキマの大勝であると同時に、着実な人気選手「赤、青、白」の三連単を狙った俺の大敗であった。
負けるのもギャンブルの醍醐味であると人は言うが、そもそも貧乏な俺に賭け事を楽しむ余裕など微塵もない。ただ奴を蹴落としたいという純粋無垢な願いのために、なけなしの小遣いを握り締め賭場へと向かったのだ。
しかし、当時反抗期を迎えつつも家庭的であった我が妹らいはからすればそんな言い分は通用せず「どうしてそんな馬鹿なことしたの! うちの家計が苦しいのお兄ちゃんだって分かるでしょバカ! ていうか稼ぎ少ないバカ! バイトの数もっと増やせバカ!」とばかばか烈火の如く怒られた。昔賭け事に興じて母によく睨まれていたらしい親父が一緒になって肩を窄めてくれるのが唯一の救いであった。
無論らいはは悪くない。だからと言って俺が悪いわけでもない。
許せん、全てシキマのせいだ。どうしてこうなった。我が脳に搭載された超精密演算装置によればどんなに低く見積もっても六割の確率で元は取れるはずであった。しかしこの忌々しき色男は勝利の女神までもをたらし込み、因果を捻じ曲げ、天文学的な確率で期待値最低の腐りかけ舟券を五十万円へと変化させたのであった。
堅実な手で石橋を叩いた俺が大損を叩きつけられ、ちゃらんぽらんな阿呆同然の選択で大儲けするシキマ。
たかが競艇の賭けで人生の理不尽を突きつけられてるかのような心地となった。
地獄の馬を使役して恋の邪魔者を抹殺するという我が計画は無惨にも破綻し、むしろ競艇場にて返り討ちに遭うという陰惨たる結果で終わった。
生まれて初めての恋人と、コツコツ貯めた小遣い、そして愛しき妹からの信頼さえも全て消し飛ばしたこの男をおめおめ許すことができようか。いいや、許せるわけがない。俺が次なる作戦を画策したのも無理からぬ話だろう。
こうして俺とシキマとの数年にも渡る不毛極まりない戦の火蓋が切られたのである。
先の競艇場の賭け勝負を皮切りに、シキマが違法駐車した自転車を見つけたら積極的に警察に報告する、シキマの愛してやまない漫画本の表紙を不規則に入れ替えて返す、先に見終わった映画のネタバレなどなど、奇天烈な嫌がらせの数々がシキマを襲った。
返報としてシキマは、借りた消しゴムの角を全て使い切り、一緒に入った定食屋にて用を足しに行くふりをしてこっそり抜け出し勘定を全て俺に任せ、乗ってきた自転車のサドルにアスパラガスを埋め込んで俺にやられっぱなしにされることを断固として防いだ。
頭脳と腕力を酷使し、剥き出しのプライドを削り合う仁義なき戦いの数々は我々の研究室の学生を遍くしらけさせたという。
中でも自他共に認めるベストバウトは「上杉ピザ会事件」であろう。卑劣極まりないシキマは、ピザ三十人前をあろうことか貧乏で家計崩壊寸前の「上杉家」名義で注文したのだ。おまけに何の特徴もない「モッツァレラピザ」でピザ三十人前の編成を全て固め、我々の舌を完膚なきまでに飽きさせるという徹底ぶりだ。まこと悪の権化と呼ぶに相応しい嫌がらせの天才だと思われた。
こんな大量のピザ俺たち三人家族で処理し切れねえし出費も馬鹿にならん。どうしたものか。
怪訝そうな顔で料金の支払いを催促する配達員と、狭い我が家に山々と積み上げられたピザの塔に、俺は成す術なく立ち尽くした。しかし、制服姿のらいはが「任せて」と情けない兄の肩を叩き、ピザ三十人前の口にするのも恐ろしい巨費を家計簿に威風堂々記録すると、反撃の狼煙が上がった。
幼い頃より我が家の心もとない家計から如何にレパートリーの多い料理を捻り出すかと一意専心してきたらいはは創作料理の天才である。冷凍保存していた食材を総動員させ、それらを慣れた手付きでパイ生地にトッピング。モッツァレラピザ以外のナニモノにもなれなかった憐れな生地にたちまち「シーフード」「チーズキーマ」「ポテトソーセジ」「ガーリックトマト」といった個性が生まれ、眼前にはまさしくピザパーティーとしてあるべき姿である「よりどりみどりの食べ放題」といった趣ができあがった。
「食べれない分は小分けにして冷凍しておこうね。せっかくこんなにあるのにもったいないよ」
締めには親父が「お前の友達面白いなあ! 会ってみたいから一緒にピザパーティーしようぜ」と言い放ち、元凶たるシキマをピザ会に招き入れるという懐の広さを見せた。さすがのシキマも我が家に上がると「悪いので僕も食べた分くらいはお金払います」とたじたじ言ったが、あまりに面白いので俺はそれを固く断った。上杉家、絆の勝利である。
そういう果敢な闘いに身をやつしてきたから、俺はシキマ共々阿呆呼ばわりをされ、学友からは常々疎まれてきた。当然である。
生まれて初めてできたガールフレンドと共に過ごしたのが前半戦、その幸せを奪った卑劣漢を木っ端微塵に打ち負かすべく奮闘したのが後半戦、それが我が大学生活の全てであった。まあ、馬鹿な大学生のやることである。賛否両論分かれるであろうが、日本全国の大学生の過ごす平均的学生生活であったといえよう。
そして今がある。
◯
そういった内容の過去を真剣味なく簡略化して話し終わると、五つ子たちとの酒席はどっと沸いた。
無論、場の空気を重苦しくさせないために面白半分で話したつもりではあったが仮にも人の失恋話の一部始終である、この愉快な反応には話し手たる俺からすれば眉をひそめざるを得ない。
「おい何がおかしい」と一瞥する。
「違うよ。何もおかしくない」と三玖が弁明するが、口元に手を当てつつ、また新たに強い酒に手を伸ばすから説得力がない。伸びゆく手を捕まえて「あんた飲み過ぎ」と注意する二乃もまた、くつくつ笑っている。
「ただ、あなたもそんな馬鹿なことするようになったのかと、皆んな感慨深く思ってるだけです」と意外そうな顔をした五月が言った。
「俺だって好きで馬鹿やってたわけじゃねえよ」
俺は、このような唾棄すべき青春を送るはめになった元凶たるシキマを睨んだ。それに気付いたシキマは「あなたが選んだ道でしょう」と返す。
「人のせいにするのは如何なものかと」
「どの口で言ってやがる」
「この謹厳実直、品行方正な愛すべき口で言ってるのです」
「黙れ」
俺が言うとシキマは黙ってニヤニヤした。
べらべら饒舌に喋っていても、黙っていても腹が立つとは一体どういうことか。この男は人に嫌われるためだけに生まれてきたのだろうか? だとしたら実に哀れな生物であるが、やはり慈悲の感情は一寸足りとも湧いてこないから不思議である。
「でも本当に良かった。ぼっちのフータロー君に面白い友達ができたみたいで。お姉さん安心だ」
「これからも上杉さんと仲良くしてあげてください、シキマさん!」
「ええ、もちろんですよ。一花さん、四葉さん」
「俺とこいつが仲良くみえるだと? お前らついに目まで馬鹿になったのか? 教育が必要か? あいにく俺は眼科には疎いのだが」
「あの中野一花に心配されてるというのになんですか、その態度は」
シキマが侮蔑の目線で俺を見た。
「だよね! 私こう見えても女優だよ? 中野一花だよ? なのにこのぶっきらぼう振り! 絶対おかしいって思わない? シキマ君」
酔った一花がシキマのフォローに乗じて一気に捲し立てた。初対面のシキマの前であるのにもかかわらず、女優は荒ぶる主張を掲げてやまない。メディアに露出する際にはトリミングされて見ることのできない中野一花の一部を知ったシキマは一瞬愕然としたが、すぐになだめるように言葉を返した。さすが女慣れしてるだけのことはある。
「全くです。一花さんだけじゃありません。こんな美人五姉妹に囲まれて一体なんでそんなに不機嫌な顔をしているのですか、この人は」
「美人」という言葉に反応したらしい素直な四葉と五月が露骨に照れた。二乃は「キザったらしい男って嫌い」と言いながら満更でもなさそうだ。
「確かにフータローはいつも不景気な顔し過ぎ。大学時代もこうだったんですか?」
三玖が尋ねると、シキマは喋らんでもいい余計な事ばかりをべらべら口走り、五つ子の知らない大学時代の俺の話を語り始めた。反対に五つ子はシキマの知らない高校時代の俺の話を提供し、俺への悪口で意気投合した五つ子とシキマは大いに盛り上がった。「無愛想」「枯れている」「貧乏性」「頭でっかち」などなどの容赦のない非難の嵐が俺を襲う。
第三者への悪口というのは人と人との距離を縮めるための最適手段なので、彼らの仲はたったの一晩でかなり深まったことであろう。
過去の恥辱の歴史を掘り返されつつも、俺は「もっとも恐れていた事態が起こってしまった」と頭の片隅で戦々恐々としていた。
もっとも恐れていたこと、それはすなわち五つ子とシキマの邂逅。
単刀直入に言えば、彼女らがシキマの毒牙にかけられることを恐れていたのである。
見よ。とうにこの恐るべき色魔は持ち前の減らず口と、人心を惑わす超絶技巧の会話術によって五つ子姉妹の懐に入り込んだのだ。「疾きこと風の如く」とはまさにこのことである。
「いくら馬鹿とはいえ根はしっかりした彼女たちのことだ、まさか彼のようなあからさまな男に絆されるわけがない」
自分を安堵させようとそう言い聞かせた。しかしシキマが俺の信頼する恋人をいとも簡単に奪い去った苦汁の過去を思い出すにつけ、その安堵の気持ちの一切合切が霧散した。
かくして俺は、彼女らの幸福な生活をシキマの魔の手から死守すると決意を固めたのだ。
高校時代、彼女らをぶっきらぼうに振った俺にこんな事を言う義理はないかもしれない。それこそ「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ」である。
無論、シキマとはいえども人の子だ。例え彼の説く恋愛という概念がどんなに軽佻浮薄で薄っぺらいものであろうとも、その恋路を邪魔する以上、馬に蹴られて死ぬ所存である。死んで彼女らを守ることができるのであれば、それで本望だ。
彼女たちにはもっと相応しい相手がいるはずだ。それこそ三玖が過去に決着をつけて恋人をつくったように、シキマや俺なぞではない、もっと相応しい、他の誰かが。
何にせよ彼の存在は彼女らにとって悪影響である。小学生の頃、母親の言い付けで下品な深夜番組を観るのを禁じられていた同級生がいたが、今なら彼の母親の気持ちがよく分かる。シキマを彼女らに近づけてはならない。
シキマは相変わらず人を乗せるのが上手かった。俺が無愛想だということを引き合いに出して五つ子からの共感を得て、彼女らの良き理解者として会話を盛り上げていた。
「あんた分かってるじゃない」と二乃がシキマに感心を示した。彼女らの家庭教師稼業を始めた頃、次女の二乃こそが一番俺に反発していた人間であり、俺への不満を共感できる人物とは気が合ったのだろう。
「だいたい恋人取られたくらいでいじけてちゃだめよ」
「私の知っているフー君はもっと男らしかったわ」と二乃が言うが、高校時代果たして俺が男らしい一面を見せたことなどあっただろうか。自身の望む理想の男性像を過去の俺に被せ、どうやら相当酔っているらしい。
「むしろ彼女さんを奪い返すくらいじゃなきゃ。それでこそフー君じゃない」
「それでこそ」と言われてもやはり全く身に覚えがなく、反応に困った。シキマが「そうそう」と頷くから、俺は「どのツラ下げて言いやがる」と茶番の突っ込みを入れた。
「奪い返すも何も、こいつは彼女と二ヶ月で別れてる」
「最低です」と五月がシキマを睨んだ。俺も同感である。要するに奴は完全な遊び目的だったのだ。そこに繊細な恋愛感情なんてものは存在せず、あるのはひとえに獣の本能だけであった。
「ちょっと、ちょっと。誤解しないでください」とシキマが五月をなだめた。
「別れを切り出したのは僕ではなく彼女の方からです」
それは初耳であった。俺はてっきり遊ぶだけ遊んで彼女に飽きたシキマがテキトウな理由を付けて手放したのであろうと思っていたのだ。いや、この最低のシキマのことである。ばれなきゃどうでもいいと思って軽蔑されないための嘘をついているに決まっている。
しかし嘘に関していえば俺も人のことは言えなかった。先ほど、俺はもう別れているのにも関わらず、現在も彼女がいて絶賛遠恋中であると五姉妹に嘘をついたばかりであった。
「俺には現在恋人がいる。だからお前たちも頑張れ」とは先刻の俺が放った気遣いのかけらもない人として恥ずべき最悪な応援の言葉であるが、むしろこれを伝えるための今宵であった。しかしそれもシキマの神出鬼没な登場によって早速デタラメであるとばれ、俺の恥ずべき過去を暴露するはめとなった。
「その別れた彼女さんは今何をしてるんですか?」と四葉。
「さあな。連絡先は把握できるが、別れた後は一度も連絡を取ってないからな。知らねえ」
「お前は?」と聞くとシキマもまた「僕もです」と無関心そうに答えた。
「この人にはもったいない可愛げのある子でしたからねえ。キャビアテンダントでもやってるんじゃないですか」
「上杉さんは、まだその人のこと好きじゃないんですか?」
「まさか。もう何年も経ったんだ。さすがにもう振り切れた」
俺が失恋の感傷を断ち切れたのは皮肉なことにシキマのおかげである。この憎き男を何とかぎゃふんと言わせるために俺は不毛な戦いを奴に挑み続けた。
そうでもしなければ、彼女との日々を思い出し、考えてもどうにもならない下らない煩悶に囚われていたことであろう。そして奴も負けじと陰湿な仕返しをしてくるので、我が大学生活は油断ができず、退屈している暇がなかった。
などと言うと聞こえは良いが、そもそも奴が余計なことをしなければ俺は失恋の痛手を負うこともなく、ありふれた幸せを享受することができたのだ。かくの如き馬鹿な青春を送ることもなかった。
いずれにせよ彼女との日々は断ち切れた。風化せずに残ったのはシキマへの憎しみと、彼との闘いの日々である。その純然たる事実だけは決して忘れてはならない。