五等分の京都ぐるぐる日記   作:鹿クンが見ている!

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拝啓、明日の続きを夢みる少女

「人は人、吾は吾なり。深く湖に沈めども、水の底にて俗世を知る」

 

 

 三玖が季語も定型も脈絡も全てを吹き飛ばしためちゃくちゃな俳句を詠み始めたので、今回のお花見会はそろそろお開きかと思われました。彼女は決して酒に弱いわけではありませんが、だからといって特段強いわけでもありません。

 それなのに強い酒をすいすい胃の腑に注ぐから、決まって姉妹たちの中で一番最初に酔い潰れてしまいます。そうして眠ってしまう直前に必ずめちゃくちゃな俳句を披露するので私たち姉妹はそれを「辞世の句」と呼称し、もっぱら飲み会お開きの合図として有効活用していました。

 

「今回も気持ちよく詠んでぽっくり逝っちゃったね。五月ちゃん、ブランケットかけてあげな」

 

「分かりました、一花」

 

 答えて私は三玖の肩周りにさっと毛布をかけました。酒席の後片付けが終わったら起こしてあげることにしましょう。

 

「よっぽど楽しかったみたいだね、三玖」

 

「まあ大学時代の上杉君の話ですからね。興味津々だったでしょう」

 

 本当に好きな恋人ができた三玖ですが上杉君のことを愛する気持ちは今もなお変わっていないようで、私たちの知らない大学時代の彼の話を肴に酔いを加速させ、すっかり眠ってしまったというわけです。

 

 そして現在進行形で彼に恋をしている私たちにとって彼の大学時代は尚更興味深いものでした。

 話を聞く限り、大学時代の上杉君の日常は、悪く言えば馬鹿そのものであり、良く言えば愉快な大学生活でした。面白いことに勝ることはありませんから、彼の大学時代は充実したものだったのでしょう。しかしその情景を思い浮かべるにつけ、私たちの知っている堅物な上杉君の像とかけ離れていくのがおかしくて、私たち姉妹は笑いが溢れるのを堪えきれなかったのです。

 

 そして私たちの知らない彼について語ってくれたのが上杉君の悪友であるシキマさんであり、上杉君の昔の恋人を奪ったという張本人でもありました。

 

「五月さん、缶潰し終わったらこっちに回してください。まとめておきますから」

 

「ありがとうございます」

 

 彼をどこかで見たことがあると思ったらそれもそのはずです。シキマさんは私の通う学校に在籍する教授の助教として、上杉君と共に四月から働き始めていたのです。「すごい色白なイケメンが経済学部に来たんだって!」と噂を耳にしたことはありましたが、それがまさか上杉君の知り合いであるとは思いませんでした。

 

「五月さんは全然酔ってないみたいですね。強いんですか?」

 

「あはは……お恥ずかしながら少々肝臓が丈夫なようです。鍛えたつもりはないのですが」

 

「あんなにごくごく飲んでいたのにすごいですね。でも少しくらい隙を見せたらいかが? 誘うに誘いづらいでしょうに」

 

 シキマさんは上杉君の方に顎をしゃくり、そう言い放ちます。

 

「あ……なっ、さそ……!」

 

 頬にみるみる朱が注がれていくのが分かりました。

 

「わ、私と彼はそんなんじゃありません不純です!」

 

「おっと、これはすみません。五月さんはピュアーなんですね」

 

 シキマさんはケケケと笑いながらビニール袋を引きずり、ゴミをまとめに他の姉妹の持ち場に赴きました。またこうやって私たちの姉にもちょっかいを出すつもりなのでしょうか。先ほどの上杉君の話にたがわぬとおりのプレイボーイっぷりです。

 

 こういう時、いわゆる「オトナな女」はどのように対応するのかしら、なんて、今年の五月を以ってして二十五を迎える女とは思えない台詞ですよね。今度、一花や二乃に相談しようかな。

 私は疲れてため息を吐きました。

 

 出逢って数時間しか経っていないというのにもかかわらず姉たちはシキマさんにかなり心を開いたようです。

 私はというと上杉君に忠告されたとおり鉄壁の警戒心を固めつつも、その語り口は愉快で共感できる話題が多分に含まれていましたので「ひょっとしたら彼の言う程悪い人じゃないのかも?」と油断しかけましたが、「いや、それもやはりこの容姿端麗な色男の常套手段なのでは?」と気を引き締め直したりして、行ったり来たりなのでした。

 

 男性への警戒心の強い私でさえこの有様なのです。シキマさんの色男っぷりには何か魔術めいた不自然さを感じます。しかし私の底抜けの男嫌い具合もまた筆舌に尽くし難いものであると自覚はありました。

 

 

 男性不信は今に始まったことではなく、それは幼少のみぎりよりずうっと続いていることです。別に私が男の人に直接何か酷いことをされた訳ではありません。しかし、私たちの母がある一人の男性に裏切られたということは知っています。

 私たちの愛する母が悪い男に見捨てられた、姉妹の中で一番のお母さんっ子であった私が男性に不信感を抱くにはそれだけで十分すぎる理由でした。

 

「男の人はしっかり見極めて選ばないといけません」とは、文字通り身を割かれる思いで私たち五人を一度に産んだ豪胆な母の残した言葉の一つです。

 

「私はね、優しくて、カッコよくて、頭のいい人のお嫁さんになるんだ」

 

 母の言葉に対し、このように返したと今でも覚えています。

 純粋で無知で、この世界にはどこまでも希望が続いていると本気で信じているかのような子供の言葉に、母は嬉しいような困ったような顔をしました。今にして思えば「言っても仕方ないか」といったある種の諦めの気持ちの表れだったのでしょう。

 

 確かにそれは当時小学六年生の少女であった私に言い聞かせるにしてはやや早すぎる台詞でした。普通の母親であれば幼い子供に大人の恋愛の云々を包み隠さず伝えるといった夢も希望もない真似はしません。

 しかし、それも仕方のないことでした。何せその台詞は病床についた余命少ない母によって残されたものなのですから。

 当時母は重い病に犯されており、この夢も希望もないアドバイスは将来の私たちを想って、自身が事切れぬうちにどうしても伝えておきたかったものだったのでしょう。実際その一ヶ月後に母は亡くなりました。

 

「だからね、お母さん早く病気治して。病院にいたら結婚式来れないよ」

 

「ええ、きっと治すから。見せてくださいね、あなた達の花嫁姿」

 

 

 姉妹の中で一番母親にべったりだった末っ子は、死に際の彼女の台詞を言葉通りに受け取り、そして歪に育ちました。それも当然です。幼い少女の馬鹿な頭に難解な遺言を残されたところで、極端にしかそのメッセージを受け取ることができなかったのですから。

 

 母の言葉に従った私は特に嫌悪感を持ってるわけでもないのにクラスの男子から自然と距離を置きました。

 授業でペアを組む際には常に女の子同士で、帰り道は常に姉妹と共に歩き、給食の際「お腹いっぱいだからあげる」と大好物のプリンを譲られてもその相手が男子である限り心苦しくも断りました。

 この自らの食欲さえも自制してしまうほどの男嫌いっぷりは今にして思えばかなり歪です。自分の食欲にくらい素直になるべきです。現在の私では考えられないことです。

 

 それでも、そんな態度が少しでも軟化していったのは言うまでもなく上杉君のおかげでした。確かに彼と口論になる事はよくありますが、それは何も嫌悪感から発展したものではなく、お互いの主張をぶつけ合った結果としての口論です。

 もちろん彼のことは嫌いじゃありませんし、むしろ好きです。それなのにもかかわらず一度意見を交わせば必ず一悶着あるこの馬の合わなさは一体どういうことでしょう。

 

 姉たちは「似た者同士だから」と言いますが、私とあんな配慮に欠けた青年の一体どこが似てるというのでしょう。断固として認めません。もっともそんな反論をしたところで「そういう頑固なところ」とからかわれるのがオチでしょうが、しかし、それでも断固として認めません。

 

「本当、何で好きになっちゃったんだろ」

 

 心の中で呟くと同時に、いつの間にやら彼が背後にいたのでドキリとしました。

 

「もう全員荷物はまとめ終わった。帰ってとっとと寝るぞ」

 

 見ると斜面の草地にて気持ちよく眠っている三玖を二乃が起こしていました。

 

「二人とも今日はごちそうさまでした。いつも通り、とっても美味しかったです。御礼にまた二人のお店寄りますね」

 

「それこそいつも通りじゃない。ま、ありがと」

 

「いつでも来てね」

 

 三玖が起き上がりつつもふらふらしていたので、四葉が「大丈夫?」と介抱に入りました。

 

 それに続いて上杉君が「なんだったら家まで送るが」と彼らしかぬ台詞を吐きました。私が上杉君を睨むと、彼はさも当然と言わんばかりに不思議そうな顔をしていましたので、やはり下心や他意はないのでしょう。

 

「別にいいわよ」と二乃がつっけんどんに返しました。

 

「この子の彼が駅まで迎えに来てくれるの」

 

 二乃と三玖は飲食店勤めという仕事の都合上、朝が早いです。そのため、もし寝坊しても起こし合えるようにと、同じアパートに隣同士居を構えていました。彼女らのアパートは叡山電鉄元田中駅から徒歩五分のところにあります。三玖の彼氏さんが迎えに来てくれているとなれば尚さら安全でしょう。

 

「ちゃんと気が利いて冗談も通じて、ちょっと草食だけどあんたなんかより全然好青年なんだから」

 

「へえ。お前も気があんの?」

 

「そりゃあ悪いとは思わないわよ。じゃなきゃ、そもそも交際自体私が許してないし。でも私はもっとワイルドな人がいい」

 

「一花は? そういえばロケ中ってどこにいるんだっけ」

 

「四条のマンション会社で借りてるの。今行けばあの人もあの人もいるよー?」

 

 そう言って一花は俳優、女優の名をいくつか挙げます。

 

「四条のどこですか? 送っていきますから教えてください」

 

「あはは、タクシー使うから大丈夫。ありがとね」

 

 シキマさんが正直に言うのに対して一花は軽く笑って受け流しました。余裕を崩すことない微笑みにさすが一花だなあと感心しました。

 今回の映画のロケで共演する演者さんは、その四条烏丸界隈にあるというマンスリーマンションを借りて居住するそうです。出演する映画が低予算のB級ということで私の知っている演者は三人ほどしかいませんでしたが、テレビ出演するようなタレントがこの街に普通に溶け込んでいることを私は改めて不思議に思いました。まあ、身内に女優がいる時点で今さらですが。

 

 結果、一花はタクシーで四条のマンションまで、二乃と三玖は叡山電車で出町柳から元田中まで、桝形商店街の北に住んでいる四葉を私と上杉君とで送ってそのまま幽水荘に帰るという運びになりました。シキマさんはそのまま残って遊んでいるそうです。

 

 

「それじゃあ」

 

 鴨川の土手から上がった私たちは小さく手を振り、それぞれ反対の方向に向かいました。賀茂大橋の電燈が眼下の鴨川デルタ界隈の夜を温かに照らしています。

 見ると早速シキマさんが学生の酒席に顔を出しているようでした。うちの学生だったのでしょうか、見るなりきゃーっと黄色い声が上がりました。隣の上杉君はそれを視認すらせず、分かっていたことだと言わんばかりの表情で大変うんざりしているようでした。

 

「やっぱりシキマさんってモテモテなんですね」

 

 四葉が欄干にもたれ掛かり、子供のように足をぶらぶらさせながら下界の鴨川デルタ界隈を見下ろしてました。すぐさま上杉君が「やめろ見るな、目が腐る」と四葉の腕を引っ張り、彼女を欄干から引き剥がします。三人どちらが先を行くでもなく商店街の方に向けて足を運びはじめました。今出川通り添いの軒下をそぞろ歩く若者たちの間を縫って歩きます。

 

「そういやあの悪目立ちリボンつけてねーんだな。道理で掴みづらかった」

 

「あれは掴むためのものじゃないですよ!? まあ確かに、高校時代上杉さんよくリボン掴んでましたけど……」

 

 というよりも私は「今さら気付いたのですか?」と呆れました。四葉は何年か前からあのウサちゃんリボンをつけていません。この様子だと彼女の髪が高校の頃より少し長いセミロングになっていることにも気がついていないのでしょう。もしくは照れ臭くて敢えて指摘していないかのどちらかです。

 

「じゃあ何のためにつけてたんだよ」

 

 上杉君が尋ねます。彼にとってそれは何の気もない質問でしたが、四葉は少し狼狽えました。それを悟られぬように「あはは」と愛想笑いをし、少し早足で河原町通りに差し掛かる交差点まで進みます。そうして「オシャレのためですよ」と私たちの方を振り返り言いました。

 

「そんな事も分かんないから、シキマさんみたいにモテないんですよ」

 

「あいつみたいにはモテたかねえよ。ていうかあれオシャレだったのかよ」

 

 上杉君が「あり得ねえ」といった表情で言いますので、四葉は「そういうところ」とふて腐れました。まこと私は四葉に共感しました。もしも上杉君がもっと女心に機敏であったのなら、彼女の背後に隠した仄かな想いにも気付いていたことでしょう。しかし、そんなことを彼に今さら求めてもどうにもなりませんし、どうやら私たちが惚れたのは女心もろくに分からない天然たらし男のようですので、やはりそんな不満を抱くのは不毛というものです。

 

 交差点の信号機が赤く点減し始めましたので、もうこんな遅い時間なのかと実感しました。

 大型トラックが一台通るのを見送ってから横断歩道を渡ります。昼の活気を失った桝形商店街を横切り、住宅街を少し北上すると四葉の起居する鉄筋コンクリート製の立派なアパートに到着しました。

 

「上杉さん、今日は楽しかったです。五月も皆の予定合わせたりしてくれてありがとう。また今度!」

 

 二階の共用廊下から手を振る四葉に見送られて私たちは帰路につきました。

 

 深夜の住宅街は生活感がなく、路地に冷たい光を降ろす街灯が等間隔に並んでいるだけでした。アパートの小さな光から時折聞こえるくぐもった談笑の声は、大切な友人と共に夜を更かそうとする若者たちのものでしょう。

 私と上杉君は民家や中小のアパートを脇に固めた路地を歩いていきます。車なんてほとんど通らないので、横に二人並びました。

 

「四葉の奴、元気なのは良いがいささか元気が過ぎないか。職場で浮いたりしてないだろうな」

 

「心配なんですか?」

 

 尋ねると、上杉君は「別に」と言いながらも前髪を弄る例の癖を披露していましたので、尋ねるまでもないことだったようです。まこと言葉と心が一致しない面倒くさい人ですが、一度性格を捉えてしまえば分かりやすいことこの上ありません。

 そんな彼を安心させるべくして「大丈夫ですよ」と答えを返しました。

 

「この前なんて四葉が提案したヨガレッスンが正式に導入されたんですから。おまけにお客さんもたくさんついてて引っ張りだこの大忙しです」

 

「あいつ考案のレッスンだと……? あの運動バカのことだ、ナチュラルにハードメニュー強いて会員を追い込んでるに決まってる」

 

「そうなってないから続いてるんでしょう。それにそこまで厳しいものじゃありません」

 

 彼は「あの体力バカに凡人の気持ちが分かるのか?」と驚嘆しました。

 確かに彼女はいわゆる完全感覚型のアスリートです。「きりもみ三回転をやってみせて」と頼めばその場で難なく決めてみせ、勢い余ってパルクールでこの複雑奇怪な住宅街を股にかけてしまうくらいのポテンシャルは秘めているでしょう。

 

 そんな彼女ですがフィットネスクラブで働き始めると、自身の体力が世間から見て如何に化け物じみたものなのか認識したようです。

 ランニングマシーンの上にて満身創痍となっている男性会員を「まだまだいけますよね」と悪気なく煽る、ヨーガ教室の講師として一人「聖者カウンディニャのポーズ」を決めて参加生徒を置いてけぼりにするなどなど、様々な失敗を繰り返してようやく「凡人の程度に合わせる」という教える者としてあるべき姿に気づいたといいます。

 

 今の彼女は会員一人ひとりに寄り添って二人三脚で目標達成まで付き添う立派なフィットネストレーナーです。元々世話好きな彼女にとってはまさに天職でした。彼女が会員ごとに考案するメニューは無理のないペースで継続できると評判なようです。

 

「まあ、あなたに関しては保証できませんが」と軽いじゃれあいのつもりでからかうと、彼はしょんぼり肩を落としました。

 

「馬鹿にすんな……と、言いたいところだが正直自信を持って否定はできん」

 

「なんだ、張り合いないですね」

 

 完璧超人たる上杉君の数少ない欠点のうちの二つ目こそが運動能力でした。一つ目は性格です。

 

「そうだ、今度私から四葉に紹介しますから会員になってみては?」

 

 私が勧めると「フィットネスクラブなんて俺みたいな頭でっかちには場違いだ。絶対に行かんぞ」と前髪を弄りながら吐き捨てるので、十中八九行くと見ていいでしょう。

 

「烏丸通り沿いのビルに併設されたフィットネスクラブです」

 

「行かねえって」

 

「またまた」

 

 もしも上杉君が四葉の務めるフィットネスクラブに通うようになったら、彼らの関係は一体どうなっていくのでしょうか。いえ、別にそれに限った話ではありません。私と四人の姉妹、それから上杉君の六人が全く意図せずこの街で暮らしていくことになったという事実に対して、改めて宿命的な縁を感じました。

 他の強かな姉妹はともかくとして、私は四葉だけが心配でなりません。自身の気持ちをひた隠す彼女は昔のままなのでしょうか。それともちゃんと吹っ切れた? あるいは私が知らないだけでとっくに次の恋に進んでいるかもしれません。分かりません。いずれにせよ彼女には上杉君に伝えてないことが多過ぎます。これからはいつでも会えるのだから、後悔のないようにしてほしいものです。

 

「しかし、どうしてこの街はこんなにも窮屈なんだ。お前もよく迷わずすいすい歩けるな。俺はもう、どこがどこなのか分からんぞ」

 

「四葉の家にはよく通いますから。酔っ払いは黙って付いて来てください」

 

 四葉の住んでいる出町柳界隈は古い民家や小さな寺が密集したこちゃこちゃした作りの住宅街ですので、上杉君が迷ってしまうのも致し方のないことです。

 特にここら一帯は室町幕府が開府された当時から続く街づくりの基盤を元に建築物が並んでいるそうで、やがて来たる応仁の乱、明治維新、第二次世界大戦の戦火を経て尚、当時の町並みを維持してるといいます。お陰で車一台しか通れないような狭い路地を現代まで残し続けることとなるのですが、そもそも昔はそんな事情まで考慮した街づくりではなかったので仕方がありせん。

 

 そういう事情をうんちく話として取り上げると、勉学好きの彼は興味深そうに私の話に相槌を打つのでした。家庭教師として私たちに教える立場であった彼がこのような反応を示すのはとても新鮮です。

 

「空襲や内乱で土地を更地にされた街に零から道を敷く。当然戦争は忌避するべきだが、日本の車社会発展の要因の一つとも言えるかもしれないな」

 

「実際、五条通りみたいな大きな道路には昔、民家がたくさん建っていたそうですよ」

 

 言い終わると上杉君がしみじみと私の顔を見ていましたので、私は「どうしたんです」と尋ねました。

 

「まさかお前からものを教えてもらう日が来ようとは思わなくてな」

 

「私だってちゃんと成長してるんですから。昔のおバカな私と一緒にしないでください」

 

「いや、昔のお前はお前で良かったと思うが」と上杉君がクククと笑って答えました。

 

「ねえ、絶対バカにしてるでしょう」

 

 その悪ガキみたいな笑顔が憎たらしくて、でも何より愛おしくて服の裾を引っ張ります。

 

「そんな事ないさ。それに無理して自分を変えていく必要はないだろ」

 

「確かに無理をする必要はないかもしれません。でも、変わろうと意識しないと人は簡単に変われないものですよ」

 

 高校時代上杉君に勉強を教えてもらったいた時に「お前は一つの問題にこだわり過ぎだ」とアドバイスを受けたことがあります。自分でいうのもなんですが、自由奔放な姉妹が多い中、私はかなり真面目な方の部類であると思われます。

 ゆえに、一つの問に全力を尽くし解を着実に得るということについては自信がありましたが、それによって全ての問に手を付けれないということもまた往々にしてありました。長所と短所は表裏一体であり、つまりは要領が悪かったのです。

 

 

「変わって、変わって、変わり続けて、それでも最後まで残った根底の性分こそが本当の自分です」

 

 それは私の実体験から得た教訓でした。

 燎原と化した街を建て直すように、私たちも昔の自分を壊しては新しく変わり続けていかなくてはなりません。例えどんなに変わっても、自分の中で一番大切な何かが失われることなんて、あり得ないのですから。

 

 上杉君が白い光の中で立ち止まり「ほお」と感心したようにこちらを見るので、何だか私は小っ恥ずかしくなりふいに右手の細い路地に入りました。

 

「おい、待てよ」

 

「置いてかれたくなかったら惚けた顔してないで早く付いて来てくださいね」

 

 路地は両側に民家の軒先が迫る狭い道で、二人分通れるか通れないかくらいのものでした。私が先を歩き彼が後を追う形になります。

 

「どこ行ってんだよ」

 

 私も突発的に入りましたので、この先がどこに続いているかなんて知りません。何だか狭苦しくって逃げるように目線を上にやると、夜空も大した違いはありませんでした。民家の軒先に切り取られた夜空を見上げると、無数のぼんやりとした光がいくつかあるだけで月は見えません。

 せっかく上杉君と二人きり、それなのに何の情緒もありゃしないのです。

 

 大学生活のニ年だけ過ごした札幌の空も同じような感じだったなと思い出しました。鏡のように固まった雪面をカラフルに照らすネオン群はアジア最北の歓楽街特有の情緒を思わせましたが、それでもやはり雑居ビルや民家に囲まれた窮屈な空はどこの街でも変わりがありません。

 路地裏とはひょっとすると、どんな街とも繋がる秘密の通路なのではないかしら。そんな浪漫がこの狭い道には詰め込まれてると思うのです。

 

 ひとりぼっちで大学生活を始めた頃の私はあまりに無力でした。

 

「俺のことなんか忘れろ。俺なんかは忘れて、新しい道を進め」

 

 高校の卒業式、彼の言葉を受けて姉たちの心中を慮る反面、私自身は素直に嬉しく思いました。

 私はもうこの人に認められたんだ、昔みたいに馬鹿な私じゃないんだ、と。

 しかし本質は結局変わっておらず、バカ真面目で不器用な私はそのままなのだと思い知らされることになります。

 

 身の丈に合わない大学を選んで奇跡的に受かったのです。講義についていく事ができず、教えを乞いたくて辺りを見渡してもあの悪人面は見当たらないのでした。

 

「私は結局、彼がいなければ何もできないの?」

 

 そう心の中で呟いては鉛筆を握り講義のノートをまとめました。

 

 今にして思えば、高校時代の恋愛感情に周回遅れで気付いたのもその頃だったかもしれません。

 所属していた温泉同好会の付き合いで参加した飲み会の帰り道でのことです。美味しいジンギスカンに満足した同好会一行は、すすきのメイプル通りを折れた路地裏を歩いていました。

 見上げると、丁度今と同じような窮屈な夜空でした。違うのはその黒い隙間に煌々とした光を滲ませる大きな満月があったということです。

 

「きれい」と私はこぼしました。

 

「中野さん何か言ったー?」

 

 そう言って陽気な顔を向ける同級生の顔が、何故か、ここにいるはずのない上杉君のものに見えたのです。これは決して酔いに由来する幻覚ではありませんでした。そもそも当時は未成年だったので飲酒なんかしていません。

 

 ふと私は上杉君と共に見上げた大きな満月を思い出しました。確か、あの時私が放った「月が綺麗ですね」という言葉に対して上杉君はギョッとした顔をしていました。

 私は彼の困惑の意が全く分からないままでいたのですが、この瞬間になって初めて理解したのです。

 

 月光の下、上杉君の幻影を見て私はようやく自らの気持ちに気付きました。

 

 

「夜空の月も、純白の雪面も、美味しいジンギスカンも。美食美酒に花鳥風月、この世の美麗を味わうならば、隣にいるのはあなたがいい」

 

 

 帰ると泣きました。

 

 馬鹿、馬鹿、大馬鹿。どうして今更になって気付くの。遅いよ、もう。

 

 上杉君のせいです、何もかも。私、一人じゃ何にもできないんですよ。

 どうすれば一番効率良く勉強ができるか分からないんです。レポートはいつだって低評価だし、復習だって全部してたら遊ぶ時間がありません。辛いです。どんなに意地悪言ったっていいから、また勉強教えてください。

 

 月が綺麗って、そう言って隣で笑っていてほしいのに、あなたがいないと何もできないのに、あなたはもういない。

 私はどうしたらいいの。

 

 

 彼に依存してるかのような自分に嫌気が差し、私は理不尽に彼との思い出を厭うようにさえなっていました。

 京都の大学に編入する事を決めたのもそのためです。彼のおかげで入ることのできた学校より更に高いランクを勝ち取る事によって「上杉君がいないと何もできない自分」を否定できるような気がしたのです。今の私からすると微笑ましくさえ思えますが、当時は必死でした。

 

 そうして私は「バカ真面目で要領の悪い私自身を変えてみせる」とバカ真面目に決意を固めて、この街にやって来たのです。

 

 結論から言うと底に根付いた不器用な性分は変えることができませんでした。

 朝ご飯は炊き立てご飯を食べて自炊を欠かさないですし、昼はその糖分をフル消費して勉学に励みます。夜には家庭教師で面倒を見ている子に熱血指導を施し、私の一日は駆けるように過ぎていきます。

 

 それと同時にふわふわとした柔軟さを身につけることができたのは、四人の愛しき姉たちのおかげでした。

 教師を目指すべく机に向かう私に夜食を振る舞ってくれる二乃と三玖、「たまにはリフレッシュしよ」とランニングに誘ってくれる四葉、大学の人間関係に悩んでる私を電話越しに励ましてくれる一花、彼女たちのおかげで私は呑気に大学生をやってこれたのです。

 

 しかし、流石に教員試験への挑戦は今年が最後かと思われました。何せ、三回も落ちてるのです。仏の顔もそろそろ限界突破して鬼神の形相になること請け合いですので、ここで決めなければいけません。もし落ちたとしても、不思議と不安な気持ちはありませんでした。

 決して母と同じ職業である教師に思い入れがなくなったわけではありません。けれども、母を目指して夢を追うのと、夢を目指して母を追うのとでは大きく意味合いが違います。

 

 母に憧れたその道中で、私は私であるための大切なかけらをいくつも拾い集めました。例え教員になれなくとも、この六年の経験が無駄になるなんてこと、絶対にあり得ません。なるようにしか、ならないのです。

 

 

「ありがとうございます。上杉君」

 

 裏路地をずんずん進み、私は改めて礼をしました。段々と川の流れる音が聞こえてきます。

 

「急になんだ、突拍子もない。ま、いきなり奇行に走るのは昔からか」

 

「失礼ですね」

 

 やがて住宅街を抜けると狭い空は本来の広さを取り戻し、眼前には加茂街道が横たわっていました。向こうは賀茂川です。月はやはり出ていませんでした。

 

「奇行だなんて、した覚えありませんが」

 

 私が言い返すと上杉君は「忘れたのか」とため息をつきます。

 

「急に混浴風呂入ってきたり、満月の夜に『月が綺麗ですね』だなんて口走ったり、あれを奇行と呼ばずに何と呼ぶ」

 

「あれは忘れてください!」

 

 全くの無意識で行ったことなので、今思い返すと恥ずかしくてたまらないです。けれどもその二つとも、彼を異性として見ている私の奥底で眠っていた恋慕の寝言のようなものだったのかもしれません。

 

「だがそういうところは嫌いじゃない。今日実際に会ってみて分かった。お前ら全員馬鹿だ」

 

 そうばっさり言い切り、彼は無人の道路を渡ります。急に口喧嘩を売ってきて一体どういうつもりでしょう。彼の後ろにつきながら、どのように言い返そうか貧弱な語彙を探っているとそれより先に言葉が続けられました。

 

「馬鹿だがそれは長所の裏返しだ。その長所を捨ててまで馬鹿を変えていく必要はない。俺も見習うとするよ」

 

 そう言って微笑む彼を見ると、あの日プツリと断たれた恋する乙女の明日が再び眼前に開かれていくかのように思われたのです。

 

 この奇妙な縁によって私たちはまた想いを掻き乱される騒がしい日々を送る羽目になるでしょうが、それでもこの再会を後悔することなんて決してあり得ません。想いを伝えたいのにその人が近くにいない、その辛さを私たち五人はもう何年も強いられてきました。

 

 伝えたいことがある時にすぐ会えに行ける、なんてありがたいことなんだろう。

 

 ありふれた幸せが戻ってきたことを自覚すると、舌に甘い痺れが走りました。

 

「おいしい」

 

「は? 何言ってんだ」

 

 舌の痺れでふと、花びらの入水した日本酒だなんて風流な悦楽を享受していたなと思い出しました。

 

「美味しいものは美味しいんです。嘘をついても仕方ないです」

 

 彼は諦めたように苦笑いをし「どんな味だよ」と尋ねます。先刻は何も感じなかった美味を時間差で舌に転がして、私は答えました。

 

 

「桜の味」

 

 

 

 ◯

 

 

 

 第二話につづく。

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