五等分の京都ぐるぐる日記   作:鹿クンが見ている!

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第二話「CAT WALK」
百万遍トライアングル


「私が泣こうが笑おうが、」

 

 

 

 ◯

 

 

 

 五月に入ると私は決まって気分が良いです。カレンダーを覗くたびに自分の名前が目に飛び込んできて「まるで私が主役の日みたい!」と自惚れますが、主役は私だけじゃありません。五月五日は中野家五つ子姉妹の誕生日、私たちは必ず集まってパーティーを開くのでした。大人になって都合が合わせにくくなったということもあり、その日ぴったりとはいきませんが、それでも五月初旬には皆んなで集まれるようにと、スケジュール調整は三月頃から行われます。

 もっとも綿密なスケジュール調整を強いられていたのは東京で女優業をしている長女の一花でした。しかし、いつもなら中々予定の空かない売れっ子女優も、今年は映画の撮影でたまたま京都に来ているということがあって、私たちは五月五日ぴったりに誕生日会を執り行うことができました。

 

 今年の会は二乃の勤め先であるビストロ風レストラン「ビストロこいけや」を閉店後に貸し切って行われました。「ビストロこいけや」は百万遍交差点北東に位置する貸しビルの一階部分にありました。ちなみにその対面たる交差点北東には三玖の働くパン屋があり、南西にはケーキ屋、そして南東には私の在籍する大学があります。

 

 大学から我が下宿、下鴨幽水荘へと帰る進路の都合上、必ずこの交差点を通るのですが、私は決まってこの三店舗のうちのいずれかに捕まってしまいます。何もしつこい客引きがいるというわけではありません。けれども懸命に勉学に勤しみ糖分を使い果たした私の脳がエネルギー補充のためふらふらと店の扉へと舵を切ってしまうのは当然の帰結と言えるのではないでしょうか。実際、学生の常連が多いです。

 

 今日は我慢しようとどんなに意気込んでも心の底から凍てつくような空腹には耐えることができません。

 いつも勤勉に酷使される脳にご褒美の糖分を与えたい時にはケーキ屋へ、普段ご飯派の私が気分を変えたい際には三玖のパン屋へ、そして特に何もなければ二乃のビストロへと足が赴きます。まるでこのループ構造から抜け出せないのです。

 

 せいぜいアルバイトくらいでしか所得を得られない私たち学生は、この区域を通るたびに泣く泣く財布の紐を緩めて満腹になる以外になす術はありません。こうして貧乏学生は資本主義の礎として搾取されていくのです。

 その集金具合たるや「この道を通りたくば金目の物を置いていくんだな!」と山道を通せんぼする荒くれ者の如くです。故にこの交差点は「百万遍トライアングル」と呼ばれ、食べ盛りの学生たちから大変恐れられていました。

 

 五月五日の誕生会、私がそういう理不尽をぶつけると二乃と三玖に「それは自分を制御できてない五月が悪い」とこてんぱんにやっつけられました。まことに然りです。

 

 こいけやは貸しビルの一角を使わせてもらっているだけで、そこまで広くはありません。数名で食を囲むことができるテーブル四卓と五、六人程度が腰掛けられるカウンターがあり、その向こうには厨房があります。こじんまりとしていますが、五人だけで誕生会を開くには、むしろ広過ぎない方がそわそわせずに落ち着いて食事が楽しめるというものです。

 本職の料理人たる二乃と三玖が今宵の誕生会のために厨房で忙しく立ち回っていて、私たち料理不得意三人娘はというと、ただぼんやりと店のテーブルについているだけなのでした。一応いつも「何か手伝いましょうか?」と声はかけるのですが、二乃からは「適当にだべってなさいよ」と返されます。結果、手作り料理に勤しむ本職二人を尻目に酒を呑み、下らない馬鹿話をしている三人組が出来上がるという始末です。我ながら情けない。

 焦茶色をした木製の壁には等間隔で可愛らしい洋燈が提げられていて、二乃と三玖が忙しく立ち回る厨房と、料理が並べられてあるテーブルを橙色の光がぼんやり照らしています。逆に言えばそれ以外の灯りは店内にはありません。闇に包まれて弱々しく消えてしまいそうな光源が、眠たくなる程のメロウな気配をそこら中に振りまくのでした。そういう如何にもな雰囲気が、私たち姉妹はたまらなく好きでした。

 

 こいけやは昼から夕方にかけてはお手軽メニューを取り揃える学生向けの店です。そのため店の雰囲気も明るく陽だまりの差す柔らかい雰囲気が漂ってるのですが、夜にはそれが一変して少しお高いディナーを提供する洋風居酒屋と化します。ちょっと背伸びをしたい学生や仕事帰りのサラリーマンが、夜の百万遍交差点でぼんやりと光る橙色の洋燈へ誘われてやって来るのです。

 

「やっぱり、ここは夜に来れば雰囲気いいですね」

 

 普段は昼時か夕方にしか訪れない私にとって、夜のこいけやはとても大人びた店に見えました。

 

「なんだかこの感じ、小学校の頃の学芸会を思い出すよね」

 

 四葉が言うのに対して「分かるなあ」と一花が相槌を打ちます。

 

「体育館の真っ暗闇がさ、『これから何が始まるんだろう』ってドキドキしちゃうんだよね」

 

 いつもなら明るい陽光が差す体育館。けれども学芸会のその日は、大窓を全て暗幕で覆われていているのです。見慣れているはずの体育館が不気味な薄暗さに包まれている、そのミスマッチ感に幼い頃の私たちはワクワクする気持ちを抑え切れませんでした。

 やがて始まる下級生の可愛らしい演劇や上級生のリコーダー演奏を、赤や緑のカラフルな照明が彩るのです。それはまさしく、閉じたまぶたの暗闇にめくるめくる展開される夢のようでした。

 

 薄暗い空間に投げかけられる弱々しい光という組み合わせは映画やドラマで散々使い古されたロマンチックな展開を演出する如何にも手法ですが、夢と現の狭間にいるかのような非日常感を演出するにはこの方法が一番手っ取り早いのかもしれません。

 今日はせっかく年に一度の誕生日なのですし、そういう自己演出にうっとり酔うのも良いでしょう。

 

 ワインのお供に出されていたクラッカーをつまみつつ談笑していると、やがて厨房からカウンター越しに顔を覗かせる三玖から「お待たせ」と声がかかりました。料理が出来上がったようです。

 

「わあ、美味しそうな匂い」

 

 思わず立ち上がって厨房の方を見ると、料理人二人は顔を見合わせていささか微妙な笑みを浮かべています。料理人冥利に尽きる言葉を受け取って嬉しい反面、素直すぎる末っ子の反応に呆れているのでしょう。けれども、本当に美味しそうなのだからいいじゃないですか。隠しても仕方ないです。

 

 二乃と三玖はエプロンを解いて席に着きます。二乃は薄地のニットにデニムパンツという装飾で、傍にポンとエプロンを置くその様には、若妻のような貫禄がありました。フレアスカートの折り目を直し、縛っていた髪を解く三玖も同様です。子供のような私たちに手料理を振る舞う本人たちからすれば、そのような心持ちになったとしても全然不思議じゃないでしょう。

 二乃は「ん」と一言短く言って一花の方にグラスを差し出します。差し出されて彼女は「ははあ。仰せの通りに、お姫様」と低頭しました。そうして料理人兼姫君の二人の差し出すグラスにワインを注ぎます。手元の透明に赤色が波打ちタプタプ満ちていく様子を眺め終わると「うむ、くるしゅうない」と三玖が優しく微笑みました。

 

「あんた達二人は料理運ぶの頼むわよ」

 

 二乃は女王様のように指図しますが、食事会の度に美味しい手料理を振る舞ってくれる彼女たちには頭が上がりません。私と四葉は「イエッサー」と声を揃え、米国の沿岸警備隊もかくやという統率の取れた動きでテキパキ食事をテーブルに運びました。盆の上に乗せた美味の予感が匂いに乗り移って私の鼻腔を刺激しますので、待ちきれず、その運搬する様はさらに精明強幹になります。

 

「本当に毎度毎度、料理を振る舞ってくれてありがとうございます。お礼言っても全然言い切れないくらいです」

 

 よくよく考えてみたら彼女たちの誕生日でもあるのに、そんな二人に料理を振る舞ってもらってるとはこれ如何に。お礼を言っても、テキパキ働いて料理を運ぶ女給に徹しても足りないくらいなのです。

 

「いいから気にしないでよね。そもそも子供の頃からあんた達の栄養管理してたのは誰だったかしら?」

 

「でも、やっぱり悪いよ。たまには私たちも作ってくるよ」と四葉。

 

「朝トースト一枚で済ませてるあんたが料理って本当に大丈夫?」

 

「な、なんでそれを!」

 

「なんでも何も、あんたの部屋行く度にトースト買い溜めしてるの見るからそれくらい察せるわよ」

 

「あはは、さすが二乃だね……」

 

 確かに四葉の部屋に遊びに行くと、食パンが冷蔵庫の上に置いてあるのをよく見ます。やはり一人暮らしで働き始めると時間が少なくなるそうで、時間短縮のためトースターに食パンを一枚挟むのがモーニングルーティーンだと彼女は言っていました。

 私はまだ呑気な学生なだけあって朝には余裕があります。なので毎朝なるべく白米と野菜、味噌汁の三点を揃えるようにしているのですが、やはり卒業して教師になれば、そういった日本の牧歌的な食卓を眺めるのも難しくなるのでしょうか。まあ、そもそもまだ教師になれると決まったわけではありませんが。何にせよ、二乃や三玖のようにお洒落で可愛らしい料理を作れる自信はありません。

 

「私も料理はからっきしだからなー。素直に可愛い妹二人の好意に甘えておくとしますよ。ありがとね」

 

 一花がそう言ってクラッカーをつまむのに対して三玖が「お礼を言うのはこっちの方だよ」と返します。

 

 それに続けて「皆んなに美味しく食べてもらうのが私たちにとっての幸せだから」と料理人の鑑のような事を言うので、私は姉たちをとても誇りに思いました。

 

 全て運び終わると私と四葉は席に着き、姉妹と共にグラスを同じ高さでカチャリと合わせました。

 

「乾杯」

 

 ここぞとばかりに五つ子のコンビネーションを発揮した私たちは同時にグラスを合わせ、同時に乾杯の挨拶の声を合わせ、そして同時にグラスの中に揺れる赤色に口付けしました。

 

「あははー、生まれたね。二十五歳」

 

「ちょっと。生々しく数字言わないでよ」

 

「えー、二十代はまだまだ誕生日を喜べる歳だと思うけどなー」

 

「でも四捨五入すればもう……」

 

「しなければいいじゃないですか。それにもっと大きな目線で四捨五入したら私たちはまだまだ零歳。生まれたてピカピカの新生児です」

 

「それはさすがに無理がある」

 

「いえいえ、そんな事ありませんよ。うちのゼミの教授も『君たちのいるところはまだまだ母親のお腹の延長だぞ』って」

 

「年寄りの老けた考え方なんて当てにできないわよ」

 

「でも、そういうことで納得しておけば、私たちもまだまだイケるかもって思えるでしょう?」

 

「まあ、実際まだそんなに焦ってる訳じゃないけどさ」

 

「五月ちゃんは考えがふわふわしてて素敵だね」

 

「むっ。私だって考えるべきことはちゃんと考えてるんですよ」

 

「怒らないでよ。柔軟な考え方だなって褒めてるんだから」

 

「だったらいいですけど」

 

 悩んでもどうにもならない事に時間を割いていても仕方ありません。むしろ悩んでしかめっ面をしている方が小皺も増え、負の螺旋階段を転げ落ちていくというものです。

 

 二十代に突入してからほとんど恒例となった年齢の話題はそこそこにして、私たちは眼前に並べられた料理の数々に目を輝かせ、食器を手に取りました。和風に洋風、中華の分け隔てがないレパートリーは、好みのバラバラな五姉妹全員が平等に楽しめるようにといった、匠の気遣いの表れといえるでしょう。

 古今東西のありとあらゆる美食が再現された世界の尺図ともいうべき卓上を前にして、さながら私はセピア色の地球儀片手に七つの海を制覇せんとするヴァイキングの気分でした。「味の世界征服、最初の航路は如何せん」とばかりに目線を泳がせます。和洋折衷中華も織り混ぜ、色とりどりな料理の中に一際私の目を惹きつけるものがありました。

 

「あ、三玖! これ、また作ってくれたんですか」

 

「うん。五月、好きかなって思って」

 

 それは魚介類の壷焼きでした。海の幸をシチューと共にカップに放り、そうしてその天渕にパン生地をかぶせて蒸し焼きにするといった要領のものです。まろやかなシチューのルーと共に、白身魚やエビ、ムール貝、ホタテといった海の幸が、カップの内側で熱々に焼き上がっているのです。

 盛り沢山の海の美食を内側に秘めた蓋付きのスープカップ、その可愛らしいシルエットは正に海の宝箱です。パン生地を蒸し焼き用の蓋にするだなんて、一体誰がそんな素敵なことを考えたのでしょうか。

 私は去年のクリスマス・イヴの際に初めてこの北欧風の料理を三玖に振る舞ってもらい、以来その味を忘れられないままでいました。当然、不器用な私にこのような可愛らしい料理を作ることは能わず、かといって、彼女に図々しく「また作ってほしい」と頼むこともできないままに、悶々とした毎日を送っていたのでした。

 

「食べてもいいですか?」

 

「どうぞどうぞ。そんな改まって言わなくてもいいのに」

 

「では遠慮なく! いただきます」

 

 意気揚々と宣言してスプーンを手に取りました。蒸し焼きにする行程でパンに付いた程よい焦げが、その内に擁する海の幸が美味しく煮え上がっているのを物語ります。パンの天蓋を突き破って宝箱の中身を覗くと、そこには期待通り熱々の白い海が広がっていました。シチューと共に海の幸を掬うと、いよいよそのまま口に運びたくなりますが、匙の上にできたその美味なる水溜りが「俺に触ると火傷するゼ」とキザな忠告をしている事を忘れてはいけません。

 何せさっきまでレンジの中にて釜茹での刑に服していた熱々のシチューなのです。そのまませっかちに食を進めたが最後、地獄の業火によって煮込まれたルーがマグマの如く口内を焼き尽くし、飲み込むどころではないでしょう。せっかくの美味しい料理をむざむざ吐き出すなど愚の骨頂、我々清く正しい食べ盛り学生は、食欲に我を忘れて食べ物を粗末にするということはしません。冷静に熱をふうふう冷まし、冷静に頃合いを測り、そうして冷静に口に放るだけです。すると、どうでしょう。熱過ぎず冷た過ぎずといった調和の取れた美味が胃の腑にサラリと流し込まれ、体の底から温まるような幸福感がもたらされるのです。

 その諸々の味わいを総評して私は「おいしい」とたったの四文字で感謝の意を伝えました。どんなに情熱的に美食の在り方を論じようとも最終的にはこの短い感謝の言葉に帰結する、それが真理です。

 

「よかった」

 

 作り手たる三玖がこちらを見て言います。

 

「五月はいつも大げさなくらい美味しそうに食べてくれるから作りがいがあるな」

 

「大げさなことなんてありませんよ。こんな美味しい料理が食べられるなんて私は幸せです」

 

 私は匙を休めないままに言います。

 宝箱の蓋たる役目を果たしていたパンを全てルーの海に浸し食べてみると、以前食したものより柔らかな食感であるということに気付きました。

 

「この生地、すっごくもちもちですね。それに何だか、ミルクみたいな風味も……」

 

「分かる? うちの店で仕入れてるパン生地と同じの使ってみたんだ」

 

「やっぱり。どこかで食べたことあると思ったんです」

 

 百万遍トライアングルが一角、交差点北東のパン屋「穀々堂」は三玖の勤め先です。彼女は今日のこの料理のためにわざわざ店で使ってる生地と同じものを仕入れてくれたと言います。

 普通、汁物にパンを浸すとぐっしょりと濡れるだけ濡れて、味は存分に染みるものの、せっかくの食感は台無しになってしまうものです。実際に前回食したものにも同様の感想を抱きました。しかし今回彼女が仕入れたこだわりのパン生地は、例えルーに浸されようとも決してその類稀なるもちもち具合を失うことなく、旨味を染み込ませつつ程よい弾力を維持し続けているのです。

 

 より良いものを作り出そうとする職人魂に私は熱く心を打たれました。

 噛み締めるたびにパン生地の網目状の繊維が小気味よく裂けていき、その内側に取り込んだルーの旨味を存分に感じることができました。

 

 私がパンをもちもち噛み締めているのを三玖が幸福そうに眺めています。

 

「まだまだ他にも作ってるから、たくさん食べてね」

 

 彼女がふくふく笑うので、私もつい気持ちが緩んでしまい「では、お言葉に甘えて」と言いかけましたが、言いかけたその言葉の先はもう一人の料理人によってピシャリと踏みつけられました。

 

「三玖! あんまりこの子を甘やかさないで」

 

 そう言って二乃はワインを一気に呷りました。ワインを喉にぶつけた勢いをそのままにして「本当はね、私もこんな事言いたくないんだけどね」と続けます。

 

「に、二乃……?」

 

 この思い切り具合を見るに、彼女がこれから話題にあげようとしている事はズバリ言って、姉妹の中ではよく食べる部類に入る私の体重事情についてでしょう。まだ聞いてすらいないのに予想ができてしまい耳が痛くなります。

 

「五月、あんたも最近色々と頑張ってるのは知ってるわ。四葉のところのフィットネスクラブ通い始めたんでしょ」

 

「そうだよ。五月ったら入会して二ヶ月くらいしか経ってないのに、他の会員さんに負けないくらい頑張ってるんだから」

 

 そう言って四葉が白い歯を見せます。そうして「ね、五月?」と屈託のない笑顔で尋ねてくるので、私も自信満々「ええ、もちろんです」と答えることができました。

 

「週に三回ランニングもしています。勉強も大切ですが、たまには息抜きも必要ですからね」

 

 四葉の後ろ盾によって調子付いた私は「こんなに頑張ってるんだよ!」とアピールすべくして、普段心掛けていることを意気揚々として挙げていきました。しかしそういった小さな積み重ねも、それを帳消しにする要因が一つでも存在すれば全く意味がないということを私は知っていました。知っていたのに気付かないフリをしていました。そして次の二乃の台詞によって私は再び現実と向き合うことになります。

 

「でもね、いくら頑張っているとはいっても、毎日どこか外でお腹いっぱい食べていたらそれは本末転倒なの。あんたのせっかくの小さな努力の積み重ねも水の泡なの」

 

「外食? 何のことやら……。確かに私はここの店でよく食事をしますけれども、だからといって毎日というわけじゃ……」

 

 苦しい言い訳でした。次の瞬間には案の定「とぼけんじゃないわよ」という彼女の鋭い台詞が私の胸に刺さっていました。

 

「あんた、大学帰りに絶対うちか三玖のパン屋、そうじゃなきゃ下のケーキ屋に通ってるんでしょ。全部聞いてんのよ」

 

 二乃が長いまつ毛の隙間から私を睨みます。やはりバレていたそうです。それもそのはずでした。前述した通り、私はいつも百万遍交差点北西の「ビストロこいけや」、北東の「穀々堂」、南西のケーキ屋の三地点が作り出す百万遍トライアングルとでもいうべき特殊な結界に囚われてしまいます。そうして選択の余地なくお腹いっぱい満足して下宿まで帰る羽目になるのです。

 こいけやには言わずとも二乃が店員として働いていて、穀々堂には三玖、そうしてケーキ屋では三玖の彼氏がパティシエとして働いていますので、情報は全て彼女に筒抜けなのでした。

 

「三玖ぅ……」

 

 私は彼女の方を涙目で見ました。

 

「ごめん。でも二乃も五月のことを本気で心配してるから……」

 

 穀々堂のパンは絶品です。先ほどのようなもちもちパンを初めとしてホットドッグにサンドイッチ、さらにはハンバーガーも置いてある何でもござれのキング・オブ・パン屋です。そのあまりのレパートリーの広さに、私は朝食用のパンを買うだけに留まらず、夕食分や間食分のものも買い求めていたのでした。

 トレイいっぱいにパンを並べた私を見るにつけ三玖は「誰かと一緒に食べるんだよね?」と願うように言うのですが、私は彼女の期待を裏切り、むしろ「二乃には内緒にしてください。どうか、お願いします」と決死の懇願を試みるのでした。しかし、そんな情けない願いは当然受け入れられるべくもなく、三玖は私を心配して姉にも相談をしていたようでした。二乃の話振りからすると、それはケーキ屋で働く三玖の彼氏も同様のようです。つまり、誰も中野家健康管理の最後の砦たる二乃には敵わないということでした。

 

「で、でもちゃんと運動はしてますし……運動したら、お腹が空きますし。仕方ないじゃないですか」

 

「だから、食べる量が運動量を上回ったら意味がないって言ってるのよ、私は。いい加減現実を受け入れなさい」

 

 なるほど、つまりは引き算ということです。食べた分量が六で運動量が四だとしたら差し引きで二の分量が体内に残留するということです。なんて、単純明快で分かりやすい! 

 けれどもいささか分かりやす過ぎて、心にダイレクトに響くというのもまた正直な感想でした。世の中、物事は単純であればあるほど良いというのが一般論ですが、残酷な真実に関していえば話は別です。単純な一つの事実が人を傷付ける、そういうこともありましょう。

 

「うう……返す言葉が見つからないです」

 

 単純明快な事実に打ちのめされた私は自身の非を認めて、無条件降伏の体を成しました。

 

「ともかく、あんたはこれから当分外食禁止ね。うちに来ても豆腐出してやるんだから」

 

「そんなあ!」

 

 思わず天を仰ぎました。それはもちろん、私だって一人暮らしを始めて長いです。当然自炊だって完璧にこなせます。けれどもそれはあくまで生活を維持するための最低限の糧です。日々勉学に励み、鉛筆の黒に染まった我が脳味噌には華やぐような糖分の補給が欠かせないのです。そんな栄養の補給場として、百万遍トライアングルは学生にとって最適なオアシスでした。

 

「こんなのあんまりですよ! 美味しいお店を三つも無視して素通りする方が無作法というものです」

 

「迂回して帰れば?」と三玖が提案します。

 

「運動にもなるし、私たちの店にも捕まらないしで一石二鳥だわ。捕まえてるつもりないけど」

 

 三玖に続いて二乃がチクチク指摘して、自身の欲に抗えない意志の弱い私をいじめてきました。

 

「回り道をしたらしたで、あっちにはラーメン屋さんがあります。しかも博多のこってりしたやつです」

 

 つまり八方塞がりなのでした。門前の洋食屋群、後門のラーメン屋、どちらか選べと言われれば私は正々堂々、正面突破で真っ向から百万遍トライアングルに立ち向かう所存です。

 

「博多ラーメンかあ。確かにその方向は私たち女子にとって鬼門だね」

 

 一花がしみじみ言いました。

 博多ラーメン、彼女の言う通りそれはまさに悪魔の麺類です。漆黒のマー油がスープの水面を漂い、器一杯ハリガネのように硬い麺がとぐろを巻いています。そんな存在感いっぱいの麺にモヤシとネギが覆い被さるから、器のシルエットはゴワゴワと蠢く森の天蓋のようになります。最後には分厚いチャーチューが何枚もトッピングされ、天蓋から器の底まで豚骨の風味を万遍なく染み渡らせてゆくのです。

 その様はまるで海獣の住まう藻類だらけの湖畔の如くですので、私が初めてそのヴィジュアルを拝んだ際には大いに度肝を抜かれたものです。そして案の定と言うべきか、その器に凝縮された油の総量はやはり体重や美容に気を使う女子の摂取するべき適量を軽く凌駕していましたので、とてもじゃありませんが二度目の注文はないだろうと思いました。しかし決して味が悪いというわけではありませんでしたので、恐ろしいことに私はそこから二ヶ月このスープの湖畔にどっぷり浸かって抜け出すことが出来なかったのです。

 抜け出せたきっかけは真顔の二乃から放たれた「あんた、このままじゃ本当にヤバいわよ」という巨木で頭を打つようなストレートな台詞でした。実際、言われて恐る恐る乗った体重計の針が刺した数字は、とてもこの世のものとは思えない暴力的な値だったのです。

 

「ああ、あ、あ、こ、これえ壊れてます絶対。絶対壊れてますこの体重計」

 

「私はぴったりいつも通りの数値だったわよ。現実逃避するな、肉まんお化け!」

 

「ひどい!」

 

 行きつけの銭湯の脱衣所にある体重計にて辛辣な二乃と向かい合わせ、こういったやり取りをしました。というのも、私は当時、部屋に体重計を置いていなかったのです。決して日々着実に触り心地がよくなっていく自身のお腹の実態を確かめるのが怖かったわけではありません。

 

「単に置くスペースがなかっただけです。何せあんなに狭い部屋なんですから」

 

 建前を並べると、二乃は「だったらあの馬鹿みたいに大きい冷蔵庫売っ払ってしまいなさいよ」と反論するのでぐうの音も出ないのでした。

 

 かくして私は博多ラーメンに泣く泣く別れを告げたのです。

 さよなら博多の産んだ悪魔的美味のジャンクフード。あなたのことは忘れません。

 ちょうど鴬のさえずる三月の時分でしたので、卒業式さながらの感慨深さがあったと二乃は後に語ります。そうして、二乃や三玖の監修する食事制限、四葉の運動指導などなど、果敢な健闘の末に私は体重を平常時の値に戻すことに成功したのでした。

 

「博多ラーメン……それはたった二ヶ月の私の青春であり、そうして顧みるべき戒めの過去です」

 

 目を閉じて自分に言い聞かせるように呟くと、あのラーメン屋の暖簾がぱたぱた風になびく情景がまぶたの裏に浮かび上がりました。ああ、そのジャンクフードは私たち女子を惑わす憎むべき敵であるはずなのに、いざ付き合い始めるとやはり離れ難く、奇妙な友情さえ感じるのでした。瞳を閉じればあなたがまぶたの裏にいることで、どれほど強くなれた事でしょう。

 

「うんうん。五月ちゃんはよくやったと思うよ」

 

 長女たる面目躍如で「おいで」と手を広げる一花。その優しい重力に甘えん坊の末っ子は抗えず引き寄せられ、彼女の腕にすっぽり抱かれるのでした。

 

「よしよし」

 

「五月はちゃんと私とジョギングしてるから大丈夫だよね」と四葉が歯を見せて笑います。

 

「一花も四葉も甘い! 優しさだけが愛じゃないのよ」

 

「まあまあ。五月ちゃんも頑張ってるみたいだし、今日くらいは許してあげてもいいんじゃないかな?」

 

「そうだよ、二乃。今日は誕生日なんだし」

 

「誕生日だろうとなんだろうと関係ないわ。そういう日々の小さな積み重ねが大事なのよ。学生の頃と同じようにとはいかないんだから」

 

「私、一応まだ学生ですが」

 

「そういう意味じゃないでしょ」

 

「はい、そうですよね。分かってました。すみません」

 

 ここでいう「学生」とは無論、社会的立場としての意味ではなく、年齢的な意味でのそれです。

 今日を以てして二十代前半戦も残り一年、これまでの戦績を振り返るにつけ私たちはやはり、代謝の衰えを実感せざるを得ません。学生の頃と同じようにはいかないとはそういうことです。

 先ほど年齢だなんて気の持ちようでどうとでもなるといった旨の主張を展開しましたが、自らの身体に実際生じている新陳代謝の衰えを受けて、我がおおざっぱな理論に早速矛盾が生じました。

 それはそうです。気持ちだけでどうとでもなるのであれば、この世の遍く女子はずっと女子のままです。気持ちだけではどうにもならない現実や身体の変化を受け止めてこそ、大人の色気なるものが醸成されてゆくのでしょう。

 

 少女と女性との間隙を揺れ動くジレンマの季節こそが二十五歳という時分です。この世に生を受けて四半世紀、二乃の言う通り、いつまでも若いと思っていてはいけないのです。年相応の振る舞いというものを身につけないといけません。

 無邪気におにぎりを頬張る少女の如く、食い意地を張れる年齢ではないということです。

 食べたら食べた分だけ体重として加算されるものの、運動による体重減少には百パーセントの還元がなされない悪夢の公式が脳裏に展開され、私は戦慄しました。

 

「何も、食事の一切を許さないってわけじゃないわ。ただ、最近のあんたがあまりにもアレだから言ってるんであって」

 

 残酷な現実に直面してわなわな震えている私を見てさすがに言い過ぎたと思ったのか、さっきとは打って変わって落ち着いた口調で話します。

 彼女はその歯に衣着せぬ物言いが災いして他の姉妹と衝突することが多いですが、それは彼女の深い家族愛に由来するものです。高校生の頃のなんちゃって自立アパート暮らし時代、二乃は長女の汚部屋っぷりを注意し、料理の腕を磨きたいという三女の要望に応え、四女がそわそわ落ち着かず狭い部屋の中をパタパタ走り回るのを叱咤しました。そして現在、私の食欲の旺盛がとどまることを知らなくなっていよいよ、辛辣な言葉を投げかけるに至ったのです。

 

 厳しいながらも、家族が本当に心配であるがゆえについ口調が激しくなってしまう彼女の優しさを私たちは知っています。

 その様はまるで四人の手間のかかる姉妹を一手に引き受ける肝っ玉母ちゃんの如くです。亡くなった母の代わりになるべく奮起していた幼い末っ子より、よっぽど彼女の方が母親らしいのでした。

 

 もし仮に私たちの敬愛すべき母が生きていたとしたら、各々が個性を爆発させて育った娘たちの天衣無縫っぷりに閉口し、その場に一人ひとりを正座させ、淑女の生き方のなんたるかを表情の読めない鉄面皮で淡々と説いていることでしょう。母はそういう人でした。

 

「うう……。分かりました、二乃。あなたの言う通り自覚はあったんです」

 

 今は亡き母のおもかげを彼女の中に見て、さすがのわがまま娘も逆らうことができなくなり、その言わんとしていることを腹に下しました。

 

「いや、私も言い過ぎたわ。外食禁止ってのはさすがに勘弁したげる。あんただってうちの大切なお客だしね」

 

 そう言って彼女は呆れたように笑うのでした。私はその笑みの中に「今日くらいは遠慮せずにたんとお食べなさい」といった都合のいい解釈を見出しました。そうして「明日から頑張ります」と、もはや何回したのか分からない決意を姉妹の前にて宣誓しました。

 

「その台詞、前にも聞いたような」

 

「確かにそうだけど、宣言したらきっちり目標体重まで落とせるのが五月のすごいところ」

 

「えへへ、それはもちろんです。言葉にした以上、簡単に諦めるわけにはいきませんからね」

 

「ま、一度目標達成したら後はそれっきりってのが玉に傷なんだけど」

 

 二乃の言う通り、一度目標体重に到達した後にまたぶり返してしまうから、何度も宣誓を繰り返す羽目になるのです。

 四葉曰く「一度筋肉付けちゃえば、後は自然と痩せやすい体になってくと思うんだけどなあ」とのことでしたが、それが私には理解できません。

 

「そんなんじゃ、いつまで経っても嫁の貰い手ないわよ」

 

 二乃がため息を吐き、まるで年頃の娘を心配する母親の如く言うのでした。ここから話は一転してガールズトークが始まりました。

 

「あんた仮にも花の女子大生でしょ。気になる男の子の一人や二人いないの?」

 

「一人や二人もいるというのは健全じゃないと思うのですが」

 

「言葉の綾よ。で、どうなの?」

 

 二乃がワクワクとした顔で尋ね、それに引っ張られるように他の三人も私の顔を見てニヤニヤします。

 

「別に何もありませんよ。私、学生とは言っても逃げ口上の院生なんですよ? 同い年の異性もめっきり減りましたし、身近にいるのは歳下の将来有望な少年少女です。とてもじゃないですけど、恋愛なんて……。きっと向こうから願い下げです」

 

「えー。そんな事ないと思うけどな」

 

「そうだよ。大体その理屈だと、私たちも願い下げってことじゃん」

 

「つまんないの」

 

 彼女たちは口々に不満の意を示しました。

 こういう如何にも女子らしいノリを無下にするのは心苦しいですが、私は教員試験を目前に控える身なのです。どこかの元家庭教師の言いそうなことではありますが恋愛に現を抜かしているわけにはいけません。高校生の頃の彼曰く「恋をしたい奴はすればいい。だがそいつの人生のピークは学生時代となるだろう」とのことです。もっともそんな彼も、私たちとの交流を通じてその考えを少しは改めたようですし、私もそこまで極端なことを言うつもりはありません。しかし私の大学生活は多忙を極め、運命の人を見つけ出す暇だなんてありません。

 

 ああ、運命の人なんかより、まずは働き口をお恵みください。然るのちに運命の人もお恵みください。と、そんな強欲な神頼みをしていても仕方がないので、まずは教員試験をなんとか自力で突破する所存です。

 

「じゃあ、同い年の男の子ならいいの?」

 

「こだわりはありませんが、歳下の子よりは楽かもしれないですね」

 

 正直なところ男性経験に乏しい私は、歳上がいいだとか、歳下がいいだとか、そういった好みについては自身の見解を持ち合わせてはいません。

 ですので、とりあえず「歳下よりは同世代の方が見栄を張らず自然体で居れていい」といった一般論を述べました。年頃であるというのに、恋バナの一つもこなせない不出来な妹をお許しください。

 

「うーん。ま、そうだよね。やっぱり女の子からすれば、甘えられるより甘えたいよね」

 

「そうです、そうです」

 

「だったらさ、五月ちゃんの身近にちょうどいい人いるじゃん」

 

「ちょうどいい人?」

 

 聞き返すと一花はニヤニヤ笑みを浮かべながら「本当に分からないの〜?」と言います。そうして「おほん」と喉の調子を整えてから、私たちの知っているとある男性を真似てこう言い放ちました。

 

「向上心のない奴は馬鹿だ。人間失格!」

 

 わざわざ低い声で真似ずとも、そのストイックな台詞だけで誰の物真似であるかは明白です。

 たちまち姉妹たちは吹き出しました。

 

「あははー! 上杉さんだ」

 

「ピンポーン、正解。四葉さん、四ポイント!」

 

「やったあ!」

 

「確かにフータローはそういうこと言いそう。ていうか言ってた気がする」

 

 姉妹たちがキャッキャとはしゃぐ中、顔を赤くしているのは不意打ちを喰らった私だけでした。それは何の気もない長女の気まぐれな質問だったのかもしれませんが、図星でした。

 私が一人で赤く縮こまってるのに気付いて、一花は「え、え、え」と困ったような笑みを浮かべます。

 

「い、五月ちゃん? その反応、もしかしたら……」

 

「違います。誰があんなデリカシーのない男性を好きになるっていうんですか。どうかしてますよ」

 

 字面だけに着目すると、冷徹にも彼の事を恋愛対象外だと切り捨ててるように思われるかもしれませんが、人間が感情を伝える方法は言葉による伝達だけではありません。

 それは例えば、急速に血行が良くなり赤みがさした頬であったり、姉たちの好奇の目線から逃げるように泳ぐ目玉であったり、動揺のあまり落としてしまったスプーンであったりと、人は実に色々な仕草から相手の気持ちを読み取ろうとします。彼女たちもその例に漏れず私の一挙一動をまじまじと見つめるのでした。見つめられて私は更に焦り、自身の想いを隠すべくして罵倒の口調を更に強めます。

 

「だいたい彼には愛想がありません。三月の末に久しぶりの再開を果たした時だって、ただぶっきらぼうに『よう、久しぶり』の一言だけで挨拶したんですよ? 全く呆れます。まだそこらを歩いてる野良猫の方が可愛げがあるというものです。おまけに相変わらず口は悪いし、偉そうだし、貧乏性も抜けてないし、あの人は本当に変わってません」

 

 しかしこうして矢継ぎ早に繰り出される辛辣な言葉とは全く無関係に、我が交感神経は正直なシグナルを身体に発信し続けます。

 ああ、これでは彼を好きだと言ってるのも同然です。どうして私はこんなにも不器用な性分なのでしょう。素直と言われれば耳障りはいいですが、それでも女性たるもの秘密の一つや二つは隠し込んでしまえるほどの技量がなくては魅力的とはいえません。

 

 彼の愚質を語れば語るほどに身体は熱くなり、てんてこ舞いの体を成しました。そんな私の不器用っぷりを充分堪能したらしい彼女たちは私を止めに入ります。

 

「分かった分かった、五月ちゃん。もう充分楽しんだから」

 

「た、楽しんだってどういう意味ですか!」

 

「五月ってそんなに上杉さんのこと好きだったんだね」

 

 私は「違います」と毅然とした否定の語を入れようとしましたが、四葉のその純真な、邪念のかけらもないような笑みにあてられると、バレバレの嘘をつく気も失せました。

 

「そうですよ……。私は彼のことが好きです。何か悪いですか」

 

 ワッと女の子らしい歓喜の声を漏らす姉たち。

「やっと素直になったんだね」だとか「五月は意外とむっつりさんだから」だとか「あんたにもそういう感情ってあったのね」だとか、調子よくいじってきますので、私は頬が熱くなり過ぎて火が付いてしまうのではないかというくらいに恥ずかしいです。

 人体自然発火現象を起こして二乃の大事な勤め先のお店を消し炭にするわけにはいけません。私は羞恥の気持ちを冷ますべくして、水を貰いに厨房まで逃げました。

 

 コップ一杯分の水をごくりと飲み込んで、カウンター越しにテーブルの様子を伺います。姉たちは、私がようやく自らの気持ちに素直になったのがそんなに嬉しかったのか「今日はめでたいねえ。記念日だねえ」だなんて言ってはしゃぐのでした。私のような無粋者が酒の肴を提供できたのは万々歳なのですが、いささか恥ずかしいです。

 

「私の話はもういいでしょう。それに皆だって彼のことが好きなくせに」

 

 このまま質問攻めにされると耐え切れず店の外に飛び出し、そのまま琵琶湖の畔まで逃げ出してしまいそうでしたので、話題の対象を分散させます。

 この言葉を投げかけて私はてっきり、彼女たちも高校生の頃と同じように自信満々に彼への熱い恋慕の想いを露わにするものだと思っていました。しかし、彼女たちの口から出た返答は何とも歯切れが悪く、「うん」とも「ううん」ともつかぬ何とも曖昧なものでした。

 

 あれ、もしかしたら皆恥ずかしがってる? 

 

 そんな気がしました。もしそうだとしたらそれは今さらというものです。高校時代、あれだけ恥も外聞もなく恋愛成就のための血道を上げてきたというのに、猫かぶりが過ぎると思われます。

 それとも、一人の大人である以上、例え姉妹同士であるとはいえども肝胆相照らすわけにはいかないとでも言いたいのでしょうか。私のような未熟者には難しい世界です。

 

 地雷原を前にした探知犬の如くアブナイ香りを察知した私は華麗な話題転換を図り、持ってきた紙袋をごそごそ漁りました。

 

「何? それ」

 

 四葉が興味津々といった様子で覗き込みますので、私も期待に応えるべくして「じゃあ〜ん!」と朗らかに声をあげ、紙袋の中身の品をテーブルの上に披露します。

 

 そうして披露したのは五つのギフトボックスです。箱はそれぞれ色が違い、一列に並べてみるととても可愛らしいです。中には丸いものが複数ごとごと入っているのが見れます。

 

「もしかしてこれ入浴剤? 可愛い〜!」

 

「上杉君から私たちへの誕生日プレゼントだそうです。私が代表して預かってきました」

 

 私が言うと、皆一様に目を丸くしたのが面白かったです。

 

「えっ、えっ。上杉さんが? こんな小洒落たものを私たちに?」

 

「五種類あるから、それぞれ好きなのを選べとのことです」

 

「そんな粋な心遣いまで……」

 

「あいつらしかぬ誕プレね」

 

 いくらなんでも失礼すぎる気もしますが私もおおかた同じような感想を抱きました。

 

 彼から誕生日プレゼントを預かってきたのは昨日の夜のことです。いつも通り家庭教師のアルバイトから帰ってくると、混沌極める幽水荘の廊下にて上杉君と鉢合わせました。

 

「ちょうどよかった」と彼は言って、雑貨店らしい小綺麗な紙袋を渡してきました。その中に内包された五つの品を見て、私が驚嘆したのは言うまでもありません。

 

「上杉君。これって、もしかして……」

 

「明日、誕生日だろ」

 

「ありがとうございます。けれども、あなたがこんな女心を捉えたようなプレゼントを用意してくれるだなんて。もちろんすごく嬉しいのですが、正直言って意外です」

 

 パステルカラー一色のシンプルな入れ物と、それに内包されたマカロンのように可愛らしい複数の固形入浴剤。

 これが、小物やインテリア、お洒落に気を遣わない無骨な彼のチョイスであるだなんて、にわかには信じ難かったのです。

 

「嫌なら返せ」と彼は大変ご立腹の様子でしたが、私が驚くのも致し方ないでしょう。

 薄汚いオンボロ下宿にて寝起きのような髪型とティーシャツで出迎える上杉君、そしてそんな彼が渡してくれた乙女チックに可愛らしいギフトボックス、そのアンバランス具合には筆舌に尽くし難い味わい深さがありました。

 

 

 姉たちは「私グリーンがいい!」「じゃあ私は黄色かな」と次々指差し、ギフトボックスを選びます。遠慮がないように思われますが、どうせ好みのバラバラな私たちのことです、例え一斉に指差ししたって全員違うものを選ぶに決まってます。

 

「フータローも来てくれればよかったのに」と水色のギフトボックスを選んだ三玖が言いました。

 

「私も一応誘ってはみたのですが『姉妹水いらずの方が楽しいだろ』って断られました」

 

「遠慮することないのに。フータローがいてくれて方が楽しい」

 

「そうよ。だいたい他人の家にずかずか入り込んでいきなり家庭教師し始めるような奴に今さら遠慮だなんてしてほしくないわよ」

 

 二乃はそう言って、爪の先でツーっと薄紫色の箱を撫でます。彼のようなぶっきらぼうな男性が意外にも悪くない贈り物をしてくれたのが気に入らなかったのでしょうか、撫でる合間たまにピンと指で弾いたりして遊ぶのでした。

 

「写真撮って上杉さんに送ってあげようよ」

 

 四葉の提案に満場一致で賛成の声があがります。

 

「美人五姉妹の自撮り写真を送ってもらえるだなんて、フータロー君は幸せ者ですなあ」

 

「一花、自画自賛です」

 

 そうして何とか狭いケータイ画面の中に五人分の顔と受け取ったプレゼント、誕生日会の様子を収めるという至難の業をやってのけ、お礼のメッセージと共に送信しました。

 しばらくすると「ぴろろん」と小気味のいい音と共に返信が来ました。メッセージの内容は「二十五歳おめでとう。これからも相変わらずの馬鹿であってくれ」とのことです。

 

 わざわざ年齢を具体的に挙げたり、ナチュラルに罵倒の言葉を挟んでくる辺り、やはり彼の性格はひん曲がっています。

 無論それは単なる照れ隠しだと分かっていましたが、分かっていてもムキになって売り言葉を率先して買ってしまうのが私の悪いところです。私は己が怒りを悟られないようなごく自然かつ嫌味たらしい文面を送りつけました。

 無言でケータイを睨む私を一花が「まあまあ」と宥めます。

 

「やっぱりこんな人を好きになるだなんて、皆どうかしています」

 

「気持ちのことは自分ではどうにもできないから仕方ないよ。ほら、もう一杯」

 

「いただきます」

 

 その後も姉妹同士水いらずの世間話や近況報告の合間に電波越しの不毛な応酬は続き、いつの間にやらかなりの時間が経っていました。そのため私たちはここにいないはずの上杉君とも食事会を楽しんでいたかのような気分なのでした。

 

 

 

 ◯

 

 

 

 お酒もそこそこに誕生日会を終えると、店を出てすぐの百万遍でタクシーを捕まえた一花と別れ、そのまま北上した出町柳で二乃と三玖を見送りました。そうして残った四葉と二人、高野川を跨いでてくてく歩きます。

 

 私と四葉の家が近所にあるという都合上、こういう集まりの帰り道、彼女と二人きりになることが多いのですが、そんな時彼女は心なしかいつもより落ち着いて振る舞っているかのように思われるのです。彼女にとって私が唯一の妹だからでしょうか、如何にも姉らしく、教員試験に悪戦苦闘する私のことを気遣ってくれるのでした。

 いつも元気に走り回ってる四葉から受ける子供扱いが釈然としない反面、他の姉妹には見せない彼女の一面を独占できる、ちょっとした優越感を感じているというのもまた事実です。

 一花、二乃、三玖。四葉に妹扱いしてもらえるのは私だけなんですよ? ふふん。

 

 橋下の流れから吹き上げる清風が髪をかきあげます。

 温もりの春も真っ只中、陽だまりの暖気がふわふわ漂うこの季節ですが、それでも夜はまだまだ涼しく、太陽に見捨てられた古都の暗がりで私は一つくしゃみをしました。

 寒いのか暖かいのか微妙な季節で困っちゃうと不満を抱きつつ、いずれ来る寝苦しい熱帯夜を考えるとこれくらいがちょうどいいと思い直しました。

 

 高野川を跨ぐ河合橋を渡り切ると、二人の帰路は分かれ道になります。左手には鴨川デルタの公園があって、その反対には下鴨神社を覆う鬱蒼とした糺の森がざわめいています。これは私にとって四葉の姿と共に刻まれているいつもの帰り道の風景です。そして彼女が歩道の手すりに腰掛けて「別れる前にもうちょっと話そうよ」と物言わず伝えるのもまたいつものことでした。

 

 促されて私は四葉の隣に腰掛けます。

 

「う〜ん。夜風気持ちいい」

 

 彼女は「頭の熱が抜けて溶けそ〜」と、酒で火照った顔をだらしなく緩めました。

 明日撮影のある一花のことも考えてお酒は程々にしようということでしたが、姉妹の中で一番お酒に弱い彼女にとって今宵のアルコールは適量と飲み過ぎのちょうど境目だったようです。

 

「家まで送りますよ」

 

「大丈夫。一人で帰れるよ。けれど、久々に五人全員で集まれたから少し調子乗っちゃった」

 

「特別な時じゃないとお酒飲まないですもんね。最後に飲んだのっていつですか?」

 

「上杉さんの誕生日会の時。もう三週間くらい前かー」

 

「あの時は四葉、かなり飲んでましたね」

 

「ししし。五月には言われたくないよーだ」

 

 私はあれくらい飲まないと酔っぱらえないってだけです。けれども、それが体重増大の一番の原因な気がして、少しの量で酔える彼女が羨ましくてなりません。

 

 四葉は上杉君から贈呈された入浴剤入りのギフトボックスを手に取っていました。彼女はそれを月に重ねたり、足元に運んで見下ろしたり、色んな角度から観察するのでした。

 

「どっからどう見ても、あの上杉さんからのプレゼントとは思えない!」

 

 そう言って「わはは」と笑います。

 なんですか、箸が転んでもな年頃なんですか。

 

「上杉さんが全然知らない人になったみたいだったけど、楽しそうな大学生活を送ってたみたいで本当によかったな」

 

「楽しそう、ですか。彼が聞くと怒りそうですが」

 

「意地っ張りだもんね」

 

「ええ」

 

 あの上杉君に恋人ができたというだけでも衝撃的なのに、その恋人を唯一無二の悪友、シキマさんに奪われたというエピソードは更に衝撃的でした。

 無論、生まれて初めての彼女を奪われたという悲劇については気の毒としか言いようがありませんが、その忌々しい思い出を語る彼はどこか楽しげに見えたのです。そんな矛盾だらけの思い出が彼の大学生活の全てでした。

 

「このプレゼント見たら分かるんだ。シキマさんが、上杉さんに色々な世界を見せてくれたんだって」

 

 そう言って笑う四葉は少しだけ寂しげでした。そして恐らく、私も彼女と同じ気持ちを抱いていました。

「無愛想で口下手な彼を分かってあげられるのは私たちだけだと思ってた。けれども本当はそんな事なくて。大学に出ると彼は色々な人に出逢った。そしてその人たちとの交流が更に彼の人生を豊かにしたんだ」と。

 要するに、私たちは上杉君の元ガールフレンドやシキマさんに嫉妬していたのです。

 

 

 二乃がプレゼントを指で軽く弾いてた意味、何となく分かったかもしれません。

 上杉君のくせに生意気です、こんなプレゼント。似合わないです。

 前の彼女さんとは一年付き合ってたんですよね。その人にも、こういう贈り物したんですか? 

 

 

 湿っぽい心の声を防ごうと一人でうんうん頑張っていると、四葉が「ごめんね」と切り出しました。

 

「ごめん、って。急にどうしたんですか」

 

「五月も上杉さんのこと好きだったんでしょ? だったら私、高校生の時悪いことしちゃったなあって思って」

 

 一瞬何のことだろうと頭を捻りましたが、すぐに彼女の言ってることが分かりました。彼女の謝罪していることとは即ち「零奈」の件です。

 

 

 高校二年生の三学期のことです。四葉は上杉君が「京都で出逢った女の子」の事を覚えていたと知ると、たちまちときめきました。「まさか私のことを覚えてくれていたなんて!」と。

 しかしそこは流石の上杉クオリティ、「五年前の修学旅行、自身の生き方の指針を示してくれた天使のような女の子と出逢ったけれども、その子の名前は知らねー」など、ロマンスの神様を蔑ろにした言い草です。

 

 本来であれば四葉はそこで「我こそはその女の子である」と名乗りを上げるべきでしたが、それはできませんでした。ここで堂々名乗りを上げていれば四葉と上杉君の仲が深まること請け合いでしたが、彼女はその頃になると姉妹たちが上杉君を好いていることに気付いていたのです。私は気付いていなかったです。

 

 諸々の事情で私たちに負い目を感じていた四葉は、姉妹と五等分した足りない頭でうんうん考えました。そうして思いついたのは毎度お馴染みの変装作戦でした。しかし、その変装はいつものそれとは少し違います。

 それは「五年前の修学旅行で上杉君と出逢った少女がそのまま成長した姿」という設定で変装し、彼に別れを告げるといったものでした。

 

「五年前の少女とはもう二度と会えないと知れば彼も過去を振り返るのをやめ、今目の前にいる一花や二乃、三玖を見てくれるだろう」と彼女は考えたのでしょう。

 

 そして、嘘をつくのが下手な四葉に代わって変装役を請け負ったのが私であり「零奈」とはその時私が正体を誤魔化すために咄嗟に出した偽名であり実の母の本名です。

 

 

「今さら遅いかもしれないけど、私の心の整理のためだけに辛い役任せちゃって本当にごめん」

 

「謝らないでください。高校生の頃は私、そもそも彼のことなんて全然異性として意識してなかったんですから」

 

 予想外の返答に彼女は思わず「え、そうなの?」と驚きの声をあげて聞き返しました。

 

「自分の気持ちに気付いたのは彼と離れ離れになった後です」

 

「あはは、何それ。五月らしいなあ」

 

「もう。四葉も私のこと鈍チンだって馬鹿にするんですか」

 

「鈍感っていうより、やっぱり真面目なんだよ、五月は。上杉さんへの気持ち一つにしてもそう。そんなに大切に考えてあげられるだなんて、私たちにはできない」

 

「ただ不器用なだけです」

 

 自分の気持ちに名前を付けることにすら手間取って高校卒業の時間切れだなんて。

 

「高校生の頃の彼の言う通りです。たった一つの簡単な問題に時間をかけ過ぎました。叱られますね、これじゃあ」

 

「でも、もう答えは出たじゃん」

 

 彼女は、苦笑いしている私の顔を覗き込みます。

 

「五月はそれだけ長い時間をかけて自分の気持ちと向き合ってきたってことでしょ? その気持ちは本物だと思うけどな」

 

 そう言って優しく微笑む四葉はやはり私の姉でした。

 

「私、五月のこと応援するよ」

 

 普段は子供っぽい彼女ですが、他者を立て自分を二の次に送ることができるその性根は決して子供が持ち合わせるものではありません。かといってこれを持ち合わせる者が必ずしも大人であるとは限らない、四葉だけの美質です。

 

 応援するよ。

 そう言って微笑む彼女には一切の逡巡も感じられませんでした。まるで心の底から私たちの幸せを願うように言うのでした。いえ、「まるで」や「ように」などといった表現は間違えです。本気で彼女はそう思っています。

 妹である私にとってそんな事は分かりきっていましたが、つい反発してしまいました。

 

「応援? 本気で言ってるんですか」

 

「うん」

 

 笑みを崩さないままに頷きます。やっぱり、彼女は本気で言っているようです。

 

「恋敵からの応援だなんて、私は嬉しくないです」

 

「ごめん……。でも、本当のことなの。私、上杉さんが幸せになるなら、一緒に居てくれるのは皆のうちの誰かがいいなって、ずっとそう思ってる」

 

 嘘。そんな訳ないです。

 

 私は、あなたの上杉君に対する気持ちを知っています。これは推察じゃありません。告げてきたのは四葉自身です。

 私に「零奈」の変装の話を持ちかけた時、彼女は自らの口で「私、上杉さんのことずっと好きだった」と切り出したのです。

 きっと今同じ事を尋ねても、返ってくる答えは変わらないでしょう。

 

 一度好意の飢えに気付いてしまえば、その人が隣にいてくれないと身体の底から冷え切ってしまうような、そんな気持ちにさせるのが恋だというのならば、彼女が私たちを応援できるわけなんてないのです。

 

 それなのに、どうして彼女は笑っていられるのでしょう。

 彼女は嘘を吐くのが苦手な私と同じ不器用者です。だからこそ自分の気持ちに嘘をついて、笑いながら私たちを応援するだなんて、そんな器用な事できるはずがないのに、彼女の表情は笑顔そのものなのでした。

 

 彼女の笑顔に嘘偽りはありません。妹である私が言うのだから間違えないです。

 でも彼女は隠しています、その笑みが何に向けられているものなのかを。それにもやはり、間違えはないでしょう。なぜなら妹の私が言うのだから。

 

「四葉、あなたはちゃんと話すべきです。この街で彼と初めて出逢った日のことを」

 

 四葉の顔を真っ直ぐに見て訴えます。

 確か前にもこんなやり取りをしたなと思い出しました。そして彼女もやはり前と同じく、自分だけが納得したかのような静かな微笑みをたたえるだけでした。

 それでも、諦めずに続けます。

 

「彼に想いを伝えるにせよ、これまで通り友達同士でいるにせよ、隠し事なんてだめです。こんな事してても辛いのは四葉だけじゃないですか」

 

「私は辛くない」

 

「嘘」

 

「第一、私なんかがあの日会った女の子だって知ったら、きっとがっかりするよ」

 

「そんな事ないです。彼はずっと、あなたにお礼が言いたかったはずです」

 

「そうだとしても、もうずっと前に決めてた事なの。あの日の思い出は絶対に打ち明けないって」

 

「……絶対に後悔しますよ」

 

「しないよ」

 

「します」

 

「しない」

 

 何を言っても引かない四葉に思わず気圧されました。

 彼女は誰に何と言われようと過去の決意を貫き通すつもりなのでしょう。彼の人生を変えた色褪せない思い出を、自分なんかの存在で台無しにしないように、と。そんな事、きっと彼は思っていないのに。

 

 それでも過去の自分の決意に準じて、上杉君の思い出を守り続けようとする彼女は意思の固い大人なのでしょうか。それともただの頑固な子供? 

 答えが出なくて、私は何も言い返せませんでした。

 

 何も言い返せない私と、自らの決意を目だけで伝える四葉、沈黙が辺りを包みました。遠くでエンジンを鳴らす大型車両の音が際立ちます。

 衝突や意見のすれ違いの多かった私たち姉妹ですから、今さらこんな事で気まずくなったりしません。しかし、この件に関していえば、今話し合っても平行線を辿るばかりだと考えられたので、切り上げた方がいいでしょう。

 私が意図せずくしゃみをすると、二人とも笑ってしまいました。少し、助けられたような気がしました。

 

「寒いね。そろそろ帰ろっか」

 

「そうですね。家に帰ったら早速、お風呂に浸かって温まりましょう」

 

 ぶら下げていた足を地につけます。そうして別れの挨拶を告げようとしたら、四葉はハッとした顔で私を呼び止めるました。

 

「五月の下宿って自分の部屋にお風呂なかったよね」

 

 如何にも。我が下宿、下鴨幽水荘には共同の大浴場しかありません。あとは近所に銭湯があるだけです。快適さの観点から私はしばしば銭湯に通うのですが、外に出るのが面倒な日は共同浴場を使うのもやぶさかではありません。

 

「そうですが、何か」

 

「上杉さんからもらった入浴剤、使えなくない?」

 

「あ」

 

 

 

 ◯

 

 

 

 翌日の正午過ぎ、大学の図書館にて教職教養問題集を捲っていると、私を探していたらしい上杉君に早速謝罪の言葉を投げかけられました。

 

「五月、すまん! 渡した誕生日プレゼントのことなんだが……!」

 

 ストイックな彼は、風呂無し部屋へ住む私に入浴剤を贈呈するという自らの失態に気付き、ひどく錯乱しているようでした。

 

「ちょっと、上杉君。声が大きいですよ。お話なら外で聞きます」

 

 私はあたふたと落ち着かない彼を宥めました。

 全く。そんなに慌てるだなんて、あなたらしくない。

 いつの間にか、本棚に向かい合って目当ての書籍を探す学生や、二階から吹き抜け越しに覗く学生やらの注目を集めていましたので、私たちはいそいそと図書館を出ました。

 爽やかな春の昼下がり、熱心に見聞を深めようとする学生たちの邪魔をするわけにはいきません。

 

 どうやら彼はわざわざ謝罪をするためだけに、休憩中に抜け出してきたようでしたので、図書館を出るとひとまず近場の自販機で飲み物を買って一服するよう勧めました。そうして煉瓦造りの建物に囲まれた城塞のような大学構内をどこに行くでもなく、ぶらぶらしながら話をしました。

 歩道脇に植え付けられた木々はもうすっかり青々とした葉を茂らせています。

 

「全く。わざわざ休憩時間を割いてまで話すことでもないでしょう」

 

 言いつつ、それだけのために私を探し出してくれたのがちょっぴり嬉しかったりします。

 

「時間はちゃんとあるんですか?」

 

「ああ。連休明けの講義で使う資料はもう全て揃えた」

 

「勉学に関しては相変わらずの用意周到っぷりですね」

 

 高校時代は手書きで生徒五人分バラバラの問題集を用意していた彼にとって、パソコンやコピー機を使って仕事ができる今の環境は正に天国なのでしょう。

 まあ、それが当たり前のような気もしますが。どうやら苦労人だと、どんな些細な事でも感動できてしまうようです。

 

「それよりも、すまなかった。風呂のない部屋に住んでいる奴に入浴剤だなんて。ハード持ってない子供にゲームソフトだけプレゼントするようなものだ。俺としたことが抜けていた」

 

「間違えは誰にでもありますよ。気にしないでください」

 

「ともかく埋め合わせさせてくれ。やっぱ飯か? 何がいい? 誕生日だからな、多少は奮発するぜ」

 

 繊細な乙女心を無自覚に粉砕する上杉君。私は思わずいつもの調子で声を荒げそうになりましたが、淑女らしく耐えました。

 からかうつもりで言ってるのならまだしも、彼はいたって真面目に提案をしているのです。

 

 いくら女性への配慮が欠けているとはいえ、そんな彼を罵倒するのは気が引けます。気が引けますが溜め込んでいても自分の体に毒なので、せめて私は心の中で叫びました。

 

 上杉君の馬鹿! なんで私に対してのプレゼントは食べ物って決めつけるの! 

 

 心の内で本音を吐露し上杉君の方を見ると、彼は怪訝そうに私の顔を覗き込んでいました。

 

「どうした。何かまずかったか?」

 

 どうやら内側だけで叫んだはずの不満が顔に出てしまっていたようです。やはり嘘は苦手です。

 私は慌てて穏やかな笑みを取り繕いました。

 

「いえ、別に何もありませんよ」

 

「そうか」

 

 ほっとした表情を浮かべる上杉君。恐らく、また贈り物のチョイスを間違えるところだったと、安堵しているのでしょう。

 まあ、間違えてるんですけど。

 私はそれをやんわり正すように提案をしました。

 

「食事もありがたいのですけれど、できれば私から提案させてもらっていいですか」

 

「もちろんだ。お前の誕生日だからな」

 

「埋め合わせというのであれば、私の面接練習を手伝ってほしいです」

 

「面接……。教員試験のか?」

 

「ええ」

 

 

 それは四葉の持ち掛けた代替え案でした。

 昨日の夜、姉妹の中で唯一風呂無し部屋の私に使い道のない品が贈呈されたと知ると、四葉は自分のことのようにぷんぷん怒りました。

 

「五月はちゃんと上杉さんにプレゼントあげたのに。これは契約不履行ってやつだよね」

 

「まあ、彼もわざとじゃないでしょうし。あとそれ多分意味違います」

 

「ともかく何か埋め合わせしてもらわなきゃだね」

 

「えー、でも貧乏な人にこれ以上たかるのは気が引けますよぉ……」

 

「じゃあ高校生の頃みたいに勉強みてもらえば?」

 

「勉強?」

 

「うん。お金も掛からないし、上杉さんなら五月を試験合格に導いてくれるはずだし、一石二鳥だよ」

 

「……確かに。ありかもしれませんね」

 

「でしょ。それに勉強を教えてもらうって建前ならお家デートの口実もつくれるしね」

 

 彼女は「シシシ」と悪戯っぽく笑いました。

 

「家に招くだなんて、まだできません。私たち別に付き合ってるわけじゃないんですし、図書館とかカフェとかでしょう」

 

「じゃあ普通のデートだ」

 

「もう。ああ言えばこう言う」

 

「だって本当のことだもん」

 

 彼女の言う通りです。

 彼をうちに招いて共に時間を過ごすということはそれはもう世間一般でいうところのお家デートであり、カフェに向かい合わせで座る男女二人は周りの人間から見ると普通のカップルに見えることでしょう。

 

 その事を意識すると私の頭は途端に煮立ち「二人きりで勉強なんて破廉恥です!」と支離滅裂なことを口走ってしまいました。

 四葉が「勉強にもデートにも破廉恥な要素は一つもないよ」と冷静に指摘をします。

 

 破廉恥なのは二人きりと意識しただけで色々な想像をしてしまう私の心です。

 それはもちろん、高校生の頃だって彼に教えを乞うべくしてマンションにあげたり、図書室で勉強会の待ち合わせをしたりしていましたが、その時は姉妹皆一緒で、決して二人きりという状況じゃありませんでした。そもそも当時は彼のことを意識していませんでしたので、ただの友達同士として接することができました。

 それが恋心を自覚した今となっては、二人で会うということを大袈裟に捉えてしまい、てんてこ舞いの体を成すばかりでした。

 

 

「暇な時でいいですので、頼まれてくれますか」

 

「なんだ、そんなことか」

 

 私が諸々の熱い感情を押し込めて提案したことなんて露程も知らず、上杉君はあっさり答えを返しました。

 

「そんなことならわざわざプレゼントの埋め合わせじゃなくても、普通に頼まれてやるよ」

 

「そんな。本当ですか」

 

「つーか別に、落ち着いたらお前の試験対策はみてやるつもりだったしな」

 

「けちけちしたあなたらしくないですね」

 

「俺は器の大きい男だ」

 

「器の大きい男はそもそも器の大きい男だって自称しませんよ」と可愛くない言葉が出かかりましたが、施しを受ける立場でそんな指摘をするのは生意気ですので呑み込みました。

 

「元とはいえ俺はお前の家庭教師だ。教え子の目標を応援するのは当然だろ」

 

 そう言って優しく笑う彼を見ると、今までぐうたら学生をやってきたのはひょっとするとこの笑顔を見るためなのかもしれないだなんて、愚かしい考えが頭に浮かんでしまいました。

 

 けれども普段仏頂面な彼がたまに見せる笑顔にはそう思わせても致し方ないほどの魅力があり、高校時代の頃の私は無自覚とはいえ、この笑顔にこそ恋の引力を感じていたのでしょう。

 

 せっかく整えた平常心が乱れ、その揺らぎが顔に表れてしまうのを感じました。ほのかに暖かい波に撫でられたみたいに頬が赤く染まります。

 思わず顔を伏せました。

 

「何だ。ひょっとするとお前照れてるのか」

 

 上杉君が図星をつきました。

 

「違います」

 

「まあ確かに俺のように優秀な男が家庭教師だと恐れ多く思ってしまう気持ちも分かるが」

 

 高校生の頃のようにわざとらしく驕ってみせる上杉君。

 彼らしかぬ洞察力によって図星をつかれたと思いましたがどうやらそれは思い違いのようで、単に友達としてのやり取りを求めているだけのようでした。

 

「美人五姉妹の家庭教師を仰せつかって恐れ多かったのはあなたの方ではないのですか?」

 

「言うじゃねえか」

 

 彼が私に好意を以って接してくれているのは分かりますが、それは決して恋愛的な意味ではなく友達としてのものでしょう。

 一方通行で行きどころを失った恋心が切なく唸りましたが、高校生の頃と変わらない距離感であるからこそ、当時のように生意気な言葉の応酬を楽しむことができました。それがいいことなのか悪いことなのかは別として、今はこの関係を大事にしていく他ありません。

 

「試験対策みてやるのは別として、埋め合わせは何がいい」

 

「そうですね。特に欲しい物も思いつきませんので、どこかお店連れて行ってください」

 

「やっぱ食いっ気じゃねえか。俺が提案したらむすっとしたくせに」

 

「私から言う時は、それでいいんです」

 

「なんだそりゃ」と上杉君が呆れたように笑います。

 

 ごめんなさい、上杉君。

 面倒なことこの上ありませんが、これが女心というものなのです。

 

 図書館周りを一周したところで、上杉君は澄んだ青空に引っ張られるみたいに伸びを一つしました。

 

「そろそろ仕事戻るわ」

 

 私も午前中からずっと図書館に閉じこもって過去問と格闘していましたので、いい気分転換になりました。

 私は彼が法経学部の研究室へと戻ってしまう前に呼び止めて、今日の予定を尋ねました。

 

「よろしければ埋め合わせの件、今日の仕事が終わった後なんてどうでしょう」

 

「今日か。悪いが今日は……」

 

 言いかけたところで彼は不愉快そうに顔をしかめました。

 

 どうしたのでしょうか。まさか、今の今になって私と出かけるのが嫌になっちゃった? 

 

 脈絡のない難色に私は不安を抱きましたが、そのしかめ面はどうやらこちらに向けられたものではないようでしたのでほっとしました。

 

 彼が嫌悪を向ける方向を振り返ると、歩いてこちらに近づいてくるシキマさんの姿がありました。

 

「ようやく見つけた。こんなところで油売って」

 

「休憩中に油を売ろうが喧嘩を売ろうが俺の勝手だ」

 

「可愛い女の子にぬるぬる油売りつけた上に喧嘩するだなんて卑猥な」

 

 シキマさんがこちらに目をやります。

 

「シキマさん。こんにちは」

 

「こんにちは、五月さん。せっかくの連休中だってのに、うちの根暗の相手してもらってすみません」

 

「いえ。いい気分転換になりましたよ」

 

「なら、よかった」

 

「何の用だ」

 

 上杉君が不機嫌そうに尋ねました。彼がシキマさんを嫌っていることは重々承知ですが、仮にも共に働く同僚同士だというのに、この態度はあんまりではないでしょうか。

 

「用も何もありませんよ。あんた、休憩入るなりそそくさ外出るから暇なんですよ」

 

「休み時間は極力外に出るようにしている。お前の顔を見なくて済むからな」

 

「またそんなことを言う。僕は知ってますよ、あなたが言いたいことを素直に言えない不器用な性分の人だって」

 

 そう言ってシキマさんは顔を歪めました。どうやら笑っているようでした。シキマさんは澄ましてさえいればその内面の邪悪を帳消しにできてしまうほどの伊達男であるというのに、笑うのがすこぶる苦手なのです。私の知っている限り、苦虫を噛み潰したような顔で愉悦や歓喜を表す人物は彼しかいません。

 シキマさん曰く上杉君は「大の親友」とのことでしたが、上杉君曰くシキマさんは「倒すべき敵」とのことです。相反する二人の主張は私を大いに困惑させましたが、彼らと過ごしていくうちに薄ぼんやりと理解をしていきました。彼らの奇妙な友情の正体とは、生涯初めての恋人をシキマさんに奪われたという上杉君の憎悪と、上杉君を手玉に取りせせら笑うシキマさんの歪んだ愛情が交錯しあった結果なのでしょう。

 

「言っておくが、俺はお前に対して嘘などついたことはない。浴びせる罵声の全てが本音だし、何かお前を賛辞することがあればそれは言い間違いだ」

 

「そうやってつまらない意地ばっかり張ってるから損をする、馬鹿を見る、顔付きが陰険になってくる、果ては人がどんどん離れて孤立する。ねえ、もっと楽しくいきましょうや」

 

「お前に何が分かる」

 

「あらら。その言い草はあんまりじゃありませんか。僕はあなたの恋人よりあなたのことを理解していたというのに」

 

 そう言ってシキマさんが妖怪のような笑みを浮かべるのを目の当たりにすると、上杉君はその黒曜石のような瞳をさらに黒々とさせていきました。目から光が失われていきます。

 

「お前、口に気を付けないと時計台に縛り付けるぞ」

 

「五月の時計台は陽が差してさぞ気持ちいいでしょうなあ」

 

 シキマさんの軽口を受けて、上杉君が一歩踏み出しました。まるで見えない縄を携えて、シキマさんを吊るし上げようとせんばかりの怒気を以って迫ります。

 

「ちょっと。喧嘩しないでくださいよ」

 

 私が仲裁に入ると上杉君は「別に喧嘩じゃねえ」とバツが悪そうに言いました。そうしてシキマさんをジロリと睨みつけてから踵を返し仕事へと戻ってしまいました。

 彼が去って私はシキマさんと二人、陽光のちらちら差し込む街路樹の下に取り残されます。

 

「シキマさんと上杉君はいつもこんな感じですよね」

 

 私は呆れて言いました。彼らがここに来て以来、私はしばしば二人がキャンパス内をてんやわんや奔走しているのを見かけるのですが、その度に彼らは何かしらの口論をしているのです。そして喧嘩したと思った次の日には下らない雑談でくつくつと笑い合っていますので、心配するのも馬鹿馬鹿しいのでした。

 

「これが我々なりの交友なのです」

 

「それにしたって、さっきのは上杉君が怒っても仕方がないと思います」

 

「本当のことを言ったまでです。僕は彼の恋人より彼のことを知っていたつもりですし、彼女が本当に愛していたのなら浮気をすることもなかったでしょう」

 

「浮気相手の張本人の台詞とは思えませんね」

 

「いずれにせよ、僕なんかの邪魔でだめになる恋路なら遅かれ早かれ潰えていましたよ」

 

 悪びれず言うのでした。頭上を覆う緑色の天蓋から小鳥の囀りが聞こえます。その鳴き声が彼の声に同調しているかのように響くので、私はひどく不気味に思いました。

 

「それに彼が振られたのはあなたにとっても好都合でしょう?」

 

 認めたくありませんが、その通りでした。上杉君の話を聞く限り、二人はシキマさんに恋路を阻まれるまでは何事もなく愛を深めていたようでした。もちろん純粋に彼の幸せを願うのであれば、彼らの歩む道の幸せを心から喜んであげるべきです。しかし私の抱いている感情はそれと正反対のものでした。昨日の四葉とのやり取りが頭に浮かびました。

 どちらも相手を想う気持ちは同じなはずなのに、心の底で祈りを手向ける相手が決定的に違うのです。分かっていますが、それでも今の自分の気持ちは変えられないでしょうし、変えるつもりもありません。私の心の底にいたのは結局自分だけでした。

 

「嫌なこと言いますね」

 

 苦い笑みを浮かべました。

 シキマさんの言う通り、彼が上杉君の恋人を奪ってくれたことは私たちにとっての好機だったのです。密かに気付いていたことですが、それをわざわざ口にして指摘するだなんて彼は本当に性格が悪いです。

 

「すみません。可愛い女の子には意地悪したくなってしまうのです」

 

「誰彼構わずそういう事言うのやめた方がいいですよ」

 

「ほう。自分にだけ言ってほしい、と」

 

「違います」

 

 生まれてこの方、シキマさんほど口説き文句を投げかけてくる男性に出会ったことがありません。元々異性との交流には積極的になれなかった上に、唯一関わりがあったの異性はあの上杉君だけです。当然堅物の彼がこのように大けざな口説き文句を垂れてくることはありませんでしたし、褒めてくれたとしてもそっけないものでした。

 シキマさんは如何にも胡散臭いですが、その薄い唇から自然に流れ出る甘言を受け止めれば、きっと多くの女性が彼に騙されることでしょう。持ち前の男嫌いと上杉君から聞いたシキマさんの悪行がなければ、単純な私は案外あっさり流されていたかもしれません。

 

 彼はとどまることなく軽薄な口説き文句でからかってきますので、褒められ慣れていない私は受け流すだけで精一杯なのでした。彼は私の垢抜けない反応を一々確認して楽しんでいるようです。

 

「ねえ、五月さん。僕はやっぱりあなたが好きだな」

 

 続けざまに流れる甘言と同じ調子でシキマさんが告げました。紙切れみたいにペラペラな言葉の先っぽが私の心をくすぐります。

 

「好きですので、あなたと彼がくっつくの手伝いますよ」

 

「え」

 

 耳を疑いました。上杉君曰く人の不幸をおかずに飯を三杯食うというシキマさんが、そんなことを口にするとは思えなかったのです。

 しかし油断せず次の言葉を待つと、やはりシキマさんの色魔たるが所以がまろび出ました。

 

「その代わり、あなたのお姉さんたちのことを色々教えてください」

 

「なんだ、そういうことでしたか。私に姉たちを売れってことですね」

 

「そんな、人聞きの悪い。僕は純粋に興味があるだけですよ」

 

 そう言ってシキマさんは悪い顔をしました。

 

「彼、堅物のくせに妙に女の子慣れしてるって昔から不思議に思っていたんです。こんな美人五姉妹に頼られていたのだから、それもそのはずですよね」

 

「シキマさんは私たちのこと何も聞いてなかったのですか?」

 

「あの人は自分のことを話しません。高校時代家庭教師をしていたことは知っていましたけど、その相手がまさか五つ子だったなんて、この前の花見会で初めて聞きました」

 

 複雑な気持ちになりました。頭脳を綺麗に五等分した瓜五つの五つ子おバカ姉妹だなんて、雑談の話題に困ることのない天下一品のネタでしょうに。高校を卒業した後の彼は、そんな私たちとの思い出を話題にあげることすらうんざりしていたのでしょうか。

 

「私たち、鬱陶しがられてたんですかね」

 

「そんなことはないと思いますよ」

 

 シキマさんは言いました。

 

「どうせあの不器用者のことです。あなたたちをきつい言葉で突き放した以上、みっともなく過去の思い出に浸ることを良しとしなかったのでしょう」

 

「……確かに。上杉君って結構面倒くさい人なんですよ」

 

「そうです。だから安心してください。彼は決してあなたたちのことを忌々しく思っていたわけではありません」

 

 彼の端正な真顔から漏れた暖かい言葉を受けて、私は油断しかけましたが、彼が百戦錬磨の色男であるということを今一度念頭に置いて身を引き締めました。罠とはいつも甘い匂いと共に仕掛けられているものです。

 

「僕が彼のような性分の人間と仲良くなれたのは、元を辿るとあなたたちのおかげのような気がするんだな。だから僕はあなたたちと仲良くなりたいのです」

 

「それはもちろん、私だってそうしたいです。けれども仲良くなったとして、私の姉に手を出さないと約束できますか」

 

「僕はこれで紳士のつもりです。無責任な約束はできませんな」

 

 シキマさんは威張って言います。

 

「それでしたらこちらも易々姉をあなたに渡すわけにはいけません。あなたから私への協力も結構です」

 

「残念」

 

 記号のように宙に文字を一つ浮かべただけで、残念そうな意は微塵も感じ取れませんでした。

 心が空っぽなのだと思いました。余計な思念がないからこそ、誰に罵倒されようが傷付かず、己の欲に忠実でいられるのでしょう。自身の心が希薄である故に却って他者の心を自分の存在で満たすことができる、それはなんだかひどく淋しいことのような気がしました。

 

「私、シキマさんのことは好きになれそうにありません」

 

「嫌いだとは言わないのですね」

 

「ほとんど嫌いですが、完全には嫌いたくありません」

 

 だってあなたはあの人と友達でいてくれたから。

 

 上杉君のような厄介者を理解できてしまうのは私たちだけだろうし、いっそ私たちだけでいい、そう思っていました。彼を一言に無愛想だと切り捨てる人たちには一生分かりっこない美質を私たちが知っているというそれだけで、ある種の優越感に浸っていたのです。

 そしてこれは女なら誰もが持ち合わせる、他者を付け入らせない息の詰まるような独占欲だとばかり思っていましたが、彼のことを好いてくれる人が他にもいたと知ると、意外にも穏やかな心地になったのです。

 もちろん、上杉君の元ガールフレンドや、その彼女より上杉君のことを知っていると自負するシキマさんへの嫉妬の火種は仄暗い闇の中でゆらゆら揺れています。しかしそれとは別に上杉君のことを好いてくれた彼らに感謝を抱き、嬉しく思っている自分がいるのでした。

 

 上杉君のような厄介者と付き合っていけるのは、彼に負けず劣らずの変わり者だけです。つまり私たち姉妹とシキマさんはろくでもないところで似通っていたのです。そういう意味では、この女の敵とでもいうべき色魔を嫌いになりきれないでいるのでした。

 

「なるほど。彼の顔に免じて、ということですか」

 

 シキマさんは、面白くて仕方ないといった感じでくつくつ笑いました。

 

「あなたは彼とよく似てる。お似合いですよ」

 

「ありがとうございます」

 

「お似合いですが、敵は多いでしょう。勝算はあるのですか?」

 

「とりあえずは今宵、ディナーに誘おうと思っていた次第です」

 

「今日の夜、か」

 

「やっぱり何かあるんですか? さっき上杉君に聞いた時も、言葉に詰まっていたのですが」

 

「実は今日の仕事終わり、教授の奢りで夜ご飯を食べることになっているのです」

 

「そうだったんですね」

 

 露骨に肩を落としてしまいました。落っことした肩をそのままに私は「どこで食べるのですか」と尋ねました。

 行かないディナーの情景を思い浮かべ、空きっ腹を痛めつけてしまうのは私の十八番です。

 

「えーと、確か……祇園の近くにあるとかいう、ほらあれ……。あ、あ、思い出した。菊水とかいう古くさいレストラン」

 

「菊水」

 

 菊水は京阪本線祇園四条駅地下から出てすぐに建っている老舗の洋食屋です。

 

「今年はゴールデン・ウィークの早いうちからビアガーデンを開いているそうですので『先駆けの一本槍を入れるべし』ってうちの教授がふんぞり返ってました」

 

「ビアガーデン」

 

 菊水。ビアガーデン。

 二つのキーワードを受けて、うちの三玖も彼氏と一緒に菊水のビアガーデンに遊びに行こうと意気込んでいたことをふと思いました。その予定が確か、誕生日が終わった次の日、つまり今日だったような。

 

「どうかしました?」

 

「いえ、何も」

 

 五月の風が頬を涼しく撫で付けました。

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