あれから10年経ちました。 続・使徒に憑かれた三号機の中のアスカを助けに言ったら僕がヴンダーの艦長になった件について   作:モーター戦車

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第2話『北の地にて』Interlude:挫けない唄 前編

EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

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 EPISODE:2 No one is righteous,not even one.

 

 Interlude:Indomitable song

 

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 後に聞かされた話だが、私はどうもアヤナミシリーズ初期ロットの中では、とりわけ出来が悪い個体であったらしい。

 

 と言っても、生命体としての出来ではなく、ゼーレやネルフが人類補完計画に用いるにあたって適さないという話であり、生命体としてはむしろ健康な部類だった。

 

 ゼーレやネルフにとり、アヤナミシリーズとはリリスとヒトの狭間にあってエヴァとヒトを繋ぐためのヒトの姿をした祭具であり、ゼーレの計画のための、神の運命を自らが望む運命へ導くため、個体としての運命を仕組まれた子供を指す。

 

 そういう意味合いで言うならば、つまり私はヒトに近すぎた。本来であれば不良品として破棄されていた個体というわけだ。

 

 ただ、先方にも、生産で支障でも生じたか知らないが、ともかく都合があったのだろう。

 

 14年前、LCLシリンダーでの睡眠保管状態から解放されたばかりで、まだ自我が充分覚醒しないまままま月・宇宙往還機に乗せられタブハベースを出立した私は、10才相当の肉体年齢で、ユーロネルフロシア支部に、研究用個体という名目で送り込まれた。

 

 今にして思えば、多分私はあの第三新東京市戦役の混乱を深めるために投入された、数多アヤナミシリーズセカンドロットと同様の役目を担わされていたのだろう。

 

 とどのつまりは、第三新東京市戦役をなるべく賑やかにするためだけに生まれて死ぬ、無名のエキストラとしての出演者だ。

 

 数多のネルフ支部が、それぞれに提唱する、自分たちだけが美しいと密かに夢想する独自の『人類補完計画』を遂行し、同時に他支部の『人類補完計画』発動を妨害擦る必要を感じていた。

 

 彼らは三号機事件後の第三新東京市でのPKO活動名義で軍事力を現地に展開、ハコネというごく狭い寸土に築かれた、使徒迎撃専用要塞都市の奥底に安置された、旧生命種の祖先たる第二使徒リリスを手に入れんと、一斉に軍事行動を開始した。

 

 その結果として発生した、ごく短期間ながら壮絶を極める、手段も犠牲もいとわない、慈悲なき戦争状態の混沌へと、第三新東京市は引きずり込まれたのだ。

 

 人類史上でも有数の、短期間で終わった戦争の一つではある。

 

 しかしこの戦争で用いられたのは、各支部が何処からか大量に仕入れたナンバーレス・エヴァンゲリオン。人類史上最強の、あらゆる兵器を無効化するATフィールドという鉄壁の守りを有した決戦兵器であり、しかもそれぞれが特定の儀礼条件を達成すれば、世界全てを書き換えることで今の世界を過去へ葬りうる、兵器というよりもはや呪具、祭具とでも言うべき代物だった。

 

 疎開しそこねた、ないしは疎開の必要がないと思っていた近隣都市の住民は、容赦なく爆撃や砲撃、流れ弾の犠牲となった。

 

 そして、とうとう最後には地球全土を巻き込み、歴史上最も多くの被害者を出した戦争とも言える。一応『犠牲者』ではないらしいが、本当にそうか、怪しいものだ。

 

 ともかく各国の軍隊と各支部の補完計画を託されたエヴァンゲリオン同士が、展開した国連軍所属の軍隊同士が、狭苦しいハコネという山がちな土地にひしめき合い、殺し合った、

 

 何のことはない、要は各支部上層部のパラノイア共がそれぞれに抱く、エゴと理想の押し付け合いと否定しあいだ。

 

 ゼーレにとっての私とは、その馬鹿げた戦いに、他のネルフ支部のセカンドロットたち同様、ロシア支部のエヴァとしてロシア軍と共に参加し、ゼーレとネルフが定めたサードインパクト遂行のため、他支部の意図を相互に潰し合うように動いてくれればいい程度の存在だったのだろう。

 

 エキストラとはそういうことだ。配役としての名前すらない、無数のアヤナミレイの一人として、盤を賑わせ、ゼーレの望む状況と運命を決定づけるためのその他大勢。

 

 あの胡散臭いカジという男が、第3新東京市戦役よりだいぶ前に、世界の真実として、副司令に渡した情報は、本当に世界の真実だったということだ。

 

 通りでほかの初期ロット達と異なり、管理はロシア支部に丸投げ状態、その運用についてろくすぽゼーレから口出しがなかったはずだ。

 

 何しろ私は欠陥品。使いみちのない廃棄物だが、だからこそストーリーのカバーに丁度いい代物でしかない。

 

 ゼーレないしはネルフによって、祭具たる役目を演じるよう定められたアヤナミシリーズは、リリスとヒトの狭間の存在であらねばならず、故に生命として極めて曖昧であり、そう長らくは形象を保つことが出来ない。

 

 故に、アヤナミシリーズは、その存在を維持するため、各ネルフ支部に与えられた形象維持施設や、あるいはプラグスーツ等の補助が必須となる。

 

 しかし、私はと言うと、そうした諸々の施設の利用を、ほぼ必要としなかった。要するに元気すぎたのだ。

 

 基本的に何をしようが構わないエキストラの群れに、アヤナミシリーズの真実から世間の目をそむけるために投じた、『人間として生きられる』アヤナミレイ。

 

 エヴァパイロットの真実から最も遠い、決して奇跡を起こし得ない、エヴァとのシンクロができるだけが取り柄の、出来損ないの欠陥品には、その程度の役目がお似合いと思ったのだろう。

 

 公的には、いずれバチカン会議を経てロシアへ正式に貸与・配備されるであろう、対使徒用の決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオンを操れる希少な存在として、マルドゥック機関から先行配備された専属パイロットという体裁となる。

 

 いわば使徒が怖い、エヴァがほしいとぐずる子供を宥めるために、そのうちエヴァを上げるから我慢して頂戴と渡す、ヒトの姿をした飴玉といったところだろうか。

 

 ただ、そんなことはプルコヴォ国際航空宇宙港に宇宙往還機が到着した時点で、ようやく脳に仕込まれた自我が本格的に発動し始めたばかり、という有様だった私には、知るよしもなかったのだ。

 

 当時の私が保有していた『データ』と呼べるものは、出荷時に脳に仕込まれ、月から地球への旅路の過程で解凍・インストールされるよう設定されていた、10才相応の知識と行動パターンぐらいのものだった。

 

 いわば買って電源を入れられたばかりのパーソナルコンピュータのように、私はがらんどうだったのだ。機密情報のきの字も知らない、記憶がないだけのただの子供だ。

 

 本来のアヤナミシリーズであればリリスのいわば分霊ともいうべき権能により、末裔たるヒト相手であれば行える他者意思把握も、欠陥品なので私は持ち合わせていなかった。

 

 あの状態の私は、誰がどう見ても、記憶喪失病みの10才の子供であり、リリスがどうの、奇跡がどうのというよくわからない事柄とは、まるで無縁の、どこにでも居る子供にしか見えなかったことだろう。

 

 ここはどこ?

 

 この乗り物はなに?

 

 体が妙に重いのはなぜ?

 

 意識が機能し始めたあたりからは、同乗していたロシア支部の担当医務官に、質問の嵐を投げていた気がする。

 

 その医務官も、私については、せいぜいが『個体クローニングされた人造パイロット』程度の説明しか受けておらず、またメンテナンス方法もそれに準拠した程度しか教わっていなかった。

 

 後日、ユーロネルフから下賜された私用の呪詛文様式LCL形象固定装置についても、せいぜいが怪我や火傷を直すのに使うと便利なもの、程度に解釈していたし、与えられた説明書もそのような代物だった。まあ、徹底的に真実から、遠ざけられていたわけだ。

 

 まあ、医務官に言わせると、月に到着してからは、悪い意味で驚きの連続であったらしい。

 

 なにしろ使徒という未知の生命体にして、現用兵器では全く歯が立たないらしい存在への決戦兵器、建造予算が国の2つや3つ簡単にひっくり返る程度の兵器の化け物、人造人間エヴァンゲリオンの専属パイロットだ。

 

 よほど特殊な存在なのかと気を引き締めて臨んでみれば、引き渡されたのはどう見ても10歳児。特徴といえるのは、遺伝子の関係か髪と目がアルビノ特有のそれで、あとは日本語話者であることぐらいだ。

 

 特にエヴァパイロットとして特殊な教育を受けた形跡も会話からは嗅ぎ取れず、子供特有の、無邪気な好奇心に任せた言動を連発し、エヴァについての質問をしても『わからない』『知らない』『エヴァって何』などと返答したそうだから、多分内心暗澹たる気分だったことだろう。

 

 とはいえ、そんなどう見てもアルビノだけが特徴のただの子供を、プルコヴァからサンクトペテルブルク近郊のロシア支部指令所に連れ帰り、到着早々に施設のエントリープラグを利用してシンクロテストをしてみたところ、一応エヴァを起動できる程度のシンクロ率を達成したので、一安心はしたそうだ。

 

 私の引き渡しにあたって、結構な金額のやりとりや、マルドゥック計画へのさらなる金銭・船舶貸与等の、マルドゥック計画の真実にはふれようのない、けれど国としてかなりの負担となる協力等、色々な取引を強いられたそうなので、それで引き取ってみたらただの子供でした、ではたまったものではあるまい。

 

 そんなわけでシンクロテストを終え、月に送り返されることもなく、ロシア支部に無事受領された私は、第一発令所に招かれ、奇妙な歓迎の儀礼を受けた。

 

 ヒトとして目覚めたばかりもいいところの私は、当然右も左もわからない異国に放り込まれた孤児もいいところの状態だったので、ただひたすらに困惑していたそうだ。

 

 そんな私の前に、とても大きな丸い黒パンを乗せたトレイを両手で持った、亜麻のブラウスに、ロシアの伝統的装束であるサラファンというワンピース・ドレス(色は赤だったと記憶している)を纏ったロシア支部の若い、長い、すこし黒みを帯びた金髪を三編みに結った、肌が白く、とても端正な顔立ちをした、いかにもロシア人(もちろん当時の私が彼女をロシア人と認識していたわけではなく、きれいなひとがきた、だれ、程度の困惑しか心にはなかった)女性職員が歩み寄ってきた。

 

 その女性職員は、私でも背を伸ばさずに手を黒パンに伸ばせるよう、その場に座り込んでトレイを私に差し出し、親愛さを込めた笑顔を私に投げかけながら、言葉を発してきた。

 

「Я-Виктория. Очень приятно Рей」

 

「やー、びくとーりや、おーちん、ぷりやーとな、れい?」

 

 その頃の私には全くロシア語がわからなかったため、相手の言葉をオウム返しに答えながら、しげしげとトレイに乗った大きな大きな黒パンと、その上に盛られた塩を見つめた。

 

 相手の女性職員が、にこやかに私に目を細めると、私の隣に佇んでいた私の担当の医務官に、困惑気味の視線を投げかける。

 

 医務官はやや挙動不審な様子で一瞬目を泳がせたけれど、滑舌のあまり良くないロシア訛りの日本語で私にたしか、こう言った。

 

 その黒パンをちぎり、上に乗せてある塩を少しつけて食べて下さい、遠くからきたお客様を迎えるこの国の習慣です。

 

 そのように言われて(実際にはもっと拙く酷い、聞き取りづらい日本語だったはずだが、昔のこと過ぎてよく覚えていない)、私は素直に従い、黒パンをちぎり、ひとつまみ塩を取って、食べた。

 

 実のところ、それは私の人生で初めて食事をした体験であるわけなのだが、アヤナミシリーズについてほぼありとあらゆる情報を秘匿された状態も同然の医務官にそんなことがわかるわけもない。

 

 なので、当然私の反応は、先程にも勝る凄まじい困惑となって表れた。

 

「口の中がへん、もそもそする。舌に別のかんじがある。これはすっぱい? これはたべものなの? それにこのこな、舌がひりひりする、これはしょっぱいなの?」

 

 私が投げかけた疑問まみれの日本語を聞き、医務官は少し苦笑した。トレイを持った女性職員に、ロシア語で何事かを話しかける。

 

 女性職員は軽く微笑むと、トレイを近くにあったオペレーター席のサイドデスクに置き、そのサイドデスクの引き出しを開いた。

 

 そうして赤ん坊が印刷された紙に包まれた、小さな板切れを取り出し、まず表面の包装紙、ついで内側の梱包の銀紙を丁寧に剥がす。

 

 そうして表れた黒茶色の板を、割れ目に沿って割り、そのひとかけらを私の開いた左手をとり、手のひらの上に乗せた。

 

 そして、彼女は一度手にした板をサイドデスクに置くと、再び座り込んで私と視線を合わせ、自身の空いた左手を自身の右手で指差し、空の左手から何かをつまみ上げるような仕草をし、そのまま口へ運び、口を何度か私に開閉してみせた。

 

 食べてみて、ということらしい、とその時の私は認識した。

 

 私は左手の上に置かれた小さな黒い欠片を僅かな時間、じっと眺めていた。というのも、初めてモノを口にした経験が、快適と感じられず、口の中でむしろ不快と感じられたからである。

 

 今の私にはわからないが、10年前の私であれば、おそらく味覚は日本人のそれに近かっただろう。

 

 黒パンを日常的に食べる民族以外は、酸味があり、密でどっしりとして麦の豊かな味がし、食べごたえがあり旨い黒パンを、意外にもさほど美味しいと思わないようだ。おそらく、白パンのように柔らかくなく、甘味もないからだろう。

 

 ともかく、当時の私がその時の体験から、モノを口に入れる行為がイヤになりかけていたのは間違いない。子供は物覚えがとても早いが、同時に自らの体験に素直で、嫌だと思ったら是が非でも嫌だとなってしまうところがあり、だから育児は大変なのだ。

 

 それはそれとして、目の前の女性職員が何度も食べるふりを繰り返すものだから、それならとりあえず一度は、となった私は、その黒い欠片を口に入れた。

 

 最初の一瞬は、そのまま『板が口の中に入った』という感想を覚え、やはり口にものを入れるのは良い行為ではないのではないかと確信し始めた矢先、口の中で体温と唾液により、それが緩やかに溶け始めた。

 

 その時の感動は、正直言葉に言い表し難い。一度痛い目をみてから、今度は逆に口の中が天国になった、とでもいうか。

 

 濃縮された『甘い』『おいしい』という感覚の人生はじめての体験は、それこそ雷に打たれたような驚きと感動を私に齎し、どうも一分ほど咀嚼し口の中で舌をしきりに動かしながら、その割に目も身体も金縛りのように硬直させて立ち尽くしていたらしく、当時の職員に言わせれば『この子は本当に大丈夫なのか』『エヴァパイロットとして生まれた子供だから普通の人間と色々違うのだろうか』という不安と困惑を、当時その場に居た全員に、強烈に惹起したそうだ。

 

 実際、コアからのサルベージなり、リリス組織から形象化されるなりで生産されるアヤナミシリーズであるわけだから、普通の人間とは色々違うのが本来だが、それはそれとして人として作られた部分はあり、またその人としての要素が濃すぎる欠陥品であった私は、全く問題なくその味を感動とともに受け入れる事ができた。

 

「わからない。さっきのものとぜんぜん違う。これが『おいしい』なの? わからない。ただ、もっとほしい。もっと」

 

 そういって、目を大きく見開き、表情こそないものの、瞳を好奇心と感動でいっぱいにして輝かせながらおかわり(無論、当時の私にその概念はなかった)をせがむ私に、クローニングで生まれただけに色々と性格と育ち方が変わっているようだが、本質的にはエヴァに適正があるだけのごくごく普通の子供らしい、とスタッフは安心したようだった。

 

 その板切れをもらっては口に運び、そのつど感動に硬直する私を見て、これはパイロット育成というよりも、出勤スタッフ交代交代、総掛かりでの育児になると、皆腹をくくり、覚悟を決めたらしい。

 

 人民を使徒の脅威から守るための任務として、風変わりな子供を育てる事になったロシア支部の人々の気持ちについては、わからない。

 

 まっとうに育った20代の、良識も常識もある成人を、戦場で使える上に生き残れるようにするまで育て上げるまででも大変なのだ。

 

 さらにそれが、素質があるのでこの子を前代未聞空前絶後、現代文明では全ての解析は不可能である、謎深きヒト型決戦兵器の専門職たるパイロットに貴方方が育て上げなさい、などという要求をされたとなれば、正直思考を拒否したくなる。

 

 いくら操縦が思考操縦式、ヒト型であるからシンクロできるならば自分の身体を動かす延長感覚で動かせる兵器であると言っても、作戦に合わせ行動を管制するためには大量の専門用語とその意味を教える必要がある。

 

 当時ロシア支部が握っていた汎用人型決戦兵器についての開示情報と、着任当時の私の非常識ぶりを考えれば、仮に使徒が来たとしても(無論、使徒の目的は第二使徒リリスであるわけで、第三新東京市に一種のデコイとして据えられたリリスへと本能的に近づいてゆく特性があり、故にこそ使徒迎撃専用要塞都市として第三新東京市が整備され、機能していたわけで、ロシア支部へ襲来するわけがないのだが、その事実を秘匿された時点で、当時のロシア支部の置かれた孤立状態が察せられる)何も考えず市街地で使徒と大暴れした挙げ句、市内各地の重要史跡を踏み潰し砲撃で破壊しなどという大惨事を引き起こしかねないところがあった。

 

 エヴァンゲリオンという兵器にはそれほどの力があり、そしてそのような恐ろしい力を与えるには、私はあまりにも幼すぎたわけで、皆、口にこそしなかったが、内心途方にくれていたことだろう。また、当然私に対して抱いた印象や感情も、人それぞれに違っていたはずだ。

 

 しかし、その場に居た大人たちは、先程の板をくれた女性職員や、月まで私を迎えに来てくれた医務官も含め、みな一様に同じ表情を浮かべていた。

 

 あるいは本来のアヤナミシリーズとしての機能が備わっていたなら、彼らが浮かべた上っ面の表情の内側、その心を直接汲み取ることが出来たのかも知れないが、当然、欠陥品の私にはそんな能力は備わっていなかったし、当時の私に欠陥品としての自認はなかったわけで、彼らの当時の心の状態を知るすべなどあるはずもない。

 

 何かを言われ、医務官が下手な日本語で訳し、私が女性職員が次々に割って渡してくる板を食べることに夢中になり、上の空で見当外れの答えを返していく奇妙な一時が流れたあと、ふと私は思ったのだ。

 

 彼らは、一様に同じ表情を形作っている。

 

 板切れの正体も、美味しいの意味もわからない当時の私は、それでも直感的に思ったのだ。

 

 こんなにも口の中が良くなるものを与えてくれたひとたちが、先程まではてんでばらばらだったのに、今は皆揃いも揃っておなじ顔つきになっている。

 

 みんな同じ顔になっているということは、なにか意味があるのかも知れない。

 

 無論、それにどの言葉を当ててはめればいいか、当時の私に分かるわけがなかった。だから、とりあえず意識して、彼らの顔の形を、自分の顔の筋肉を動かし、意識的に真似をした。

 

 両頬に少し力を入れ、頬を釣り上げ、眉の端を下げ、目を細めて、そうやって、その場にいる大人たちの一人ひとりの顔を見つめた。巧く真似をできるよう、一人ひとりを観察しながら。

 

 そして、最後にパンと板切れをくれた女性職員が、また板切れをひとかけら割って私に渡そうとしたタイミングで、私は彼女の、欠片をつまんだ手を、両手で挟み込むようにした。

 

 そして、彼女の手の暖かさを無意識に感じながら、彼女の両目を見つめ、今まで見てきた大人たちの表情を色々見比べ、多分これが一番よさそうだ、という形に、自身の表情を作って、向けた。

 

 彼女の表情から一瞬その表情が消え、そして、次の瞬間、もっと深く、私が真似をしている表情が浮かび上がった。私は、たぶんその時初めて『嬉しい』という感情を、言葉の意味も知らずに感じ、一層自らが形作っている表情を深めたのだ。

 

 巧く真似できたかどうか、今となってはわからない。もちろん、彼らに聞いたことはない。今となっては聞きたくとも、聞くすべがない人々も多い。

 

 ただ、彼らの印象を知るヒントはある。

 

 それは、当時の私のあだ名だ。

 

 呼び始めたのは、私に板切れ──アリョンカ・チョコレートをくれた女性職員、戦術オペレーターのヴィクトーリヤで、それを真似始めたのが私の主任医務官だ。そのままそのあだ名は、あっという間に支部に浸透していった。

 

 なぜなら、私がそのままその表情を気に入ってしまい、その表情で居るとなぜか気分がいいので、四六時中浮かべるようになってしまったのだ。

 

『笑顔のアーニャ』。

 

 ロシア支部着任の日以来、長らく私はそのあだ名で呼ばれるようになった。

 

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 以降の日々は、長かったようにも、短かったようにも感じる。

 

 私は生活の中で徐々に(医務官どのに言わせると、驚くほどの速さで、だったらしいが)ロシア語を身に着けて使いこなす様になっていたし、笑顔以外の表情を知り、その表情と心、言葉の相関性を脳内で結びつけ、笑顔以外の表情も浮かべるようにはなった。

 

 ときにはヴィーテニカと、まだこの国がソヴィエトであった頃から存在する老舗のカフェチェーン、『セーヴェル』で紅茶やコーヒー、ケーキに舌鼓を打った。

 

 それにしてもネフスキー大通りにはあんなにも沢山の『セーヴェル』があったのに、なぜモスクワでは見かけなかったのだろう。訓練や勉強で忙しく、モスクワに行った機会は多分指二本で数えられる程度しか行っていないし、モスクワ人とペテルブルクの人々では話し方からライフスタイルまで随分違いを感じる。

 

 当時の私は『セーヴェル』スメタンニク──ロシア風サワークリームのケーキだ──を月に複数回は食べないと生きている気がしなかったので、支部がモスクワになくてよかったと思っていた。『セーヴェル』はチョコレートケーキも最高で、他にも美味しいケーキが無数にあり、多忙な私にとってそれは常に脳が欠乏を訴える糖分を補充するための必要行為であったのだ。

 

 そんなにカロリーを摂取したら太るのではないか、と思われるかも知れないが、まったくその心配はなかった。

 

 肉体年齢で言うと、12才(ついでにいうと、書類上の年齢も12才ということになっていた。本当にその年、その日に『生産』されたかは、今はどうにも知りようがない)を越えたあたりから、エヴァでの戦闘行動に対応するため、生身での軍事訓練を受けるようになったのだ。

 

 その訓練の激烈さといったら、宇宙港から昔の事は覚えていないが、こんなことになるのなら、月とやらで一生目覚めることもなく、ずっと眠っていればよかったと生まれてきたことを後悔するほどだった。

 

 行軍訓練が2時間程度、の場合むしろ青ざめる。長いほうが(こちらもくそったれに悪いが)まだ良い。

 

 短いということはろくでもないルートをろくでもない重装備で急いで踏破しつつ、それに並行して射撃戦などの訓練を行わなければならないことを意味する。

 

 軍服、ヘルメット、ボディアーマー、小銃、くそったれ狙撃銃(これで訓練をするということは、相手の予想を絶対に裏切るためのあらゆる選択肢を選べるよう、狂人でも想像しないような馬鹿げたルートを速やかに行軍できるよう訓練させられるのと同義だからだ)、拳銃、必要に応じスコープだのの、弾薬、装弾済みマガジン、手榴弾、レーション諸々をスリングベルトやらポーチやらホルスターやら背嚢やらに詰め込み、指定訓練地域までヘリなり車なり徒歩なり、必要に応じて移動させられる。

 

 銃などの装備に関しては体格の関係上、私の身体で大人の装備を扱うのは無理があるとわざわざ専用の小型のものを設えてくれてはいるが、握りやすく取り回しやすいというだけで、背嚢だのなんだのを利用して、全てを呪いたくなるほど、骨と足と腰に来る重さになる。

 

 そしてくくりつけた各種重量物のせいで、身体の皮膚となく肉となく、擦ったり削ったり、火傷のようにしてしまったり、仕舞いには内出血を通り越して本当に外傷にしてしまう、体にぎりぎり食い込んでくる忌々しいベルトだのスリングだのに怒りながら、登山趣味もないのに道なき荒廃した山岳を登ったり下ったりを必要に応じて繰り返していた。

 

 きっと教官は、エヴァに乗る前に私に滑落死なり転落死を遂げてほしいに違いないと信じたくなるような、本当に酷いクソルートを馬鹿げた速さで踏破させられたのだ。

 

 訓練開始前に、指定されたターゲットを狙撃するミッションはまだいい。

 訓練に必要ならわざと虚言を言うことすらある、信用不可能な観測手の言葉を元に、全身の五感を使って目標を捉えて狙撃を成功させる程度ならまだいい。

 

 一番最悪なのは、セカンドインパクト以来の温暖化で、泥濘の地獄に成り果てた、かつては永久凍土であった沼沢地や、腐った水が流れる河川を進軍ルートにされたときだ。

 

 水から泥からなにから汚臭や腐臭が漂い、汚らしいアオコだの名前も知らない藻だのが漂う只中をかき分けながら進む経験をしたものは、今の世界に何人残っているのだろう。

 

 背の高い草が生えてそこに身を隠して進めるなら、葉こそ鋭いが装具を工夫すれば肌を守れるし、まだいい。

 

 国家予算が弾け飛ぶ程の超高額兵器専属パイロットたる私が、間違ってもその超高額兵器をクソのようなミスで喪失しないよう、あるいは私のミスでロシアの重要施設や歴史遺産が、狙撃誤射で爆発四散しないよう、世界最高のサディストたる訓練教官殿は、恐れ多くも私などのために全力で知恵を絞られたにちがいない。

 

 さて、腐った水が流れる河川や、腐ったクソのほうがまだましな沼沢地という、身を隠して進める障害物がない地形において、果たしてどうすれば発見されずに進めるのか?

 

 決まっている。

 

 永久凍土というだけに、どんな古代動物の死骸、おそらく腐って跡形もなく泥と混ざったマンモスが混ざっているかもしれない汚泥なり、この中を進むぐらいなら腐った小便の方がまだマシなほどに汚れ腐った水の中を進むのだ。

 

 こんなところを通るやつは狂人か間接的自殺志願者、あるいはバカか特殊なマゾヒストだろうぐらいにどんな用心深いやつでも思い込み、警戒対象から外れるような場所を進むのが、教官殿の愛情深い教えというわけだ。、

 

 その中なら、監視兵や赤外線等の各種探知センサーから、私の姿を隠すことができる。

 

 無論、病原菌だの寄生虫だのに私が食いつかれ、とてつもない病気に罹患するリスクはある。

 

 しかし金額の秤で測るならば、私の勝ちは、エヴァの重さで瞬時に太陽系外まで弾き飛ばされる程に軽い。少なくとも、あの素敵な素敵なメニューを考案された訓練教官殿は、そのように認識しておられるようだった。

 

 そう言えば、セカンドインパクトとやらは海の浄化とやらであり、それで海洋生命がコア化され生命が消失したわけだが。

 

 だったらあの泥沼もそうしてくれればあんな思いはせずに済んだが、生憎セカンドインパクトを起こした阿呆は、反動で生じた温暖化で、とろけてしまった永久凍土が、どれほど不潔で汚らしいものとなるかを、すっかり考え忘れていたらしい。

 

 本当に繰り返しになるが、あれと大便なら大便を迷わず選ぶと言いたくなるほどに、腐臭と多分病原菌で汚れた、数百万年前のなにかの死体が混ざったおそるべきヘドロになるべく深く顔を突っ込み、アオコが浮かんで居る程度ならましな、妙にとろとろと粘液質で奇妙に異様な臭気を発する、腐乱した水の中に潜って身を隠し、どう呼吸するかを以前受けた『指導』を元に知恵を絞り、必要ならシュノーケルまで使いながら行軍するのを想像してほしい。

 

 勿論、万一見つかればやり直しだから私も必死だ。

 

 こんな場所に、一瞬一秒とて居たくない。泥も水も最悪だが、シベリアが夏の頃だけ湧いていたのが、セカンドインパクトとやらのせいで、年がら年中湧くようになった蚊が最悪だ。

 

 ロシアには蚊が居ないと思う者もいるかも知れないが、それは大きな誤りだ。シベリア等のかつて永久凍土だった地域は昔から蚊の楽園だ。雲と見紛うほどの密度で大量に蠢きながら、一度獲物を見つけると一斉に飛んできて、軍服の上からだろうとかまわず吸い付き血を吸うのだ。

 

 巨大さが他所とは違う。幼虫である剛毛まみれのボウフラの時点で1.5センチもある化け物だ。最初など、アクアリウムのメダカと見間違えたほどに大きい。

 

 それが成虫になればどうなり、その針がどれほど長く鋭くなるか想像が付くだろう。

 

 なお、訓練上使うことはなかったが、後で聞いたところ、あらゆる最新の殺虫剤も蚊よけも無駄だそうだ。

 

 まさにシベリアで長年語り継がれた真の伝説と言える。

 

 だが、その伝説を凌駕する存在もおり、ルートによっては真の恐怖たるブヨやアブが襲撃してくる。あれは図体がでかい分、蚊の雲よりも黒く、煩く、恐ろしい。

 

 奴らは針が短い分、きっと欲情した男よりも、布地で隠れていない肌を探すのが巧みだろう。そうした場所を狙ってきて、刺されると恐るべき激痛が走る上に、そこが、まるで鈍器で殴られでもしたかのように腫れ上がる。

 

 刺されすぎて発熱し、泥濘の中に倒れた事もあった。そのまま死ねれば楽だったのだが、エヴァほど高くないとは言え、一応私も相応に高額らしく、即座にMi-24クロコジールが飛んできて私を回収してくれた。

 

 その後一時間以内に、あの優しいが気弱な私専属の医務官殿があの忌々しい調整槽のLCL(その時は本当に死んだほうがマシだと思ったのだ)に私を放り込んで、さらに数時間。

 

 すると半分程度には症状が軽減しており、様子を見て、翌日には訓練が再開される。もちろん訓練は教官殿が私の技量に納得するまで行われる。やはりこの人はサディストなのだなと思ったものだ。

 

 ああ、ついでに言えば、奴らは沼だけでなく、温暖化を生き延びたタイガにも湧く。ついでにいうと森林地帯にはあの呪わしいヒル殿が奇襲の機会を待っておられるので、もはや害獣大決戦の様相を呈してくる。

 

 そもそも奴らの大概が、分厚く進化したロシアの哺乳類の頑丈極まる毛皮をぶち抜いて、栄養に溢れた暖かな赤い血をすするの手段を磨いてきた連中だ。奴らに取り人間の皮膚などスメタナ(ロシア風クリームチーズのことだ)のような柔らかさだろう。

 

 ただ、今の私には、下手に訓練で優しくしすぎて、訓練過程を制定するにあたり何らかの想定外の漏れがあり、その漏れが原因で戦死でもされたら溜まったものではないというのはよくわかるので、だからこそあのような忌々しい、小児趣味の変態のサディストの拷問趣味者でさえ青ざめるような訓練スケジュールを組めたに違いない。

 

 だから、そんな過程を踏んでいけば、拳銃を用いたチーム式の交戦訓練など、実に気楽なものだった。

 一応ボディアーマーなり防弾ベストを狙うとは言え、容赦なくお互いの身体を狙って実弾で撃ち合う程度なので、苦痛がなくて、気楽でいい。

 

 狙いがそれて『戦死』などということもありうるし、防弾装備で防いでも、強烈な衝撃で骨が折れたかと思うほど痛むし、時に本当に折れていることもあるが、くそったれ沼沢地に顔面を埋めるより遥かにマシだ。あるいはいかなるセンサーより目ざとい、ブヨ教官殿数百数千匹による偉大な教育行為よりは。

 

 まあ、このような塩梅だから、運動量は凄まじく、太る心配だけはなかった。

 

 支部に来たばかりのころは、支部の皆が親であり友達のように皆が接してくれ、皆のいとしごとして、愛と共に育てられたのに、今の渡しときたら、地獄に落ちた咎人扱いもいいところじゃない、と、誓いも忘れて毒づいて、何もかもを呪ったものだ。

 

 そして、気安い間柄の相手には、普通に八つ当たりをして、文句を言いもしたし、私の医務官どのには奴らのあれはどうにかならないのかと怒り狂った猫のように言葉で噛み付いた記憶もある。

 

 ただ、実のところ、感情はともかく、理性はかろうじて納得していたのだ。本当にかろうじて、ではあるのだが。まあ、だから、毒づくと言っても、子供が親に甘えて甘ったれるようなものだった。

 

 私も11才の頃くらいから、娑婆の普通の生活や楽しいバラエティ、アニメーション、ドラマや映画に親しみつつ、さらに歴史も学んだ。

 

 ロシアという国が過去どのように、何と戦い、何を襲い、何を攻め、何を守ったか、そうしたものを学ぶのも、私の重要なタスクと支部の人々には認識されていたのだ。

 

 重要なのは、敗北というものが、この世界に何を齎すか、その一点にある。

 

 ロシア支部は、ロシア政府やロシア軍との繋がりが、他国支部よりもかなり深いものだった。(おそらくそのあたりに、ユーロネルフ各支部で最も外様に置かれた理由があるのだろう)このため、教育は、ロシアの義務教育をベースとし、ロシア史が多かったように思う。

 

 つまりは一通り、通史を覚えさせられたわけだ。

 

 ロシアの祖は、リューリク1世ということになっている。ただ、あまり記録が残っていない。伝説の類もあまりないが、ともかく彼が、ロシアの始まりということになっているようだ。

 

 その後、ウラジーミル1世によりキリスト教を以て東ローマと繋がるが、しかしその栄華も、時代とともに廃れた。

 

 そして分裂、紛争という、世界のあらゆる地域の歴史で見られる時代の只中、突如として世界史に大嵐のごとく出現したあの恐るべきチンギス・ハン率いるモンゴル人による侵攻を受けたのだ。

 

 カルカ河畔の戦いでルーシ諸侯連合軍は、大軍の驕りと連携の甘さを突かれ大敗。

 

 ヴォルガ・ヴルガール人たちが敗北を知らぬモンゴル人を一度は打ち破り一矢報いたが、数年後モンゴル人は再び彼らを襲撃し打ち破り、彼らの国を滅ぼし、ヴォルガ川下流にサライの都と黄金の陣幕を針、ジョチ・ウルスを建国、モンゴルへの帰還ではなく定住を始めた。

 

 いわゆるタタールの軛の始まりだ。国家の『敗北』がいかに恐ろしいものを齎すか、私が最初に触れたきっかけだと思う。

 

 この征服過程において多くの人命が失われたかは不明だ。50万とも人口の半分とも言われるが、定かではない。

 

 モンゴル人は従うものには寛容であり、信教の自由を許し、支配もまた緩やかなものではあったが、それはあくまでも従うものにのみであり、彼らは支配するもの・服従するものに、それを拒むならばどうなるかを教えるため、逆らうものには全く容赦せず、殺戮と破壊の限りを尽くし、そしてそれを大いに喧伝したのだ。

 

 多くのルーシの公国が一族を皆殺しにされ、聖職者は聖堂ごと焼かれ、女子供は殺され、都市は金穀畜獣全て価値あるものを略奪された上で、全て残ったひとびとの骸ごと焼き払われた。

 

 故にかつての都キエフは、焼け焦げた廃墟に物言わず動かぬ髑髏の住人が散らばる廃都と化した。ヴォロネジの街は砕かれ、その再建は400年後の事となる。

 

 またジョチ・ウルスが寛容な姿勢を見せるとも、その傘下の遊牧民族は、他の地域でもそうであるように、容赦なくルーシの諸侯から、人々から奪い、そして殺した。

 

 故にルーシの多くの都市と都市が分断され、孤立し、村落も同様であり、商業や社会の長き停滞を招いたと言われる。

 

 このタタールの軛とその影響についてはには、様々な史観や分析の対立がある。

 

 だが、私がエヴァンゲリオンのパイロットとして、この史実より学ぶべきものはただ一つのみだった。

 

 チンギス・ハンと彼の子息たちに率いられたモンゴル人は、まさに恐るべき征服者であった。だが、もっとも残虐な説を取るとしても、彼らの虐殺には限界があった。

 

 恐怖の異名で知られるイヴァン4世とオプリーチニキとて、やはりその虐殺には限度があった。

 

 ロシア帝国の歴史もまた、血まみれており、搾取に呻く農奴と人民の痛苦の歴史は、新たな思想に基づいた新たなる国家、共産主義者達による革命により終わるかと思われた。

 

 しかし、それはやはり新たな帝国を生むことにしかつながらず、それはスターリンによる大粛清という、恐るべき自国民の自国民に拠る相互虐殺を生みさえしたのだ。

 

 さらにその状況下において、東方に民族の活路を見出したアドルフ・ヒトラー率いるファシストに拠る侵攻を迎え、独ソ戦という人類の戦争と虐殺の歴史に於ける一つの金字塔を打ち立てることとなるが、それらの、幼かった私には理解し難い殺戮行為ですら、やはり、限度というものがあったのだ。

 

 では、私が戦わねばならぬ存在である使徒に敗れたらどうなるのか?

 

 曰く、現在の人類の武装では決して打倒できぬ敵手。

 

 曰く、本来の地球の支配者であり、彼らの勝利によりこの地球を満たすすべての生命は過去のものとなり、虐殺や粛清の粋を超えた、抹消の域へと至るとも聞いた。

 

 正直なところ、生命の抹消などと言われても、まるで見当がつかなかった。あの日までは。

 

 具体的な年齢と日にちまでは覚えていない。

 

 ただ、その日、教育・訓練の一環として歴史を学ぶ過程で、この国でかつて行われた様々な圧政と侵略、虐殺の歴史を私は知った。

 

 先程のべた、スターリンの大粛清の話が、私にとっては一番恐ろしかった。

 

 夜のドアノック。

 

 ドアを開けようが開けまいが、結局NKVDにようしゃなく踏み込まれ、そこに住まう人々は、皆どことも知れぬ場所へ連れて行かれてしまう。

 

 そしてその多くは帰ってこない。

 

『殺される』のだという。

 

 まず、殺されるという概念が私にはわからなかったので、教官役の職員に、その意味をまず聞いた。

 

 教官役の職員は、随分困った顔をした後(いたいけな子供に殺人の意味を教えたい大人はそうそう居るまい)、それは、誰かの手によって、誰かがこの世から消されるということだと答えてきた。

 

 人が消されるということもわからなかったので、聞き直した。

 

 すると、教官はやや黙ったのち、その人が永遠にいなくなり、もう誰にも二度と会えない場所へ行ってしまうことだと言った。

 

 私は、わからないなりに、そのことが何を意味するかを想像した。

 

 たとえばそれは、あの優しい支部のみんながいなくなるということだろうか。

 

 いつも気難しそうな顔をしている高齢のスラヴ人の、白髪でひげもじゃの副司令。

 

 私が発令所で遊んでいると、遊び場ではないと叱ってくるから、当時の私は少し苦手にしていたけれど、たまたまエレベーターに乗り合わせた時、少し困ったように顔をしかめて、支部の皆は良くしてくれるか、と聞いていたので、うん! と元気よく答えると、そうか、と初めて嬉しそうな、少しはにかんだ、けれどとてもいい顔で、私に微笑んでくれたのを、今でもよく覚えている。

 

 いつも優しくて素敵なヴィーテニカもだ。

 

 何故かいつもおろおろして、よく怒られているけれど、お休みの日にはヴィーテニカと一緒にレニングラード動物園のような、楽しさと不思議さが詰まった色々な場所へ連れて行ってくれた医務官も。

 

 そうした人たちが、いなくなる。

 

 死ぬとはそういうことであり、そういうことが、過去に起こったのだという。

 

 3人消えただけで、その頃の私であれば、ショックを受け、悲しくて、ずっと泣き暮らしてしまたことだろう。

 

 まして大粛清では60万人という恐るべき数が、処刑という形で消されたのだ。その恐ろしさが、私にはまるで想像できず、けれどここが根こそぎ消えたら、という想像に直結し、それは幼い私に、心臓を凍った手で直接掴まれたような、恐ろしさをもたらしたのだ。

 

 私がそうなったらどうなるのだろう。

 

 消えるってどういうことだろう。

 

 それを考えると、わからないけれど、心がすくみ上がり、身体が震え、なぜか涙がこぼれだして、どうにもならなくなった。

 

 仕舞いには自分の部屋に逃げ込み、鍵をかけてベッドに潜り込んでしまったが、幼く想像力が豊かな私は、教育の際に語られた、NKVDによる夜のドアノックと連行、トロイカ裁判からの処刑の話を思い出し、一人で居ることさえ我慢できなくなった。

 

 きっと、あれが私の人生で、初めて恐怖という感情を自覚した瞬間だと思っている。

 

 その、初めて感じた感情に耐えられなくなって、とうとう部屋を飛び出し、知っている人の影を探し、広い支部中を走り回って、一人休憩室の椅子に腰掛け休んでいたヴィーテニカをみつけ、迷わず駆け寄った。

 

 涙を流しながら抱きつく。

 

 そのまま、胸で荒れ狂う恐怖を吐き出さずにはいられなくなり、その感情を、ヴィーテニカに浴びせるように泣き叫んでいた。

 

 今日、歴史の勉強で大粛清の話を聞いた、恐ろしい、なぜあんなに人が死んだのか、人があれほど人をけせるのかわからない、ここの人たちはみんなこんなに優しいのに、どうしてあんなことになるのかが理解できない、ドアノックが怖い、ドアノックが怖いと、人が幼子として覚える率直な恐怖を彼女に訴え、全部言葉と一緒に吐き出してしまいたくて、私は言葉だけではなく、涙までずっと流し続けていた。

 

 けれど、ヴィーテニカは言ったのだ。

 

「怖いのね、アーニャ。訓練とはいえ、あんなものをあなたの年で知れば、魂まで震え上がるのはとてもわかる。

 

 でも、この世界には、もっと怖いものが居るの」

 

「もっと怖いものって、なに?」

 

 わたしの問に、ヴィーテニカは答えた。

 

「使徒。あなたはまだ教わっていなかったのね。

 

 私達が集められた理由であり、あなたが戦わないといけない敵、それが使徒なの。

 

 私も正直、話半分の気持ちでいた。

 

 けれど、エヴァンゲリオンという巨大兵器の存在を知ったし、そのパイロットとしてあなたが現れた。

 

 それにこの基地に備えられている、あきらかに今の時代の科学の粋を超えた、幾ばくかの機材も、使徒が本当にいるのかもしれない、という気持ちに私をさせるし」

 

 話がわからない、というよりも理解したくないがために、幼い私は首を打ち振った。

 

「でもヴィーテニカは、『使徒』という怖いものは、みたことがないのよね? そんなものがあらわれたなら、テレビでニュースになっていてもいいのに、わたしは、全然見たことがないの」

 

 そういって頑是なく言い張る私の両肩に手をおいて、静かにヴィーテニカは見つめた。少し悲しげな顔をしていたと思う。目が少し、憂いで潤んでいた。

 

 優しく、面倒見がよいヴィーテニカの事だ。私のような子供が『戦わなければならない』という現実に、多分納得できていなかったのだろう。

 

「でも、使徒がいる証拠はあるのよ。

 

 アーニャは、ネヴァ川の遊覧船に乗るのが好きよね。鳥がいたり、魚が居たり、あなたは生き物をみると、なにか宝物を見つけたように、いつも大はしゃぎで話しかけてくる。

 

 そう、ネヴァ川には生き物がいる。つまり生きているのよ。でも、ネヴァ川の先は違うでしょう?」

 

 彼女の言葉に、幼い私は頷きつつ、ふと首をかしげた。

 

「真っ赤な海。そういえば、ネヴァ川や運河には、生き物がたくさんいるのに、浜辺にも海にも、生き物が一匹も居ない。どうして?」

 

 一瞬ヴィーテニカは口をつぐんだ。少し考え込み、そして、口を開く。

 

「セカンドインパクト。南極への巨大隕石の衝突が齎した大災害とされているけれど、多分、嘘なのよ。

 

 私達ロシア支部は、ユーロネルフ各支部でも末端に属するから、エヴァや使徒に関する真実の多くは明かされていない。

 

 けれど、起きたことがら──海洋生物全て、微生物レベルに至るまでの死滅と海洋成分からのコア化物質の検出が、『使徒』に由来するものだとしたら。

 

 それと同じことが再び『使徒』によって引き起こされた場合、今度は地上全てが、海と同じようになってしまうかも知れない。そのために、あなたや、エヴァがあり、そしてこの支部が組織されたと考えれば、納得はできる」

 

「でも、そんな話、私は聞いてない。ヴィーテニカが考えた話じゃないの?」

 

 けれど、ヴィーテニカの瞳は、どこまでも真摯で、まっすぐに私を見つめていた。

 

「あまり、人間をお金に換算するようなことはいいたくない。ましてあなたのことを。

 

 けれど、あなたにかかっている予算は、一つの国の軍隊を動かすのに充分な金額がかかっているの。エヴァの運用に関しては、もっとかかるという試算書類も届いているのよ。この国が、傾くほどの。

 

 あなたはいい子で、とても優しい子。生まれ方は他の子とは違うけれど、そんなことはどうでもいい。大好きな私のアーニャ。

 

 私、一人っ子だから、姉や妹や、兄弟に憧れてたところがあるの。

 

 あなたは私にとって、きっと神様が巡り合わせてくれた妹。血が繋がってないなんて、些末なことでしかない。

 

 だから命をかけて戦ってほしくなんてないし、戦わせたくもないの。けれど」

 

 そういって、アーニャは、本当に悲しそうな顔をしながら、笑った。それは、私の初めて見る顔だった。

 

「アーニャは知らないと思うけれど、セカンドインパクトの後、とても沢山の人が死んだわ。

 

 世界中が暖かくなってしまって、寒い時期になるととても寒かったペテルブルクも、その例外ではなくなってしまった。

 

 凍っていた大地が溶けて、道路や鉄道が使えなくなったし、疫病も流行りだした。永久凍土に閉じ込められていたままだった病原菌が、たまたま生きていて、それが人々の間で流行し始めた。

 

 酷い病気だったわ。

 

 

 それだけじゃない。あなたが多分今日習ったように、人と人との殺し合い──戦争が起こった。気候の激変で、この地球に生きている人間が充分生きていけるだけの食べものが作れなくなって、人は、食べ物をつくれる土地を、食べ物そのものを奪い合った。

 

 ええ、あなたが知って、とても怖かったと言ったあの大粛清よりも、もっと沢山の人達が、疫病で、戦争で死んだの。

 

 私の両親も家族を失ったって聞いている。お墓にも、行ったことがある。墓標が多すぎて、どれが誰の墓かさえわからないくらい、広くて大きな、厭な、悲しい場所だった」

 

 彼女は、小さく息をついた。そして、再び口を開く。大粛清よりも多く、という言葉に、固まってしまった私から、目を決して離さないままに。

 

「副司令は、ご両親と、奥さん、息子さん夫婦とお孫さんたち、つまりご家族全てを亡くされたそうよ。あなたと同じくらいの孫娘もいたって。

 

 だから、副司令はあなたに優しいの。エヴァのパイロットとしてふさわしい訓練を行うよう望んでいる司令に対して、のらりくらりと躱しながら、あなたをここに来てからの2年、あなたが子供らしく頑張れるよう、色々根回ししていたの。

 

 決して言うな、伝えるな、と副司令に言われていたけれど、あなたには、伝える必要があると思う。でも、副司令には内緒よ、アーニャ」

 

 言いながら、彼女の瞳が潤む。

 

 ヴィーテニカは、一度強く目を閉じた。一筋、光るものが左頬を伝ったのを覚えている。

 

 そして、意を決したように、言った。

 

「うん。こんなこと、言いたくない。伝えたくない。ずっと、あなたには笑顔のアーニャで、ただの子供で居てほしかったから。

 

 けれど、相応に上から圧力は来ているし、副司令のごまかしも、きっといつか限界が来る。

 

 あのセカンドインパクトと、それに纏わる災害で、とても沢山の人が死んだ。

 

 もしも、それが『使徒』によって再び引き起こされるというのなら、私達は絶対にそれを防がないといけない。

 

 そう、何をしても。何を犠牲にしてでも。

 

 そして、認めたくないけれど、本当に厭で厭で仕方ないけれど、『使徒』と戦えるのは、汎用ヒト型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオンと、それを動かせるあなただけなのよ。

 

 本当に、ひどい話。嫌になる。

 

 これから、あなたの訓練は、もっともっときつくなる。

 

 今後の訓練過程を見たの。抗議はしたけれど、通らなかった。必要だからって。私達が勝利するために」

 

 とうとう、彼女は視線を私に合わせられなくなり、下方にそらした。

 

「だから、あなたは私たちを恨むかも知れない。こんな辛い目に合わせるなんて、酷いって。

 

 恨んでくれていい。そういう酷い目に合うのを防げなくて、黙認してしまって、本当は私達大人の仕事なのに、あなたみたいな子供に背負わせるなんて馬鹿げてる。でも、セカンドインパクトの再来が訪れるから、それを防げるというのなら、きっと私は悪魔とだって手を結べる。

 

 とても悲しい顔で、確かに居たはずなのにもう居なくなってしまって、二度と会えない人たちの写真を見つめて、涙を流す人たちを出さないためなら、私はなんだってする。

 

 しないといけない。いけないのに!」

 

 とうとう、ヴィーテニカは叫んでしまった。

 

 私のためだけの言葉では、多分なくなってしまっていた。

 

 ずっと彼女が私のよき姉であるため、押し隠していた、わたしのさだめを、彼女が決して認められず、だからこそこのように定めた世界を呪うかのように、彼女は言いながら、泣いていた。

 

「あなたは、エヴァのパイロット。

 

 司令に言わせれば、兵器であり、備品であり、消耗品。人として扱う必要がないモノだそうよ。

 

 ええ、たぶんそう割り切ったほうがいいの。

 

 そのはずなのに、あなたはとても可愛い子供で、いい子で、セカンドインパクトからずっとこの街に漂っていた、悲しみと死がどこかただよう軋んだ空気を、私に忘れさせてくれて、あなたを迎えてからのこの一年、とても楽しくて幸せだった。

 

 あの司令、アーニャを人間として扱うなって? 冗談じゃない。いたいけで可愛い子供は、本当ならもっと、こんな武器と陰謀にまみれた場所じゃなくて、もっとふさわしいところで、つまらなく平凡に生きたほうがいい子なのに、どうして!? 

 

兵器で備品、消耗品で扱えって、意味がわからないわよ!」

 

 怒りと悲しみ、嗚咽と怒号の混合物と成り果てた、彼女の告白を聞きながら、私はいつしか大粛清の恐怖を忘れていた。

 

 覚えていたのは、多分、困惑だったと思う。

 

 どうすれば、私はヴィーテニカの涙を、嘆きを止められるだろう。そんなことを、確かぼんやりと考えていた。

 

 それほどにヴィーテニカの言葉は止まらなかったのだ。雪の代わりに訪れるようになった、長い雨期の飴のように果てしなく、とめどなく。

 

「クローン生成かもしれない、人格を与えられたつくられた存在かも知れない、でもこの一年で、アーニャはこの子なりに頑張って勉強して、ずっと重苦しかったこの基地の空気を、その笑顔で軽くしてくれたじゃない、セカンドインパクトからこっち、ずっと辛くて、笑顔なんてろくになかったのに、支部の皆を笑顔にしてくれたじゃない!

 

 最初は嘘の愛想笑いでも、この子が居たから、この子が幸せそうに、楽しそうに、こんな場所なのに過ごしてくれていたから、私達は守るべきものを見失わずに住んで、こんな辛い世界でも、まだ守るべき価値がある、守らないといけないって思えた! 

 

 冷や飯食いでバカにされても構わない、政治なんて知ったことじゃない、まだ生きてくれている家族を、大好きな街を、故郷を、守りたいってそう想えたの!

 

 そんな、そういうこの子のあり方って、戦うべき存在じゃないわよ、本当は私達大人が守るべき存在じゃない、そのはずなのに!」

 

 ああ、それがヴィーテニカがずっと思っていて、けれどだからこそ私には隠し続けたかった本当なんだ、と私はその時、直感的に理解した。

 

 彼女は、身の回りの喪った人々の話をした。

 

 けれど、自分自身が喪った人については話さなかった。

 

 それは、彼女だけで抱えていたい、他の人にまで預けたくない、自分だけで背負っていかないといけない辛さだから。

 

 他人に、まして私の背中にだけは、決して背負わせたくない悲しみだから、どれほど悲しみと怒りに苛まれようと、それだけはきっと言いたくなかったのだ。

 

 そもそも私には、彼女は何も背負わせたくなかった。生き死にの場所に出してはいけない、と思っていたのだ。それは、人間の大人として、彼女の良心が忌み嫌い、拒絶したくてたまらなかったことだったのだろう。

 

 きっと、彼女にとって私は戦わせるべきものではなく、守るべきものだとしか思えないからなのだ。

 

 どれほど理性と計算で説得しようと、それだけは、彼女の良心にとて、きっと譲れないことなのだ。

 

 けれど、ロシア支部にエヴァが届いて、それを動かせるのは私だけなのだ。

 

 そんなどうにもならない齟齬、はねのけたいのにはねのけられない憤慨と感情が、彼女の内側で、私が来てからずっと、消えない炎のように、彼女の良心を焦がしていたのだ。

 

 今にして思えば、ヴィーカ、私の優しいヴィーテニカは、私に執着しすぎていた。人として動作する程度の人格は与えられていても、およそ常識のなかった私は、出会ったばかりのときは、当然赤の他人でしかない。だから、相応に他人程度に扱えばよかったのだ。

 

 なのに、彼女は、明らかに距離感を間違えた。むしろ望んで一線を踏み越えた感がある。支部に居室を与えられ、外で暮らすことがなかった私の面倒を、本当にまめに見てくれていたのだ。

 

 それは即ち、人員不足のロシア支部、ろくに帰宅もできないほどの激務のただ中で、時間をなんとか無理やり作り出し、私のために割いていたことを意味する。

 

 たまの休日くらい、家に帰って寝たい、家族と、あるいは大切な誰かと、『使徒』の出現とともに終わる、もう有限となってしまった平和な時間を過ごしたい、そう思わなかったわけがない。

 

 なのに、そういう大切な時間でさえ、私を動物園に連れて行ったり、『セーヴェル』で一緒にケーキを食べたり、普段着る服まで自分の給金を使って、ネフスキー通りの子供向け服を売っている色々な服屋を巡って買ってくれた。

 

 その執着の理由は知らない。けれど、彼女はきっと、彼女がセカンドインパクト後に喪ってしまったとても大切な何かを、あるいは誰かを、私の中に見て、重ねていたのかも知れない。

 

 一度喪った痛みを、私を愛することで癒やしていたのかも知れないし、だからこそ、私が兵器として、戦いの一単位として運用され、消耗されるのに、本当に我慢ならなかったのだと思う。

 

 私の戦闘における消耗と喪失は、そしておそらくは彼女がネルフで戦うと決意した動機は、おそらくそれなのだろうと思う。

 

 それを味わいたくない、誰にも味あわせたくない。

 

 私をエヴァで戦わせるということは、彼女のそういう決心と祈念を、みずから裏切ることにほかならなかったのだろう。

 

 喪失を埋め合わせるための代償行為、と言ってしまえばそうかも知れないが、それは野暮というものだろう。

 

 そう名付けてしまえばそういうものになってしまう。だから、そんなことはどうでもいい。

 

 私と、そしてヴィーテニカにとって大切だったのは、お互いにとって、お互いがとても大切だということで、だから、私は多分、その時、ヴィーテニカがずっと悲しそうにしているのが、一向に泣き止もうとしないのが、本当に辛くて、嫌だった。

 

 だから、私は言ったのだ。

 

「ヴィーテニカ、違う」

 

 私の言葉を聞いたヴィーテニカは、ずっと堪えていた感情を止め、涙で赤く腫れた目で私を見た。何が違うの、と彼女は言葉ではなく、目で訴えていた。だから、私は答えたのだ。

 

「私には、お父さんというのもいないし、お母さんというのもいない。ほとんど顔を出さないから会ったこともないけど、司令さんのやりかただと、ヴィーテニカと、こういうお話もできなかった。

 

 私がエヴァのパイロットとして作られたのも、ここに来たのも、医務官さんと、そして何よりヴィーテニカがここにいたのもたまたまで、偶然だから、だから、私は嬉しいの」

 

 私が『嬉しいの(я счастлив)』という言葉を発した瞬間、彼女の全身は、一瞬こわばって、そして、とても大きく見開いた。

 

 涙に潤んで、濡れたガラス玉みたいになった青い瞳が、信じられない、という様子で、じっと私を見ていた。そんなヴィーテニカの様子が私はなぜか面白くて、だから言葉を続けていく。

 

「だって、そもそもエヴァのパイロットとして作られなかったら、ヴィーテニカと私、会えなかった。

 

 アリョンカチョコレートも食べられなかった。

 

『セーヴェル』のスメタンニクがない人生なんて考えられない。

 

 にんにくの効いたスメタナソース味の、鶏肉と野菜がいっぱい詰まったシャヴェルマだって食べられなかった。

 

 レニングラード動物園で、私の知らない沢山の動物を見ることも出来なかった。どこを目指すでもなく、いろんな運河をのんびりと遊覧ボートで医務官さんとヴィーテニカと過ごすことも出来なかった。

 

 それは、私にとって本当に幸せなことなの。

 

 エヴァのパイロットとして作られたから、ここにこれて、ここで暮らせたの。一年、そんなに長い時間じゃないのに、思い出すのも大変なくらい思い出ができた。

 

 ヴィーテニカが守りたいって気持ちも、だからわかるの。

 

 私が知っている街はここだけで、そして私はこの街がだいすきで、ヴィーテニカも、支部の皆もだいすきだから。

 

 だから、守りたいっていう気持ちは分かるし、それがお手伝いできるって、とても嬉しいこと。

 

 だって、ここの皆は私に幸せをくれたから。

 

 みんなにとってそうでなくても、私にとってみんなは家族なの。

 

 だって、親の居ない私に、この一年、とても優しくしてくれて、色々教えてくれて、ワガママも聞いてくれて、育ててくれたもの。

 

 ここのみんなが、私にとって、お父さんで、お母さんで、お姉ちゃんで、お兄さんなの」

 

「違う。違うの。それは違う、アーニャ!

 

 私達は結局、最後には貴方を、兵器として、道具として──」

 

 胸に満ちた何事かの重さに耐えられなくなったのか、両膝を床について屈し、うなだれながら必死に首を打ち振り、否定しようと叫ぶヴィーテニカの首に、私は少し背伸びをして、ぎゅっと彼女を抱きしめた。

 

 その時の、涙で濡れた彼女の、冷房で冷えた肌の感覚は、今でもはっきりと覚えている。

 

 ヴィーカ、だめ。こんな冷たい気持ちを隠していたらだめ。それは間違った気持ちなのに。

 

 そんな冷たい悲しさは、ヴィーカらしくないし、私の心は温かいのに、ヴィーカの頬がこんなに冷たいなんて、へんだし、わからないけど、まちがってる。

 

 子供心に、そんなことを考えていたろうか。

 

「それでもいい。

 

 ヴィーテニカがこの街を守りたいのと同じ。

 

 ネフスキー大通りのいつもいく『セーヴェル』のおばさん、私達の顔を覚えてくれて、私に会うとにこにこしてくれて、大きくなったねっていってくれるの。

 

 ヴィーテニカが守りたいのって、あのおばさんもでしょう?

 

 そんなの、私だって守りたい。

 だって、この街が、大好きだから。

 

 この支部の皆と、ヴィーテニカと、医務官さん、それに、知らなかったけど、私のために副司令は、よくしてくれていたんでしょ?

 

 あの人だけ、いつも怒るからちょっと苦手だった。

 

 でも、ヴィーカのおかげで大好きになった。私にしか出来ないお手伝いがあるなら、私、喜んでやる。

 

 だから、ヴィーテニカは泣かなくてもいいし、怒らなくてもいい。だって、ここに来れて、私は幸せなんだから、ヴィーテニカはもう、泣かなくていいの」

 

 私に首を抱かれながらその言葉を聞いたヴィーテニカの体は、ひどく震えていたように思う。

 

 頬が少しだけ暖かさを取り戻して、なのに、ヴィーテニカはとうとう言葉さえ出なくなって、ひどく嗄れたうめき声を上げながら、私の背に両手を回して強く抱きしめ返してきて、その目から溢れ出す涙が、彼女の頬だけでなく、私の頬まで濡らした。

 

 だから、その時の私は、ひどく困っていたように思う。

 

「どうして泣くの? ヴィーテニカ。私、ひどいこと言った? 間違った?」

 

 困惑して呟いた私の言葉に、彼女は一度頬を離して、私の視界の外で首を振ったようだった。

 

 涙にあえぎながら、絞り出した言葉を、今でもよく、覚えている。

 

「違うの。嬉しいの。嬉しいからなのよ、アーニャ」

 

 それだけを何とか絞り出して、彼女は私が痛みを覚えるほどに強く私の身体を抱きしめ、あとはただ、ひたすら2つの言葉を繰り返していた。

 

 ありがとう。(Спасибо)

 

 ごめんなさい。(Извините)

 

 なぜお礼を言いながら謝るの? と子供心の疑問に任せて問うても、彼女はずっと私を抱きしめ、震えながら、ただその言葉を繰り返していた。

 

 その理由も、その頃の幼い私には、全く理解できなかった。

 

 ただ、その時は、少しだけ嬉しかったように思う。

 

 ずっと大好きだった、母にも姉にも等しい人をお手伝いできる、子供としての純粋な喜び。

 

 子供は、概して強いられた手伝いというのは嫌がるものだ。

 

 しかし、自発的に手伝いたいと言う時、手伝えると、それは概して喜びとなる。褒めてやるとなおさらだ。認めてほしいという気持ちが、満たされるからなのだろう。

 

 そして、彼女がそれでもなお謝り続けた理由も、今の私なら、わかるのだ。

 

 そんなことがあって、ヴィーテニカや支部の皆の気持ちと願いを知っていたから、私はどんな厳しい訓練にも耐えられた。

 

 いや、流石にあの地獄の方がまだマシな行軍訓練や戦闘訓練に関しては相当医務官殿やヴィーテニカにさんざ愚痴りはしたが、その程度だ。なにしろ12才の子供が、発育時期にそれはどうなのだ、影響がでるのではないか、というほどハードな訓練をやらされたのだから、愚痴程度は勘弁してほしいと、当時の私なら言うだろう。

 

 11才から12才、13才。

 

 年を重ね、訓練では、エヴァは身体の延長で脳波コントロール擦るものらしいからとりあえず軍隊での鍛錬を積めとなり、前に述べたようなくそったれ訓練ツアーを施された後、相応の練度を得たとみなされ、特殊部隊志願の奴らと肩を並べることを許された。

 

 なお、当然軍隊で過ごす時間が伸びた結果として、口が年々悪くなり、医務官殿とヴィーテニカには呆れられ、なおかつ大仰に嘆かれたものだ。

 

 人間、いつまでも天使のような幼子で居られるわけではなく、なおかつ男が多い軍隊ぐらしが長引き、ナメられたら負けだと思うようになれば、口が悪くなるのも必然といえる。

 

 また、11歳ぐらいまでは基地に来たばかりのようにショートにして、毎日丁寧に整えていたが、訓練が厳しくなるにつれ、疲弊とともに女の子らしさを維持するのが面倒くさくなり、髪を伸ばして後ろで雑にまとめるようになった。

 

 ショートヘアでも、格闘訓練のときであれば、掴まれるときは容赦なく掴まれる、かといって丸坊主は地味に手間がかかる。あれでこまめな刈り込みが必要らしいので、やめておけといわれたのだ。

 

 色々勘案した上で面倒臭さを最優先して結局馬のしっぽのように、後ろ頭に結いつけてしまった。

 

 いわゆる総髪というやつだ。

 

 頭の後ろに垂らしているから、当然つかみを狙われるときは狙われるが、逆にその動きを読んで返り討ちにしやすくはあったし、長すぎて洗うのが面倒なのを除けば、悪くなかった。

 

 なお、前髪も後ろ髪と一緒にまとめられるように、将来を踏まえて雑に伸びるがままにしていたら、どうも致命的なほどだらしなく見えたらしく、『女の子らしさぐらい保ちなさい』と、珍しくヴィーテニカがお冠になった。なので、前髪はある程度伸ばして、それなりに女性らしく見えるよう、常に整えるようにはしていて、それは今でも習慣となっている。

 

 右肩下がりにずるずると、軍人ズレしていく私を見かねたらしい。まあ、たしかにあのころは、訓練疲れが身だしなみの悪さに直結していたので、ヴィーテニカが怒るのは当然かも知れないが。

 

 それと、担当する兵器がヒト型兵器である以上、各種武装の運用技術や格闘技術は必須となるので、武術・思考法としてのシステマも学習・鍛錬させられた。

 

 着衣に拘らず、型や構えに拘らず、作法、慣習に拘らず、呼吸を保ち、凪いだ目、凪いだ心で事象を眺める。

 

 戦場という抗ストレス環境では、極度の緊張と不安が心に襲いかかる。目の前に死のリスクが迫れば、恐怖、あるいは激昂などの心理状態に陥り、後先を考えず、全力で対処したくなるのが、生き物というものだ。

 

 だからこそそういう状況にあって、肉体はノルアドレナリンをはじめとしたストレス・ホルモンを発生させ、非常自体に対処しようとする。

 

 ただ、こういう状態は、当然だが、体と心を張りつめさせてしまう。

 

 緊張が過ぎれば、余裕がなくなる。テンションを上げすぎたギターの弦のようなものだ。

 

 そういう状態の心と体は物事に対処する余裕をなくし、最悪の場合、切れる。無論、それは戦場では死とイコールとなる。

 

 そして戦場ではそうした危機が、潮のように立て続けに訪れる。それへの備えを身につける必要があるのだ。

 

 だから、まず呼吸を学ぶ。あらゆるメンタルケアの技術で示されるように、呼吸のコントロールは心身に実によく作用する。

 

 ただ、当然戦場で運用するにあたっては、戦闘状況でも呼吸を保てなければ意味がない。

 

 鼻から吸い口から吐き、呼吸を楽に行う。

 

 これを筋力トレーニングを行いながら保ち、突然鞭打たれても保ち、腹にナイフ(刃引きしたダミーだ)を不意に刺されても保ち、訓練時のパートナーの体に拳をついて腕立てをしながら保ち、逆に自分が腕立ての台にされながら保つ。

 

 腕立ての際には、顔、胸、腹、太ももなどに拳を置き、痛みを与えるのを主眼に置く。パートナーにもそのようにされ、当然流し方を覚えないうちはとてつもなく痛い。

 

 なにしろ痛い状態でも自在さを保つのが目的なので、痛みを容赦なく与えあわないと意味がないのだ。なので、流せるようになるまで鍛錬する。

 

 こうして心を柔らかく保ち、むしろ緩やかに、自在に、柔らかく置き、風に揺れる草のように、時にいっそタンブルウィードのような軽さにする。

 

 不動心というが、実のところ、あまりそれに拘るのは良くない。

 

 大地のような不動と言うと何やら強そうだが、あまりにも不動な状態の心に拘ると、それが身心にぎゃくに硬直を齎し、体は固まり、速度を、自在さを喪う。

 

 だから、ゆるゆると柔らかく、強くとも7割で備え、3割の余力を残す。硬い大木は、地震でへし折れるのだ。柔らかく柔軟であれば、折れない。

 

 柳のように、いや、踏まれてなお折れぬ雑草のしなやかさで、襲いくる不安、恐怖、怒りを見つめ、眺め、斯くの如し、と現実事象を客観しながら、7割でこれを打ち、3割は緩やかに次を予測するなり、不意の状況に備え周囲を眺めるなりする。

 

 この調子で行うので、構えは脱力が主眼となり、無構えから力みなく、曲線の動きをもってよどみなく動かす。

 

 太極拳の纏絲勁とかいうやつが、がおそらく近いのだと思う。

 

 全身の筋肉と関節、骨格の可動域を把握しつつ、なだらかに動かしながら、例えば打撃にあたっては掌を開いたまま体を揺らし、速筋を使って力みを入れず、8の字風に上体をウィービングさせながら打つ。

 

 拳を握りこむ場合はあくまで打つ過程、その刹那で行うに留める、あくまでも力まない。

 

 蹴り技を用いる場合も同様だ。

 

 おもいきり力む場合、知らず遅筋をも使ってしまう。これが、よくない。

 

 遅筋は長時間の間、強い出力を出し続けることができる筋肉だが、遅筋というだけに瞬発力には欠ける。

 

 故に用いるのは瞬間的に出力を出せる速筋となる。瞬間的に力を発揮でき、脱力も瞬間的に行えるので、速筋がいい。

 

 武器を用いる場合も同様だ。武器を持った場合、握った手と手首が関節となり、その先まで手が伸びたようなものだ。

 

 当然全身のバランス状態が変わるので、このあたりを意識しつつ、速筋のバネを自在に効かせ、打ち、突き、あるいは斬る。

 

 また、打撃を受けるにあたっても、このあたりを意識する。体が固まっている状態で打撃を受ければ、その威力を全て体で受け止めることになる。当然、痛い。

 

 だから脱力の必要があるのだが、それだけでは不十分で、相手の打撃塩梅を見、そして己の体勢と筋肉、関節、骨格、体のバランス状態を踏まえ、それらを連動させ、円運動ないしは螺旋の運動を以て受けることで、敵の一撃のエネルギーを柔らかく、かつ分散しながら受け止め、吸収してしまう。

 

 類型進化というべきか、これも中国武術に同様の概念があり、化勁と言う。勁、つまりは敵の打撃エネルギーを敵の意図せざる位相へ流し、化けさせてしまうわけだ。

 

 そうやって攻防の柔らかさとウェートバランス、心身の重さの位置と状態を把握しながら、当然敵の状態も把握する。

 

 敵が打撃を放つならば当然相応に力を発するわけで、力んで固まりもすれば、重量バランスも偏る。当然、偏っているわけであるから、手を取って転びやすい角度に軽くねじるだけで転ぶ。

 

 軽く足を払うだけでもいい。このあたりは柔道やサンボあたりでも同様であるが、これを拳や足を用いた打撃や、武装に拠る攻撃にも応用していく。

 

 例えばナイフであれば全体を全ての指で強く握るのではなく、親指と人差指を除いた三本の指で握る。

 

 刺突に当たっては手首を軽く返して肘で突きこむ。

 

 肘からナイフまでを槍にするような印象で突くとよい

 

 頸動脈や手首を狙って斬る場合、敵の挙動と身体状態を見つつ、自由な人差し指と親指を用いてナイフを持ち替えつつ調整、流れに合わせ柔軟に身体を振るい、最適な位置に刃を持ち込み急所を斬る。刃味を活かせるなら、無駄な力はいらないのだ。

 

 そのように、人間相手に様々な鍛錬を積み重ねて、14才になるころには、ユーロネルフが試験用に使うだけ使い倒した中古のチューブだらけの赤いプラグスーツや、簡易テスト用ではない、本格的なシミュレーション機能もある、まともなシンクロ訓練用のエントリープラグなども回ってきた。シミュレーションレベルとは言え、これでまともなエヴァ操縦の訓練ができるようになったわけだ。

 

 とはいえ、エヴァの訓練にあたっては、「このハンドルを握って、自分の体を動かすように思って下さい」という内容であったので、まったくもって拍子抜けした。

 

 相手も、使徒がどういうものかわからないので、量産モデルのエヴァ相手で、こうなるともう体を動かさないだけで、普段の対人戦闘とあまり変わらなくなってくる。

 

 ATフィールドが出るような念をする訓練もした。

 

 殺意とか、そういうのに近いようだ。

 

 ともかく強い意志の力であるほどフィールドの出力が高まるようで、実は地味に、苦手だったのだ。

 

 あくまで当時のテストスコアだが、瞬間瞬間の出力は高いわりに、どうも強度の高いATフィールドを中和するのは苦手なようになっていた。というか思う頃にはもう体が動いていないと命取り、みたいな訓練ばかりしていたのが、どうも良くなかったらしい。

 

 あの頃は偏執狂になったほうがAT中和するのはフィールド出力が上がるのだろうか、でもそういうのはなんだかいやだ、そういう自由じゃないのは嫌だ、と真剣に悩みもした。実際にはちょっとしたコツの違いであり、慣れた頃には、自分の体の動きに合わせるようにそのあたりの出力を出せるようにはなっていた。

 

 そのような塩梅で日常は進み、軍隊訓練2割、エヴァパイロットとしてのシンクロテストとシミュレーション訓練7割、ヴィーテニカや医務官殿とのお出かけ休日1割、という慌ただしい訓練と、たまの休息を楽しんでいた。

 

 ヴィーテニカ達もようやく本業である戦術オペレーターとして、戦闘管制の訓練も始まり、シミュレーション過程では、彼女の指示管制で動くことも多かった。

 

 そんな調子で、ロシア支部もようやくある程度ネルフ支部らしくなってはきたものの、最大の問題が一つあった。

 

 肝心要のエヴァが来ないのだ。

 

 ロシア政府大統領から、ロシア支部司令まで、国連からバチカン、ユーラシア各地のネルフ支部のを束ねるユーロネルフ支部までひたすら行脚して陽性したものの、ああだこうだと言い訳をされ、来ないものは来ず、各国2機までというバチカン条約の制限とはなんだったのかとなるぐらい来ず、ともかく梨のつぶてだった。

 

 国連軍やらなんやらに、戦闘機だの大型輸送機だのを相応に回したにもかかわらず、もらえるのは空手形ばかりであり、だんだん支部にもそういう意味で、よくない白けた空気が漂い始めた。

 

 そのような空気が、さらに良くないことを招いてしまったのだ。

 

 おりしも、ネルフ北米支部を始めとして『高額に過ぎるエヴァではなく、安価かつ機体性能の素性も知れている工業製品で代替すべきではないのか』という議論が発生していたころだった。

 

 実のところ、これらの反対論はあくまで額面のものであり、つまるところ黙ってほしければ早くエヴァを配備しろ、というエヴァに関連する各機関への間接的な要求であったわけだが、当然そういう風土が形成されれば、それを機会に便乗しようとするものが湧く。

 

 日本政府の一部省庁の支援を受けた日本重化学工業共同体が企画・試作を行ったものの、試運転等のトラブル等から日本政府の当時の内閣と及びネルフ本部に袖にされた後も諦めなかった主任開発者が、どの伝手を頼ったのか、ユーロネルフ支部に営業をかけたのだ。

 

 そして、ユーロネルフ支部は特にエヴァ不要論には組していないにも関わらず、何を考えたか、基礎設計の改良を前提として、ユーロ圏における開発・生産を承諾したのだ。

 

 以後、急ピッチで試運転時のトラブル原因の改修、ユーロドイツが実用的商業用モデルの開発に成功した新型動力炉搭載により電力問題を解決された機械式汎用ヒト型決戦兵器ジェットアローンがロールアウトすることとなった。

 

 これに食指を伸ばしたのが、いい加減エヴァの順番待ちに飽きた、ロシア政府の大統領だった。

 

 セカンドインパクトによる凍土融解により深刻な被害を受けていたものの、かつての大国であり、ベタニアベース運営にも積極的に協力してきたにも関わらず、干されていたも同然の状態であったから、つまるところ政治的に追い詰められており、焦っていたのだ。彼の支持率は低下していた。

 

 ユーロ所属国各支部におけるロシア支部の相対的な地位の低さを勘案し、なおかつエヴァに携わる国連関連省庁からの連絡も梨のつぶてとなれば、ともかくも代替兵器がほしい、というのが本音であったろう。

 

 また、IPEAの資料によれば、エヴァは当時の人類が保有する最強の兵器であるN2爆雷すら通じないATフィールドを有する。これを撃破可能な戦力は、同じATフィールドを有するエヴァか使徒だけだ。

 

 即ちエヴァの保有数はそのまま国家の軍事力を意味するものとなるわけで、これに対抗しうる戦力が喉から手が出るほど欲しかった、というのは、エヴァを手にできておらず、なおかつセカンド・インパクト後の災害、内戦や侵略等の動乱を経験した結果として、国家生存のために必要であれば暴力も辞さずの腹が座った各国の偽らざる本音であったことだろう。

 

 ともかくも、驚くほどの素早さで、ロシア政府は主任開発者であるトキタとユーロネルフを説得、ともかくもジェットアローン初期ロット3機の購入契約に成功し、大統領はそれを成果として喧伝した。エヴァンゲリオン1体に比べ3体と、費用対効果を新聞媒体で自慢していたように思う。

 

 そして、第4使徒が出現する1ヶ月ほど前だったろうか、製造が完了した新型ロボット3機がロシアに納入された。

 

 されたはいいが、納入されたジェットアローンには、生憎いくつか問題があった。

 

 まず、到着したジェットアローンには、N2リアクターが搭載されていなかった。動力源がなかったのだ。

 

 理由はと言うと、N2リアクターのロシアへの輸出に、ユーロドイツが反対の立場に回ったのである。

 

 N2リアクターの軍事転用による国際秩序悪化の懸念、というのがその申し分であった。

 

 セカンド・インパクトに伴う急激な温暖化により国土の多くが沼沢地と成り果て、鉄道や道路等の陸上インフラから、食糧生産に至るまで甚大な被害を被ったロシアは、たしかにインパクト後、国内外に甚大な数の紛争を経験することとなっていた。

 

 しかし、そうした後ろ暗い血みどろの歴史はセカンド・インパクト以後いずれの国家も大なり小なり経験しており、いわば難癖にほかならない。

 ましてセカンドインパクト被害からの復旧・復興を踏まえ、独力での迅速な国力回復は不可能と判断したロシア政府はいくつもの苦渋をやむなしと飲み込んでユーロ入りを果たしていたのだ。

 

 その上で、一度ユーロ圏の総意としてジェットアローン購入に許可がだされたにもかかわらず、突然ドイツが掌返しをしたのには、当然相応の理由がある。

 

 セカンドインパクトがもたらした温暖化は、北極海からの海氷の完全消失という結果をもたらしており、これは地球のアルベド(反射能)の変化と温暖化の悪化をもたらしていたが、政治的にはこれはまた別の、致命的かつ不可逆な変化をもたらしていた。

 

 即ち、北極海の通年安定航行可能化だ。

 

 つまりロシア北部沿岸と北アメリカ大陸北岸を一直線に航行することが可能となったわけであり、突如として生じた巨大な新規シーレーンの可能性は、当然各国に相応の思惑を生じさせたわけだ。

 

 北極海の安定航路化の恩恵により、経済回復を果たしたいロシアは、北極ベタニアベースでのマルドゥック計画に積極的に協力、監視司令艦ウラル2世の無償貸与等を行ったものの、これがアメリカ・英国・カナダ等の各国を警戒させることとなった。

 

 またN2リアクターがロシアに齎されることで、この技術の民間転用とロシアの復興加速が図られ、ロシアの他一句としての復権と、北半球パワーバランスの不可逆的変化を齎すのではないか、との懸念が、旧NATO構成国の水面下での協力を加速、それらの結果としてドイツによるロシアへのN2リアクター供与の輸出停止措置と相成ったようだった。

 

 人間という生物は、いかなる危機の時代でも同族争いを楽しむというのは私も歴史で学んでいたものの、その典型例の当事者として被害を被るとは思ってもおらず、空のままのエヴァ専用ハンガーで話を聞いたときは、怒りを通り越してひたすら笑っていたように思う。

 

 私もこの頃になると、もう幼かった頃の面影は長い軍隊生活とそれに伴う若干の人生観の変化でだいぶ失せており、流行りの音楽番組よりアネクドートの類のほうが面白いし笑えるという、少女としてどうなのか、という悲惨なメンタリティに成り果てていた。

 

 口調に関しては、まあ、ご覧のとおりであり、昔は愛らしかったのにね、と基地に来た頃のことを冗談半分、本気の慨嘆半分で言われるのが通例になっていた。

 

 仕方がないのだ。娑婆であればセクシャルハラスメントで訴えるような案件の冗談を受け流したり、なんならこちらから絡んでいくような軍隊訓練生活がしばしばあり、特殊部隊の面々から『エヴァが届かず首になるようなら、後のことは心配せずともよい』と遠回しに入隊を打診される程度には人脈が出来ている状況だったし、私も冗談半分本気半分でそのときはぜひ、と答える有様となっていた。

 

 エヴァ抜きエヴァパイロットという状況で、一部省庁では予算の無駄飯ぐらいとしてやり玉に上がっていたようだったから、14才にして政治的渡世と根回しが必要になっていたのが悪いとも言える。

 

 まあ、しばらく後にその全てがどうでもよくなってしまったわけだが。

 

 それはそれとして、届いたジェットアローン3機には、もう一つ問題があった。

 

 無人機であるにも関わらず、情報記録システムに、脳髄にしてジェットアローンの命にして意思、魂たるAIがまったく入っていなかったのだ。

 

 これも理由はN2リアクター絡みであり、電源にしてパワーリソースであるN2リアクターの制御系が管制システムのAIや各部制御用OSに組み込まれており、これらもN2リアクター輸出停止に関する云々、と難癖をつけられた結果であった。

 

 つまり、脳みそもなければ心臓もない、なんなら神経系を動かす制御系すら入っていないヒト型の鉄の塊を3つもとてつもない高額で買わされたに等しく、エヴァよりは流石に安いとはいえ、安物買いの銭失いでごまかすには高額に過ぎ、この件がプラウダの紙面に乗った3日後に大統領が辞任する騒ぎとなってしまった。

 

 セカンドインパクトにより領土こそ大きいものの、人口減と既存インフラの実質的壊滅という一大惨劇に見舞われた元大国にふさわしい弱り目にたたり目といえる。

 

 神よ、ロシア経済はいつ良くなりますか?

 

 などと我が祖国が愉快な政治的喜劇を演じている間にも、時計の針は容赦なく過ぎていった。

 

 第3新東京市に、第4使徒出現の報を聞いたのは、ロシア支部第一発令所を利用しての会議の最中だった。

 

 燃やす前のウィッカーマンの如き張りぼてのジェットアローンと、エヴァという肉体を制御するためのシステムであるエントリープラグの連結、パワーソースの別途確保によるジェットアローンの戦力化について、ああでもないこうでもないと、その方法は個々が問題だ、それでは破壊された場合放射能汚染が発生すると、喧々諤々の真っ最中だった。

 

 その時、私は確か、訓練スケジュールの都合で、赤のベレー帽、緑を主体としたデジタルフローラ迷彩服を着たままで、インナーはマルーン(紫がかった赤)色の横縞のテルニャシュカだったと思う(着心地がいいのだ)。

 

 会議中、ネルフ本部より使徒の出現及びその迎撃の成功の報が届き、(同じネルフ所属であるにも関わらず、使徒迎撃成功まで情報を秘されたあたりにも、我がロシア支部がどれほど蚊帳の外に置かれていたかを端的に物語っていた)その迎撃戦闘の映像データが回ってきた。

 

 司令が国連会議に出席中で不在とはいえ、本来の敵である使徒の情報は急ぎ確認すべきであるという副司令判断に基づき、会議を中断。

 

 そのまま皆で戦闘内容を確認した際、第4使徒の圧倒的な防御性能に、息を呑んだことを覚えている。

 

 本当に、あらゆる通常兵器が通用しなかった。いかなるミサイルも、レーザー誘導爆弾も、いかなる巨砲の砲撃も、あれにたいしては無力だった。

 

 N2爆雷の恐るべき暴熱すらアレは耐えたのだ。

 

 体表に熱変形の痕跡こそあったものの、それはあの存在の活動に、なんら支障をきたしていないように思われた。

 

 そして、その戦闘に投入された、本来試験型でしかないはずのエヴァンゲリオン初号機は、作戦初動こそ試験型故の機能不全か、あるいはシンクロ不調からかは不明だが、出撃後まもなく転倒、補足され頭部大破という損害を負ったものの、その後の作戦行動における運動性は圧倒的であった。

 

 データにはあり、シンクロテストでそのように運用してきたとは言え、ビルの如き巨体がそうそう早くは動くまいと、皆が思っていた。パイロットである私自身も内心そう思っている有様であったのだ。 しかし、現実は違っていた。

 

 巨体であれば、速度に限界があろうに、そんなものは関係ない、と言わんばかりに、ヒトというよりも、むしろ肉食の哺乳類の如き敏捷さで、それは使徒に襲いかかり、文字通り、圧倒したのだ。

 

 国連軍と戦略自衛隊の総力を上げた邀撃でも損害を与えられなかったATフィールドすら、あれはたやすく無力化していた。

 そして、第4使徒は突如として変形、初号機を包み込むようにして自爆。

 熱エネルギー量にして戦術N2爆雷の爆発に匹敵する威力の爆発と熱線にさらされたも関わらず、大破を免れ、回収されていた。

 

 少なくとも映像で見る限り、あの規模の爆発に巻き込まれながら、装甲鈑にすら傷一つ、熱変形さえしていなかった。

 

 映像が終わったのち、ロシア支部発令所の人々は、長らく沈黙していたと思う。私自身も、失語症になったかと思うくらい、言うべき言葉がわからずにいた。ヴィーテニカの顔面は、かろうじて気丈さを保っていたものの、それが演技に過ぎないことが容易に見て取れるほどに青ざめていた。

 

 本当だったのだ。

 

 使徒は居た、そして本当に来てしまった。

 

 それが、なにをどうやるのかはわからないが、N2爆雷すら通用しない以上、アレを捨て置けば、ヒトの時代はどうあがいても終焉する。

 

 既存生命が死滅するか否かはわからない。

 

 しかし、あれほどの戦力が今後出没し続けるならば、ヒトの時代は確実に終焉する。

 

 仮に生き延びられたとしても、それは使徒の目の届かぬところで、中世さながらに農業や森林資源を利用し、ほそぼそと生きながらえてゆくだけのことで、野生動物に比べ明確に肉体面で劣る現生人類が文明に頼れぬのであれば、それはやはり緩々とした滅亡の道しか残されていないということは、誰の目にも明らかであるように思われた。

 

 映像が止まってから、一体、何分たっただろうか。30分だろうか。あるいは、一時間だろうか。

 

 ともかくも、それほどの沈黙のときが流れ、我々は信じがたい現実を前に、身じろぎ一つ出来ずに居た。

 

 そして、副司令が静かに立ち上がった。正面モニタに、心臓も頭脳もない、虚ろの鉄巨人たるジェットアローン3機の映像が映し出される。

 

 彼の呻きが、静かに響いた。それには絶望の色があった。

 

「無理だ。この機体では、奴らに勝てない」

 

 そして、老いたる副司令は、静かに発令所内の全員を見渡した。

 

 他支部より軍との繋がりが強いだけに、実のところ副司令の経歴は、大したものであったのだ。

 

 セカンド・インパクト以降、ロシア国内各地で頻発した内戦を、空挺部隊を迅速に展開して次から次へと鎮圧してのけたのが、動乱の時期における、彼の赫灼たる戦歴の筆頭となる。

 

 ついで、ロシア衰退に乗じて国境侵犯を図った周辺諸国を彼は相手取った。

 

 既存道路が気候変動による泥濘化で使い物にならなくなった状況にもかかわらず、空軍戦力およびエクラノプランで第一撃をかけて頭を抑えつつ、ホバークラフトから軽車両まで用いてルートを探査した。

 

 そうやって、既存の機甲戦力及び砲兵戦力で、発見された踏破可能な迂回路を通過し、赤軍以来の伝統たる機動戦によって挟撃、ないしは包囲を仕掛けたのだ。

 

 敵の多くは既存地図を元に進撃を仕掛けてきたため、逆にそれが命取りとなり、沼沢地にスタックして苦しんでいただけに、想定外の進路を進撃奇襲された敵は、面白いように壊乱したという。

 

 この混乱状況ならばと夜盗のように襲いかかってきた中央アジア・東欧諸国家(いずれも飢えており、略奪目的の感すらあった。それだけ、セカンドインパクト直後の世界は地獄だったのだ)を撃退し、そのためにロシア陸軍時代は『火消し』と異名をとった、かつての陸軍中将は、何かを求める目をしていた。

 

 その顔色は青ざめていたが、その視線には、しかし明確な意思があった。

 

 その意思を、私は過たなかった。答えられるのは私だけだ。

 

 そう。この機体では、勝てない。絶対に。

 

 予定通りN2リアクターが搭載され、AIが備わった万全の状態ですら、おそらくATフィールドを貫けない。現在の装備では、致命的に火力が不足している。

 

 つまりは第4使徒戦の正確なデータが必要だ。あらゆる物理事象への、科学的分析が必要となる。軍事機関でありながら、科学研究機関でもあるネルフの端くれの、面目躍如をやらねばならない。

 

 切り口は、一つだけある。

 

 N2爆雷は通じなかったが、しかし全く影響を与えなかったわけではない。少なくとも第4使徒体表が融解し、奇妙な形象変形を招いた以上、ATフィールドは『絶対』ではない。熱か、あるいは電磁波か、そのいずれかはわからないが、あれを「通れる」ものはある。あれは絶望の、絶対の壁では決してない。

 

 人類の歴史は絶望の歴史だ。

 

 噴火や隕石落下を要因とした気候変動、疫病、戦乱、飢餓。

 

 あらゆる獣の中で最も弱いにも関わらず、それでもなお今まで生き延び、なんとなれば地球全土まで広がったヒトという種の武器と呼べるものは、ただ一つ。

 

 私は副司令の視線を見返し、はっきりと言った。

 

「副司令のおっしゃるとおりです。今の我々では、勝てません。無論この機体では勝てません。あくまでも今の話ですが」

 

 14才の私は、そう言い切った。そしてこう思っていた。

 

 今は勝てない。絶対に。けれど、絶望したら、勝ち目はきっと見えなくなる。それに、材料はある。それが本当に僅かだとしても。

 

 ヒトが持つ武器とは何か。ヒトがその身体性能において、絶望的に不利であるにも関わらず、それを覆し、今という未来まで、滅亡を免れたのは何故か。

 

 諦めなかったからだ。飢餓にも、病にも、気候変動にも屈せず、それでもくじけず、生き延びようとあがき続けたからだ。

 

 エヴァ専用のパイロットとして作られた、14才の子供にすぎない私。

 

 どれほど鍛えられようが、一個人としては歩兵一人程度の戦闘力しかない私。

 

 とどのエヴァがなければ何も出来ない私。

 

(だから、何?)

 

 14才の私は、その時内心でそう言い捨てた。

 

 ここに来たばかりの時。

 

 意味もわからず食べた黒パンと塩。

 

 まだ自我が目覚めたばかりで幼かった私には意味がわからなかったその儀式の意味を、14才の私はもう、知っていた。

 

 ロシアと言う国はその歴史の大半を、実質的内陸国として過ごしてきた。

 

 民は貧しく、贅沢など夢のまた夢。皆飢えており、黒パンは大切な糧であった。

 

 その大切な、きょうはこれだけ、明日はこれだけ、と考えながら食べないと飢えてしまうかもしれない、貴重な糧を以て、遠方からの客を迎えることを、彼らは飢えより重んじた。全員ではないにしても、そのような人たちはいたのだ。

 

 それに、貴重なのはパンだけではない。塩もだ。

 

 塩は、古代から貴重だった。あのローマ帝国において、貨幣として使われ、兵士へ給与として渡されるほどに。

 

 塩田技術のあったローマですらその有様だったのだ。岩塩の採掘可能な地域を除けば、内陸において、塩ほど貴重なものはない。アフリカなどでは、塩が手に入らないからと、草を焼きその灰を食事に用いて、塩分不足を補ったとも聞く。

 

 それは、ユーラシア北部も同様だった。海辺ではない地域にあって、塩はとても貴重なものであり、生活に必須であるがゆえに、支配者たちは高額の税金をかけ、それはますます大切で貴重なものとなった。

 

 そういう貴重な糧、貴重な塩、自分たちが明日餓えるとも、今日来た稀人を目一杯にもてなすべく、それを以て他者を歓待する。

 

 この国の歴史は必ずしも優しさだけで出来ては居ない。圧政、粛清、民族虐殺、差別、そうした諸々の悪に満ちている。

 

 けれど、それだけではない。

 

 このサンクトペテルブルクの地に、ピョートル1世が要塞を建設する前から、彼らはそうして、客を迎えてきたのだ。

 

 アラビアや、ユダヤ民族にも、同様の習慣がある。私には想像もつかないほど古い習慣。私がどうやっても知り得ない、遥か昔から続いてきた、それはヒトという種族のもつ善性の現れ。

 

 その伝統を以て、無から意識を生じさせたばかり、意思の産声を上げたばかりの私は歓待された。

 

 ならばその塩とパンこそが私にとっては乳飲み子として初めて呑んだ乳となるだろう。

 

 エヴァのパイロットだからこそとはいえ、今の今まで、時に優しく、時に厳しく、愛し育んでくれたこの街、この国こそが私の故郷だ。

 

 記憶すらない、私を生産した月のクローン生産拠点など、ただの生産地という意味しか持たない。

 

 故郷とは、即ち私という存在の育まれた場所であり、私という魂と記憶、知恵の起源をこそ指す。

 

 この街で目覚めた意識の過ごした年月、4年。この街を愛するには充分な時間であり、そしてそれだけの年月、彼らは私に糧を与え、育んでくれた。

 

 年齢も問題ではない。

 

 元よりエヴァのパイロットとして生まれた身の上。仮にエヴァがなかろうと、一歩兵程度の戦力しかなかろうと、糧を貰い、知恵を貰い、給与すらもらった。これで働かないというのなら、それは詐欺というものだろう。

 

 まして、私は誓ったのだ。

 

 私は、全員をもう一度、見回した。

 

 この基地に来たばかりのときのように、けれどあの時より数段力強く、この4年という年月で、私がどれだけ力強くなったかを示すように、口角を曲げ、笑う。

 

 それは、決してあの日のように、愛らしくはなかっただろう。けれど、今の空気を抱えて呆然と佇むなど、この私が立てた誓いと、その誓いが齎す誇りが、決して許せはしないのだ。

 

 だからこそ、力強く表情を作りながら、14才の私は、そのとき不敵に言い放った。

 

「はい。今は勝てません。

 

 まして、我が国の政治的困窮を思えば、バチカン条約で保有数を制限されたとは言え、その機数さえ満たされていない現状で、ユーロネルフがエヴァを回してくる可能性は低い。

 

 経済力を思えば、我が国でのエヴァンゲリオン独自建造という道はない。

 

 まさに八方塞がり。

 

 けれど、それがどうしたというんです」

 

 意図的に、野卑な言葉を選んで言い放つ。

 

 この街を楽しみ、無邪気な少女であれた季節に、可憐であった自分自身に、惜別の辞を告げるように、これから訪れる鉄火の季節を物思いながら。 

 

「私には、退転の道は有りません。

 

 あの日知らなかったパンと塩の意味を、今の私は知っています。

 

 そして、N2爆雷は完全に無効化されたわけではなく、少なくとも体表を融解させることは出来ていた。

 

 ならば、かのATフィールドは、完全な鉄壁ではありません。熱は届いている。まして、あれは死んでいます。

 

 あの存在は、決して踵無きアキレスでは有りません。つまり、殺せば必ず死にます。

 

 あくまで未知未解明。そして未知は未知であり、必ずしも不可能を意味しません。

 

 私が、そして貴方方が戦うべき敵が来た以上、私に敗北は赦されない。エヴァがなくとも、あるいはエヴァを手に入れ、戦いのなかそれを失おうと戦い続け、勝利し続け、打倒しなければならない。

 

 あの日頂いた、パンと塩に誓って、私という存在に貴方方が注いでくださったものが、無駄ではなかった証を立てなければならない。この体を形作る血と骨に誓って、これは絶対です。

 

 次の使徒がいつ来るかも不明である以上、状況は火急と認識します。

 

 今戦うすべがないのであれば、戦うすべを見出す戦いを、我々はただちに始めねばなりません。これが、私の意見具申です。副司令」

 

 笑顔のままに、決然と、14才の私は言い放つ。

 

 もとよりこのための道具。このための武器たる身の上だ。

 

 4年の歳月。充分に幸せな時間を生きた。そして、私の知らない、私と同じく、ささやかな、けれど大切な日々を享受している人々がこの世界には沢山いる。

 

 この街だけで500万。この国全体ならもっと多い。ましてこの世界なら単位は未だ数十億。これを守る。

 

 そのために私は鍛えられてきたし、この国は歴史上何度となく苦しみを味わい、そして再起を遂げてきた。

 

 諦めなどしない。くじけない。

 

 14才の私は、決意していたのだ。守る理由を脳裏に描いて。

 

『セーヴェル』でいつも親切にしてくれるおばさん。恐ろしく精悍で、訓練のたび学びをくれる特殊部隊の人々。

 

 不器用で、けれど優しい副司令。

 

 私が訓練で無茶をして体を壊すたび、苦労して私を治療してくれた医務官どの。

 

 そして、誰よりも、私を愛してくれた、姉にして友人、ひょっとしたら母にも等しいかも知れない、親愛なるヴィーテニカ。

 

 私が大好きな人、私に人生をくれた人、私が道具であり武器であることに、内心誰よりも憤ってくれた人。

 

 他ならぬあなたに、幼い私は、たとえ幼さゆえにせよ、あの日笑顔で誓ったのだ。

 

──そんなの、私だって守りたい。

  だって、この街が、大好きだから。

 

 であれば、必ず勝利しなければならない。

 

 あなたが決して教えてくれない、あなたが喪ったなにかの再演を、決して繰り返さないために。あなたにその景色を、二度と見せない、そのために。

 

 使徒は強い。恐ろしいほどに。この国を訪れた全ての厄災、暴君をすら凌駕するほどに。

 

 既存の手段は全て通じず、勝利のすべなど、まだ欠片の、そのまた欠片程度しか見えない。

 

 それでもなお、私は勝つ。今は手がなくとも、明日に、明後日に、術を見つけて、必ず勝つ。私ではなくとも、ロシア支部の誰かが見つけてくれる。私はその時そう信じた。

 

 そして、その時の私は、こう思ったのだ。

 

 そのために今、何も出来ないたった今、もしもできることがあるとしたら、それはきっと、笑うことだ。大変かもしれない。辛いかも知れない。滅びるかも知れない。でも、それは今じゃない。

 

 この生命は、まだ生きている。皆にもらった幸せな日々は、胸の中に息づいていて、その世界は、ロシア支部を出れば、サンクトペテルブルク中に広がっていて、今も脈々と続いている。

 

 あれを舐めてはいない。あれを恐れていないと言えば、嘘になる。

 

 あれがここにきたらどうなるか、そんなことは用意に想像ができる。

 

 14才の私はその時、実に無邪気に思っていたのだ。

 

『笑顔のアーニャ』。

 

 アヤナミシリーズとして生まれた女に、笑顔とあだ名をくれたあなたと、私にその表情をくれた、支部の人々に、今度は私が笑顔を返す番だと、心からそう信じていたのだ。

 

 今は絶対ムリだとしても、明日、勝てるアイデアが思いつくかも知れない。明日無理なら、その次の日に。

 

 多分、その時、私は、きっと無意識に気づいていたのだ。

 

 笑顔がくれる暖かさが、私という存在を、どれだけ変えてくれたのかを。

 

 笑う。

 

 あの日、私を囲んでいた表情を、意味もわからず、顔だけで真似たものが、どれほど心を暖かくするかを。

 

 14才だったあの日、発令所には、絶望が満ちていた。勝てるのか、という重い不安が満ちていた。

 

 その時点で、負けている。

 

 次いつ来るかはわからないけれど、一度来たならきっとまた来る。

 

 戦うのは今じゃない。その前に気持ちが負けていたら、負けたままで、勝てはしない。

 

 現実で勝てない。でも、心は勝てる。

 

 諦めで自分を苦しめて、心を、発想を重くしたら、見えたかも知れない勝ち目さえ、きっと見えなくなってしまう。

 

 自分を痛めつけながら覚えたシステマが教えるように、心の自在さを保つ。

 

 そして、可能性を見出す。可能性が見えたなら、その可能性を広げ、穿ち、貫き、勝つ。

 

 何度でも、繰り返す。何度でも。

 

 セカンドインパクトに続くもの。

 

 サードインパクト。

 

 使徒が齎す、人を滅ぼす破局。

 

 絶対に、防ぐ。絶対に。

 

 本当は、国なんて大したものは、きっと意識していなかったのだ。

 

 あの日パンと塩を以て迎えてくれたこの支部の人々と、私が過ごし、愛したこの街を守りたいというだけのことなのだ。14才の私は、そのためなら、血の一滴、骨の一片になるまで砕け散ろうが構いもせずに戦い抜き、必ず勝つと決めたのだ。

 

 絶望は死んでからすればいい。それまでは、ただ、無心に考え、無心に探す。見つかるまで、頑張る。見つからずに敵が来たら、見つかるまで時間を稼ぐ。五臓六腑が砕けても、髪の先まであがいて、誰かが勝つ手を見つけるまであがいてやる。

 

 まだ未来を知らない14才だからこそ誓えた、本当に無知で無垢で、だからこそ純粋な決意だった。

 

 副司令が、私の言葉に、漸く頷く。

 

 皆、笑いはしない。けれど、眼光は先程より、強い。

 

 ただ、ヴィーテニカだけが、ひどく悲しそうにしていたのは、今でもはっきりと覚えている。

 

 いまなら、彼女がそんな辛い顔をしていた本当の理由がわかるのだ。

 

 何も知らない無垢な幼子として、きっと彼女が喪った、大切なものと重ねていた存在が、このようなことを言い放つ。

 

 兵士のような顔をして、兵士のようなことを言う。

 

 必勝を明言したのだ。つまり戦いに赴くことを誓ったのだ。

 

 ただの少女たらんとする道を、己の言葉で切り捨てたのだ。

 

 幼く無邪気で柔らかな笑顔は、男ですら耐えかねる鍛錬の果て、少女に似つかわしくない不敵で不遜な笑みに化け。

 

 柔らかく整っていたショートヘアは、潤いのないバサバサした、申し訳程度に前髪を整えただけの、実用性しか考えていない総髪と成り果てているし、服装も14才の分際で、パイロットだから程度の理由とは言え、階級は特務中尉、被っているのは、こっちは少なくとも伊達ではない赤のベレー帽だ。

 

 あれこれと一緒に買った女の子らしいブラウスやスカートも、赤いサラファンも、13才ごろから、ヴィーテニカたちとの私的外出の時を除いて、着なくなってしまった。

 

 それこそが今の私の起点なのだろう。

 

 あのような場で、あのような絶望の敵と、それに対するにあまりにも貧弱で滑稽な状況で、それでも一人、道化で構わぬ、笑ってしまえ、けれど決して諦めるなと、大の大人が群れている中に、小娘風情が、何様のつもりか偉そうに叫んだのだ。

 

 言った言葉は、戻らない。叫んだ誓いは、守らねばならない。

 

 それは、カラクリを知っている今となっては、ひどく滑稽な誓いだった。使徒がペテルブルクにくるはずがないのだ。そのように世界は仕組まれていた。知らないからこそ思い込んでいた、知らないからこそ頑なに誓った、番外の駒の滑稽な誓いと、仕組んだ人々なら思うかも知れない。

 

 けれど、今でもそれは神聖な誓いで有り続けている。あの日のあの思いは、決して、無駄にはならなかったのだから。

 

 だから、あの日の映像がもたらした絶望に、14才の小娘が、本音度外視の作り笑顔で抗った、あの日あの時あの瞬間こそが。

 

 いずれアレクサンドラ・イヴァノヴァを名乗る、無自覚な出来損ないの綾波シリーズ初期ロットにとって、暖かな小春日和のような日常と、自らの意思で決別を告げた瞬間だった。

 

 

 

──To be continued.

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